からくの一人遊び

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Roxy Music - Jealous Guy (Official Video)

2020-05-16 | 小説
Roxy Music - Jealous Guy (Official Video)



Galileo Galilei 『ハローグッバイ -Studio Live-』





セピア色の記憶



 5

 ミャーン・・・。
 猫のミーコが不自由そうに、ひょこひょこと近づき、胡坐をかいた中央の空間に滑り込もうとしていたので、光輝は彼女をそっと両手で抱えて、その空間に置いた。居場所を確保した彼女の大きな目はこちらの方を向いている。彼女の目は、こちらをじっと見つめているようにも思え、人差指を彼女の目の前で左右に振って見せたが、反応をみせないので、やはり見えないのかと、光輝は溜息をついた。
 文則の部屋は、散らかっていた。脱ぎっぱなしの服や靴下、読んだまま放り出してある漫画雑誌、炬燵の上に転がっているカップヌードルの殻、ジュースの空き缶、そして、我が物顔であちこち行き来している猫たちはジュース缶を倒したりしている。どうしたらこんな状態になるのか不思議だった。
 光輝が、文則に親は何にも言わないのかと、訊ねると、文則は読んでいた漫画雑誌から、顔をあげ、親、今いないから、と答えた。
「親がいないって、どういうことだ?」
 光輝がそう不思議そうに訊ねると、
「親父もお袋も、この家には一週間に一回しか戻ってこねえよ。俺はいつも一人だ」
 と文則はやけくそ気味に笑った。
「一週間に一回?」
 光輝が理解できないといった顔をしていると、文則は、仕方がないといったように話し始めた。
「ああ、別居中っていうのかな、ともかく二人は、一瞬たりとも同じ家で同じ空気を吸ってられないらしくてな、それで出て行っちまって、二人とも自分の(いいひと)の所にいるよ。今じゃ、一週間に一回俺の様子を見に来るだけさ」
「それじゃ、お前一人でこの家に住んでるようなものじゃないか。食事なんかどうしている?お前一人じゃどうにもならんだろう」
「たまに二人から、これでいろんな支払いを済ませなさいって、金をもらっているよ。支払いを済ました残りでパンや弁当を買って、食っている。金はこいつらの餌も買ったりしているから、何時もピーピーだな」
「どちらかについて行くって考えはないのか?」
「俺はどちらの味方もしねえよ、俺は自分の意志でここにいるんだ。もっとも親父もお袋も二人とも、俺を引き取りたくないんで、本当のところは、俺が見捨てられたっていうのが事実だがな」
「そんな・・・」
 光輝は絶句した。これまで、何度か文則の家を訪ねてきたが、そんなことになっていたなんて思いもしなかった。文則はいたって、普通のことのように話していたが、それがどんなに辛いことか・・・。家に帰っても、誰もいない、食事も何もかも自分一人で済ます日々、光輝は一時期一人になりたいと思っていたが、今では一人でいることは辛い、そう思うようになっていた。文則は一人でいることが、苦痛ではないのか?
「だからって、俺を哀れむんじゃないぞ、猫たちもいるし、俺は今の状況が結構気に入ってるんだ」
 文則はそう言うと、漫画雑誌に再び目を戻し、もうこれ以上話さないとばかりに、無口になった。
 

 文則が買出しに行くというので、光輝も帰ることにした。
駅前のスーパーの前で文則と別れて、一人になった。そして一人になると急になんともいえない不安が光輝を襲った。不安は光輝の胸の中で、暗雲となって広がり、光輝の胸を一杯にした。
 文則はこれからも、一人で生活していくのだろうか。でも、いずれは、一人の生活は崩壊する。あんな、一人の生活が何時までも許されるはずがない。そして、きっと彼は父親ではなく、母親の方に引き取られるに違いない。彼のまだ十三歳という年齢を考慮すると、その可能性が高いのだ。母親に引き取られることになった彼は、転校を余儀なくされ、支えを失った光輝や猫達は行き場を失うことになる。最悪だ。けれど・・・・。
 そんなことを考えながら、橋の袂に差し掛かった。ふと土手の下の川原に眼をやると、何人かの人間が、たむろしている。彼らは川原から光輝を目ざとく見つけ、急勾配の土手坂を急いで登りきると、光輝の前に立ち、道を塞いだ。  
横山達だった。
「よお、光輝くんじゃないの、今日は一人かい。ボディガードくんはいないんだ」
 横山達はいやらしい笑みを浮かべていた。
「ボディガード?」
「惚けんじゃねえ!文則のことだよ」
「あいつは別に俺の用心棒じゃないよ。唯の友達だ」
 光輝が構わず、彼らの間をすり抜けようとすると、横山は光輝の肩に手を掛け、待てよ、と言った。
「・・・なあ、お前さあ、文則と仲良くなったからって、いい気になってんじゃないぞ。文則だって、万能じゃないんだ。・・・いいか、文則に言っておけ、俺らはお前の本当の過去を知っているってな。奴を知っている私立中の連中から、聞いたんだ。それを聞いて、俺は笑ったね。噂なんて、当てにならないってさ」
 横山は、薄笑いを浮かべ、光輝の肩から手を外した。そして彼は、光輝の背中を軽くポンと押し、いいよ、今日は行っちまえよ、と言った。
 光輝は彼らから解放され、いくつかの視線を背中に感じながら、逃げるようにして前を歩いた。それから百メートルほど歩いたあと、立ち止まり、後ろを振り返ると、彼らはもうそこにはいなかった。光輝は安堵した。そして、それと同時に光輝は横山が言った言葉が気になり始めていた。文則の過去を知ってると横山は言っていた。噂が当てにならないとも言った。彼らは文則の何を知ったというのだろうか?光輝は一抹の不安を感じながら、再度前を向き、帰路についた。


 次の日の朝は大変なことになっていた。光輝が教室の中に入ると、がやがやと級友達が騒いでおり、何人かが前を指差していた。彼らの視線の先を追ってみると、何やら黒板に大きな文字が書かれている。
(衝撃的事実!文則は、小六の時、自殺未遂を起こしていた!)
 汚く殴り書きしたような文字の羅列だった。
 文則が自殺?一瞬馬鹿なと思ったが、光輝はすぐに黒板消しを手にして、黒板に押し付け、車のウィンカーのように右手を左右に動かし、その卑劣な文字を消していった。
 文字を消し終わり、後ろを睨むと、級友達は、あーあ、消しちまった、という顔をしていたが、すぐに別の事に関心を移していった。 
 教室の隅にいる横山達が、にやついた視線をこちらに向けている。犯人は奴らか、前日のことを思い浮かべ、光輝は直感した。
 当事者である文則の方に視線を向けると、彼は何時ものように腕を組み、首を解すような仕草をしていた。どうやらダメージはなさそうだ。光輝は、ほっと胸を撫で下ろし、自分の席に着いた。
 その日の授業内容はまるで頭の中に入ってこなかった。黒板に書かれていたことが脳裏から離れなかったのだ。文則に自殺の過去がある?振って沸いたようなこの事実に、光輝はこの二ヶ月間の文則との付き合いを照らし合わせていた。光輝には到底信じられなかった。
この二ヶ月間で彼が実は心優しい人物であることは分かっていた。でも、それは彼の心の弱さを示すものではない。彼は一人で居ることも厭わない、強く我慢強い人間なのだ。横山達が、私立中の連中から聞いてきた噂なのだろうが、何かの間違いだと思った。きっと彼に纏わる数々の伝説のように、私立中の連中が事実を捻じ曲げ、面白おかしく横山達に伝えたに違いない、光輝はそう思うことにした。

 放課後、光輝たちは横山達に屋上へと呼ばれた。
使い走りの佐野と梶原が、一緒に会話を交わしている光輝たちに近づき、「横山君が屋上で待っている」と、にやつきながら、囁いてきた。彼らの目には、もう文則に対する怯えの一欠けらも残ってはいなかった。
 二人に導かれるままに、屋上に出た。青い空だな、両手をズボンのポケットに突っ込みながら、文則は呟き、暢気に上空を見上げた。横山は右手を不自然に身体で隠し、浄水タンクの前に立っていた。
「お前には騙されたよ」
 横山の前まで来ると、彼は唐突にそう言った。
「騙された?」
「・・・少年院に行っていたなんて嘘八百じゃねえか」
「俺は、自分でそんなことを言った覚えはねえ。噂が勝手に一人歩きしただけさ」
「・・・まあ、いい。でも、お前が自殺未遂した事実だけは消えないぜ」
 横山は含み笑いをしながら、カランと右手を前に出した。横山は金属バットを手にしていた。
「汚ねえ奴だな、お前・・」
「念には念を入れてな。噂が嘘だとしても、その巨体だ。暴れられると始末に負えねえ」
 横山を中心にして、梶原と佐野が光輝たちを囲んだ。何時の間にか、彼らの手にも金属バットが握られていた。光輝がどうしたものかと逡巡して、文則の方に目を遣ると、彼は、お前は邪魔だ、逃げろ、と耳打ちしてきた。でも、一人じゃ、と光輝が言い掛けると、突然彼は、光輝の後方に居た梶原に飛び掛り、押さえつけた。
「逃げろ!」
 文則は叫び、光輝は反射的に彼の言うままその場から逃げ出した。屋上の出入り口から階段を必死に駆け下りた。階段から廊下を走り、教室の前まで来てから後ろを窺がったが、誰も追いかけてくる様子はなかった。
 それからしばらくの間、光輝は教室の机の椅子に座り、事態の結果を待った。横山達が、文則を叩きのめし、意気揚々と教室に入って来ることも考えられたが、光輝はそこから動くことが出来なかった。光輝は完全に逃げ切ることを拒否した。
「・・・お前、未だいたのか・・・」
 文則が教室にのっそりと姿を現したとき、光輝は安堵し、涙が溢れそうになった。文則の制服は所々、砂埃で汚れ、頭からは流血していた。光輝が、お前大丈夫か、と駆け寄ると、あいつら結構しぶとかったな、と笑い、いたたと額に手をやった。あいつらは?と光輝が訊くと、文則は、半殺しにしてやった、と言い、それから考える仕草をして、まあ、大丈夫だろう、と答えた。光輝は、何が大丈夫なんだと思ったが、それ以上追求するのはやめた。そして、文則に帰るぞ、と言うと、彼は、おう、と返し光輝たち二人は帰路についたのだった。



        6

 まったくあんた達は・・・。
 姉は脱脂綿を消毒液に湿らせ、文則の額の傷口を覗き込むように探ると、乱暴に押し付けた。
 いたた、痛いですよ、お姉さん。文則は大げさに痛がっていたが、裏腹に目尻は明らかに下がり気味で、その状況を楽しんでいるようだった。
 ほら、じゃあ、上着も全部脱いで、ほらほら・・・。
 さすがに、年上の女性に裸を見られるのは恥ずかしいのか、文則は抵抗したが、やがて諦めた。
 文則の上半身には何箇所かの打撲痕が青く残っていた。横山達に金属バットで殴打された痕は、いかに彼が奮闘したかを物語っていた。姉は、まあ、すごい、と大げさに驚き、シップ薬を薬箱から取り出すと、その痕一つ一つに丁寧に貼り付けた。
 さっ、これでよし、服着ていいよ。
 姉は、文則の背中をピシャリと掌で打つと、薬箱を手にさっさと四畳半の部屋から出て行った。
「・・・いい姉ちゃんだな」
 いたたと背中に手をやりながら、文則は言った。
「今日は猫被っている」
「そんなことねえだろう」
「怒るとすごいんだ。それで喧嘩の毎日さ」
「でも、仲良く喧嘩できる相手がいるってのはいいもんだ、・・・俺は一人っ子だからな」
 文則は、遠くを見る目をしていた。光輝は彼のその目を見て、いつか見た茜色の夕日を思い出していた。寂しげで、それでいて、どこか力強いあの夕日、光輝はあの夕日に感動したのだった。
「なあ・・」
「うん?」
「聞かねえのか?」
「何のことだ?」
「・・・・・自殺の事とか」
 彼の突然の問いかけに光輝は少し驚いた。自尊心の強い彼から、そんな言葉が出てくるとは思ってもみなかったからだ。
「お前が、話したかったら、話せばいい。そうじゃなかったら、話す必要がないよ。俺に気兼ねするなんて、お前らしくない」
 光輝はそう言い、文則は、そうかと、呟き、沈黙した。沈黙の時間は長く、時間が光輝の背中に圧し掛かってくるように感じた。そして、長い沈黙の後、彼は静かに、言葉を選ぶように話し始めた。
「・・・あの頃、俺は精神的に参っていたんだ。両親は毎日喧嘩ばかりしていたし、俺はというと、毎日クラスの連中に、無視されていた。きっかけは、俺の身長が馬鹿でかくなっていったことにあるのかな。巨人症っていわれたよ、それまで仲良くしていた友人からな。それから、俺はそいつばかりか、それまで仲良くしていた友人全員に無視されるようになったんだが、意外とそれには耐えることができた。もともと、俺は一人でいることが苦痛ではなかったからだ。一番参ったのは、両親の喧嘩だな。最初は、親父の不倫からはじまったんだ。親父は不倫がお袋にばれ、お袋は、一度は親父を許した。けれど、親父の顔を見ると、彼女はどうしても許せなくなって、ほんの些細なことでも、親父を責めたてて、終いには、大喧嘩さ。それが毎日続き、その内家には俺の居場所がなくなった。・・・・そして居場所をなくした俺は、学校で荒れるようになったんだ。俺を無視した連中全てに、喧嘩を吹っかけ殴るようになっていたな。殴って殴って殴りまくったよ。・・・・或る時血に染まった相手の顔を見て、ふと俺は自分が必要のない人間に思えてきたんだ。一体何だったんだろうな、あの感情は・・・。振り払おうと何度も相手の顔を殴ったが殴れば殴るほどそう思えてしょうがなかった。結局、そいつを殴り倒したあと、駆けつけた教師の手を振り切って、俺は教室の窓に足を掛け、一気に飛び降りたよ。三階からだったから、死んでもおかしくなかった。校舎の近くに植えられた木がクッションになって、助かったんだ。腕も足も全身骨折だらけだったけれど、とりあえずは生きていたんだ。病室には両親とも現われたけど、お互いに、俺がそうなったのは、お前のせいだと俺の前で、罵り合っていた。俺は、それをみて醜いと思ったよ。そして、俺はなんで生きているんだと思った。出来たらもう一度何処かから飛び降りて死んでしまいたいって思ったよ。・・・小学校の六年の時の話さ、もう一年以上も前になる。なあ、光輝よお、俺は生きていてよかったのか?俺は今でも死にたくなるんだ。横山達を殴り倒したあと、何故か空しくなって屋上から飛び降りたらどうなるんだろうって思ったよ。なあ、光輝、俺はお前の何なんだろうな・・・・・」
 文則の告白は、衝撃的なものだった。凡その想像はしていたが、それを遥かに大きく上回る経験を文則はしていた。光輝は、激しい鼓動を感じながら、ゆっくりと、確かに言った。
「文則は俺の親友さ、それ以上でもそれ以下でもないよ」
「本当か?」
「ああ、嘘じゃない」
 光輝がそう言うと、文則は突然目を伏せ、嗚咽した。それこそ今までの不安の一切を吐き出すように。そして、自分が一人ではないということを確認するために。

「じゃ、明日またな」
 文則は母の一緒に夕御飯でもという申し出を、猫たちが待っているからと丁重に断り、帰っていった。
 姉は、文則が帰ったあと、光輝に向けて、あんたたちいいコンビだね、と言った。そうなのかも知れない。光輝は姉のその言葉を否定せずに、あいつは俺の初めての親友だから、と笑った。
コメント (2)

武井優心&タカハシマイ&(Czecho No Republic) / Forever Summer

2020-05-15 | 小説
武井優心&タカハシマイ&(Czecho No Republic) / Forever Summer



[OFFICIAL VIDEO] The Sound of Silence - Pentatonix





セピア色の記憶

       3

 上空を見上げると、青い空が広がっていた。
白い太陽は、まだまだ沈む気配はなく、光輝たちの世界の色を明確にしていた。キーンという音の後に、飛行機雲が、暢気に追いかけている。
「何余裕かましてんだよ!」
 何となく上空を見上げていた光輝を見て、苛立ったのか、横山は語気を強めた。横山の他にあと二人いる。佐野と梶原だ。そこは学校の屋上だった。
 放課後、横山ら三人に屋上へ来いと呼ばれた。屋上で何をされるのかは大体分かっていたが、逆らえばその場で、ズボンを引き摺り下ろされるか、プロレスごっと称して殴られるか、ともかく「イジメ」と呼ばれる行為をされることは、明白だった。光輝はなるべく衆人の前で辱めを受けたくなかったので、大人しくついていくことにした。
 横山達は、光輝を連れて屋上に上がると、隅にある大きな浄水タンクの裏まで来て、ズボンのポケットから煙草とマッチを出し、一緒に出したマッチで火を点け、煙草を吸った。 
 彼らが煙草を吸っている間、光輝は他にすることもないので、上空を見ていた。その様子を見て、横山はイラつき、怒声を光輝に浴びせたのだった。
「お前、生意気なんだよ」
 横山は言った。
「死んじまえ」
 とも言った。
 その言葉に、さあ、いよいよ始まるか、と光輝は覚悟し、全身に力を込めた。
「やれ!」
 横山の合図とともに、佐野は後方に回って、光輝を羽交い絞めにし、もう一人の梶原が光輝の前方に立った。
 梶原は、にやりと笑い、舌なめずりをすると、光輝のワイシャツのボタンを一つずつ外していった。そしてボタンを一通り外し終えると、今度は、現れた下着を、光輝の首の辺りまで捲り挙げた。
 光輝が何とかしてすり抜けようと、身体を左右に揺さぶると、
「さあて、楽しいショーの始まりだ」
 横山はそう口にし、火の点いた煙草を手にして、光輝に接近した。
「一度やってみたかった」
横山が残酷な笑みを浮かべた瞬間、脇腹に熱い痛みを感じて、光輝は呻き声を上げた。
 ちりちり、と肉が焼けるときのものなのか、煙草自身が発するものなのか分からない音がした。熱く抉るような痛みが脇腹に走る。光輝は痛みで気を失いそうになった。
 横山は煙草の火を光輝の脇腹に押し付けていた。
 それから何度も横山から同じ行為を受けたが、その都度同じ表情とアクションを繰り返す光輝に飽きたのか、横山は、つまらねえ、と呟き、最後に火を点けたまだ新しい煙草を地面に落とし、踵で踏み潰してしまった。
「それじゃあ、俺にやらせろよ」
 佐野が羽交い絞めにした手を緩めると、光輝は膝から崩れ、そのまま地面に仰向けになった。もうどうなってもよかった。光輝は脇腹を押さえ、やけくそになっている自分に気づき、微かに笑っていた。
「おいこいつ、笑ってやがる」
「気持ち悪いなあ」
「マゾなんじゃねえか、こいつ」
 光輝を見下ろし、横山達は、光輝の身体に軽く蹴りを入れていたが、やがて抵抗もしない光輝の態度に興ざめし、帰るぞ、とその場から去って行った。
 仰向けになったまましばらく空を眺めていると、渡り鳥らしい三角に編隊した大群が北から南の山向こうへと消えていった。
 鳥になりたい、光輝はそう独りごち、すると涙がとめどなく頬を伝い、どうしょうもなくなった。脇腹の痛みは、そこだけ脈打つような重い痛みに変わっていた。
 
 脇腹にじりじりする痛みを抱えながら、土手の道を歩いていた。土手の道は光輝が小学校から慣れ親しんだ道だった。大通りを通って帰る方法もあったのだが、こちらのほうが、学校の行き帰りには近いので、団地に住んでいる殆どの生徒が土手の道を利用していた。  
 片側には大きな川が流れ、もう片側には雑多で背の高い草がこちらに向かってくるように生茂っていた。前日、大量の雨が降ったせいか川の水量は多い。何とはなしに、筏に乗って川を下っていく自分を想像して、少しだけ楽しい気分になった。
帰りに文則の家に寄って、三百円渡そうか迷っていたが、脇腹の痛みが酷く、少し熱を感じた光輝はそのまま家に帰ることに決めた。前方をみると、川を渡す橋が見え、その上を車が何台も、右へ左へと行き交っていた。橋の向こうには山が聳え立ち、茜色の夕日が沈みかけると、山の稜線をくっきりと浮かび上がらせていた。
 そんな景色に、少なからず何かを感じ、足を止めていたら、後ろから誰かに声を掛けられた。後ろを振り向くと、響子ちゃんが立っていて、はあはあ、と息を切らせていた。
「さっきから、声を掛けていたのに、光輝君気づかずに、どんどん行ってしまうんだもの」
「ごめん、気づかなかった」
「何を見ていたの?」
 響子ちゃんの言葉に、あれだよ、と山の方角を指差した。
「ああ、なんて綺麗な茜色・・・」
 響子ちゃんは、顔を紅潮させながら言った。
 響子ちゃんとは、同じ団地に住んでいる間柄だった。棟は違ったが、小学生の頃、登校班が一緒だったこともあり、よく二人で砂埃の立つ土手の道を通いながら、昨日見たテレビの話などをしていたものだ。彼女は優しく、光輝の憧れの人だった。そして彼女は光輝よりも学年がひとつ上で、光輝が六年生になると、一足先に中学生になった。その後、彼女とは接点がなくなったが、今思うと光輝が小学校に行かなくなった理由の一つには彼女がいなくなったこともあったに違いない。
「今、部活の帰りなの?」
「そうよ、陸上部は厳しいのよ、帰宅部くんとはちがうのよ」
「帰宅部って、これでも一応新聞部だぜ、・・・まあ、もっともこれといった活動はしてないけどさ」 
 光輝たちは一緒に歩き始めた。セーラー服の彼女は、地味だけど、何とも言えないほど、魅力的だった。大きな瞳は薄茶色で、髪はみつあみにしていた。清楚という言葉がぴったり当てはまる彼女だった。
「あのね」
「何?」
「まだ、来年のことだけどね、うちね、引っ越すことになったの」
「えっ、・・・そうなんだ」
 唐突な彼女の告白に、光輝は驚きを禁じえなかった。
「そ、それで何処に引っ越すの?」
「Y市に引っ越すのよ。今、家を新築しているの。完成予定が二月の予定かな。だから、今の中学とも、来年の三月で、バイバイだね」
「・・・そんな」
 光輝は、大きなショックを受けていた。そして、逆に今日、響子ちゃんに出会わなければよかったと思った。会話を交わしたのは小学校以来で、中学校に入ってからは初めてのことだ。久しぶりに会って話した結果がこれなんて・・・・。恐らく、これが最後の会話になるのだろう。引越し迄光輝と響子ちゃんは、結局話す機会もなく、彼女は何年か住み、慣れ親しんだ団地を去るのだ。来年には姉も家を出て行くと言っている。そう思うと、なんだか一人取り残されるようで悲しくなった。
「寂しくなるな」
 光輝はそう言うのが精一杯だった。
 それから、響子ちゃんは団地に着くまで、他愛無い話を光輝に向けてきたが、光輝は、はい、とか、うん、だとか言って、適当に答えていた。
「じゃあね、さよなら」
団地の前で二人は別れた。三階建ての団地は古く、夕闇の中で光輝と響子ちゃんをかこんでいる妖怪達の群れのように見えた。光輝は、響子ちゃんが、妖怪達の群れの中に消えていくのを、確認すると、あーあ飲み込まれちまった、と微かに呟き、しばらくの間、そこに立ち尽くしていた。

 家に帰ると、光輝は居間の箪笥の上にある薬箱を下ろした。そして、それから薬箱の蓋を開け、軟膏を取り出す。脇腹は相変わらず、じんとして熱く、痛みがあった。祖父が、六畳の部屋から出てきて、怪訝そうな顔で光輝の方を見ていたので、工作で指切ったんだ、と言って、箪笥から着替えも持ち出し、祖父の前をするりと抜け、姉のいない四畳半の襖を引いた。襖を閉め、部屋に入り、外の様子をうかがったが、誰も来ないと悟り、光輝は自分の机の椅子に腰掛け、ふう、と溜息をついた。それから思い切ってシャツを全部脱ぎ捨て、脇腹の状態を確認した。煙草を押し付けられた跡は四箇所あった。四つとも皮膚を破られた中央に赤い肉片が現われ、周囲は焼け焦げたような盛り上がりを見せている。光輝は、やれやれ、これは跡に残るだろうな、と思い落胆した。下着にも点々と血の跡が付着している。光輝はそれを放りなげ、傷口に軟膏を塗りたくった。
 軟膏を塗って、一息付いたあと、立ち上がり、もう一度血の付いた下着を手に取り、どうしようかと思案した。本当はその日の下着は、台所脇にある青色のかごの中に放り込んでおくのが常だったが、母が洗濯するときに、気づくに違いないなかった。気づけば、母は光輝を問い詰めない訳にはいかない。厄介ごとはごめんだと思い、光輝は机脇の大きい方の引き出しに下着を放り込んだ。誰もいないときに持ち出して、何処かに捨てにいけばいい。一瞬いい考えだと自賛したが、すぐに憂鬱になり、自分の現状を呪った。横山とのこと、文則とのこと、そして今日会った響子ちゃんとのこと、いろんなことが、光輝の頭の中で旋回し、落ちて行く。ざまあねえわな、光輝は呟き、天上を仰ぎ、必死に涙を堪えた。そして、光輝は今日何回泣いただろうと、恥じ、涙の跡が残らないように注意深く手の甲で拭い、それから着替えを済まし、勉強部屋から出ていった。

 夕飯時に父の姿はなかった。どうしたのかと母に尋ねると、父さんは管理職だから大変なのよ、と仕方なさそうな顔をした。姉は無言で食事を済ませ、母が何かを言いたそうにしているのを尻目に、さっさと勉強部屋へと消えていった。それから光輝が、祖父の六畳の部屋へと入り、祖父が個人的に購入したサンヨーのパーソナルテレビのスイッチを点け、水戸黄門を見ていると、祖父が後から入って来た。
「水戸光圀か・・」
 光輝の隣に座ると祖父は何とはなしに呟いた。
 テレビでは、助さんと格さんが悪代官の手下を相手に立ち回りを繰り広げている最中だった。
「光圀が各地を漫遊したのは、物語の中だけの話なんだ」
 祖父は言った。
「えっ、そうなの?」
 光輝が、そう返事を返すと、祖父は得意げな顔をして、話し始めた。
「光圀が名君だったのは本当のことだが、実際は江戸と鎌倉にしか行ったことがないんだよ。物語の元になったのは、当時の人気戯作者の十返舎一九の(東海道中膝栗毛)らしいな。それを参考にして講談師が(水戸黄門漫遊記)なるものを創作したということだ」
 祖父がそう話しているのに、胡坐をかき、うんうんと生返事をして、テレビの画面を眺めていた。各さんが葵の御紋の入った印籠を出し、お決まりの、この紋所が目にはいらぬか、と悪者を平伏させていた。この瞬間光輝の中にも、妙な優越感が生まれた。光輝が印籠を出し、横山達が、光輝に平伏す姿を想像して、痛快な気分になった。それから畳の上に後ろ手をつき、体勢を少し斜めに捻った。すると脇腹に引きつるような痛みが走った。いててと思わず口に出すと、祖父がこちらを見ているのが分かった。
「どこか、怪我してるのか?お前・・・」
「いいや、ちょっと体勢を崩して腰を捻っただけさ」
「それにしても、辛そうな顔をしているぞ」
「何でもない、・・何でもないよ」
 光輝が、そういうと祖父は、何でもないねえと訝りながらも、それ以上、何も言ってはこなかった。
テレビに目をやると黄門様が、カッカッカーと笑っている。
 明日だ。明日で光輝は「文則」という印籠を手にすることになり、横山達は実際に光輝に対して平伏すことになる。光輝は彼らが、光輝に土下座している姿を想像して、微かに笑った。
 



        4

 ねえ、光輝、光輝ったら・・・。
 光輝が朝歯磨きをしていると、姉の小夜子がそう言って、便所脇の小さな洗面所に飛び込んできた。何騒いでるんだ、と驚いた顔をして、姉の方を見ると何やら事件が勃発したらしい。光輝が、なんだい、と勤めて冷静に訊くと、いつから、あんたらそんな仲になったのよ、と光輝を問い詰めた。
「そんな仲って?」
「だから響子ちゃんよ、響子ちゃん、あんたを迎えに来てるのよ」
「えっ?」
「だ・か・ら、今、玄関口に居るのよ」
 姉は目を丸くしながら、息急き切って言った。
 光輝は、一瞬、その意味が分からず、しばらく姉の言った言葉を反芻していたが、やがて事の重大さに気づき、慌てた。響子ちゃんが来てるって?何故?ともかく光輝は、待たせてはいけないと歯磨きもそこそこに、急いで制服に着替え、ショルダーの鞄を肩に掛け、玄関口に出た。
 響子ちゃんは、少し俯き加減にお早う、と光輝に言い、それから紅潮した顔を上げると一緒に学校に行かない?と光輝を誘った。どうやら姉と光輝の会話は筒抜けだったようだ。
「じゃあ、俺もう出かけるから」
 光輝が奥にいるはずの母に向かって叫ぶと、姉がしゃしゃり出て来て、いってらっしゃい、お元気で、と訳の分からない言葉を投げかけ、光輝たちを見送った。
 光輝たちは、小学校の時、そうであったように、並んで歩いていった。朝の空気は冷たく、時折頬を削り取るような激しい突風が吹いた。土手に差し掛かるまで、光輝たちはお互いに沈黙を守っていた。  
 光輝と響子ちゃんがこうやって一緒に歩くのは、あの日以来二ヶ月ぶりのことだった。
「迷惑だったかな?」
 土手の道を歩きながら響子ちゃんは言った。
「いいや、そんなことはない」
「よかった・・・」
 響子ちゃんは呟いた。
「朝、こうやって登校するのも小学校以来だね」
「そういえば、そうかあ」
 響子ちゃんは、そこで初めて気がついたように、言った。
「それで、今日はどうして?」
「ほんとは、前に話しておくべきだったのだけれど・・・お願いがあるのよ」
「お願い?」
「そう、お願い・・」
「お願いってなに?」
「うん、もう少し、もう少し歩けば分かるわ」
 光輝たちは砂埃の舞う土手道を渡りきり、学校へ向かうのとは違う道の角を曲がった。光輝が学校はこっちだよ、と学校の方向を指差していると、彼女は少し寄り道するの、と空き地が点在する方角に光輝を誘い、ここよと行き止まりになった先の空き地に入っていった。空き地は草木も枯れ、中央に大きな土管が何本か積まれていた。響子ちゃんは、そこまで来ると、中腰になり、その中の一本の土管の穴を覗き込み、両手を穴の中に差し伸べ、やがて、小さな猫を抱き上げた。
 光輝が近づいても、猫はぴくりとも動かず、気持ち良さそうに響子ちゃんの胸に抱かれていた。典型的な茶色の縞々のある猫で、近くで見ると、肋骨が心なしか、浮いているような気がした。抱いてみる?と、響子ちゃんに訊かれ、彼女から手渡しで渡され、抱いてみると、猫はミャーンと一鳴きして、光輝をその大きな瞳で一瞥し、光輝の腕の中で丸くなった。
「この猫、名前は?」
「メスだから、ミーコ」
「ここにいたの?」
「そう、ここで半年前に見つけたの。夕方ね、部活の帰りにね、どこからか、猫の声がすると思って、偶然ここまできてみたら、彼女が顔をだしていたの・・・この穴から・・・」
 光輝は再度ミーコと呼ばれるその猫を観察してみた。所々毛が禿げている、栄養不良のためか、子猫と見間違うほど、小さい、それから、彼女の後ろ足、右足だが、妙に不自然に内側に湾曲していた。
 光輝がそれをしげしげと眺めていることに気づき、響子ちゃんは、
「車に撥ねられたみたいね、骨が折れてそのままにしていたから、不自然に曲がっちゃったのかしら。彼女はその為、行動範囲が狭まってしまっているの」
 と言った。
 ああ、それでね、と光輝が理解すると、ミーコはまた光輝を見つめて、ミャーと鳴いた。
「それで、ミーコを俺に任せたいってこと?」
 光輝は先回りした。
「そうしてもらえたら、嬉しいんだけど・・。私は、年が変われば直に引っ越さなければならない。連れて行ければいいのだけれど、母にそれとなく相談したら、反対されたわ。このコは足のせいで、自分の食料さえも確保できないの。私がいなくなった後、餌だけでも与えてもらえればそれでいいのよ。ねえ、お願い出来るかな」
 彼女は顔の前で手を合わせ、まるで後がないといったように懇願した。
 響子ちゃんの申し出に光輝は戸惑った。光輝に猫を世話する甲斐性があるとは、到底思えなかった。かといって、響子ちゃんの必死の願いを、無闇に断る勇気はなかった。光輝は、何かいい解決策はないかと、逡巡した。
「駄目よね、当り前だわ、光輝君、優しいから、もしかして、って思ったの。ごめんね、悩ませたりして」
 響子ちゃんは光輝が逡巡している様子をみて、そう言った。
「待って、・・結局はミーコを世話する人が現われればいいんだよね」
「それは、私も友達に当たってみたの・・・でも、ミーコの足のこともあって、誰も見向きもしなかったの」
「ともかく、俺が何とかしてみるよ」
 光輝は笑いながら、あいつなら、と思っていた。あいつならきっと、ミーコを喜んで引き受けてくれるに違いない。
 光輝は響子ちゃんに、心配しないで、何とかなるからと言った。
 突風が幾つかの小さなつむじ風をつくり、枯葉を舞い上がらせていた。
光輝はもう冬なんだなと、片手でミーコを抱き、もう一方の手を制服のポケットに突っ込んだ。

 
「俺に猫を引き取れだと!」
 文則は、大きな声を教室内に響き渡らせた。
 横山達は、その声に驚き、忌々しげにこちらを見ている。
 光輝は文則を、二ヶ月前に「友達」として雇い、それから何時も行動を共にするようになった。金で「友達」を雇うなどと不純な行為ではあったが、彼と行動を共にすると、横山達は面白いように光輝から手を引き、この二ヶ月の間、光輝は「イジメ」とは無縁の日々を送っていた。彼らにとって、文則は恐怖の対象なのだ。
 偽りの友達から始めた付き合いだったが、二ヶ月付き合う内に、光輝は文則の意外な側面を見ることになった。カレーライスとラーメンに目がないこと、お人好しな一面があり、一人が決して好きな訳ではなく、本当は人一倍の寂しがりやであること、そして動物が大好きで、無類の猫好きであること。光輝は二ヶ月前、初めて彼の家に招き入れてもらったときの事を思い出していた。

「さあ、入れよ」
 文則は恥ずかしそうに俯いて、自分の家に入るように、光輝を促した。
「いいのか?」
「いいっていってるじゃねえか、それに誰もいねえよ」
「分かった、じゃあ、お邪魔します」
 上がり框に足を掛けると、猫が一匹寄って来て、光輝の足に纏わりついてきた。
 光輝が、吃驚して見ていると、文則は、猫が好きなんだとその猫を抱きかかえ、光輝を二階へと案内した。
 猫は、二階の文則の部屋にも何匹かたむろし、光輝たちの周りを行ったり来たりしていた。その内、文則が餌だぞとキャットフードを何皿かに分けて出すと、猫たちは一斉に飛びつき、がつがつと旨そうに食べ始めた。そして、その猫たちの様子を眺めている光輝に対して文則は、お前の五千円、こいつらの餌代で消えちまった、と嬉しそうに笑った。
 その笑顔を見た時から光輝は、文則を少し見直すようになった。彼は悪ぶってはいたが、本当は、心根の優しい人間なんだなと思った。五千円を奪われた相手を何故、そう思えたのかは分からない。ただ、屈託のない彼の笑顔は何の混じりけのないものに思えたのだ。
 

「で、その猫は何処にいるんだ」
 文則は、話にのってきた。
「三丁目の空き地だ、そこの土管の中にいる」
「土管の中?それはまた酔狂なところにいるんだな」
「後ろ足が不自由なんだよ、その足のせいで、そいつは、動ける範囲が知れているんだ」
「一度、俺をそこへ連れてけよ、引き取るのは可能だが、その前に見ておきたい」
「分かった。今まで、世話してた人がいるんで、その人立会いでいいかい?」
「そいつは何処の誰なんだ?」
「女性だ。俺と同じ団地に住んでる一年上の先輩だ」
 女か・・・、そいつはおまえのこれなのか?と文則は小指を立てるまねをした。光輝が、違う違う、同じ団地に住んでいるだけだと言うと、文則はそうだよな、根暗のお前に彼女なんてできるはずがねえ、と大きく笑った。
 光輝は、こいつってこんな楽しそうに笑うような奴だっけ?と思ったが、まあいいや、ともかく彼女に急いで知らせなきゃと、昼休みに文則を連れて二年生の教室に響子ちゃんを訪ねていった。
 響子ちゃんは、文則を前にして、余りの威圧感に一瞬たじろいだが、オッス、自分文則って言いますよろしくッス、と何時にもなく硬く挨拶する文則に好感を持ったのか、相好を崩し、じゃあ、放課後校門前で待っててね、と約束をしてくれた。教室へ戻る道すがら、文則は彼女は天使だ、運命の出会いだと逆上せ上がり、光輝はまあまあと宥めるのに苦労した。
 放課後になり、さっそく光輝たち三人は空き地へと向かって行った。
 土管の前まで来て、文則が猫は何処に居るんだと訊いてきたので、そこだと中央の土管を指差すと、彼は大きな身体をこれでもかという位に屈めて、土管の中に手を伸ばし、猫のミーコを抱き上げた。それからしばらく、彼はミーコの様子を観察し、何やら反応を確かめ終えると、これは、まずいな、と呟いた。
「何がまずいのかしら?」
 響子ちゃんが訊ねると、
「こいつ、目が見えてないんだ」
 と文則は返答した。
 まさか目まで見えないと思っていなかった光輝たちは、驚きを隠しきれなかった。
「事故のせいかしら」
「分からねえ、ほら、こうやって人差指を左右に振っても何の反応もないんだ。こいつが目が不自由な証拠さ」
「じゃあ、引き取ってもらえない?」
「いいや、逆にこいつは、足も悪いし、然る場所で誰かに世話してもらわないと生きられねえ。あんたが餌をやっていたにしろ、よくまあ、こんな土管の中で生き続けていられたもんだ」
「それじゃあ・・・」
「うん、俺が面倒みるよ」
 文則がそう答えると、響子ちゃんは、安堵し、良かったと笑顔を見せ、その瞳は少し潤んでいるように見えた。
 光輝が文則に、男だねえ、というと、当たりめえだろうと文則は返してきた。
 そして、ミーコはというと、文則の大きな身体に抱かれてとても気持ちよさそうにしていた。
 ミーコはこうして文則の飼い猫の一員として迎えられたのだった。






コメント (2)

サルビアの花 早川義夫

2020-05-14 | 小説
サルビアの花  早川義夫



Czecho No Republic - Hello New World (Lyric video)



Marianne Faithfull - Scarborough Fair



Raspberry dream




もう何回も載せていますが、最近お友達になった方々が増えてきましたので、何回かに分けてまた読んでいただこうと思いました。

よろしくお願いいたします。



 セピア色の記憶
                       からく





 もうこれが最後だと思っていた。文則はそれまで集金した金の流れを記録したB6サイズのノートを眺めながら、未だだと言った。光輝がもう三千円にはなるはずだ、と反論すると、うるせえ、未だなんだよと文則は、語気を荒げ、光輝を睨んだ。
「もう、十回以上はお前に渡したはずだ」
「いいや、九回だ、それに三千円には程遠い、今回のと合わせて千八百円だ」
 文則の答えは嘘だと分かっていた。それが本当だとすると、光輝は二百円ずつしか払っていないことになる。一回に支払った金の殆どが、三百円で、光輝はもう十数回も彼に小銭を渡している。千八百円ぽっちであるはずがなかった。
「もう、限界だ。親にばれそうなんだよ」
 光輝がそう言うと彼は、暴力的な目を向け、俺に逆らうのかと、ノートを閉じた。
 二人は文則の家の裏庭にいた。裏庭は草が鬱蒼と生い茂っていて、光輝の膝位まであった。光輝が背中を預けている家の壁には、二つの窓があり、どうやら一つが風呂の窓で、もう一つが便所の窓らしかった。どちらも、人の気配がしない。誰か来てくれと、頭の中で拝んでいたが誰も来る様子はなかった。文則は一人っ子であり、両親は共働きで帰ってくるのが遅いといつか言っていた。誰もいないのか、と光輝は諦めた。
「それなら、後三回だ」
 文則は、渋っている光輝に対して業を煮やし、懐柔策に出た。
「百円ずつでいいんだ、あと三回で許してやる」
「本当に?」
「ああ、本当だ。百円ずつなら、分らねえだろ?百円位なら、お前のお袋も何かに遣ったんだろう位にしか思わねえだろうからさ、お前も助かるってもんだ」
 何が助かるだよ、と言ってやりたかったが相手は身長百八十は裕にある巨体だ。逆らって、勝てる相手ではなかった。
「本当だな?じゃあ、後三百円だ。でも、約束は果たせよ」
「ああ分かったよ、俺は言った事は守る主義だ、安心してくれ」
 文則はそう胸を張ると、さっさとその場所から離れ、お前も早く帰れよ、クラスの連中に会うとまたやっかいだぜ、と言い、家に入っていった。
 帰り道、光輝は走って帰った。文則が言ったようにクラスの誰にも会わない必要があった。
取り分けあのグループには・・・・。
 
 光輝がイジメられるようになったのは、小学校の高学年からだった。きっかけは「風呂」だ。
当時、昭和四十年代の後半、光輝はK町の端にある公営団地に住んでいた。家族は両親に祖父、上に姉がいて、光輝を加えての五人家族だった。団地の部屋は六畳二間に四畳半と台所と、それなりの間取りであったが、如何せん風呂がなく、光輝たち家族は週三回、近くの銭湯に行くことを余儀なくされていた。
ある時、友達の一人が風呂に毎日入っていると聞いて、驚いた。驚いたのは、風呂というものは、一日置きに入るものと思っていたからだ。えっ、と言いながら、俺の家は一日置きだよ、と答えるとそこに居た級友達はみな声を揃えて、汚ねー、と言い、囃し立てた。 
当時の田舎は農家が多く、持ち家であることは当然のことだった。それに再開発が進み、新興住宅がぞくぞくと建てられていた時期で、そういった家には当然内風呂が存在し、彼らは毎日風呂に入れる恩恵に与っていたのだ。
そんな環境の中、「週三」の光輝は疎外されない訳がなかった。
級友達のイジメは辛辣だった。光輝の机に落書きをするのは当り前で、集団でトイレの個室に光輝を閉じ込め、上から水を浴びせ掛けたり、衆人の前で光輝のずぼんをパンツごと引き摺り下ろしたり、終いには光輝が何を言っても答えず、無視し、たまに答えても光輝の前で手を合わせて(ご愁傷様です)と言い、光輝を亡き者にしたりと、どう考えても光輝を人間扱いしているように思えなかった。
小五の時は何とか踏ん張ったが、小六になり、事態が収まりそうもないことが分かると、光輝は次第に精神的に病むようになった。光輝は両親に具合が悪いと、ことあるごとに告げ、学校を休み、数々の病院を回った。医者は何れも原因不明とし、思春期の始まりには良くあることですよ、と答えた。本当はイジメが辛いんだよ、と光輝は言いたかったが、決して、光輝からそれを、口にすることはなかった。疲れ果て、精神は消耗し切っていたが、頑固なプライドだけは未だ残っていた。小六の一年間、光輝は殆ど学校に出席出来ず、それでもなんとか卒業することが出来た。
中学に入学してからの光輝は、しばらくの間、平穏な日々を過ごしていた。中学は町内の各小学校からの寄せ集めで、クラスは効率よく分けられていた。光輝は同じクラスの中に、イジメっ子達がいないことを確認すると、ほっとした。一学期の間は至って平和で、ああこんな日が来るとはな、とつくづく思った。
事態が暗転したのは、中一の夏休み後だった。クラスの男子生徒の一人、横山が、お前小学校殆ど行ってないんだってな、と騒ぎ出したのだ。彼はクラスのリーダー格で、影響力を持ち合わせ、皆それを聞くと光輝を見る目が変わってきた。そして二、三日もすると、光輝を汚いものをみるような目で見、無視し始め、リーダー格の横山は、何人かの生徒を引き連れて光輝を囲み、玩具を手に入れたとばかりに弄んだ。新しいイジメの始まりだった。
中学でのイジメは、どれも小学校の時に経験済みのことで、それなりに我慢することは出来た。どれくらい我慢すれば、最小限の被害で済むのか経験値で分かっていたが、光輝は、もう我慢するのは真っ平だった。これからの中学生活をまるで、甲羅を背負った亀のように過ごさなければならないなんてそんな辛いことはない。それでこの状況を打開しようと頭を巡らし、結論に至ったのが「文則と友人になること」だった。

文則は、孤高の存在だった。中一にして百八十を超える長身で、いつも目をぎらつかせ、横山も迂闊に手を出せなかった。彼は何故か私立のエスカレーター式の小学校から公立の中学に入学してきていて、彼についての情報は誰も持ち合わせてはいなかった。そのせいか、彼に纏わる色々な噂、大きな暴力事件を起こして、小六の殆どを少年院で過ごしていたとか、半殺しにされた相手はもう少しで死ぬところだったとかは、半ば伝説化していて、話の真偽はともかく、何者ともいえない恐れから、彼に話しかけるものは誰もいなかった。
光輝はそんな彼と友人となることで、横山にイジメられる、という環境から脱却しようと考えたのだ。
「文則君一寸いいかな?」
 光輝が文則にやっとの思いで、そう話しかけることが出来たのは、放課後二人きりになった時だった。光輝は文則が、いつも放課後最後まで、教室に残っていることを知っていて、チャンスを窺がっていたのだ。恐怖心から、話しかける前にかなりの緊張を強いられ、胸の中に大きな鉛の玉を抱えたように苦しかったが、勇気を振り絞って話しかけてみると、意外にすんなり言葉を発することが出来た。
 文則は、じろりと光輝をみたが、何だおまえかという顔をして、つまらなそうに光輝から視線を外した。光輝は構わず彼に話しかけようと、話の糸口を探った。
「俺は今イジメられている」
 光輝は言った。
 すると彼は今更何を言い出すのかという顔をして、「だから?」と呟いた。
「俺を助けて欲しいんだ」
「助ける?」
「友人になってくれればいい」
「俺がお前の?はは、笑わせるじゃねえか」
「笑い事じゃなく、本気なんだ、君が俺の友人になってくれれば、横山達は一切俺に手を出せなくなる」
「俺には全く関係のないことだ、おまえが何されようとな」
 文則のつれない返事に、それでも光輝は諦め切れず、
「何でもする、何でもするから、頼むから友達になってほしい」
 と言った。
「何でもするのか?」
「ああ、嘘は言わない」
文則は何かを考えているようだった。腕を組み、光輝を凝視していたが、視線は光輝の身体を射抜き、後ろの壁にまで到達していた。
「・・・五千円」と文則は呟いた。
「もし、五千円俺にくれるのなら、クラスが一緒の間は、いつもお前の傍にいてやる」
 そう言われて少し驚いたが、考えてみれば、彼と光輝とを結び付けるにはそういったものが必要なのは当り前だ。
「五千円で本当にいいのか?」
「ああ、無理なら別に構わない。この話はなかったことになる」
「分かったよ、五千円用意する」
当時の光輝は月に二千円の小遣いをもらっていた。事情を話し、残りの三千円はあとでもいいかと文則に訊くと、「分割払いにしてやる。ただし、一ヶ月以内だ。金が五千円に達するまでは、俺はお前を守らない」と言った。
 光輝は承諾し、それから毎日のように母親の財布から少しずつ小銭を抜き取る羽目になった。



        2

 ブラスチックで出来たぺこちゃんの貯金箱を手にすると、光輝は底に嵌められた半透明の丸い蓋をそっと外し、貯金箱を軽く振った。すると、開けられた小さな穴から、小銭と小さく折り畳められている紙幣が何枚か、じゃらじゃらと机上に滑り落ちてきて、光輝はその中から百円玉三枚だけをを手にし、残りは元に戻した。 
 四畳半の部屋は、光輝と姉の小夜子との共同の勉強部屋で、窓側に机が二つ縦に、合わさるようにして並べられていた。姉の机上の本立てには、大学入試の問題集が何冊も立てかけてあり、ぺこちゃんの貯金箱はいつもその前に置かれていた。
 姉が今にも帰ってきそうな気がして、光輝は、目的を果たすと、蓋を嵌め、注意深くぺこちゃんを元通りの場所に置き、ごめんなさいと手を合わせた。この貯金箱は、姉が中学生の時から、大学受験の費用の足しになるようにと、少ない小遣いから少しずつ貯めてきたものなのだ。
 それまで光輝は、母親の財布から小銭を抜いて来た。最初は気づいていないようだったが、何度もやる内に、さすがに何かおかしいと感ずいたのだろう、母は光輝の行動を監視するようになった。光輝はこれ以上母の財布から金を抜き取ることは出来ないと判断し、姉の貯金箱から、しばらくの間借りることにした。
ペコちゃんに謝った後、光輝は自分の机の椅子に座り、机の一番上の引き出しを引いて小銭を仕舞った。明日にでも文則に全て払ってしまおう、そう思い、光輝は勉強部屋から出て行った。


その日の晩飯後、食卓のテーブルを挟んで姉と父は対峙していた。
「そんな話は聞いていない!」
 父は怒りを含んだ声を上げた。
「でも私決めたのよ」
 姉は負けずに応酬した。
 父と姉がこのように喧嘩するのを見るのは初めてのことだった。小さい頃から姉は、父に特別な存在として扱われ、育ってきた。怒るなんてもっての外で、かわいい、かわいいとお金が無いにもかかわらず、姉の望むものは何でも買ってやっていた。小さな頃光輝が何か物を強請ると、父は決まって、お前は男だからと言い、光輝は我慢させられた。アルバム一つにしても、姉は六冊を数え、光輝は一冊しかなかった。彼女は事あるごとに、父に写真を撮ってもらい、育ってきた経歴を残してきたのだ。一度母に、自分は父の子じゃないんじゃないかと訊いてみたことがあったが、母は、ばかねえ、そんなこと言うんじゃないよと言い、笑っていた。
 さすがに成長してくると、姉は自我が芽生え、物を強請ることもなくなり、貯金をするようにもなったが、父親にとっての姉は、愛おしい何者にも変えがたいものに変わりがなかった。
 そんな父が、本気で姉に怒りの目を向けている。その時光輝は、同じ部屋の隅にいて、事の成り行きに、少しの不安と少しの期待を抱いていた。
「ともかく、私は東京の大学を受験するわ、それは中学校から決めていたことだし、変わることはないのよ」
「・・・・東京ってお前、地元の大学に進むんじゃないのか?」
「私はここを出て行きたいのよ」
「出て行きたいだと?ここの何が不満なんだ」
「不満は、無いわ。でもここに居たら私、駄目になるわ、きっと」
「ふざけんな!」
 父は顔を真っ赤にして、握った拳をぶるぶると震わせていた。それを見た光輝はまるで、仁王様のようだと思った。
「東京に行くにしてもだ、学費や生活費はどうするんだ?東京に行くというなら、俺はびた一文として、出すつもりはないぞ」
「そう言うと思って、奨学金の手続きをしたわ、それにバイトをすれば何とかなると思うの」
「・・・勝手にしろ!」
 なんだ、結局父さんおれてるんじゃないか、と光輝は、がっかりした。姉は、それじゃ、私勉強するから、と言ってさっさと四畳半の勉強部屋へと、襖を引き、入っていった。
「誰に育ててもらったと思ってるんだ!」
 父はテーブルをドンと拳で叩き、酒もってこいと、台所にいる母に向かって叫んでいた。

 それから、光輝も勉強部屋へ直行することにした。父が酒を飲みだしたからだ。火の粉がこちらに降懸らないともいえない。父は酒乱ではないが、酒を飲むととたんに人が変わり、傍にいる誰かに、しつこいように絡む癖があった。姉に対する不満を光輝にぶちまけられても困る。光輝は逃げ出すようにして、父を見捨てた。
「なんか用?」
 ノックをして襖を開けると、机を前にした姉は不審者を見つけたような顔つきで光輝を見た。
「俺も、やばいんで、逃げてきたよ」
「そう・・・またお酒?」
「うん」
 光輝が返事をすると、仕方が無いわねという風に姉はふーっと溜息をついた。
「何で東京なの?」
 光輝がそう訊くと、本当はね、と姉は喋り始めた。
「・・・本当は東京じゃなくてもいいのよ。ここ以外のどこか、ならね。親もいない、地元の友達にも会うこともない、人生一度リセットして、一人になって、一人で考えられる場所に住むって理想じゃない?そう思わない?」
 姉の言っていることは、もっともだと思った。光輝も一人になりたいと何度も考えていたからだ。誰にも邪魔されない一人だけの世界、横山のことも、文則のことも考えないで済む世界、光輝も人生一度リセットしてやり直せたらどんなに幸せか、と思っていた。
「・・・そう出来たらいうことない」
「そうね、だからその為に、私はここから出て行くのよ」
姉の言葉には確固たる意志が込められていた。どんなことがあっても、折れることのない太く硬い、意志。それは、どんな過程でつくられたのだろう?そこまで考えた時、姉は、でもね・・、と呟いた。
「何?」
「うん、でも、一つだけ気がかりなことがあるのよ」
「気がかり?」
「光輝、あんたのことが心配なの」
 気づいていたのか、と思った。姉の「心配」という言葉は、まさに光輝がイジメられていることに対して向けられたものだった。
「光輝、あんたイジメられているんでしょう。お母さん、最近あんたが元気ないって言っているのよ」
「そんなことはない」
「いいえ、嘘いってもだめよ、私の目から見ても最近のあんたはおかしい。小学校のころと一緒。目が虚ろで、毎日を生きているのが精一杯って感じだよ」
 小学生のころ、イジメられていたことをいち早く気づいたのが、姉だった。卒業文集に残された、「学校にも来ないのに、迷惑、消えて欲しい」という光輝に対して向けられた級友の一文に、彼女は怒り、これを平然と載せた学校の担任に抗議をしにいった。それは、まるで自分がそうされたかのような怒り方だった。
「姉ちゃん、俺のことは心配しなくてもいいよ。イジメられてはいないし、元気がない訳でもない。・・・そうそう、強いていえば勉強のことかな、ついていくのが大変なんだよ、時間があったら今度教えておくれよ、数学がさ、苦手なんだ」
 姉は、その光輝の言い訳に、小さく、嘘っぱち・・・、と呟いてやがて光輝を無視するように机に向かった。光輝は机の前に腰掛けて、教科書を広げ、勉強するふりをした。机の引き出しの中には、三百円があった。姉ちゃん、ごめん、光輝は心の内で姉に謝り、土下座している自分を想像した。



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Bird Bear Hare and Fish 『ページ』(Music Video)

2020-05-06 | 小説
Bird Bear Hare and Fish 『ページ』(Music Video)



Eurythmics - There Must Be An Angel (Playing With My Heart) (Remastered)




幻想の風景


                九


 ここから先、僕は何処まで話そうか迷っている。過去から現在、現在から過去に行ったりきたりしていく内に話の落としどころが見えなくなってしまったのだ。僕は過去の自分と現在の自分どちらに肩入れしたいのだろうか?いや、それよりも今ここにいる僕は果たして本物の自分なのかすら分からなくなって来てしまった。パラレルワールドの中のどの世界に僕は今、軸足を立てているのだろう。もしかすると、僕は夢の中の深い深い所の、複雑怪奇な螺旋の渦に巻き込まれてしまったのかもしれない。
 それならそれでいい。
そう思ったときに、何処からか声がした。酷く懐かしい声だ。僕は誘われるままにその声がする方向に向かっていったのだった。




 
こんばんは、とさびしんぼうは僕を迎えてくれた。いつもだったら僕の方がルームで先に待っているところだけれど、今夜は僕の方が後になった。こうやって迎えられるのもいいものだなと思う。
 こんばんは、今日は早いんだね
 今夜は何だかそんなキモチなの
 何か良い事ことでもあったの?
 別に、でもいい気分よ
 そりゃ、よかった
うんよかったの、公園いったのよ
公園?
ええ、家族連れが一杯いて、子供と遊んでいるお父さんなんかを見ると幸せな気分にさせられるわ
そうなのか?
そうよ
でも、いかにもマイホームパパしてますっていうのをみせられるとそんなの嘘だって思わないか?
それは偏見よ
その後、何となく会話を続け、それから僕は、今まで疑問に思っていたことを口にすることに決めた。
この間のこと、聞いてもいい?
 何かしら?
 何故、君はシムラが裏切ったと?
 あてずっぽうよ
 あてずっぽうにしては素晴らしい
 私、超能力があるのかもね
 同じ経験をしたんじゃないかと思った
すると彼女からの返信が急に途絶えた。彼女はきっと気づいたのだろう。僕にはある推論があって、試すつもりで聞いてみたのだ。やっぱりと思った。しばらく待っても返答が来ないので、
 どうしたんだ?と僕。
すると、・・あなたにはもう私は必要ないかも、とさびしんぼうは唐突に返信してきた。
 何故?
 あなたはもう、外の世界に出るべきよ
 外の世界?
 そう、あなたが本来の自分でいられる場所
 シムラとのこと?
 あなたはシムラさんと会うべきだと思う
 会って、何を話せばいいのか分からない
 ただ一緒にいてあげればいいのではないかしら
 それでいいのかな
 それでいいのよ
 さびしんぼう・・・
 何?
 あの映画の何処に感動したの?
 そう、僕が切り出すと彼女はすぐに返答を返してきた。
 全部よ
 全部か、そう独りごちたとき彼女は、楽しかった、またいつか会うことがあったらよろしくね、さようなら、と言ってルームから出て行った。
 彼女が何処の誰なのかこれではっきりした。
でもだからと言って、何かをするつもりもない。あとは、このまま本来の自分に戻っていけばいい。まずは志村と会うことから始めようと思った。


二十五年ぶりに降り立った甲府駅は、相当様変わりしたように感じた。あの当時は構内にコンビなどなかったし、階段だけでエスカレーターもなかった。改札を出て、南口方面に向かうと正面にあったはずの信玄公の銅像が駅前広場西側に移設され、以前あった場所はバスの停留所になっていた。
タクシー乗り場でタクシーを拾い、県立病院までと告げると、お客さんお見舞いけ、と地方の方言で尋ねられ、自然に笑みがこぼれた。タクシーは渋滞の道を少しずつ進み、病院に近づいて行く。途中運転手が何やら武田信玄に関する薀蓄を垂れていたが適当にうんとかはいとか言ってやり過ごした。
病院に着き、入り口からロビーまで突っ切ると、僕は辺りをせわしなく見回し、病棟へと通じるエレベターを探し当てた。上へ行くボタンを押そうとしたら、何故かタイミングよく、すーとドアが開いたので、急いで駆け込み、5の数字のボタンを押した。エレベーターは五階で止まり、僕はそこから出、確か504号室だったなと、今度は病室を探し始め、それは容易くみつかったが、しばらくの間、病室に入るのを躊躇った。心臓の鼓動がいくらか早く感じられたのだ。そして覚悟を決め、ええいとばかりにドアをノックして、病室に入ったのだった。
正面を見ると、窓際にベッドが設置され、その上で、志村は半身身体を起こして本を読んでいた。ベッドの背は斜めに立つようになっている。
「久しぶりだね」
僕がそうぎこちなく笑うと志村は、読んでいた本を、テレビが置いてある横の台の上に伏せ、嬉しそうな顔を僕に向けた。
「二十五年ぶりだ、久しぶりだなんてもんじゃないよなあ、お前白髪目立つなあ、それに一寸太ったな」
 さあ、そこの椅子に座れと促され、ベッドの足元にある椅子に腰掛けると、志村が身体の位置をややずらし、僕らはお互いを向かい合う形で見た。二十五年ぶりに会った志村は痩せ細り、腕は細く干からび、顔は骸骨のようだった。会わなかった年月分を差し引いても、彼が重篤な病人なのは確かだった。
 訝しげな僕の視線に気づいたのか、志村は少し笑い、僕が訊ねる前に、癌なんだと言った。僕は予想していた答えを突きつけられ、でも少しうろたえた。
「ここにはどの位?」
 そう僕が訊ねると、志村は二ヶ月位かなと言った。
「町の定期健診を受けたら、肺に影があると言われたんだ。精密検査後癌だと宣告されたよ、ステージ4の末期だとよ」
「ステージ4・・・」
 最近癌で亡くなった隣人を思い出した。隣人も同じ進行度合いだった。放射線治療を受けながら、一年程生き延び、最後には全身転移し終末医療の施設に入れられ、一ヶ月後に亡くなった。
「美奈ちゃん元気か?」
「ああ、元気すぎて困ってしまう」
「子供は?」
「高校三年の息子が一人いる」
 美奈ちゃんとお前の子供じゃ、かっこいい面してんだろうなあ、きっと、と志村は空を見るような目をして、はははと軽く笑った。
 それを見て、僕はそんな話をしにここまで来たんじゃないぞと、
「お前は、あれからどうなんだよ」
 やや非難するように言った。
「俺か?俺は適当な人生歩いて来たよ。・・・・お前らと会わなくなってから、山梨に来て、パチンコ屋やらライブハウスのマネージャーやら果ては肉体労働まで、何でもやって来た。ひとりだから、その点は気楽だな、いくらかの老後用の蓄えも出来て、これからどうしようって考えていたら、いきなり癌だなんて、ざまーねーよな、なあ、おい」
 志村が自虐的に笑ったので、僕も口の端を少し上げた。
「これからどうする?」
僕は訊いた。
「バンドをやりたい」
 志村は哀願するように言った。
「・・・バンドって俺達は当の昔に解散したんだぜ、それにもう年を食いすぎている、お前だってそんな状態じゃ無理だろ。そもそも何処でやるんだ?」
「年も、解散も俺の身体も関係ない。一度限りだ。場所はもうキンキー・ハウスで演ることに決めている。長谷さんに連絡取ったんだ。長谷さん、オーナーになったんだってな、平日の昼だったらいつでも空けておくって言ってくれたよ」
 僕は、彼に対する過去の鬱憤を晴らしたかったが、痩せ細っている志村を目の前にして、それをいうのは憚れた。それにもう答えは決めていたのだ。
「分かったよ、で、お前はいつこっちに出てこられるんだい?退院できるのか?」
「もうすぐ退院出来ると医者は教えてくれたよ、ってことは俺もそう長くはないってことだが、そうなる前にライブをしなければならない。・・・一ヶ月以内だ」
「よし、それなら段取りは全て俺が組んでやる。長谷さんとこに頼めばいいんだな、あととっぺいにも連絡するよ。お前は愛用のレスポールと一緒に一日だけ上京すればいい」
 と僕は言い、「お見舞い」と書いた熨斗袋を志村に手渡し、じゃ、帰るぞ、お大事にと立ち上がった。帰り際、志村が「りこ」は喜んでくれるだろうかと訊いてきたので、今頃言うなよと僕は返答し、それから当り前じゃないかと続けた。
今夜にでも早速とっぺいに連絡しなきゃなと思い、僕は病院を後にした。


 それから、一ヶ月の間、僕の身辺は急に忙しくなった。とっぺいを電話で呼び出し、事の成り行きを話すと彼は、二つ返事で承諾してくれ、それなら俺の知り合い全部に声をかけてやるとまで言って、協力してくれた。彼にも彼なりの思いがあったのだろう、帰り際に、志村は大丈夫なのか?と僕に訊き、僕は一瞬考えたが、すぐに、大丈夫さ、奴は閻魔様に嫌われているんだ、と笑った。
長谷さんは本当にやるの?と目を丸くし、じゃあ、昼間のライブなんてけちな事言ってられないと、夜の部を丸々空けてくれることになった。    
随分動き回ったせいか、僕の身体は本調子に戻ったようだ。高峰医師は、もう復帰してもいいんじゃない?と診断書を書こうとしたが、僕はあと一ヶ月待ってくださいと頼み込んだ。美奈子はそんな僕をみて人生たまにはズルをしてもいいのよとケラケラと笑い、それから私歌えるかしらと間抜けな顔をした。
 

 当日のライブは大盛況、とはいかなくて、ライブ会場の半分を埋めるくらいの観客だった。ほとんどがとっぺいの知り合いばかりで、僕らは彼の人柄の良さと顔の広さに感謝した。
 志村は、体力の消耗度を考えて、椅子に座ってのプレイだったけれど、往年のキレの良い音は健在だった。ベースの僕とドラムのとっぺいはさすがに久しぶりで緊張し、無難に纏めることに終始徹底したが、意外だったのが、美奈子のボーカルだ。彼女はジーンズにTシャツと至って普通の格好だったが、ハスキーな高音はまだまだ伸びがあり、昔より色気を増していた。彼女が歌い出すと観客が異様にもりあがっていた。そして、後ろのカウンターに近い所にぽつりと両腕を高く上げ拍手をしている若者に気が付いた。浩樹。‥来てくれたのかと思ったら妙に熱くなってしまって困った。
 ライブの終盤の志村のギターソロは圧巻だった。鬼気迫るようなリフが、終わりが来ないんじゃないかと思わせるほどキレ良く続き、どこにあんな体力が残っていたんだろうと大いに感じさせた。長谷さんはその音を聴いて、後で僕に、ロックは彼の人生そのものだね、彼はやっぱり生粋のギタリストだったんだよ、実は君たちには悪いが、あのライブに推薦した理由は、・・・・本当は「君たちの音が好きだった」というのではなく「彼のギターの音」が好きだったからだ、君たちには悪い事をした、嘘をついてしまった、と前にいる僕には構わずに涙を溜めた。

 ライブが終了したあと、志村はこれで思い残すこともねえ、真っ白な灰になったよと呟き、椅子の上で愛おしそうに愛用のギターを抱えて眠り、そこからそのまま昏睡状態に陥り、慌てて病院に搬送されたときにはすでに帰らぬ人となっていた。
 僕らは病院で志村の亡骸を眺め、今時「あしたのジョー」じゃないだろうよと悲しんだのだった。
 お前はお前でしかないないのだから。

        十

 三月も後半になり、息子の浩樹の受験結果も完全に明白になっていた。二月に受験した二つの私立大学は全て受かったが、三月に受けた国立の北海道大学と電気通信大学は、後者だけが合格した。
 本命を逃した浩樹は、合格した三校の入学手続きを拒否して、結局浪人することに決めた。美奈子はあーもったいを繰り返したが、本人は、何処吹く風と勝手に予備校も決めてしまっていた。僕は金を出すのは結局親なんだよと思ったが、自分も東京に出たいが為に合格した地元の大学の入学を拒否したことを思い出し、遺伝かなと諦めた。
 十二月から仕事に復帰して三ヶ月、僕は軽微な仕事から始めて、やっとそれなりの仕事を与えられるようになっていた。ただ、役職は戻してもらえず、退職までこのままなのかなと半ば諦めていた。
 何とはなしにテレビを眺めていると、桜の開花が報じられており、今年は暖冬なので、満開になるまでそれ程時間を要しないと女性アナウンサーは結んでいた。桜かあ、近くの公園も咲いているのかな、と夕飯の後片付けをしている美奈子の後姿に向かって言うと、咲いているわよ、と美奈子は返答した。
 咲いているのかと思っていると、何だかむずむずして来て、急に今から見物しに行こうかという気になった。公園まで、歩いて十分だ。ねえ、公園に桜、見に行こうかと美奈子に言うと、今から?と美奈子は目を丸くしたが、すぐに思い直したらしく、夜桜もいいかもねと言った。そうだよ、そう、夜桜は最高だと、僕がすぐに出かけるといった仕草をすると、彼女は仕方がないわねえ、と言い、エプロンを外した。

 まだ春浅いせいか、意外に風は強く冷たかった。
公園に着くと桜の木の下のベンチに二人で腰掛けた。見上げると、ベンチ横の街灯でライトアップされた夜の桜は、綺麗な薄紅色を浮かべ、微かに柔らかな匂いがするような気がした。桜の木は包み込むようにして公園の周辺に植えられていて、みな同じように桜の花を咲かせている。
「はいこれ」
 美奈子は、コンビニの白いビニール袋からカップ酒を二本取り出すと、一本を僕に寄越し、僕が蓋を引き抜くと、彼女も続いてプルトップを引き、蓋を外した。
「乾杯!」
 僕らは、チンとお互いのカップを軽く触れさせた。
「桜、八割方だな」
「もう少し経ってから、来たほう良かったかもしれないね」
「いいや、この位がいい。満開になっちまったら、逆につまんないな。腹八分目っていうだろう?満開だと腹いっぱいだよ」
 屁理屈を述べながら、僕はひとくち、ふたくちと酒を口に含んだ。
 辺りは静かで、人一人としていなかった。
砂場も鉄棒も滑り台もある小さな公園は昼間は東側にみえる団地の小さな子供達の遊び場だった。ひとつ、ふたつ、数えたが団地の部屋の明かりが点っているのは極僅かだった。みんな、寝てしまったのだろうか?と思ったが、時間を考えるとそれも考え難かった。
 美奈子を見ると少し酔ったのか鼻の頭と頬を赤くしていた。僕はその色を見て、桜色だと思った。
「なに人の顔じーっと見ているの?顔になにか付いてるのかしら」
「花見さ」
僕が言うと彼女は、何馬鹿なこと言っているのよ、と右手の指先で顔を撫で回していた。
僕には先ほどからある考えが頭をもたげていた。いままでは、決して口に出すことはなかったが、今なら言い出せると思った。
「なあ、多分これから先も、俺は暇が出来ると思う。土曜日も日曜日も休日出勤なしで、六時過ぎにいつも家にいるマイホームパパさ、・・・だから・・・」
「だから?」
「纏まった休みが取れたら、一緒に尾道に行ってみないか」
 僕がそう言うと美奈子は目をまんまるにして、えっ、と微かに呟き、ほんの少しの間驚いていた。
「期待していていいのかしら」
「もちろん」
「何時行くの?」
「やっぱ、夏でしょ!」
「それなら、尾道の階段、坂道で海を見渡したいな」
「そうだな」
「船着場にも行ってみたい!」
「いいね」
「ヒロキの家、お寺探しをしてみようよ」
「賛成!」
「それから・・・」
 美奈子は言いかけ、小首を傾げると僕に近づき、僕の頬に軽くキスをした。気紛れな春の風は強く、その風にさらわれた無数の桜の花びらが、螺旋状の軌跡を描きながらゆっくりと舞い落ちてきて、僕らを優しく包み込んだ。それから僕は、桜のカーテンの向こう側に、志村とりこちゃんが仲睦まじげに笑っているのが一瞬垣間見えたような気がして嬉しくなった。
幻想の風景だ、僕が思わず口にすると、美奈子は落ちていく桜の花びらに手を差し伸べ、中学生みたいねえ、私達、と呟き、楽しそうに笑っていた。








うちの長男と次男です。小学生のころ。
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There She Goes (Official)  Sixpence None The Richer

2020-05-05 | 小説
There She Goes (Official)   Sixpence None The Richer



Judee Sill
The Kiss (Remastered)






幻想の風景


        七

女の笑い声で目が覚めた。その笑い声があまりに甲高かったので、うーんと僕は不機嫌そうな声をだし、カウンターから身体を起こした。ああ、ここは「キンキー・ハウス」だったと微かに思い出していると、
「ごめんね、起こしちゃった?」
 美奈子は僕に声をかけ、りこちゃんはごめんなさいと両手を合わせていた。どうやら僕は酔い潰れていたようだ。りこちゃんの隣にいるはずの奴がいないので、志村はどうしたと聞くと、店の外よ、外・・・、いい空気を吸いたいんだって、ちょっと気持ち悪くなったみたいと、りこちゃんは仕方がないわよねえという顔をした。とっぺいは例にもれず、バイトに行った。時計を見ると、十一時時を過ぎていたので、時間だぜと美奈子に訊くと大丈夫よと平然と僕に返し、またすぐにりこちゃんと話し始めた。
 あの日以来、りこちゃんは許可を得たとばかりに、僕らのライブがある度毎に姿を現し、さすがに彼女も仕事があるのだから楽屋には顔をださなかったが、それ以外は僕らの集まりに常に行動を共にするようになっていた。あまりに顔を見るようになったので、最初僕らは少し引き、志村も仲間の手前、わざと邪険にするような態度を取っていたが、彼女が意外と音楽に造詣が深く、ザ・スミスのファンだということが判明すると、僕らは彼女を歓迎するようになった。彼女は、ジョニー・マーのギターセンスに魅了されていて、特に「スティル・イル」が最高なのよと語った。

 りこちゃんの田舎は山梨だと聞いていた。美奈子が葡萄と富士山ね、と言うと、うんそれだけが自慢のちっちゃな県よと、りこちゃんは自虐的に笑った。信玄堤の傍に建てられた施設で育ち両親の顔はまったく記憶がないらしい。高校卒業後、しばらくは地元の工場で働いていたが、会社の経営が悪化し、その工場が山梨から撤退することになったため、二十二歳のときに工場を辞め、山梨から東京に出てきたのだそうだ。四年の間に貯めた貯金で部屋を借り、アルバイト情報誌の片隅に載っていた「喫茶ブロンクス」の「ウェイトレス求む」という募集広告をみて応募したら、面接でそこの店長も山梨県出身だということが分かり、即時採用されたのだそうだ。山梨県人は仲間意識が強いから面倒見もいいし給料も結構な額をくれると、りこちゃんは複雑そうな顔をして、ブロンクスでお金を貯めたら美容学校の入学金にするのだとおどけてみせた。

 中々志村が戻って来ないので、一寸見てくると彼女達に言い残し、その場を離れた。彼女達は自分達の話題に夢中で、完全無視だった。まったく女って奴は・・、と独りごちながら僕は扉を開け、階段を昇っていった。
 志村は、国道沿いのガードレールに寄りかかりながら、何やら空を見上げていた。星でも見えるのか?と聞くと志村が見えると答えたので、僕も空を見上げた。
「見えないこともないんだな」志村は独り言の様に言った。
「うん、見えるんだな」
確かに微かではあるが、暗い空にひとつ、ふたつと星は光っていた。そして、志村の言葉が何かの歌の歌詞のように思えて可笑しくなった。
「何か可笑しなこといったか?俺」
「いいや」
「じゃあ、なんだ」
「うれしいのさ」
「何が?」
「(街の杜)出場決定がさ」
「ああそうだな、いよいよだ」
「うん、いよいよだね」
 吉報をもらったのはライブの前、長谷さんからだった。参加バンド達はそうそうたるメンバーだった。長谷さんは、本当に我がことのように喜んでくれて、打ち上げの代金はいらないから今日はどんどん飲んでってよと大判振る舞いしてくれた。一緒にいたりこちゃんもやったねと言い、大層喜んでくれていた。
 あと一ヶ月。
 僕らの夢のひとつを適えるまであともう少しのところまで来ていた。そして、それからあとは・・・、と考え始めたときに、おーまえらー、帰るぞーと今頃酔い始めたらしいりこちゃんとけらけら笑っている美奈子が姿を現した。時計を見ると、長針も短針も十二の数字に近づいていた。日時が変わる前には帰れないなと僕は思い、志村も呆れ顔で、僕らそれぞれ電車に遅れまいと酔っ払いの女二人の手を引き、駅まで走った。途中、僕が、りこちゃんの手を引き、志村が美奈子の手を引いているのに気づき、違うだろうと僕はりこちゃんの手を放し、志村は美奈子を乱暴に振り回し、僕の方に放って寄越した。美奈子はきゃっと叫び、くるっと回りながら、僕の胸に抱かれた。美奈子は少しビックリしたようだったけど、優しい顔をしてそのままにしていた。僕はたまらなくなり、ぎゅっと彼女を抱きしめた。
「もうすぐ夢が叶う」
 僕がそういうと、彼女はこくんと軽く相槌を打ち、もうすぐだわと呟いていた。
 りこちゃんはそんな僕達の様子を見てこれでいいのだー、と「バカボンのパパ」のように叫び、志村はこの酔っ払いがあ、と他人のふりをしていた。 
あの頃、あの時、僕らは本当に幸せの絶頂期に立っていた。けれど、それから訪れる出来事が僕らから、それを奪っていくなんて思いもしなかったのだ。


 りこちゃんが高熱を出し、救急車で運ばれたのは、それから二週間が経った頃だった。
夜中、志村がりこちゃんの異変に気づき、背中が痛い痛いというりこちゃんの背中を必死に擦ったが、一向に状態は治まらず、熱を測ってみたら、なんと四十度もあったらしい。
慌てて、119番に電話を入れ、近くの大学病院の救急センターに運び込まれたという事態に陥った。
レントゲンを撮ったりしたが、先生の診断結果は原因不明、恐らく風邪をこじらせたのでしょうということだった。
原因不明ということが引っかかったが、病院で診察を終えて、ともかく二、三日検査入院できることが決まったこともあって、志村はほっと胸を撫で下ろした。
午前中志村からの連絡を受け、僕は次の日の午後、早速板橋区にあるその大学病院へ出向き、りこちゃんを見舞った。りこちゃんは三階の305号室にいた。
「元気そうじゃないか」
僕が口を開くと、りこちゃんはでもこんな状態よお、と針の刺してないもう一方の片手で、点滴の器具を指差し、力なく笑った。熱も38度に下がったからなという志村の顔は憔悴し切っていて、昨日いかに大変だったのかを物語っていた。
元気だったし、でもあまり長いをするのも悪いので、短い会話だけを済まして、帰り際に、直ったらまたライブには来てくれよな、と僕は申し送りをして病室を後にした。
途中病院の廊下で、車椅子に乗った年寄りのじいさんとぶつかりそうになり、怒りの含んだ目を向けられ、ああここは病院なんだなとそれほど医者にかかった経験のない僕は、少し焦った。ごめんなさいと僕はじいさんに向かって謝り、一階の待合室のうしろを駆け抜け、病院の外にでた。
死人の匂いがした、と僕は思い、深呼吸をしながら何もなければいいんだが、と不安になった。病院の周りに植えられた木々は青々と茂り、柔らかな風に揺らされざわざわと小さな音をたてているような気がした。この不安はなんだろうと思ったが、そのときの僕には知る由もなかった。
 


 人間は誰しも小さな頃、死に対する恐怖に怯えた経験を持っているに違いない。それは黒く、暗い穴の底に渦巻状に存在し、時にまだ小さな僕を巻き込もうとしていた。寝床に入り、暗さに目が慣れ、うっすらと見える天井の木目を眺めるとまるでそうされるような錯覚に陥り、まだまだ小さな僕は布団を引き被り、よく泣いた。大人になるにしたがってその感覚はなくなってしまったが、恐らく年を重ね、老人になっていくにしたがって、またあの感覚は復活してくるのだろう。ただその時の僕は二十代の若造で、死というものを身近なものとしては感じられなかった。

 
見舞った夜、突然志村から、りこちゃんが亡くなったとの知らせを受けた。僕は何が何やらわからなかった。今日会ったばかりじゃないか。電話の向こうにいる志村に向かって、どういうことだと僕が尋ねると志村は、感情を持たない声で、りこは死んだんだよと再度答えた。電話じゃ埒が明かないと判断し、僕は電話を切り、美奈子に連絡をし、二人で病院に向かった。途中美奈子は、どういうことよ、と僕に尋ねたが、僕は、入院していたんだと返答するのが精一杯だった。
病院に着いて、305号室を目指すと、僕らの様子で感づいたのか、化粧っけのない女性看護師が僕らを引き留め、東条さんの近親者の方ですか?と聞いてきた。ええそうですと美奈子が答えると看護師はご遺体は今、地下の霊安室に運ばれましたと言った。僕らは看護師の案内を受け、エレベーターで地下に行き、霊安室のドアを開けた。初めて入る霊安室は意外と広く、それほど暗くはなかった。志村はどこだと思うまでもなく、彼は固いベッドに載せられた、白いシーツと顔に白い布を被せられたりこちゃんの遺体らしき傍で椅子に座り、寄り添っていた。志村!僕が言うと、彼はゆっくりと顔を上げ、僕らを見た。彼の顔にはまったく生気というものが感じられなかった。

 りこちゃんは眠っているようだった。
安らかな顔をして、声をかければ、目覚めそうな感じだ。僕と美奈子は手を合わせ、りこちゃんの顔に白い布を戻した。
「さっきまで元気だったじゃないか?」
 志村に聞いた。
「急変したんだ」
 志村は搾り出すような声で言った。
「・・・・最初に、また背中が痛いって言って、擦ってやったんだ。そしたら今度はいきなり眠るように意識がなくなっちまって、俺はすぐに医者を呼んだよ。俺は、病室からだされちまって小一時間ほどかなあ、・・・何やらいろいろやってくれたみたいだけれど、最後には病室に呼び戻されてさ、俺を目の前にして医者はりこの瞳孔を調べて、それから言ったんだ。二十時二十二分、残念ですが、ご臨終ですだってさ。ただの風邪だったはずじゃあないか、何かふざけてやがるよなあ、おい、ケンジ、そう思わねえか、なあおい・・・」
 志村の悔しさを滲ませた言葉に僕は何も返すことができなかった。僕自身信じられなかった。ほんの五時間ほど前、僕はリコちゃんと会話を交わしたのだ。この遺体がリコちゃんだなんて信じられない。これは何かのお芝居だと思った。
「りこちゃんには親戚の類もいないんだったよな」
 僕はぽつりと言った。
「・・・・・ああ、でも施設には大分世話になったらしい。施設の園長先生は大変な人格者で、丁度二人で今度、挨拶に行こうって話し合っていたんだ。だから施設にも連絡したよ、そしたら園長先生絶句してなあ、今すぐ山梨から遺体を引き取りに来るってよ、三時間はかかるかなあ、ここまでさ、・・・・・本当は俺が見送ってやらにゃならんと思うんだけど、半年だからなあ、たった半年の男だ、長く世話んなった園長先生に叶う訳がねえ」
すると、僕の隣で話を聞いていた美奈子がでも・・・と言いかけ、少し思案げにしてから言葉を発した。
「本当に偽善的な言葉かもしれないけど。でも、りこちゃんはきっと幸せだったはずよ。彼女は私たちとの出会いを本当に喜んでいた、そして私達だってそうだったじゃない?違うかしら?例え短い付き合いだったとしてもね」
 そうかもしれないし、真実は違うのかもしれない。でも、彼女と出会ったから、僕らは(街の杜音楽会)のライブの出場権を得ることができたのではないか?彼女はもしかしたら僕らに幸運をもたらせる為に遣わされた天使なのかもしれない。そう自分勝手に思った。
「彼女は僕らに当たりくじをくれた」
 そう僕がなんとなく呟くと、堪えきれなくなった志村は激しく嗚咽した。

 一時間ほどしてから、園長先生が到着した。彼は五味ですと名乗り、あなた達には迷惑をかけたねと言った。遺体と対面したあと、彼はお別れ会を明日夜行うので、施設にきてくれまいかと、泣き腫らした目で僕らに哀願した。志村はそうさせて下さい、と言い、簡単な施設への案内図を書いてもらった。それから園長先生は死亡診断書を病院から受け取ると遺体を載せ、早々に帰っていった。僕らはその車を見えなくなるまで見送り、いつまでも立ち尽くしていた。



        八 

 吸殻で一杯になった灰皿から、煙が燻っているのを見て、美奈子はいやな顔をした。吸いすぎよと灰皿を半畳ほどの小さなキッチンに持って行き、灰皿に水を入れた。四畳半の僕の部屋は男臭いかいと無性に聞いてみたかったが、美奈子が先に臭い臭いと窓を開けるのをみてやめた。
「志村さんから連絡あったの?」
 美奈子は外を眺めながら、そう聞いてきた。
「いいや、もう一週間も連絡がない」
「アパートにも行ってみたのよね」
「うん、いくら呼び鈴を鳴らしてみても誰も出ないし、ポストに新聞が溜まったままだし、ほとんど帰っていないみたいだ。連絡するようにメモを挟んできたけどね」
 志村は施設の「お別れ会」に出席してから行方が知れなくなっっていた。どこをほっつき回っているのかわからないが、新聞の溜まり具合からみて、最低でも一週間は帰っていないようだった。「街の杜音楽会」まであと五日と迫っていた。最愛の人間を亡くしたのだから、精神的にキツイのは分かるとしても、連絡が取りようがないのには少し困惑していた。本当は一昨日に練習をしようと貸スタジオを予約していたのだが、約束の時間を過ぎても志村は現れず、とっぺいと美奈子と僕との三人での中途半端な音あわせに終わってしまった。それから、何度も電話をかけてみたが、呼び出し音が流れるばかりで、いくら待ってみても誰も出ることがなかった。それで昨日、堪え切れずにアパートを訪ねてみたのだが、呼び鈴をならしてもやはり誰一人出てくることはなかった。
 美奈子も相当心配していたらしく、でも電話ではそれには触れず、会社の帰りに僕の部屋に来ると言いだし、僕は慌てて部屋を片付けるはめになった。
 まずいことになったよなと窓辺の美奈子に言うと、電話のベルが鳴った。
 あまり期待せずに出ると、とっぺいからだった。
「なあ、連絡ついたか?」
「いいや、駄目だ。昨日部屋に行ってみたが何日も帰っていないようだ」
「そうか、駄目か・・・」
 そうとっぺいは言うと少しの間沈黙したが、やがて決心したように喋り始めた。
「・・・もし良かったら最適な奴を紹介出来る」
「えっ?」
「俺の知り合いに志村のようなギターを奏でられる奴がいる。以前から奴は俺らのバンドに興味を持っていて、何とかメンバーに入れないかと考えていたんだ。どうかな、奴の夢を叶えてやってみては」
「いきなりで弾けるのか?」
「大丈夫だ、奴は俺らの全ての曲を耳コピしている。開演前のリハで合わせてみれば、それがよく分かる」
 とっぺいの話は願ったり、叶ったりだった。でも僕はどうしても志村を見捨てることはできなかった。志村のためだけじゃない、亡くなったりこちゃんを裏切ることにもなるような気がしたのだ。
 僕が逡巡しているのが分かったのか、とっぺいはそうだなと言い、でも念のためそいつは連れて行くぞ、と言って電話を切った。
 志村、お前は何処にいるんだ?
 僕は初めて神に祈り、それから何故か無性に腹が減ったので晩飯食い行こうと、鍵もかけずに美奈子を連れて部屋から外に出たのだった。

いよいよライブの当日を迎えた。早朝に、電話のベルが鳴った。僕は志村だ!と飛び起き、時計をみると朝の六時を指していた。電話は一度ぷっつりと切れ、また鳴った。慌てて受話器を取ると、無言の中に、相手の息遣いが聞こえてきた。志村か?と言うと相手はやはり無言のままだった。
「志村じゃないのか?」
 再度問いかけると少しの反応を感じ、間違いなく志村だと直感した。そのまま僕は喋り続けることにした。
「なあ、志村、みんな待ってるぜ、それに長谷さんも期待している。俺達、一緒にプロになるんだろ?りこちゃんだってあんなに喜んでいたじゃないか、裏切るのか?今回のライブに出ないってことは、りこちゃんだって悲しむと思う。なあ、志村だろ、なあ、何とかいえよ、この裏切者の弱虫野郎!なあ、何とか言えよ」
 僕がここまで続けると、無言の相手に一瞬迷いのようなものを感じた。ただ、迷いは一瞬だけですぐに消えてしまった。
「・・・ごめん・・・俺もう無理・・・」
 志村はやっとのことで、それだけのことを言うと、電話を切ってしまった。志村は自らチャンスを棒に振ってしまったのだった。最悪だなと僕は悲しくなって、受話器を叩きつけた。

「街の森音楽会」のライブはとっぺいの知り合いの影武者君が奮闘してくれたおかげで、何とか無難には済ますことが出来た。ただ、やはりコピーはコピーに過ぎなかった。志村のようにキレのある音はだせず、逆にそれが、僕らの音との僅かなずれを引き起こしていた。最高の音を出せずに終わり、僕らは落胆した。そして終わったね、とやっとの思いで微かに笑った。
僕らがバンドを続けることは、もう何も意味を為さなかった。志村はやはりひとつの重要なピースで、それがなくなった今、バンドは解散するしかなかった。ライブ終了後僕は解散を口にし、みんなそれに同意した。
 


 それから何日かが経ち、僕は再度志村の部屋を訪ねていった。彼は大学にも顔を現さず、学生課で訊ねたところ、すでに退学したあとだった。新聞の束が無くなっていたので、今度こそと思って呼び鈴を何回か鳴らしたが、誰もいる気配がしなかった。あまりに何度も呼び鈴を鳴らしたので、隣の青島幸雄みたいなおばあさんが出てきて、そこのうちは二、三日前に越してったよと腹を立てて話してくれた。志村は完全に僕らの前から姿を消し、僕は馬鹿野郎と心の中で叫び、悲嘆にくれた。
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