からくの一人遊び

音楽、小説、映画、何でも紹介、あと雑文です。

君と歩いた青春

2018-08-11 | 小説
「君と歩いた青春」 太田裕美・イルカ・伊勢正三




以下、このブログ初期のころに書いたものですが・・・・。

もしよかったら、(また)読んでください。




美女と野獣の墓参り



「綺麗だねえ・・」

「うん、綺麗だぁ」

由季が思わず玉虫の色鮮やかさに、目を丸くしていると続けて「熊男くん」も声にする。

玉虫は二匹、熊男くんの手のひらに乗せられている。

先ほど墓地の隣に植えられている松の木から落ちたのだろう亡骸を、熊男くんが見つけてきたのだ。

二匹は大きさが違うことから雄と雌のカップルだろうか?

「お墓の隣に埋めて、弔ってあげましょ」

由季が提案するまでもなく、熊男くんが先祖の墓の横に木の枝で穴を掘り始め、そこに二匹を埋めてあげた。

気の利く男だ。

私がそう思って見ていると、彼はこちらを振り向き満面の笑顔を浮かべた。

やはり熊のような容貌だ。私は由季の恋人が少しだけ劇画調の「くまもん」のように見えて苦笑した。



由季は二番目の兄の長女である。

美しい顔立ちを持ち、明るく朗らかな性格で、親戚中みんなに好かれている。

本家の我が家には二十歳になってから、毎年お盆の時期になると一人で兄の代理と称して墓参りにやってくるようになった。

私達には娘がいないので、特にカミさんは自分の娘のように彼女を歓待した。

二人して何を喋ることがあるのかというくらい話の花を咲かせ、一緒に料理をしたりする。

時には、自分の母親のようにカミさんを慕い、夕飯後に肩もみをしたりする。

それは毎年変わらないお盆の光景であり、私はそれを見るたびに由季が娘だったらなぁ、と思うのである。

その由季から電話があったのは二週間前。今年で八回目のお盆来訪を告げる電話である。

「叔父さん、今年は私と、・・・あともう一人そちらにおじゃましたいなと思うんだけど」

「もう一人?」

「うん、紹介したい人がいるの」

「・・・・もしかして恋人?」

「他にいる?」

私はそれを聞いたとき、とうとう来るべき時が来たかと思った。

由季ももう27。それに、あの顔立ちだ。恋人がいないほうがおかしい。

「それじゃ、二人でいくから」

電話が終わり、カミさんにそのことを伝えると、大変だ大変だと二週間後にもかかわらず、部屋を掃除しはじめた。

私が今から慌ててどうすると言うと、「だって居ても立ってもいられないんだもの。まるで娘の結婚相手を紹介されるような気持ちよ」とのたまう。

私はどんな男が由季の心を射止めたのか興味深々だった。


そして、それから二週間後の今日、本日現れた由季の恋人は見事な熊だったというわけだ。

上下黒のスーツに黒い顔、立派な体躯で腹が少々出ている。身長は恐らく190㎝はあろうかと思われた。

「鷲尾です」確かそう挨拶されたように思うが、私たちは揃って「熊男」だと密かに囁きあった。

熊男くんは、とりあえず休んでからという私たちの提案を断って、早速墓参りに行きましょうと言った。

私たちはともかく必要なものだけを取り揃えて、彼が運転する車に乗り、小高い山の上にある墓地まで来た。

墓地の周りは草がところどころ生えていた。思ったほどではないが、さりとてほうっておくのはちょっとというレベルである。

私が草を取り始めると、熊男くんも大きな体を丸めて草を取り始めた。

彼は一生懸命に草を取り除いている。

その様子を見て、私はちょっと彼に意地悪な質問をしてみようと考えた。

「・・・どちらが先に声を掛けたのかな」

「はい?」

「いやね、私が言うのもなんだが、由季はあのとおりきれいな顔立ちの娘だろ?多分誰もがほっとかないと思うんだ。何故君なのかって思うんだよ」

「・・・・・・」

「気に障ったら謝る。ただ、やはり、ね、不思議に思ったんだ」

「いや、いいんです。・・・そう思うのは当然でしょうから」

熊男くんはそう言うと、ニカッと歯を見せ笑顔をこちらに向けた。

「・・・由季さんとは、兄貴の子供を送り迎えに行くときに出会ったんです」

由季は保育園の保母さんをしていた。その意味では独身の男性と会うのは困難な職業でもある。

「・・それで、何度か兄貴の子供を送り迎えする内に、親しくなって・・・」

「君が誘った?」

「はい」

「ははは、やけにきっぱり言うね。じゃあ、君は由季のどこが気に入ったのかな?」

私は、きっと彼はありきたりな答えを出すだろうなと思っていた。どうせ明るく朗らかでだとかいうに違いない。

数秒のためがあり、彼は優しい目を向けた。


「・・・泣いてくれると思ったんです」

「えっ?」

「私が辛いとき、悲しいとき、でも男だから泣いてはいけないとき、彼女はきっと私の代わりに泣いてくれる女性だと思ったんです」

意外な答えが返ってきた。

「自分勝手な理由ですかね。・・・でも、これが本音です」

熊男くんは、真っ赤になりながら俯き、また草取りにと勤しんだ。

私は由季が彼を選んだ理由がおぼろげながら分かったような気がした。

きっと由季は彼女の本質を見抜いた彼だからこそ、彼についていく決心をしたのだろう。


「ねえ、そろそろお花を飾って、手を合わせない?」

由季が怒った風にして私たちの前に仁王立ちになった。

いけね、聞こえたか。

私たちは立ちあがり、墓の前へと集合した。




「綺麗だったわよねぇ」

墓参りが終わり、熊男くんの運転する車の中で、彼らは先ほどの玉虫のことを話題にしていた。

カミさんは妙に無口でムスッとしている。

後席で一緒に座っている私は、そのカミさんの様子が気になり、どうしたんだいと聞いてみた。

「何でもないわよ」

カミさんはやはりムスッとして言う。

「何でもないことないんじゃない?」

私が尋ねると彼女は、顔を近づけてきて小声でささやいた。

「・・・・ねえ、熊男くん、どう思う?」

「どうってさっき話したけどなかなか良い青年じゃないか」

「良い青年ねえ。それは私もそう思うんだけど・・・」

「だけど?」

「・・・・ねえ、熊男くん幾つだと思う?」

「結構年上に見えるけど、30前後ってところだろう?老けて見えるけどね」

私はカミさんがどうして年齢に拘るのか分からなかった。

たとえ、熊男くんが40だろうといいではないか。

「・・・さっき由季ちゃんに聞いたんだけどね・・・」

「うん」

「・・・熊男くんまだ大学生なんだって!」

「えっ」

「だから、まだ大学生。今年、20になるんですってよ」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・?

(成人前?)


一瞬めまいがした。


彼が大学生?どう見ても由季よりも年上に見える。

あの黒い顔、体躯、それにあの考え方。

それが7つも年下だなんて・・・・。

私は慌てて、前につんのめり車を運転している熊男くんに聞いてみた。

「きみは幾つになるんだい?」

「ああ、言ってなかったでしたっけ。今年、20になりますよ、10月で」

「それで、結婚?」

「ええ考えてます」

「君の親は?」

「うち、母親だけなんですが、賛成してくれました」


私は目の前が暗くなるような思いがした。

ふと、由季の方を見るといたずら小僧のように口端を上げて笑っている。


「叔父さん、父さんと母さんには大反対されてるの。応援よろしくね」


ああ、そういうことなのね。

やれやれ、とんだ大役を仰せつかったもんだ。




私はこれから大変なことに巻き込まれることが確実になり、苦笑いし、そしてトホホと思ったのであった。
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KOKIA - ありがとう...

2018-06-18 | 小説
KOKIA - ありがとう...




たった5日の僕と潮音の拙い関係


僕が会社員だったころ、駅で二人の母子をしばしば見たことがあった。

服装は憶えていないが、お母さんはまんまる顔の大きな目、子供はぺこちゃん風のちょっとお茶目な女の子、という感じだった。

お母さんの歳は想像がつかなかったが、女の子は小学校低学年くらい。

ふたりはいつも僕が降りる駅の階段下で誰かを待っているようだった。

僕は大抵19時56分着の電車で帰っていたので、当然その時間に帰ってくるお父さんあたりを待っていることは想像出来たが、それにしてはふたりの行動は妙だった。

僕はともかく急がされるのが嫌で、いつも階段を降りる人の列の最後尾にいることを常としていたが、ふたりの母子は目で先頭から最後尾の僕までを確認すると、お母さんは首を振り、女の子はあきらかに残念そうな仕草をし、お母さんはそれをまたなだめているといった風だった。

待ち人来たらず、か?

不思議に思いながら、気になったのは数日でいつしかその時間にふたりをみることは風景のひとつのようになり、気にならなくなっていった。

そして、恐らく一か月を過ぎたあたりでふたりの姿が見えなくなったことに気付いたが、普通に少しだけ残念に思い、あとは普通に忘れていったのだった。




それから女の子のほうに会ったのは三年後だったか。

その日僕は最悪な気分だった。

当時僕は営業担当で、日中外まわりをしていたのだが、最後の訪問先の商店で、入口に入る際、シャッターが少し下がっているのに気づきながらも頭を下げるタイミングを間違え、しかも急いでいたこともあり、大きな音とともに額をシャッターに打ち付け、なんと流血してしまったのだ。

大きな音に驚き、その顔を見た商店主は一瞬口を半開きにして、その後あきらかに笑いを隠しながら奥の部屋より救急箱を下げてきて、そこから手早く脱脂綿に消毒液を含ませ近くの椅子に座れといいつつ、僕の鼻脇から額までこれでもかというくらいに押し付け拭い、最後に流血場所である眉間のやや上に超特大のカットバンをパンッと貼ってくれた。

会社に帰ってから事の経緯を上司に報告すると「バカ」と怒鳴られ、十違う僕が秘かに社内一可愛いと思っていた新人女子社員には軽蔑の目を向けられるという散々な日であった。

そんなこんなで、仕事を終え、ルーティーンどおり19時56分着の列車を降り、改札を通って列の最後尾で顔を伏せながら、ゆっくりとその日一日の悪夢を振り返り、「バカだなぁ」と独り言ち、階段を降り切ったときだった。

足を大地につけ、一旦伸びをして、駅から10分くらいかかる我が家へと向かおうとしたところ、なにやら刺すような痒いような視線を感じたのだ。

ん?レーザービームか?

それでゆっくり視線の先をたぐると、少し離れたところに女の子が立っていることに気が付いた。

どのくらいの歳なのか見当がつかないが、思春期に入る手前なのかな?と思った。

彼女は僕と目が合うと、にこっと笑った。・・・・お茶目そう。

女の子に笑いかけられるのはそれほど悪い気分ではないが、なんだか面倒に巻き込まれそうな気がして無視を決め込み、僕は再び前を向いて歩き出した。

しかし100メートルほど歩いて軽い下り坂にさしかかるとき、急に何故か女の子のことがどうにも気になりだしていた。

僕の記憶の底に住む形のない何かが「思い出しなさい」とささやいていた。

立ち止まり30秒ほど考えてみた。

さきほど感じたお茶目そう・・・、女の子。・・・誰かを待ってる?
キーワードを繋ぎ合わせてみた。

ふと「もしかして」と思い浮かび、そうなると居ても立ってもいられなくなる癖のある僕は、早速走るように歩いて駅へ舞い戻った。

行って帰って五分くらいの間と思われるが、もといた場所には誰もいなかった。

僕は焦ったが、幸運なことに女の子はすぐに見つかった。少し離れたところにベンチがあり、そこに座っている彼女がびっくりした顔でこちらを見ていた。

僕はゆっくりと女の子のもとへ歩み寄ったのだが、すると何故か彼女もベンチから腰を上げ、なんと感極まるというような表情をして僕のもとに駆け寄ってきたではないか。

僕らの間が一メートルくらいになったとき、女の子は立ち止まり、ハアハアさせながら僕を少し見上げながらこう言った。

「やっぱり潮音のパパ?パパだよね」









女の子の名前は遠藤潮音。

小学校五年生。

三年前の母子の子はやはり潮音ちゃんで、母はママで「会ったことのないパパ」に潮音ちゃんが会いたくてママと二人で駅の階段下で待っていたんだということだった。

「で、結局会えなかった訳だ」

「うん」

僕らはベンチに並んで座り、事の経緯を僕が、できるだけ優しく潮音ちゃんから聞き出そうとしていた。

勿論夜だったが、駅前の広場には街灯が何本かたっていて、それほどの暗さを感じなかった。

「潮音ね、なんとなくわかっていたんだ。・・・パパがはじめからいないこと」

「だから諦めたんだね」

「うん」

どうやら三年前の潮音ちゃんは自分だけなぜ父親がいないのか母親に迫ったようだ。

それで仕方なく、母親は「駅で待ってれば、いつか帰ってくるよ」と・・・、19時56分着の列車に乗って・・・・・。

「じゃあ、なんでまた今日、駅で待っていたの?お母さんは一緒じゃないの?」

「夢を見たの」

「夢?」

「うん、ママがでてきたの・・・、パパらしい人も」

僕は潮音ちゃんの顔を見ながら、少しおかしいぞ、と思った。父親はともかく母親が夢に出てくるって、まるで・・・・。

すると潮音ちゃんは僕の様子を見てわかったのだろう、軽く笑顔をみせながら「ママは今、お墓のなかだよ」と言った。

僕は少なからず心が揺れた。

亡くなった母親が夢に出てきた。しかも父親らしい人と。だからもしかしてと、またここへきたのか・・・。

僕はしばらくの間、沈黙した。潮音ちゃんにどのように言葉をかければ良いのかわからなくなった。父親も母親もいない潮音ちゃん。今日初めて会話を交わした彼女に同情するのは卑怯だと思いながらもやはり悲しくなった。

「・・・泣いてるの?」

「いや違うよ」

「でも泣いてるよ」

「そうかな・・・」

「6月22日ね」

「うん?」

「ママのね、誕生日なの」

「もうすぐじゃないか」

「うん。だからね、それまではここにくるんだ」

それはいけない、小学5年生の女の子が夜出歩くのは危険だ、と言おうとしたがこの子はきっとそれでも来るだろう。だとしたら・・・、と考えていると、潮音ちゃんはすっくと立ちあがり、「そろそろおばあちゃんが起きてくるんだ。帰らなきゃ。・・・おばあちゃん、晩御飯のあと必ず横になるんだよ」と僕を見下ろし、くるりと帰ろうとした。

それを「最後に・・・」と呼び止め、再びこちらを向いた潮音ちゃんにたずねた。

「なぜ僕をお父さんと思ったの?」

「決まってるじゃん。超大きなカットバン!夢のパパもそこに貼ってたの」

そう言い残すと彼女は一目散に駆けだし、やがて闇に消えた。

そしてしばらくの間それを見ていた僕は、額のカットバンに指で触れながら、こう呟いたと思う。

・・・・あんまりな理由だ。





平屋の一戸建ての賃貸住宅のドアを「ただいま」と開いて入ると、奥から真莉愛の「おかえり」という覇気のない声が小さく返ってきた。

夕べのことが未だ尾を引いているのか・・・。

僕は困ったな、と思いながらも靴を揃えて上がり、短い廊下の右奥にあるキッチン&リビングを覗いた。

背中を見せている真莉愛は遅い夕飯の支度をしていた。

もう一度、「ただいま」と声をかけたが、彼女は振り向かず、事務的に「お風呂沸いてるから」と答えた。

そこにいても仕方がないので、僕はその隣のクローゼットがある寝室に入り、素早くスーツを脱ぎ、ハンガーに皺にならないように掛けて、スエットと下着を用意しそそくさと風呂に向かった。


風呂は熱かった。

軽く湯を浴び、左足から湯船に入った。ジン、として少し足を戻しそうになったが、我慢し、勢いで右足そして体全体をザブッと湯船に沈めた。

5分くらい経つと体も熱さになれ、額のカットバンのことが気になり、「ああ今日は頭を洗おうかどうしようか」などと思う余裕もできた。

それにしても・・・・。

あの子はまた来ると言った。
いくらしっかりとしているとはいえ小学校5年生の女の子が夜の8時にあそこにいるのはやはり危険だ。

駅前には高校生らしい不良が集まってくることもある。

不審な男が声をかけてくるとも限らない。

心配だ。

冷静に考えれば警察に事情を話して保護してもらえばいいだけの話だが、それはしたくなかった。

自分勝手だが、僕が関わり僕が心配し、心配ないように確認したいからだ。

考えてみれば、6月22日まであと5日。

今日が月曜日で火・水・木・金、・・・土曜日も出勤だがその日だけはなんとかなる。火曜日から金曜日まで僕が19時56分着の列車で帰ってこられればまだ良いのだが、困ったことにその4日間は重要な仕事を抱えており、恐らくルーティーン通りに帰ることは不可能だろう。

誰かその時間に・・・。

僕は湯船により深く、顎まで沈めながら「・・・そうするしかないのか」と短い溜息をついた。




風呂からあがり、スウェットに着替え、キッチンのテーブルに着くと向かいに座っていた真莉愛が僕を指して急に大声で笑いだした。

溜まっていたものを吐き出すような笑い方である。

「なあに、それ」

僕の額の大きなカットバンを指して、今度はケタケタケタに変わった。

「名誉の負傷だ!」

「名誉の負傷?・・・どこにぶつけたの?」

「なぜ、暴漢に襲われたのとか言えない!・・・大丈夫?とかもさ」

「だってそーたドジだもの。それを考えたらねぇ」

くくく、とまだ笑うのをやめない真莉愛。

でも、怒る気にはなれなかった。それどころか良かったと思った。

前日言い争いをしていたからだった。

真莉愛と僕とはそのとき出会って二年が経っていた。

その二年前、同じ業界の別会社で、彼女は受付嬢で僕は営業で忙しい毎日を送っていたものだった。

そんなとき、詳しくは言えないが、会うべくして会った。

そして、付き合うようになって何か月かで、いつのまにか彼女は僕の家の同居人となり、前の年の12月に「そろそろ花嫁修業しなくちゃ」とそれなりに勤めた会社をあっさりと辞めてしまったのだった。

今考えると馬鹿らしいけれど、「前日の言い争い」は子供が出来たらなんて呼ばせるかの意見の相違による争いだった。

つまり、僕は「お父さん・お母さん」、真莉愛は「パパ・ママ」で一歩も譲らぬ、という訳で、僕は次の日まで尾を引いてやしないかと恐れていたのだった。

ようやくおさまった真莉愛は、「ごめん、ごめん」と言いながら立ち上がり、食卓にごはんを並べ始めた。

そして、並び終え彼女が席に着いて「いただきます」を言う前の瞬間を狙って僕は「話したいことがあるんだけど」と話をもちかけた。

「なに?」

「明日から4日間、金曜日まである女の子を見守って欲しいんだ」

「女の子?」

「うん、小学5年生の女の子。夜の7時56分着の電車を待ってるから、駅の階段の下で待ってるので、君は見守ってくれるだけでいい。・・・出来たら彼女が家に帰るまで何もないことを確認してもらえたら嬉しいんだけど・・・・」

真莉愛は僕を見た。

ロングの艶のある髪、程よい大きさの顔、大きく瞳に輝きを持った彼女に見つめられ、僕はまったく身動きが出来なかった。

一分くらい彼女は僕を見つめていただろうか。

真莉愛は、はあ、と笑みを見せ、軽く頷きながら「いいわよ」と言った。

そして「いただきます」を言って箸を持つ彼女に「なにも聞かないの?」と不思議に思って尋ねると、「だってそーたって不器用なんだもん、嘘もいえないし・・・、でもそこが大好きになった理由なんだけどね」と頬を赤らめた。

そんな彼女に僕は大いに感謝し、大きく手をあわせて「いただきます」を言った。

「あっ、でもその子の名前だけは教えて」

「潮音ちゃんっていうんだ」

僕は温くなった味噌汁に口を付け、あちちっ、と片方の目尻に微かに光る汗を出した。




次の日からの僕はやはり多忙で、予定通り金曜日までは潮音ちゃんに会うことは出来なかった。

帰ってから真莉愛に「どうだった?」と聞くと一言、「心配しないで」と答えるだけだったが、二日目、三日目になると「あの子可愛いわね」とか「娘だったら潮音にしようかしら」とか「思い切って話しかけたら、嬉しそうに話しはじめてあの子の家まで話しながらついて行ってしまった」とか嬉しそうにする真莉愛の顔が見られるようになった。

そして最終日の4日目には、悲しそうに「もうあの子には会えないのよねぇ」と残念がり、この世の終わりのような顔をしているものだから「明日やっと俺が時間にいけるけど、真莉愛もくる?」と誘うと「いいわ、22日でしょ、あの子のママの誕生日に行くのはなんだか妬ける」なんて有様だった。



6月22日の土曜日の朝は晴れ渡り、普段は憂鬱な土曜出勤なのだけれど、爽快な気分で出かけることができ、仕事も普段でもないようなスピードで仕上げることが出来た。

あんまり早く帰れることになったものだから、田舎の都会を何気なく歩き回って時間を潰し、そうかと気が付き駅ビル内のケーキ屋で苺ショートケーキを買い、時間通り帰りの、というより潮音ちゃんの待つ駅へ行く列車に乗った。

列車の中、超大きなカットバンはもう必要なかったが、もう一度眉間のやや上辺りに貼った。

たった一駅なのに時間が限りなく遅く感じた。土曜日、乗客もそれほどではなかった。

早く、早く、潮音ちゃんの悔いのない笑顔がみたい。

19時56分。

僕はホームに降り立ち、足早に上りの階段をのぼり、改札を通り、通路を急ぎ誰よりも先に下りの階段を駆け下りて、半分まで行ったところで止まった。

潮音ちゃんだ、それに・・・隣には真莉愛?

真莉愛は潮音ちゃんの肩に手を乗せ、少し屈みながら潮音ちゃんの耳に何か囁いている。
僕が、また降りて行き、最後の一段目になったとき、潮音ちゃんは僕のもとに駆け寄って来て強い力で抱きついた。

「おかえり、・・カットバンのパパ」

「ただいま、潮音」

潮音ちゃんを送りだしてくれた真莉愛が幸せそうな笑顔をおくってくれた。

後から来た帰宅者どもがあからさまに迷惑そうにして通り過ぎていったが、僕は壊さないでくれと思った。

・・・・壊さないでくれ。本当に短い、ともすると本当はすれ違うだけの関係だ。

でもどうか今だけはお願いです。壊さないでください。

僕は願った。





少しだけベンチで話して、真莉愛と僕は潮音ちゃんを送って行った。

彼女の家の前で別れる前に、僕は持っていた白く小さな箱を渡した。

「ママの誕生日。潮音ちゃんとおばあちゃんと、勿論ママにね」

潮音ちゃんは「それ」をありがとうと嬉しそうに受け取り、少し恥ずかしそうに顔をあげた。

「ねえ、真莉愛ちゃんとそーたさん、ママとパパって呼んでいい?」

「それは出来ないな。離れちゃったけど本当のパパとママはいるよ。・・・だから、お父さんとお母さんにしてもらえないかな?」

真莉愛が「そうしてあげて」とお願いすると、潮音ちゃんは「うん」と笑顔で答えてくれた。


潮音ちゃんと別れて僕たちは、帰途につきながら周りに何もないところで吹いた夜風が意外に冷たいのに驚いた。

「もうあと何日かで7月になるというのにね」

「そうね」

「あーあ。子供はやっぱり娘だな」

「大丈夫よきっと。きっとそうなる。・・・でも寒い時期だな、いや春だな」

「春って、なにそれ」

「医者行った。できたんだろうねぇ、きっと」

さらりと真莉愛は言ってのけた。

僕はあわてふためき、なにを言っていいのか分からなかった。

「うんうん、そうだね、そうだよね、そうに違いない」

僕のまったく意味のわからない言葉に、

「まどろっこしいなあ、何を言いたいのよ」

真莉愛がキッと僕を睨んだ。

困った僕は最低でも言わなきゃならない言葉を思い出し、

「・・・・ありがとう」と言った。

「そうだね、それでいいのよ」

真莉愛は夜空を見上げて、歌でもうたいたい気分、こういうときは何の歌だろうと呟いた。

そしてあたかも、あっ!と急に思い出したように空をみあげたまま、こう言った。

「いい日に籍をいれなきゃね、子供のほうが先になっちゃったけどさ」

それは僕のほうが先に言わなければならない言葉だ。

結婚すれば、きっと僕は真莉愛に頭があがらなくなり、きっと生まれてくる子供はパパ・ママと僕らを呼ぶことになるのだろうなぁ。

ガタン、ゴトンと夜風に流されて列車が線路を走る音が聞こえた。

次の年に生まれてくる我が子に想いを馳せながら、潮音ちゃんとは、きっと、もう、会うことはないだろうなと思った。





                                了










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投稿小説

2018-01-06 | 小説
この小説は以前このブログに載せていたものです。

途中で読者の感触がよく意を決して、電撃大賞という賞に初めての投稿をしました。

結果は1~4次までのうち、3次落ちです。
まあ、長・短編あわせて5000超のうち(短編のみの総数は分かりませんが)短編32作品の中に選ばれたので初投稿にしてはまずまずかなとは思います。
それに読んでみると分かりますが、文章は平易で(難しい文章は書けない)さりとて物語性もない小説なので、実際どういう系統に投稿していいのかが分かりませんでした。
それで、1次から4次まで全ての作品をその都度読んで審査してくれるという言葉につられて電撃大賞に投稿したのですが、ここはどちらかというと若者専門、だめもとで出したのでよくそこまで残ったなぁというのが素直な感想です。(さりとて悔しい思いも実はあります)

今回またここに載せたのは、何故なのか自分でもよく分かりません。
感想を聞きたい?
いや、どちらかというと記録に残しておきたいという思いが強いような気がします。

この小説は短編とはいえ、読むにはそれなりの時間をとられることと上記のことを承知の上で読んでくださればと思っています。
もしそれでも読んでくだされたならこんな嬉しいことはありません。
よろしくお願いいたします。



                                                         からく






   セピア色の記憶
                       からく





 もうこれが最後だと思っていた。文則はそれまで集金した金の流れを記録したB6サイズのノートを眺めながら、未だだと言った。光輝がもう三千円にはなるはずだ、と反論すると、うるせえ、未だなんだよと文則は、語気を荒げ、光輝を睨んだ。
「もう、十回以上はお前に渡したはずだ」
「いいや、九回だ、それに三千円には程遠い、今回のと合わせて千八百円だ」
 文則の答えは嘘だと分かっていた。それが本当だとすると、光輝は二百円ずつしか払っていないことになる。一回に支払った金の殆どが、三百円で、光輝はもう十数回も彼に小銭を渡している。千八百円ぽっちであるはずがなかった。
「もう、限界だ。親にばれそうなんだよ」
 光輝がそう言うと彼は、暴力的な目を向け、俺に逆らうのかと、ノートを閉じた。
 二人は文則の家の裏庭にいた。裏庭は草が鬱蒼と生い茂っていて、光輝の膝位まであった。光輝が背中を預けている家の壁には、二つの窓があり、どうやら一つが風呂の窓で、もう一つが便所の窓らしかった。どちらも、人の気配がしない。誰か来てくれと、頭の中で拝んでいたが誰も来る様子はなかった。文則は一人っ子であり、両親は共働きで帰ってくるのが遅いといつか言っていた。誰もいないのか、と光輝は諦めた。
「それなら、後三回だ」
 文則は、渋っている光輝に対して業を煮やし、懐柔策に出た。
「百円ずつでいいんだ、あと三回で許してやる」
「本当に?」
「ああ、本当だ。百円ずつなら、分らねえだろ?百円位なら、お前のお袋も何かに遣ったんだろう位にしか思わねえだろうからさ、お前も助かるってもんだ」
 何が助かるだよ、と言ってやりたかったが相手は身長百八十は裕にある巨体だ。逆らって、勝てる相手ではなかった。
「本当だな?じゃあ、後三百円だ。でも、約束は果たせよ」
「ああ分かったよ、俺は言った事は守る主義だ、安心してくれ」
 文則はそう胸を張ると、さっさとその場所から離れ、お前も早く帰れよ、クラスの連中に会うとまたやっかいだぜ、と言い、家に入っていった。
 帰り道、光輝は走って帰った。文則が言ったようにクラスの誰にも会わない必要があった。
取り分けあのグループには・・・・。
 
 光輝がイジメられるようになったのは、小学校の高学年からだった。きっかけは「風呂」だ。
当時、昭和四十年代の後半、光輝はK町の端にある公営団地に住んでいた。家族は両親に祖父、上に姉がいて、光輝を加えての五人家族だった。団地の部屋は六畳二間に四畳半と台所と、それなりの間取りであったが、如何せん風呂がなく、光輝たち家族は週三回、近くの銭湯に行くことを余儀なくされていた。
ある時、友達の一人が風呂に毎日入っていると聞いて、驚いた。驚いたのは、風呂というものは、一日置きに入るものと思っていたからだ。えっ、と言いながら、俺の家は一日置きだよ、と答えるとそこに居た級友達はみな声を揃えて、汚ねー、と言い、囃し立てた。 
当時の田舎は農家が多く、持ち家であることは当然のことだった。それに再開発が進み、新興住宅がぞくぞくと建てられていた時期で、そういった家には当然内風呂が存在し、彼らは毎日風呂に入れる恩恵に与っていたのだ。
そんな環境の中、「週三」の光輝は疎外されない訳がなかった。
級友達のイジメは辛辣だった。光輝の机に落書きをするのは当り前で、集団でトイレの個室に光輝を閉じ込め、上から水を浴びせ掛けたり、衆人の前で光輝のずぼんをパンツごと引き摺り下ろしたり、終いには光輝が何を言っても答えず、無視し、たまに答えても光輝の前で手を合わせて(ご愁傷様です)と言い、光輝を亡き者にしたりと、どう考えても光輝を人間扱いしているように思えなかった。
小五の時は何とか踏ん張ったが、小六になり、事態が収まりそうもないことが分かると、光輝は次第に精神的に病むようになった。光輝は両親に具合が悪いと、ことあるごとに告げ、学校を休み、数々の病院を回った。医者は何れも原因不明とし、思春期の始まりには良くあることですよ、と答えた。本当はイジメが辛いんだよ、と光輝は言いたかったが、決して、光輝からそれを、口にすることはなかった。疲れ果て、精神は消耗し切っていたが、頑固なプライドだけは未だ残っていた。小六の一年間、光輝は殆ど学校に出席出来ず、それでもなんとか卒業することが出来た。
中学に入学してからの光輝は、しばらくの間、平穏な日々を過ごしていた。中学は町内の各小学校からの寄せ集めで、クラスは効率よく分けられていた。光輝は同じクラスの中に、イジメっ子達がいないことを確認すると、ほっとした。一学期の間は至って平和で、ああこんな日が来るとはな、とつくづく感じた。
事態が暗転したのは、中一の夏休み後だった。クラスの男子生徒の一人、横山が、お前小学校殆ど行ってないんだってな、と騒ぎ出したのだ。彼はクラスのリーダー格で、影響力を持ち合わせ、皆それを聞くと光輝を見る目が変わってきた。そして二、三日もすると、光輝を汚いものをみるような目で見、無視し始め、リーダー格の横山は、何人かの生徒を引き連れて光輝を囲み、玩具を手に入れたとばかりに弄んだ。新しいイジメの始まりだった。
中学でのイジメは、どれも小学校の時に経験済みのことで、それなりに我慢することは出来た。どれくらい我慢すれば、最小限の被害で済むのか経験値で分かっていたが、光輝は、もう我慢するのは真っ平だった。これからの中学生活をまるで、甲羅を背負った亀のように過ごさなければならないなんてそんな辛いことはない。それでこの状況を打開しようと頭を巡らし、結論に至ったのが「文則と友人になること」だった。

文則は、孤高の存在だった。中一にして百八十を超える長身で、いつも目をぎらつかせ、横山も迂闊に手を出せなかった。彼は何故か私立のエスカレーター式の小学校から公立の中学に入学してきていて、彼についての情報は誰も持ち合わせてはいなかった。そのせいか、彼に纏わる色々な噂、大きな暴力事件を起こして、小六の殆どを少年院で過ごしていたとか、半殺しにされた相手はもう少しで死ぬところだったとかは、半ば伝説化していて、話の真偽はともかく、何者ともいえない恐れから、彼に話しかけるものは誰もいなかった。
光輝はそんな彼と友人となることで、横山にイジメられる、という環境から脱却しようと考えたのだ。
「文則君一寸いいかな?」
 光輝が文則にやっとの思いで、そう話しかけることが出来たのは、放課後二人きりになった時だった。光輝は文則が、いつも放課後最後まで、教室に残っていることを知っていて、チャンスを窺がっていたのだ。恐怖心から、話しかける前にかなりの緊張を強いられ、胸の中に大きな鉛の玉を抱えたように苦しかったが、勇気を振り絞って話しかけてみると、意外にすんなり言葉を発することが出来た。
 文則は、じろりと光輝をみたが、何だおまえかという顔をして、つまらなそうに光輝から視線を外した。光輝は構わず彼に話しかけようと、話の糸口を探った。
「俺は今イジメられている」
 光輝は言った。
 すると彼は今更何を言い出すのかという顔をして、「だから?」と呟いた。
「俺を助けて欲しいんだ」
「助ける?」
「友人になってくれればいい」
「俺がお前の?はは、笑わせるじゃねえか」
「笑い事じゃなく、本気なんだ、君が俺の友人になってくれれば、横山達は一切俺に手を出せなくなる」
「俺には全く関係のないことだ、おまえが何されようとな」
 文則のつれない返事に、それでも光輝は諦め切れず、
「何でもする、何でもするから、頼むから友達になってほしい」
 と言った。
「何でもするのか?」
「ああ、嘘は言わない」
文則は何かを考えているようだった。腕を組み、光輝を凝視していたが、視線は光輝の身体を射抜き、後ろの壁にまで到達していた。
「・・・五千円」と文則は呟いた。
「もし、五千円俺にくれるのなら、クラスが一緒の間は、いつもお前の傍にいてやる」
 そう言われて少し驚いたが、考えてみれば、彼と光輝とを結び付けるにはそういったものが必要なのは当り前だ。
「五千円で本当にいいのか?」
「ああ、無理なら別に構わない。この話はなかったことになる」
「分かったよ、五千円用意する」
当時の光輝は月に二千円の小遣いをもらっていた。事情を話し、残りの三千円はあとでもいいかと文則に訊くと、「分割払いにしてやる。ただし、一ヶ月以内だ。金が五千円に達するまでは、俺はお前を守らない」と言った。
 光輝は承諾し、それから毎日のように母親の財布から少しずつ小銭を抜き取る羽目になった。



        2

 ブラスチックで出来たぺこちゃんの貯金箱を手にすると、光輝は底に嵌められた半透明の丸い蓋をそっと外し、貯金箱を軽く振った。すると、開けられた小さな穴から、小銭と小さく折り畳められている紙幣が何枚か、じゃらじゃらと机上に滑り落ちてきて、光輝はその中から百円玉三枚だけをを手にし、残りは元に戻した。 
 四畳半の部屋は、光輝と姉の小夜子との共同の勉強部屋で、窓側に机が二つ縦に、合わさるようにして並べられていた。姉の机上の本立てには、大学入試の問題集が何冊も立てかけてあり、ぺこちゃんの貯金箱はいつもその前に置かれていた。
 姉が今にも帰ってきそうな気がして、光輝は、目的を果たすと、蓋を嵌め、注意深くぺこちゃんを元通りの場所に置き、ごめんなさいと手を合わせた。この貯金箱は、姉が中学生の時から、大学受験の費用の足しになるようにと、少ない小遣いから少しずつ貯めてきたものなのだ。
 それまで光輝は、母親の財布から小銭を抜いて来た。最初は気づいていないようだったが、何度もやる内に、さすがに何かおかしいと感ずいたのだろう、母は光輝の行動を監視するようになった。光輝はこれ以上母の財布から金を抜き取ることは出来ないと判断し、姉の貯金箱から、しばらくの間借りることにした。
ペコちゃんに謝った後、光輝は自分の机の椅子に座り、机の一番上の引き出しを引いて小銭を仕舞った。明日にでも文則に全て払ってしまおう、そう思い、光輝は勉強部屋から出て行った。


その日の晩飯後、食卓のテーブルを挟んで姉と父は対峙していた。
「そんな話は聞いていない!」
 父は怒りを含んだ声を上げた。
「でも私決めたのよ」
 姉は負けずに応酬した。
 父と姉がこのように喧嘩するのを見るのは初めてのことだった。小さい頃から姉は、父に特別な存在として扱われ、育ってきた。怒るなんてもっての外で、かわいい、かわいいとお金が無いにもかかわらず、姉の望むものは何でも買ってやっていた。小さな頃光輝が何か物を強請ると、父は決まって、お前は男だからと言い、光輝は我慢させられた。アルバム一つにしても、姉は六冊を数え、光輝は一冊しかなかった。彼女は事あるごとに、父に写真を撮ってもらい、育ってきた経歴を残してきたのだ。一度母に、自分は父の子じゃないんじゃないかと訊いてみたことがあったが、母は、ばかねえ、そんなこと言うんじゃないよと言い、笑っていた。
 さすがに成長してくると、姉は自我が芽生え、物を強請ることもなくなり、貯金をするようにもなったが、父親にとっての姉は、愛おしい何者にも変えがたいものに変わりがなかった。
 そんな父が、本気で姉に怒りの目を向けている。その時光輝は、同じ部屋の隅にいて、事の成り行きに、少しの不安と少しの期待を抱いていた。
「ともかく、私は東京の大学を受験するわ、それは中学校から決めていたことだし、変わることはないのよ」
「・・・・東京ってお前、地元の大学に進むんじゃないのか?」
「私はここを出て行きたいのよ」
「出て行きたいだと?ここの何が不満なんだ」
「不満は、無いわ。でもここに居たら私、駄目になるわ、きっと」
「ふざけんな!」
 父は顔を真っ赤にして、握った拳をぶるぶると震わせていた。それを見た光輝はまるで、仁王様のようだと思った。
「東京に行くにしてもだ、学費や生活費はどうするんだ?東京に行くというなら、俺はびた一文として、出すつもりはないぞ」
「そう言うと思って、奨学金の手続きをしたわ、それにバイトをすれば何とかなると思うの」
「・・・勝手にしろ!」
 なんだ、結局父さんおれてるんじゃないか、と光輝は、がっかりした。姉は、それじゃ、私勉強するから、と言ってさっさと四畳半の勉強部屋へと、襖を引き、入っていった。
「誰に育ててもらったと思ってるんだ!」
 父はテーブルをドンと拳で叩き、酒もってこいと、台所にいる母に向かって叫んでいた。

 それから、光輝も勉強部屋へ直行することにした。父が酒を飲みだしたからだ。火の粉がこちらに降懸らないともいえない。父は酒乱ではないが、酒を飲むととたんに人が変わり、傍にいる誰かに、しつこいように絡む癖があった。姉に対する不満を光輝にぶちまけられても困る。光輝は逃げ出すようにして、父を見捨てた。
「なんか用?」
 ノックをして襖を開けると、机を前にした姉は不審者を見つけたような顔つきで光輝を見た。
「俺も、やばいんで、逃げてきたよ」
「そう・・・またお酒?」
「うん」
 光輝が返事をすると、仕方が無いわねという風に姉はふーっと溜息をついた。
「何で東京なの?」
 光輝がそう訊くと、本当はね、と姉は喋り始めた。
「・・・本当は東京じゃなくてもいいのよ。ここ以外のどこか、ならね。親もいない、地元の友達にも会うこともない、人生一度リセットして、一人になって、一人で考えられる場所に住むって理想じゃない?そう思わない?」
 姉の言っていることは、もっともだと思った。光輝も一人になりたいと何度も考えていたからだ。誰にも邪魔されない一人だけの世界、横山のことも、文則のことも考えないで済む世界、光輝も人生一度リセットしてやり直せたらどんなに幸せか、と思っていた。
「・・・そう出来たらいうことない」
「そうね、だからその為に、私はここから出て行くのよ」
姉の言葉には確固たる意志が込められていた。どんなことがあっても、折れることのない太く硬い、意志。それは、どんな過程でつくられたのだろう?そこまで考えた時、姉は、でもね・・、と呟いた。
「何?」
「うん、でも、一つだけ気がかりなことがあるのよ」
「気がかり?」
「光輝、あんたのことが心配なの」
 気づいていたのか、と思った。姉の「心配」という言葉は、まさに光輝がイジメられていることに対して向けられたものだった。
「光輝、あんたイジメられているんでしょう。お母さん、最近あんたが元気ないって言っているのよ」
「そんなことはない」
「いいえ、嘘いってもだめよ、私の目から見ても最近のあんたはおかしい。小学校のころと一緒。目が虚ろで、毎日を生きているのが精一杯って感じだよ」
 小学生のころ、イジメられていたことをいち早く気づいたのが、姉だった。卒業文集に残された、「学校にも来ないのに、迷惑、消えて欲しい」という光輝に対して向けられた級友の一文に、彼女は怒り、これを平然と載せた学校の担任に抗議をしにいった。それは、まるで自分がそうされたかのような怒り方だった。
「姉ちゃん、俺のことは心配しなくてもいいよ。イジメられてはいないし、元気がない訳でもない。・・・そうそう、強いていえば勉強のことかな、ついていくのが大変なんだよ、時間があったら今度教えておくれよ、数学がさ、苦手なんだ」
 姉は、その光輝の言い訳に、小さく、嘘っぱち・・・、と呟いてやがて光輝を無視するように机に向かった。光輝は机の前に腰掛けて、教科書を広げ、勉強するふりをした。机の引き出しの中には、三百円があった。姉ちゃん、ごめん、光輝は心の内で姉に謝り、土下座している自分を想像した。


        3

 上空を見上げると、青い空が広がっていた。
白い太陽は、まだまだ沈む気配はなく、光輝たちの世界の色を明確にしていた。キーンという音の後に、飛行機雲が、暢気に追いかけている。
「何余裕かましてんだよ!」
 何となく上空を見上げていた光輝を見て、苛立ったのか、横山は語気を強めた。横山の他にあと二人いる。佐野と梶原だ。そこは学校の屋上だった。
 放課後、横山ら三人に屋上へ来いと呼ばれた。屋上で何をされるのかは大体分かっていたが、逆らえばその場で、ズボンを引き摺り下ろされるか、プロレスごっと称して殴られるか、ともかく「イジメ」と呼ばれる行為をされることは、明白だった。光輝はなるべく衆人の前で辱めを受けたくなかったので、大人しくついていくことにした。
 横山達は、光輝を連れて屋上に上がると、隅にある大きな浄水タンクの裏まで来て、ズボンのポケットから煙草とマッチを出し、一緒に出したマッチで火を点け、煙草を吸った。 
 彼らが煙草を吸っている間、光輝は他にすることもないので、上空を見ていた。その様子を見て、横山はイラつき、怒声を光輝に浴びせたのだった。
「お前、生意気なんだよ」
 横山は言った。
「死んじまえ」
 とも言った。
 その言葉に、さあ、いよいよ始まるか、と光輝は覚悟し、全身に力を込めた。
「やれ!」
 横山の合図とともに、佐野は後方に回って、光輝を羽交い絞めにし、もう一人の梶原が光輝の前方に立った。
 梶原は、にやりと笑い、舌なめずりをすると、光輝のワイシャツのボタンを一つずつ外していった。そしてボタンを一通り外し終えると、今度は、現れた下着を、光輝の首の辺りまで捲り挙げた。
 光輝が何とかしてすり抜けようと、身体を左右に揺さぶると、
「さあて、楽しいショーの始まりだ」
 横山はそう口にし、火の点いた煙草を手にして、光輝に接近した。
「一度やってみたかった」
横山が残酷な笑みを浮かべた瞬間、脇腹に熱い痛みを感じて、光輝は呻き声を上げた。
 ちりちり、と肉が焼けるときのものなのか、煙草自身が発するものなのか分からない音がした。熱く抉るような痛みが脇腹に走る。光輝は痛みで気を失いそうになった。
 横山は煙草の火を光輝の脇腹に押し付けていた。
 それから何度も横山から同じ行為を受けたが、その都度同じ表情とアクションを繰り返す光輝に飽きたのか、横山は、つまらねえ、と呟き、最後に火を点けたまだ新しい煙草を地面に落とし、踵で踏み潰してしまった。
「それじゃあ、俺にやらせろよ」
 佐野が羽交い絞めにした手を緩めると、光輝は膝から崩れ、そのまま地面に仰向けになった。もうどうなってもよかった。光輝は脇腹を押さえ、やけくそになっている自分に気づき、微かに笑っていた。
「おいこいつ、笑ってやがる」
「気持ち悪いなあ」
「マゾなんじゃねえか、こいつ」
 光輝を見下ろし、横山達は、光輝の身体に軽く蹴りを入れていたが、やがて抵抗もしない光輝の態度に興ざめし、帰るぞ、とその場から去って行った。
 仰向けになったまましばらく空を眺めていると、渡り鳥らしい三角に編隊した大群が北から南の山向こうへと消えていった。
 鳥になりたい、光輝はそう独りごち、すると涙がとめどなく頬を伝い、どうしょうもなくなった。脇腹の痛みは、そこだけ脈打つような重い痛みに変わっていた。
 
 脇腹にじりじりする痛みを抱えながら、土手の道を歩いていた。土手の道は光輝が小学校から慣れ親しんだ道だった。大通りを通って帰る方法もあったのだが、こちらのほうが、学校の行き帰りには近いので、団地に住んでいる殆どの生徒が土手の道を利用していた。  
 片側には大きな川が流れ、もう片側には雑多で背の高い草がこちらに向かってくるように生茂っていた。前日、大量の雨が降ったせいか川の水量は多い。何とはなしに、筏に乗って川を下っていく自分を想像して、少しだけ楽しい気分になった。
帰りに文則の家に寄って、三百円渡そうか迷っていたが、脇腹の痛みが酷く、少し熱を感じた光輝はそのまま家に帰ることに決めた。前方をみると、川を渡す橋が見え、その上を車が何台も、右へ左へと行き交っていた。橋の向こうには山が聳え立ち、茜色の夕日が沈みかけると、山の稜線をくっきりと浮かび上がらせていた。
 そんな景色に、少なからず何かを感じ、足を止めていたら、後ろから誰かに声を掛けられた。後ろを振り向くと、響子ちゃんが立っていて、はあはあ、と息を切らせていた。
「さっきから、声を掛けていたのに、光輝君気づかずに、どんどん行ってしまうんだもの」
「ごめん、気づかなかった」
「何を見ていたの?」
 響子ちゃんの言葉に、あれだよ、と山の方角を指差した。
「ああ、なんて綺麗な茜色・・・」
 響子ちゃんは、顔を紅潮させながら言った。
 響子ちゃんとは、同じ団地に住んでいる間柄だった。棟は違ったが、小学生の頃、登校班が一緒だったこともあり、よく二人で砂埃の立つ土手の道を通いながら、昨日見たテレビの話などをしていたものだ。彼女は優しく、光輝の憧れの人だった。そして彼女は光輝よりも学年がひとつ上で、光輝が六年生になると、一足先に中学生になった。その後、彼女とは接点がなくなったが、今思うと光輝が小学校に行かなくなった理由の一つには彼女がいなくなったこともあったに違いない。
「今、部活の帰りなの?」
「そうよ、陸上部は厳しいのよ、帰宅部くんとはちがうのよ」
「帰宅部って、これでも一応新聞部だぜ、・・・まあ、もっともこれといった活動はしてないけどさ」 
 光輝たちは一緒に歩き始めた。セーラー服の彼女は、地味だけど、何とも言えないほど、魅力的だった。大きな瞳は薄茶色で、髪はみつあみにしていた。清楚という言葉がぴったり当てはまる彼女だった。
「あのね」
「何?」
「まだ、来年のことだけどね、うちね、引っ越すことになったの」
「えっ、・・・そうなんだ」
 唐突な彼女の告白に、光輝は驚きを禁じえなかった。
「そ、それで何処に引っ越すの?」
「Y市に引っ越すのよ。今、家を新築しているの。完成予定が二月の予定かな。だから、今の中学とも、来年の三月で、バイバイだね」
「・・・そんな」
 光輝は、大きなショックを受けていた。そして、逆に今日、響子ちゃんに出会わなければよかったと思った。会話を交わしたのは小学校以来で、中学校に入ってからは初めてのことだ。久しぶりに会って話した結果がこれなんて・・・・。恐らく、これが最後の会話になるのだろう。今日はたまたま会えただけで、引越し迄光輝と響子ちゃんは、結局話す機会もなく、彼女は何年か住み、慣れ親しんだ団地を去るのだ。来年には姉も家を出て行くと言っている。そう思うと、なんだか一人取り残されるようで悲しくなった。
「寂しくなるな」
 光輝はそう言うのが精一杯だった。
 それから、響子ちゃんは団地に着くまで、他愛無い話を光輝に向けてきたが、光輝は、はい、とか、うん、だとか言って、適当に答えていた。
「じゃあね、さよなら」
団地の前で二人は別れた。三階建ての団地は古く、夕闇の中で光輝と響子ちゃんをかこんでいる妖怪達の群れのように見えた。光輝は、響子ちゃんが、妖怪達の群れの中に消えていくのを、確認すると、あーあ飲み込まれちまった、と微かに呟き、しばらくの間、そこに立ち尽くしていた。

 家に帰ると、光輝は居間の箪笥の上にある薬箱を下ろした。そして、それから薬箱の蓋を開け、軟膏を取り出す。脇腹は相変わらず、じんとして熱く、痛みがあった。祖父が、六畳の部屋から出てきて、怪訝そうな顔で光輝の方を見ていたので、工作で指切ったんだ、と言って、箪笥から着替えも持ち出し、祖父の前をするりと抜け、姉のいない四畳半の襖を引いた。襖を閉め、部屋に入り、外の様子をうかがったが、誰も来ないと悟り、光輝は自分の机の椅子に腰掛け、ふう、と溜息をついた。それから思い切ってシャツを全部脱ぎ捨て、脇腹の状態を確認した。煙草を押し付けられた跡は四箇所あった。四つとも皮膚を破られた中央に赤い肉片が現われ、周囲は焼け焦げたような盛り上がりを見せている。光輝は、やれやれ、これは跡に残るだろうな、と思い落胆した。下着にも点々と血の跡が付着している。光輝はそれを放りなげ、傷口に軟膏を塗りたくった。
 軟膏を塗って、一息付いたあと、立ち上がり、もう一度血の付いた下着を手に取り、どうしようかと思案した。本当はその日の下着は、台所脇にある青色のかごの中に放り込んでおくのが常だったが、母が洗濯するときに、気づくに違いないなかった。気づけば、母は光輝を問い詰めない訳にはいかない。厄介ごとはごめんだと思い、光輝は机脇の大きい方の引き出しに下着を放り込んだ。誰もいないときに持ち出して、何処かに捨てにいけばいい。一瞬いい考えだと自賛したが、すぐに憂鬱になり、自分の現状を呪った。横山とのこと、文則とのこと、そして今日会った響子ちゃんとのこと、いろんなことが、光輝の頭の中で旋回し、落ちて行く。ざまあねえわな、光輝は呟き、天上を仰ぎ、必死に涙を堪えた。そして、光輝は今日何回泣いただろうと、恥じ、涙の跡が残らないように注意深く手の甲で拭い、それから着替えを済まし、勉強部屋から出ていった。

 夕飯時に父の姿はなかった。どうしたのかと母に尋ねると、父さんは管理職だから大変なのよ、と仕方なさそうな顔をした。姉は無言で食事を済ませ、母が何かを言いたそうにしているのを尻目に、さっさと勉強部屋へと消えていった。それから光輝が、祖父の六畳の部屋へと入り、祖父が個人的に購入したサンヨーのパーソナルテレビのスイッチを点け、水戸黄門を見ていると、祖父が後から入って来た。
「水戸光圀か・・」
 光輝の隣に座ると祖父は何とはなしに呟いた。
 テレビでは、助さんと格さんが悪代官の手下を相手に立ち回りを繰り広げている最中だった。
「光圀が各地を漫遊したのは、物語の中だけの話なんだ」
 祖父は言った。
「えっ、そうなの?」
 光輝が、そう返事を返すと、祖父は得意げな顔をして、話し始めた。
「光圀が名君だったのは本当のことだが、実際は江戸と鎌倉にしか行ったことがないんだよ。物語の元になったのは、当時の人気戯作者の十返舎一九の(東海道中膝栗毛)らしいな。それを参考にして講談師が(水戸黄門漫遊記)なるものを創作したということだ」
 祖父がそう話しているのに、胡坐をかき、うんうんと生返事をして、テレビの画面を眺めていた。各さんが葵の御紋の入った印籠を出し、お決まりの、この紋所が目にはいらぬか、と悪者を平伏させていた。この瞬間光輝の中にも、妙な優越感が生まれた。光輝が印籠を出し、横山達が、光輝に平伏す姿を想像して、痛快な気分になった。それから畳の上に後ろ手をつき、体勢を少し斜めに捻った。すると脇腹に引きつるような痛みが走った。いててと思わず口に出すと、祖父がこちらを見ているのが分かった。
「どこか、怪我してるのか?お前・・・」
「いいや、ちょっと体勢を崩して腰を捻っただけさ」
「それにしても、辛そうな顔をしているぞ」
「何でもない、・・何でもないよ」
 光輝が、そういうと祖父は、何でもないねえと訝りながらも、それ以上、何も言ってはこなかった。
テレビに目をやると黄門様が、カッカッカーと笑っている。
 明日だ。明日で光輝は「文則」という印籠を手にすることになり、横山達は実際に光輝に対して平伏すことになる。光輝は彼らが、光輝に土下座している姿を想像して、微かに笑った。
 



        4

 ねえ、光輝、光輝ったら・・・。
 光輝が朝歯磨きをしていると、姉の小夜子がそう言って、便所脇の小さな洗面所に飛び込んできた。何騒いでるんだ、と驚いた顔をして、姉の方を見ると何やら事件が勃発したらしい。光輝が、なんだい、と勤めて冷静に訊くと、いつから、あんたらそんな仲になったのよ、と光輝を問い詰めた。
「そんな仲って?」
「だから響子ちゃんよ、響子ちゃん、あんたを迎えに来てるのよ」
「えっ?」
「だ・か・ら、今、玄関口に居るのよ」
 姉は目を丸くしながら、息急き切って言った。
 光輝は、一瞬、その意味が分からず、しばらく姉の言った言葉を反芻していたが、やがて事の重大さに気づき、慌てた。響子ちゃんが来てるって?何故?ともかく光輝は、待たせてはいけないと歯磨きもそこそこに、急いで制服に着替え、ショルダーの鞄を肩に掛け、玄関口に出た。
 響子ちゃんは、少し俯き加減にお早う、と光輝に言い、それから紅潮した顔を上げると一緒に学校に行かない?と光輝を誘った。どうやら姉と光輝の会話は筒抜けだったようだ。
「じゃあ、俺もう出かけるから」
 光輝が奥にいるはずの母に向かって叫ぶと、姉がしゃしゃり出て来て、いってらっしゃい、お元気で、と訳の分からない言葉を投げかけ、光輝たちを見送った。
 光輝たちは、小学校の時、そうであったように、並んで歩いていった。朝の空気は冷たく、時折頬を削り取るような激しい突風が吹いた。土手に差し掛かるまで、光輝たちはお互いに沈黙を守っていた。  
 光輝と響子ちゃんがこうやって一緒に歩くのは、あの日以来二ヶ月ぶりのことだった。
「迷惑だったかな?」
 土手の道を歩きながら響子ちゃんは言った。
「いいや、そんなことはない」
「よかった・・・」
 響子ちゃんは呟いた。
「朝、こうやって登校するのも小学校以来だね」
「そういえば、そうかあ」
 響子ちゃんは、そこで初めて気がついたように、言った。
「それで、今日はどうして?」
「ほんとは、前に話しておくべきだったのだけれど・・・お願いがあるのよ」
「お願い?」
「そう、お願い・・」
「お願いってなに?」
「うん、もう少し、もう少し歩けば分かるわ」
 光輝たちは砂埃の舞う土手道を渡りきり、学校へ向かうのとは違う道の角を曲がった。光輝が学校はこっちだよ、と学校の方向を指差していると、彼女は少し寄り道するの、と空き地が点在する方角に光輝を誘い、ここよと行き止まりになった先の空き地に入っていった。空き地は草木も枯れ、中央に大きな土管が何本か積まれていた。響子ちゃんは、そこまで来ると、中腰になり、その中の一本の土管の穴を覗き込み、両手を穴の中に差し伸べ、やがて、小さな猫を抱き上げた。
 光輝が近づいても、猫はぴくりとも動かず、気持ち良さそうに響子ちゃんの胸に抱かれていた。典型的な茶色の縞々のある猫で、近くで見ると、肋骨が心なしか、浮いているような気がした。抱いてみる?と、響子ちゃんに訊かれ、彼女から手渡しで渡され、抱いてみると、猫はミャーンと一鳴きして、光輝をその大きな瞳で一瞥し、光輝の腕の中で丸くなった。
「この猫、名前は?」
「メスだから、ミーコ」
「ここにいたの?」
「そう、ここで半年前に見つけたの。夕方ね、部活の帰りにね、どこからか、猫の声がすると思って、偶然ここまできてみたら、彼女が顔をだしていたの・・・この穴から・・・」
 光輝は再度ミーコと呼ばれるその猫を観察してみた。所々毛が禿げている、栄養不良のためか、子猫と見間違うほど、小さい、それから、彼女の後ろ足、右足だが、妙に不自然に内側に湾曲していた。
 光輝がそれをしげしげと眺めていることに気づき、響子ちゃんは、
「車に撥ねられたみたいね、骨が折れてそのままにしていたから、不自然に曲がっちゃったのかしら。彼女はその為、行動範囲が狭まってしまっているの」
 と言った。
 ああ、それでね、と光輝が理解すると、ミーコはまた光輝を見つめて、ミャーと鳴いた。
「それで、ミーコを俺に任せたいってこと?」
 光輝は先回りした。
「そうしてもらえたら、嬉しいんだけど・・。私は、年が変われば直に引っ越さなければならない。連れて行ければいいのだけれど、母にそれとなく相談したら、反対されたわ。このコは足のせいで、自分の食料さえも確保できないの。私がいなくなった後、餌だけでも与えてもらえればそれでいいのよ。ねえ、お願い出来るかな」
 彼女は顔の前で手を合わせ、まるで後がないといったように懇願した。
 響子ちゃんの申し出に光輝は戸惑った。光輝に猫を世話する甲斐性があるとは、到底思えなかった。かといって、響子ちゃんの必死の願いを、無闇に断る勇気はなかった。光輝は、何かいい解決策はないかと、逡巡した。
「駄目よね、当り前だわ、光輝君、優しいから、もしかして、って思ったの。ごめんね、悩ませたりして」
 響子ちゃんは光輝が逡巡している様子をみて、そう言った。
「待って、・・結局はミーコを世話する人が現われればいいんだよね」
「それは、私も友達に当たってみたの・・・でも、ミーコの足のこともあって、誰も見向きもしなかったの」
「ともかく、俺が何とかしてみるよ」
 光輝は笑いながら、あいつなら、と思っていた。あいつならきっと、ミーコを喜んで引き受けてくれるに違いない。
 光輝は響子ちゃんに、心配しないで、何とかなるからと言った。
 突風が幾つかの小さなつむじ風をつくり、枯葉を舞い上がらせていた。
光輝はもう冬なんだなと、片手でミーコを抱き、もう一方の手を制服のポケットに突っ込んだ。

 
「俺に猫を引き取れだと!」
 文則は、大きな声を教室内に響き渡らせた。
 横山達は、その声に驚き、忌々しげにこちらを見ている。
 光輝は文則を、二ヶ月前に「友達」として雇い、それから何時も行動を共にするようになった。金で「友達」を雇うなどと不純な行為ではあったが、彼と行動を共にすると、横山達は面白いように光輝から手を引き、この二ヶ月の間、光輝は「イジメ」とは無縁の日々を送っていた。彼らにとって、文則は恐怖の対象なのだ。
 偽りの友達から始めた付き合いだったが、二ヶ月付き合う内に、光輝は文則の意外な側面を見ることになった。カレーライスとラーメンに目がないこと、お人好しな一面があり、一人が決して好きな訳ではなく、本当は人一倍の寂しがりやであること、そして動物が大好きで、無類の猫好きであること。光輝は二ヶ月前、初めて彼の家に招き入れてもらったときの事を思い出していた。

「さあ、入れよ」
 文則は恥ずかしそうに俯いて、自分の家に入るように、光輝を促した。
「いいのか?」
「いいっていってるじゃねえか、それに誰もいねえよ」
「分かった、じゃあ、お邪魔します」
 上がり框に足を掛けると、猫が一匹寄って来て、光輝の足に纏わりついてきた。
 光輝が、吃驚して見ていると、文則は、猫が好きなんだとその猫を抱きかかえ、光輝を二階へと案内した。
 猫は、二階の文則の部屋にも何匹かたむろし、光輝たちの周りを行ったり来たりしていた。その内、文則が餌だぞとキャットフードを何皿かに分けて出すと、猫たちは一斉に飛びつき、がつがつと旨そうに食べ始めた。そして、その猫たちの様子を眺めている光輝に対して文則は、お前の五千円、こいつらの餌代で消えちまった、と嬉しそうに笑った。
 その笑顔を見た時から光輝は、文則を少し見直すようになった。彼は悪ぶってはいたが、本当は、心根の優しい人間なんだなと思った。五千円を奪われた相手を何故、そう思えたのかは分からない。ただ、屈託のない彼の笑顔は何の混じりけのないものに思えたのだ。
 

「で、その猫は何処にいるんだ」
 文則は、話にのってきた。
「三丁目の空き地だ、そこの土管の中にいる」
「土管の中?それはまた酔狂なところにいるんだな」
「後ろ足が不自由なんだよ、その足のせいで、そいつは、動ける範囲が知れているんだ」
「一度、俺をそこへ連れてけよ、引き取るのは可能だが、その前に見ておきたい」
「分かった。今まで、世話してた人がいるんで、その人立会いでいいかい?」
「そいつは何処の誰なんだ?」
「女性だ。俺と同じ団地に住んでる一年上の先輩だ」
 女か・・・、そいつはおまえのこれなのか?と文則は小指を立てるまねをした。光輝が、違う違う、同じ団地に住んでいるだけだと言うと、文則はそうだよな、根暗のお前に彼女なんてできるはずがねえ、と大きく笑った。
 光輝は、こいつってこんな楽しそうに笑うような奴だっけ?と思ったが、まあいいや、ともかく彼女に急いで知らせなきゃと、昼休みに文則を連れて二年生の教室に響子ちゃんを訪ねていった。
 響子ちゃんは、文則を前にして、余りの威圧感に一瞬たじろいだが、オッス、自分文則って言いますよろしくッス、と何時にもなく硬く挨拶する文則に好感を持ったのか、相好を崩し、じゃあ、放課後校門前で待っててね、と約束をしてくれた。教室へ戻る道すがら、文則は彼女は天使だ、運命の出会いだと逆上せ上がり、光輝はまあまあと宥めるのに苦労した。
 放課後になり、さっそく光輝たち三人は空き地へと向かって行った。
 土管の前まで来て、文則が猫は何処に居るんだと訊いてきたので、そこだと中央の土管を指差すと、彼は大きな身体をこれでもかという位に屈めて、土管の中に手を伸ばし、猫のミーコを抱き上げた。それからしばらく、彼はミーコの様子を観察し、何やら反応を確かめ終えると、これは、まずいな、と呟いた。
「何がまずいのかしら?」
 響子ちゃんが訊ねると、
「こいつ、目が見えてないんだ」
 と文則は返答した。
 まさか目まで見えないと思っていなかった光輝たちは、驚きを隠しきれなかった。
「事故のせいかしら」
「分からねえ、ほら、こうやって人差指を左右に振っても何の反応もないんだ。こいつが目が不自由な証拠さ」
「じゃあ、引き取ってもらえない?」
「いいや、逆にこいつは、足も悪いし、然る場所で誰かに世話してもらわないと生きられねえ。あんたが餌をやっていたにしろ、よくまあ、こんな土管の中で生き続けていられたもんだ」
「それじゃあ・・・」
「うん、俺が面倒みるよ」
 文則がそう答えると、響子ちゃんは、安堵し、良かったと笑顔を見せ、その瞳は少し潤んでいるように見えた。
 光輝が文則に、男だねえ、というと、当たりめえだろうと文則は返してきた。
 そして、ミーコはというと、文則の大きな身体に抱かれてとても気持ちよさそうにしていた。
 ミーコはこうして文則の飼い猫の一員として迎えられたのだった。


        5

 ミャーン・・・。
 猫のミーコが不自由そうに、ひょこひょこと近づき、胡坐をかいた中央の空間に滑り込もうとしていたので、光輝は彼女をそっと両手で抱えて、その空間に置いた。居場所を確保した彼女の大きな目はこちらの方を向いている。彼女の目は、こちらをじっと見つめているようにも思え、人差指を彼女の目の前で左右に振って見せたが、反応をみせないので、やはり見えないのかと、光輝は溜息をついた。
 文則の部屋は、散らかっていた。脱ぎっぱなしの服や靴下、読んだまま放り出してある漫画雑誌、炬燵の上に転がっているカップヌードルの殻、ジュースの空き缶、そして、我が物顔であちこち行き来している猫たちはジュース缶を倒したりしている。どうしたらこんな状態になるのか不思議だった。
 光輝が、文則に親は何にも言わないのかと、訊ねると、文則は読んでいた漫画雑誌から、顔をあげ、親、今いないから、と答えた。
「親がいないって、どういうことだ?」
 光輝がそう不思議そうに訊ねると、
「親父もお袋も、この家には一週間に一回しか戻ってこねえよ。俺はいつも一人だ」
 と文則はやけくそ気味に笑った。
「一週間に一回?」
 光輝が理解できないといった顔をしていると、文則は、仕方がないといったように話し始めた。
「ああ、別居中っていうのかな、ともかく二人は、一瞬たりとも同じ家で同じ空気を吸ってられないらしくてな、それで出て行っちまって、二人とも自分の(いいひと)の所にいるよ。今じゃ、一週間に一回俺の様子を見に来るだけさ」
「それじゃ、お前一人でこの家に住んでるようなものじゃないか。食事なんかどうしている?お前一人じゃどうにもならんだろう」
「たまに二人から、これでいろんな支払いを済ませなさいって、金をもらっているよ。支払いを済ました残りでパンや弁当を買って、食っている。金はこいつらの餌も買ったりしているから、何時もピーピーだな」
「どちらかについて行くって考えはないのか?」
「俺はどちらの味方もしねえよ、俺は自分の意志でここにいるんだ。もっとも親父もお袋も二人とも、俺を引き取りたくないんで、本当のところは、俺が見捨てられたっていうのが事実だがな」
「そんな・・・」
 光輝は絶句した。これまで、何度か文則の家を訪ねてきたが、そんなことになっていたなんて思いもしなかった。文則はいたって、普通のことのように話していたが、それがどんなに辛いことか・・・。家に帰っても、誰もいない、食事も何もかも自分一人で済ます日々、光輝は一時期一人になりたいと思っていたが、今では一人でいることは辛い、そう思うようになっていた。文則は一人でいることが、苦痛ではないのか?
「だからって、俺を哀れむんじゃないぞ、猫たちもいるし、俺は今の状況が結構気に入ってるんだ」
 文則はそう言うと、漫画雑誌に再び目を戻し、もうこれ以上話さないとばかりに、無口になった。
 

 文則が買出しに行くというので、光輝も帰ることにした。
駅前のスーパーの前で文則と別れて、一人になった。そして一人になると急になんともいえない不安が光輝を襲った。不安は光輝の胸の中で、暗雲となって広がり、光輝の胸を一杯にした。
 文則はこれからも、一人で生活していくのだろうか。でも、いずれは、一人の生活は崩壊する。あんな、一人の生活が何時までも許されるはずがない。そして、きっと彼は父親ではなく、母親の方に引き取られるに違いない。彼のまだ十三歳という年齢を考慮すると、その可能性が高いのだ。母親に引き取られることになった彼は、転校を余儀なくされ、支えを失った光輝や猫達は行き場を失うことになる。最悪だ。けれど・・・・。
 そんなことを考えながら、橋の袂に差し掛かった。ふと土手の下の川原に眼をやると、何人かの人間が、たむろしている。彼らは川原から光輝を目ざとく見つけ、急勾配の土手坂を急いで登りきると、光輝の前に立ち、道を塞いだ。  
横山達だった。
「よお、光輝くんじゃないの、今日は一人かい。ボディガードくんはいないんだ」
 横山達はいやらしい笑みを浮かべていた。
「ボディガード?」
「惚けんじゃねえ!文則のことだよ」
「あいつは別に俺の用心棒じゃないよ。唯の友達だ」
 光輝が構わず、彼らの間をすり抜けようとすると、横山は光輝の肩に手を掛け、待てよ、と言った。
「・・・なあ、お前さあ、文則と仲良くなったからって、いい気になってんじゃないぞ。文則だって、万能じゃないんだ。・・・いいか、文則に言っておけ、俺らはお前の本当の過去を知っているってな。奴を知っている私立中の連中から、聞いたんだ。それを聞いて、俺は笑ったね。噂なんて、当てにならないってさ」
 横山は、薄笑いを浮かべ、光輝の肩から手を外した。そして彼は、光輝の背中を軽くポンと押し、いいよ、今日は行っちまえよ、と言った。
 光輝は彼らから解放され、いくつかの視線を背中に感じながら、逃げるようにして前を歩いた。それから百メートルほど歩いたあと、立ち止まり、後ろを振り返ると、彼らはもうそこにはいなかった。光輝は安堵した。そして、それと同時に光輝は横山が言った言葉が気になり始めていた。文則の過去を知ってると横山は言っていた。噂が当てにならないとも言った。彼らは文則の何を知ったというのだろうか?光輝は一抹の不安を感じながら、再度前を向き、帰路についた。


 次の日の朝は大変なことになっていた。光輝が教室の中に入ると、がやがやと級友達が騒いでおり、何人かが前を指差していた。彼らの視線の先を追ってみると、何やら黒板に大きな文字が書かれている。
(衝撃的事実!文則は、小六の時、自殺未遂を起こしていた!)
 汚く殴り書きしたような文字の羅列だった。
 文則が自殺?一瞬馬鹿なと思ったが、光輝はすぐに黒板消しを手にして、黒板に押し付け、車のウィンカーのように右手を左右に動かし、その卑劣な文字を消していった。
 文字を消し終わり、後ろを睨むと、級友達は、あーあ、消しちまった、という顔をしていたが、すぐに別の事に関心を移していった。 
 教室の隅にいる横山達が、にやついた視線をこちらに向けている。犯人は奴らか、前日のことを思い浮かべ、光輝は直感した。
 当事者である文則の方に視線を向けると、彼は何時ものように腕を組み、首を解すような仕草をしていた。どうやらダメージはなさそうだ。光輝は、ほっと胸を撫で下ろし、自分の席に着いた。
 その日の授業内容はまるで頭の中に入ってこなかった。黒板に書かれていたことが脳裏から離れなかったのだ。文則に自殺の過去がある?振って沸いたようなこの事実に、光輝はこの二ヶ月間の文則との付き合いを照らし合わせていた。光輝には到底信じられなかった。
この二ヶ月間で彼が実は心優しい人物であることは分かっていた。でも、それは彼の心の弱さを示すものではない。彼は一人で居ることも厭わない、強く我慢強い人間なのだ。横山達が、私立中の連中から聞いてきた噂なのだろうが、何かの間違いだと思った。きっと彼に纏わる数々の伝説のように、私立中の連中が事実を捻じ曲げ、面白おかしく横山達に伝えたに違いない、光輝はそう思うことにした。

 放課後、光輝たちは横山達に屋上へと呼ばれた。
使い走りの佐野と梶原が、一緒に会話を交わしている光輝たちに近づき、「横山君が屋上で待っている」と、にやつきながら、囁いてきた。彼らの目には、もう文則に対する怯えの一欠けらも残ってはいなかった。
 二人に導かれるままに、屋上に出た。青い空だな、両手をズボンのポケットに突っ込みながら、文則は呟き、暢気に上空を見上げた。横山は右手を不自然に身体で隠し、浄水タンクの前に立っていた。
「お前には騙されたよ」
 横山の前まで来ると、彼は唐突にそう言った。
「騙された?」
「・・・少年院に行っていたなんて嘘八百じゃねえか」
「俺は、自分でそんなことを言った覚えはねえ。噂が勝手に一人歩きしただけさ」
「・・・まあ、いい。でも、お前が自殺未遂した事実だけは消えないぜ」
 横山は含み笑いをしながら、カランと右手を前に出した。横山は金属バットを手にしていた。
「汚ねえ奴だな、お前・・」
「念には念を入れてな。噂が嘘だとしても、その巨体だ。暴れられると始末に負えねえ」
 横山を中心にして、梶原と佐野が光輝たちを囲んだ。何時の間にか、彼らの手にも金属バットが握られていた。光輝がどうしたものかと逡巡して、文則の方に目を遣ると、彼は、お前は邪魔だ、逃げろ、と耳打ちしてきた。でも、一人じゃ、と光輝が言い掛けると、突然彼は、光輝の後方に居た梶原に飛び掛り、押さえつけた。
「逃げろ!」
 文則は叫び、光輝は反射的に彼の言うままその場から逃げ出した。屋上の出入り口から階段を必死に駆け下りた。階段から廊下を走り、教室の前まで来てから後ろを窺がったが、誰も追いかけてくる様子はなかった。
 それからしばらくの間、光輝は教室の机の椅子に座り、事態の結果を待った。横山達が、文則を叩きのめし、意気揚々と教室に入って来ることも考えられたが、光輝はそこから動くことが出来なかった。光輝は完全に逃げ切ることを拒否した。
「・・・お前、未だいたのか・・・」
 文則が教室にのっそりと姿を現したとき、光輝は安堵し、涙が溢れそうになった。文則の制服は所々、砂埃で汚れ、頭からは流血していた。光輝が、お前大丈夫か、と駆け寄ると、あいつら結構しぶとかったな、と笑い、いたたと額に手をやった。あいつらは?と光輝が訊くと、文則は、半殺しにしてやった、と言い、それから考える仕草をして、まあ、大丈夫だろう、と答えた。光輝は、何が大丈夫なんだと思ったが、それ以上追求するのはやめた。そして、文則に帰るぞ、と言うと、彼は、おう、と返し光輝たち二人は帰路についたのだった。



        6

 まったくあんた達は・・・。
 姉は脱脂綿を消毒液に湿らせ、文則の額の傷口を覗き込むように探ると、乱暴に押し付けた。
 いたた、痛いですよ、お姉さん。文則は大げさに痛がっていたが、裏腹に目尻は明らかに下がり気味で、その状況を楽しんでいるようだった。
 ほら、じゃあ、上着も全部脱いで、ほらほら・・・。
 さすがに、年上の女性に裸を見られるのは恥ずかしいのか、文則は抵抗したが、やがて諦めた。
 文則の上半身には何箇所かの打撲痕が青く残っていた。横山達に金属バットで殴打された痕は、いかに彼が奮闘したかを物語っていた。姉は、まあ、すごい、と大げさに驚き、シップ薬を薬箱から取り出すと、その痕一つ一つに丁寧に貼り付けた。
 さっ、これでよし、服着ていいよ。
 姉は、文則の背中をピシャリと掌で打つと、薬箱を手にさっさと四畳半の部屋から出て行った。
「・・・いい姉ちゃんだな」
 いたたと背中に手をやりながら、文則は言った。
「今日は猫被っている」
「そんなことねえだろう」
「怒るとすごいんだ。それで喧嘩の毎日さ」
「でも、仲良く喧嘩できる相手がいるってのはいいもんだ、・・・俺は一人っ子だからな」
 文則は、遠くを見る目をしていた。光輝は彼のその目を見て、いつか見た茜色の夕日を思い出していた。寂しげで、それでいて、どこか力強いあの夕日、光輝はあの夕日に感動したのだった。
「なあ・・」
「うん?」
「聞かねえのか?」
「何のことだ?」
「・・・・・自殺の事とか」
 彼の突然の問いかけに光輝は少し驚いた。自尊心の強い彼から、そんな言葉が出てくるとは思ってもみなかったからだ。
「お前が、話したかったら、話せばいい。そうじゃなかったら、話す必要がないよ。俺に気兼ねするなんて、お前らしくない」
 光輝はそう言い、文則は、そうかと、呟き、沈黙した。沈黙の時間は長く、時間が光輝の背中に圧し掛かってくるように感じた。そして、長い沈黙の後、彼は静かに、言葉を選ぶように話し始めた。
「・・・あの頃、俺は精神的に参っていたんだ。両親は毎日喧嘩ばかりしていたし、俺はというと、毎日クラスの連中に、無視されていた。きっかけは、俺の身長が馬鹿でかくなっていったことにあるのかな。巨人症っていわれたよ、それまで仲良くしていた友人からな。それから、俺はそいつばかりか、それまで仲良くしていた友人全員に無視されるようになったんだが、意外とそれには耐えることができた。もともと、俺は一人でいることが苦痛ではなかったからだ。一番参ったのは、両親の喧嘩だな。最初は、親父の不倫からはじまったんだ。親父は不倫がお袋にばれ、お袋は、一度は親父を許した。けれど、親父の顔を見ると、彼女はどうしても許せなくなって、ほんの些細なことでも、親父を責めたてて、終いには、大喧嘩さ。それが毎日続き、その内家には俺の居場所がなくなった。・・・・そして居場所をなくした俺は、学校で荒れるようになったんだ。俺を無視した連中全てに、喧嘩を吹っかけ殴るようになっていたな。殴って殴って殴りまくったよ。・・・・或る時血に染まった相手の顔を見て、ふと俺は自分が必要のない人間に思えてきたんだ。一体何だったんだろうな、あの感情は・・・。振り払おうと何度も相手の顔を殴ったが殴れば殴るほどそう思えてしょうがなかった。結局、そいつを殴り倒したあと、駆けつけた教師の手を振り切って、俺は教室の窓に足を掛け、一気に飛び降りたよ。三階からだったから、死んでもおかしくなかった。校舎の近くに植えられた木がクッションになって、助かったんだ。腕も足も全身骨折だらけだったけれど、とりあえずは生きていたんだ。病室には両親とも現われたけど、お互いに、俺がそうなったのは、お前のせいだと俺の前で、罵り合っていた。俺は、それをみて醜いと思ったよ。そして、俺はなんで生きているんだと思った。出来たらもう一度何処かから飛び降りて死んでしまいたいって思ったよ。・・・小学校の六年の時の話さ、もう一年以上も前になる。なあ、光輝よお、俺は生きていてよかったのか?俺は今でも死にたくなるんだ。横山達を殴り倒したあと、何故か空しくなって屋上から飛び降りたらどうなるんだろうって思ったよ。なあ、光輝、俺はお前の何なんだろうな・・・・・」
 文則の告白は、衝撃的なものだった。凡その想像はしていたが、それを遥かに大きく上回る経験を文則はしていた。光輝は、激しい鼓動を感じながら、ゆっくりと、確かに言った。
「文則は俺の親友さ、それ以上でもそれ以下でもないよ」
「本当か?」
「ああ、嘘じゃない」
 光輝がそう言うと、文則は突然目を伏せ、嗚咽した。それこそ今までの不安の一切を吐き出すように。そして、自分が一人ではないということを確認するために。

「じゃ、明日またな」
 文則は母の一緒に夕御飯でもという申し出を、猫たちが待っているからと丁重に断り、帰っていった。
 姉は、文則が帰ったあと、光輝に向けて、あんたたちいいコンビだね、と言った。そうなのかも知れない。光輝は姉のその言葉を否定せずに、あいつは俺の初めての親友だから、と笑った。


        7
 
 駅前も変わったな。
 光輝は、K町駅前に立ち、辺りを見回しながら、昔を懐かしんでいた。

 あれから二十年が経ち、時代は昭和から平成へと移っていた。
 光輝と文則は横山との一件から、よりいっそう親交を深めていき、クラスが別々になってからもそれは変わらなかった。二人は傍から見ても、鬱陶しいほどいつも一緒に行動し、互いが互いを信頼するまでになったのだ。
それが変化したのは中学を卒業してからだった。別々の県立高校に進み、最初の内は行き来をしていたものの、彼の両親が離婚し、母方に引き取られ、K町から比較的近いN市に彼が引っ越していくと、光輝たちは次第に縁遠くなっていった。
親友と思っていた文則と何故、離れていったのかは、彼の置かれた環境が変わったこともあるが、本当は或る一つの理由があった。その理由はいまにして思うと痛恨の極みなのだが、あの時の光輝等にはどうすることもできなかった。ただいえることは、光輝たちは別れるべくして別れ、光輝はその後永遠に彼と会えなくなった。
 高校を卒業すると、光輝は県外の大学の教育学部に進学し、四年間勉学とバイトに励み、教員の免許を取った。教師になることに両親は反対したが、姉だけは、あんたの経験したことが何処かで生きるに違いないと、賛成してくれ、光輝は地元の教員採用試験を受験し、晴れて念願の中学校の教師になることが出来た。
教師になってからは、無我夢中だった。登校拒否やイジメ、家庭内暴力と様々な問題に直面し、その都度最良の選択を迫られ、なんとか解決へと導き、それでも、これで良かったのか?と苦悩し続けた。教師になって十年というもの、光輝は常に神経をすり減らし、こんなはずではなかったと、精神が悲鳴を上げない日はなかった。
そんな時に、偶然響子ちゃんに出会うことになる。
響子ちゃんは教科書販売の会社に勤めていて、たまたま光輝の学校を営業で訪れていたところだった。
「・・光輝くん?」
 そう職員室で声を掛けられた時、光輝は一瞬誰なのか分からなかった。
「・・響子ちゃん?」
「うん、久しぶりだね」
「久しぶりなんてもんじゃない、二十年ぶりなのかな?」
「引越しの時からだから、・・そうね、もうその位になるのかもね」
 響子ちゃんは、相変わらず清楚な空気を纏っていた。目尻に笑い皴が目立つことと髪をショートにしていることを除けば、他はあの頃と変わりがない。光輝が話を続けようとすると、ごめんなさい、今日商談があるの、と急いで自宅の電話番号を書き記したメモを光輝に渡し、電話頂戴ね、とその場から奥にある校長室へと消えていった。
 それから、数日の間、忙しさにかまけて、メモの存在を忘れていた光輝は、たまたま寄ったコンビニでの支払いで財布を出した時、財布のカード入れの間にあるメモを見つけた。
あの時のメモか、と思い至りどうしょうか逡巡したが、次の日が日曜日だということに気づき、ともかく電話を架けてみることにした。電話を架けると、響子ちゃんが直接出た。響子ちゃんは、待っていたのよと言い、明日K町駅前の喫茶店で会って話をしましょうと言った。午前中は用があるからというので、光輝は、それじゃあ、三時にと約束を交わし、電話を切った。  光輝はこれはデートなのだろうか、と思ったが、すぐに彼女はもう人妻なんだろうな、と考え直し、自分の考えの浅はかさを反省した。

次の日になり光輝はK町駅前の喫茶店に向かっていた。
時計を見ると三時にはなっていなかったが、もう響子ちゃんは来ているだろうなと思い、道路を挟んで目の前に見える喫茶店を目指した。
 ドアを開けると、日曜日だというのに、喫茶店の中は閑散としていた。隅に座っていた響子ちゃんは、光輝をすばやく見つけると、ここよ、ここと大きく手を振った。
 光輝が響子ちゃんの前に座ると、ウェイトレスが、注文を受けに来たので、響子ちゃんの前に飲みかけのアイスコーヒーが置いてあるのを見て、同じものを、と注文した。
「・・・ほんとに二十年ぶりね」
 響子ちゃんは懐かしそうに光輝の顔を眺めた。
「君は二十年経っても変わらない」
「すぐには分からなかった癖に」
「いきなりだったからね」
「ほんと、偶然・・。まさか光輝君が学校の先生になっていたなんてね」
「似合わない?」
「いいえ、ただ、私の中では光輝君は、大人しくてほんとに優しい男の子だったから。まさか人前に立つ職業に就くなんて思いもしなかったの」
「二十年経てば、人は変わるんだよ」
「そうね。年月は人を変えるものなのよね。・・・私だって色々あったもの」
 彼女は遠い目をしていた。光輝はそんな彼女を見て、以前こんなシュチエーションに出くわしたことがあるような気がしていた。それは何時のことだったのだろう?光輝は考えたが皆目検討がつかなかった。
「今何処に住んでるの?」
 彼女がそう訊いてきたので、光輝は、A市だよ、あれから俺の家も引っ越したんだ、と答えた。彼女はそれを聞くと、私は一度県外に住んでいたのだけれど、またY市に戻ってきたの、と言った。Y市、ということを聞いて光輝は今光輝が一番気になっていることを訊いてみようと思った。
「・・・・結婚は?」
「一度ね、結婚したわ。二十五の時・・・。それも三年で破局したけどね」
「それは、悪いことを聞いちゃったかな」
「いいえ、そんなことはないわ。私の中ではもうすでに終わったことなんだもの」
「・・・強いんだな」
「そうよ、私は昔から、気の強いお転婆な女の子なのよ」
 女の子、と彼女が言ったところで、光輝は思わず噴出してしまった。こんなに大きな女の子がいるわけがない。彼女は怒った風にして、そうよ、そうよね、私はもうおばさんよね、と言った。
「ごめん、笑ったりして・・・」
「いいのよ、もう私も三十四になるんだもの」
「さっきも言ったけど、君は変わらないよ。年齢よりも、ずっと若くみえる」
「そういってもらえると、少しは救われるかな」
 それから彼女は、少しの間、沈黙した。ウェイトレスが光輝のアイスコーヒーを持って来たので、光輝はストローを使わず、一口、口をつけた。外を眺めると、駅から降りてきたらしい母親とまだ小さな男の子が一緒に歩いていた。男の子は何かを強請っているのか、母親のスカートの端を掴み、必死に訴えていた。響子ちゃんもそれを眺めていて、顔を向き合わせると、微かに笑った。
「・・・・・彼は元気なのかしら?」
 響子ちゃんは突然思い出したとでもいうように、言った。
「彼?」
「ミーコを貰ってくれた、彼。・・確か文則君っていったかしら」
 光輝は当然出るであろうその話題にまったく無防備だった。知らないとでも言って、かわそうかと思ったが、一寸考え、本当のことを言うことに決めた。
「・・・彼は死んだんだ」
「えっ」
「文則は亡くなったんだ、高二の時に・・」
「・・・そんな」
 響子ちゃんは絶句した。

 高校に入って、光輝と文則は段々と、付き合いをやめるようになっていった。彼の環境が変わったのも理由の一つであったが、最大の理由は彼が良からぬ連中と付き合い、暴走族のメンバーの一員になったからだった。彼は土曜日の夜になるたびに、召集をかけられ、暴走を繰り返した。両親の離婚が彼の不良化の根源にあるに違いない。光輝はそんな彼を見かねて、何度もメンバーから抜けることを進言したが、彼は何処吹く風で、光輝のいうことを決して聞こうとしなかった。光輝は、自分の言うことに耳を貸さない文則の態度に腹が立ち、やがて二人は決裂し、光輝は彼を見捨てた。
彼が亡くなったのは、それから一年後だった。抗争相手と派手な喧嘩を繰り広げ、旗持ちだった彼は、何人もの人間に、ターゲットにされ、鉄パイプで何度も、殴りつけられたらしい。病院に運び込まれたときには、もう意識がなかった。彼は無意識の中で、何度も死にたくないと繰り返し、そして死んだのだった。
光輝は同級生から、彼がどのようにして亡くなったのかを知ったが、葬式に行くことも、線香をあげにいくこともしなかった。ただ、ひたすら悲しく、彼のいなくなったこの現実を呪った。そして、俺に出来ることはなかったのだろうか?と何度も繰り返し、後悔した。彼を見捨てるべきではなかった。
それから、光輝は教師になることに決めた。教師になって、彼のような境遇の人間を一人でも無くしたい、そう思った。今、考えるとそれはまったく的外れなことなのだが、その時の光輝は真剣にそう思っていたのだ。
「いなくなっちゃったんだ、彼・・・」
 響子ちゃんはそう言った。
「うん、いなくなっちゃったんだ」
「悲しいね・・・」
「悲しいことだけど・・・もう、昔のことだよ」
「彼がミーコを抱き上げたとき、ああ、この人優しい人なんだって思ったわ」
「奴は、心優しい猫好きの寂しがりやだったな」
 光輝も響子ちゃんもしばらくの間、しんみりと彼のことを思った。あんまり、しんみりとしてしまったので、光輝は故意に話題をかえ、当たり障りのないことをこれでもかという位に彼女に披露した。光輝が教師になった頃のこと、今の生徒や親がいかに扱いづらいかとか、教師同士の軋轢だとか、終いには聞かれてもいないのに、自分が独身で、そろそろ結婚を考えなきゃなとか、ともかく思いつくこと全てを喋り続けた。
やがて、話題も尽き、それじゃ帰ろうかと腰を浮かせかけた時、彼女は、ねえ、あの場所行ってみない?と言った。
「あの場所って?」
「二人でよく歩いた場所」
「・・・・土手の道?」
「そう、久しぶりに歩いて見たいな、光輝君と」
 光輝たちは喫茶店を出て、土手の方へ向かうことにした。地元にいながら、この十年間というもの一度も、土手の道を訪れることもなかった。土手の道はきっと様変わりしているだろうなと思った。
 光輝たちは、駅前から人通りの少ない道に外れ、昔の記憶を辿りながら、土手へと向かった。途中、昔ミーコのいた空き地は何処だったかな、と寄り道してみたが、家が立ち並び、それが何処だったのか、分からなくなっていた。
 それから、また五分ほど歩いて、光輝たちは土手の入り口に辿りついた。
 土手はそれが当然だとばかりに、昔とそれ程変わりなく存在した。変わったことといったら、道が土ではなく、舗装されていたことだ。
「舗装されたんだ」
 響子ちゃんは少し驚いた風にして歩き始めた。
「中学までは毎日この道を歩いたもんだな」光輝も並んで歩く。
「うん、小学校の時は、登校班で、毎日光輝君と歩いたわ」
「テレビの話題ばかりだったな、俺達」
「あの頃はそれが楽しかったのよ」
「そうかな」
「そうよ」
「ねえ」
「何?」
「この川ってこんなだったかな?」
 光輝たちは、土手の階段を降りて、川原から川の流れを観察した。川の水量は昔より、かなり少なく感じ、このままでは干上がってしまうのではないかと思われた。それに空き缶やら、萎んだビニール袋やらごみがちらほら浮いている。
「これじゃ、困ったことになるね」
 響子ちゃんは川を見て心配し、光輝たちは、また土手の上に戻り、道を歩き始めた。
「昔は川も、もっときれいだったな」
「そうね」
「俺、川で泳いだ憶えがあるよ」
「そうなの?それは初耳」
「それ位きれいで豊富な水だったんだ。この川は・・・」
 光輝は川の流れを眺めながら歩き、あの頃のことを思い出していた。横山達がいて、文則もいて、光輝たちは十三歳だった。彼らとの出来事が走馬灯のように回り、光輝の頭の中で去来した。彼らとのことは、今では、懐かしい出来事として過去の産物となりつつある。しかし、それでも、あの頃の光輝にとって、それらのこと一つ一つが大変なことで、光輝は悩み、苦しみ、日々をもがいて生きていたのだ。三十三歳になった光輝は様々なことにもまれ、経験していくうちに昔の辛い出来事を「懐かしい」といえるまでになった。それは光輝が大人になったということなのだろうか?
歩き続け、ふと前の方を目を向けると橋が見えた。橋は相変わらず忙しそうに車が行き交っていた。陽は山に傾き、光輝たちの影を大きく引き伸ばしていた。もう陽が沈む時間か、二人は歩みを止め、その方向を見た。  
「・・・綺麗」
 橋の向こうには南アルプスの山々が聳え立ち、夕日が、茜色に照らし、その山の木々を一本一本までくっきりと浮かび上がらせていた。
「まるで、一枚の絵画のようだ」
 と光輝は言い、響子ちゃんも、そうね、と賛同してくれた。
 夕日はやがて山の向こうに沈み、残った光で夕焼け空をつくった。
「明日は晴れかな」
 光輝の問いに、
「きっと、晴れるわよ」
 響子ちゃんはそう答えた。
それから光輝が彼女の方を見て、一瞬目が合うと、響子ちゃんはいたずら小僧のような目をして、私達恋人同士にみえるかしらと、笑った。
光輝は響子ちゃんのその問いには答えず、そうだったらいいのに、と心の中で呟いた。そして茜色の夕焼け空を眺めていく内に、記憶はセピア色に染まっていくのだなと、思った。



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セピア色の記憶

2017-04-02 | 小説
申し訳ありません。

ある賞に応募のため、現在掲載中止をしております。
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あの頃~、幻に魅せられて

2016-12-09 | 小説
③海へ

「ねえ、海って小学生のとき以来だよ」

「そう?私は昨年もその前も行ったわ。もっとも泳ぎが目的じゃないけど・・・」

「泳がないのかい?」

「・・・・私、かなづちなの」

愛里は少し恥ずかしそうにしながらオープンになったジープのハンドルを握っていた。

生暖かい風が正面から私の顔を殴りつけ、私は乱れた髪を何度も整えた。

隣には愛里がいる。私はあらためてその幸せを噛みしめ、愛里を見、その美しい横顔に魅入られた。


愛里が突然学校に現れたのは出会いから一か月もしていた頃だろうか。

その間私は時々彼女のことを思い出しては、溜息をつく毎日を過ごしていた。

微妙な期待があったものの、一時同じ時間を過ごしただけの女性、私のことなどもはや忘れてしまっただろうなと思っていたのだ。

だからかえって思いが募るばかりで、あのこと、抱きしめられたことを思い出すたびに溜息をついていた。

会いたい。でも名前以外にはなにも知らない女性。どうやったら彼女と会うことができるのだろう・・・・。

ああ、俺がもっと大人であったなら・・・・。

それは自分が未だ動物園の檻の中に入れられているチンパンジーのような状態であることを象徴するようなぼやきであった。

私の思いはもはや崖っぷちに行き当たり、にっちもさっちもいかない状態であった。

そんな私の状況化、彼女は突然現れた。それも学校、授業中に。

最初は、窓際にいる人間が気付いた。

「あれ?こっちの方見て手を振っている」

大きな声だ。授業を担当している教師がぎろりと目を向いた。

「なんか女だ。結構いいスタイルしてる」

その言葉にどれどれと授業に飽き飽きしていた級友たちが席を立ち、窓際に集まりだした。

愛里のことを考えていた私は興味なしとして、席を立たなかったが、「おい、ロン毛の女だ」、「誰かを探してるのかな?」と口々に言う級友たちの言葉に(もしや)と思い立ち、急いで窓際の級友たちの群れをかき分けて先頭に立った。

見ると、校庭の真ん中にカーキ色のジープが乗り入れていた。

その隣でジーンズに赤のカットソーの女が手を振っている。

4階の教室からは意外に遠くにあったので顔までは確認できなかった。でも・・・、

ああ、あのシルエット。

紛れもなく愛里だった。

瞬間、私は居ても立ってもいられずにその場を離れ、教室を飛び出していた。

階段を駆け下り、ころげそうになりながら校庭に出、愛里のいるところまで走り出す私。

愛里はそんな私を発見すると、手を振るのを止め、にこりとした。

息切らせながら愛里の目の前まで来、私は立ち止まった。

いきなりのことなので、しばらくの間、声が出なかった。

窓から顔を出していた級友たちは一斉に囃し立てるように口笛を吹きだした。

そして私はそれを声援に変えながら思い切って、愛里に声を掛けたのだった。

「一か月とは、待たせすぎだね」

「女は準備に時間をかけるものなのよ」

愛里は猫のように目尻に皺を寄せて「ふふ」と笑みを浮かべていた。

そして、

「海いくよ!」

私は愛里のその言葉に誘われるがままに車に乗り込んだのであった。




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