私たちは今、これからこの学校をどういうように発展させていくべきか、よく話し合っています。
デモクラティックスクール(サドベリースクール)にかぎらず、学校を運営していく上では、どのようにして人を増やしていくのかということはつねに問題になります。学校を運営するのにはお金がかかるのですから、生徒は多くいたほうがいい。でも、それ以上に、学校として充実するために、子どもは多くいたほうがいいのですから。
でも、ふと思ったのですが、この「人を増やす」という視点が、そもそも間違っているのかもしれない。
「人を増やす」ことを目標にするなんて、まるでテストでいい点を取ることを目指す小学生みたいです。
人がいなければ団体は維持できませんし、そもそも人が集まらない団体は社会的に存在価値がありません。だから、団体には人が必要です。
では、デモクラティックスクール(サドベリースクール)の存在価値って何なのでしょうか。
デモクラティックスクールの中で生まれるもの、それはデモクラシーです。
デモクラシーに価値があると考えること、それがデモクラティックスクールの出発点です。そこに価値があると思わなければ、デモクラティックスクールをする意味がありません。
デモクラシーとは、一人一人が互いに対等な権利をもち、その意思を自由に表明し、団体を運営することができる制度です。
この、互いの対等さこそ、デモクラシーの根幹です。
デモクラティックスクールに通う子どもはスクールでその対等さを体験します。彼らは自分と他人が等しく同じ価値をもつ人間であることを、日々実感していると思います。
そこで働く大人も、その対等さを学びます。子どもたちや他のスタッフとの間で対等な関係を築くことを要求されます。
子どもがデモクラティックスクールに通っている親も、対等さを経験します。スクール内での日々の出来事に親が意見を言うことは基本的にできませんが、年毎の予算などスクールの方針を決定付ける大きな話し合いでは、自分と他人が同じ影響力を行使できることを体験します。
こうした対等さからなる団体も、人がいなくては団体として成立できません。
と同時に、対等さに価値を置いている以上、その団体にとって、人とは自分と同じ価値を持つ存在であり、団体を存続させるための道具や手段にはできないのです。
企業は違います。企業にとって顧客は団体を存続させる手段です。だからこそ“サービス”します。いろいろなことを“してあげる”のです。
でもデモクラティックスクールは、自分たちを維持させるための手段・道具として人を見ることはできません。人と人は同じ価値をもつのですから。
私たちは今、これからこの学校をどういうように発展させていくべきか、よく話し合っています。
デモクラティックスクール(サドベリースクール)にかぎらず、学校を運営していく上では、どのようにして人を増やしていくのかということはつねに問題になります。学校を運営するのにはお金がかかるのですから、生徒は多くいたほうがいい。でも、それ以上に、学校として充実するために、子どもは多くいたほうがいいのですから。
でも、ふと思ったのですが、この「人を増やす」という視点が、そもそも間違っているのかもしれない。
「人を増やす」ことを目標にするなんて、まるでテストでいい点を取ることを目指す小学生みたいです。
人がいなければ団体は維持できませんし、そもそも人が集まらない団体は社会的に存在価値がありません。だから、団体には人が必要です。
では、デモクラティックスクール(サドベリースクール)の存在価値って何なのでしょうか。
デモクラティックスクールの中で生まれるもの、それはデモクラシーです。
デモクラシーに価値があると考えること、それがデモクラティックスクールの出発点です。そこに価値があると思わなければ、デモクラティックスクールをする意味がありません。
デモクラシーとは、一人一人が互いに対等な権利をもち、その意思を自由に表明し、団体を運営することができる制度です。
この、互いの対等さこそ、デモクラシーの根幹です。
デモクラティックスクールに通う子どもはスクールでその対等さを体験します。彼らは自分と他人が等しく同じ価値をもつ人間であることを、日々実感していると思います。
そこで働く大人も、その対等さを学びます。子どもたちや他のスタッフとの間で対等な関係を築くことを要求されます。
子どもがデモクラティックスクールに通っている親も、対等さを経験します。スクール内での日々の出来事に親が意見を言うことは基本的にできませんが、年毎の予算などスクールの方針を決定付ける大きな話し合いでは、自分と他人が同じ影響力を行使できることを体験します。
こうした対等さからなる団体も、人がいなくては団体として成立できません。
と同時に、対等さに価値を置いている以上、その団体にとって、人とは自分と同じ価値を持つ存在であり、団体を存続させるための道具や手段にはできないのです。
企業は違います。企業にとって顧客は団体を存続させる手段です。だからこそ“サービス”します。いろいろなことを“してあげる”のです。
でもデモクラティックスクールは、自分たちを維持させるための手段・道具として人を見ることはできません。人と人は同じ価値をもつのですから。
デモクラティックスクールに“人が増える”ことはあっても、“人を増やす”ことはできないように思います。
>>>ターボウ
>>>ターボウ
デモクラティックスクール(サドベリースクール)にかぎらず、学校を運営していく上では、どのようにして人を増やしていくのかということはつねに問題になります。学校を運営するのにはお金がかかるのですから、生徒は多くいたほうがいい。でも、それ以上に、学校として充実するために、子どもは多くいたほうがいいのですから。
でも、ふと思ったのですが、この「人を増やす」という視点が、そもそも間違っているのかもしれない。
「人を増やす」ことを目標にするなんて、まるでテストでいい点を取ることを目指す小学生みたいです。
人がいなければ団体は維持できませんし、そもそも人が集まらない団体は社会的に存在価値がありません。だから、団体には人が必要です。
では、デモクラティックスクール(サドベリースクール)の存在価値って何なのでしょうか。
デモクラティックスクールの中で生まれるもの、それはデモクラシーです。
デモクラシーに価値があると考えること、それがデモクラティックスクールの出発点です。そこに価値があると思わなければ、デモクラティックスクールをする意味がありません。
デモクラシーとは、一人一人が互いに対等な権利をもち、その意思を自由に表明し、団体を運営することができる制度です。
この、互いの対等さこそ、デモクラシーの根幹です。
デモクラティックスクールに通う子どもはスクールでその対等さを体験します。彼らは自分と他人が等しく同じ価値をもつ人間であることを、日々実感していると思います。
そこで働く大人も、その対等さを学びます。子どもたちや他のスタッフとの間で対等な関係を築くことを要求されます。
子どもがデモクラティックスクールに通っている親も、対等さを経験します。スクール内での日々の出来事に親が意見を言うことは基本的にできませんが、年毎の予算などスクールの方針を決定付ける大きな話し合いでは、自分と他人が同じ影響力を行使できることを体験します。
こうした対等さからなる団体も、人がいなくては団体として成立できません。
と同時に、対等さに価値を置いている以上、その団体にとって、人とは自分と同じ価値を持つ存在であり、団体を存続させるための道具や手段にはできないのです。
企業は違います。企業にとって顧客は団体を存続させる手段です。だからこそ“サービス”します。いろいろなことを“してあげる”のです。
でもデモクラティックスクールは、自分たちを維持させるための手段・道具として人を見ることはできません。人と人は同じ価値をもつのですから。
私たちは今、これからこの学校をどういうように発展させていくべきか、よく話し合っています。
デモクラティックスクール(サドベリースクール)にかぎらず、学校を運営していく上では、どのようにして人を増やしていくのかということはつねに問題になります。学校を運営するのにはお金がかかるのですから、生徒は多くいたほうがいい。でも、それ以上に、学校として充実するために、子どもは多くいたほうがいいのですから。
でも、ふと思ったのですが、この「人を増やす」という視点が、そもそも間違っているのかもしれない。
「人を増やす」ことを目標にするなんて、まるでテストでいい点を取ることを目指す小学生みたいです。
人がいなければ団体は維持できませんし、そもそも人が集まらない団体は社会的に存在価値がありません。だから、団体には人が必要です。
では、デモクラティックスクール(サドベリースクール)の存在価値って何なのでしょうか。
デモクラティックスクールの中で生まれるもの、それはデモクラシーです。
デモクラシーに価値があると考えること、それがデモクラティックスクールの出発点です。そこに価値があると思わなければ、デモクラティックスクールをする意味がありません。
デモクラシーとは、一人一人が互いに対等な権利をもち、その意思を自由に表明し、団体を運営することができる制度です。
この、互いの対等さこそ、デモクラシーの根幹です。
デモクラティックスクールに通う子どもはスクールでその対等さを体験します。彼らは自分と他人が等しく同じ価値をもつ人間であることを、日々実感していると思います。
そこで働く大人も、その対等さを学びます。子どもたちや他のスタッフとの間で対等な関係を築くことを要求されます。
子どもがデモクラティックスクールに通っている親も、対等さを経験します。スクール内での日々の出来事に親が意見を言うことは基本的にできませんが、年毎の予算などスクールの方針を決定付ける大きな話し合いでは、自分と他人が同じ影響力を行使できることを体験します。
こうした対等さからなる団体も、人がいなくては団体として成立できません。
と同時に、対等さに価値を置いている以上、その団体にとって、人とは自分と同じ価値を持つ存在であり、団体を存続させるための道具や手段にはできないのです。
企業は違います。企業にとって顧客は団体を存続させる手段です。だからこそ“サービス”します。いろいろなことを“してあげる”のです。
でもデモクラティックスクールは、自分たちを維持させるための手段・道具として人を見ることはできません。人と人は同じ価値をもつのですから。
デモクラティックスクールに“人が増える”ことはあっても、“人を増やす”ことはできないように思います。
>>>ターボウ
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