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ラヂヲ野球の時間

2005-12-08 08:02:38 | スポーツ
いつもお邪魔している、”球児命”ぱぴさんの記事で 「1年前、糸井重里はこう言っていた。」の内容がとても興味を惹いた。なんでも1年ちょっと前、TBSラジオで放送した「糸井重里のザ・チャノミバ」で、糸井重里と堺雅人の対談のなかでのやりとり。この中の、野球とサッカーの違いについての語りが面白い。一部抜粋させてもらう。

糸井:自分が動きながら、次の動きを考えている、っていう動きの中で動きを考える、っていうのがスポーツの基本だと思うんですね。で、野球ってスポーツじゃなくって、ゲームなんだと思うんですよ。つまり、頭で考えて行動するのを考える時間と、それを実行する時間とが、スタンバイ・スイッチオンと分かれているんですよね。それは一体化した方がスポーティーですよね。

野球はスポーツじゃなく、ゲームなのだという。思考と行動が分かれて、一体化していないから。考えてみると野球という球技は、他の球技にくらべて異質な要素をもっている。その最たるものが、”攻撃”と”守り”のスイッチだ。ほとんどの球技は”攻撃”と”守り”が表裏一体。連続プレーの中で絶えずダイナミックに変化している。今、攻撃中であっても、一瞬にして予期せず、攻守入れ替わったりする。そのダイナミックでスピーディな展開こそが、球技スポーツの醍醐味なのだ。ところが野球にはそのダイナミックさはない。攻守交代はアンパイヤによる手動切り替えスイッチ。連続プレーの中で切り替わるようなことは絶対ない。一手ごとに交代する囲碁や将棋に通じる世界だ。だから野球の試合を、ゲームと表現するのだろう。野球以外の球技じゃ、ゲームではなく、マッチという表現が多く使われている。それを象徴するものに、プロ野球カードゲーム というものがある。こんな遊びが成り立つ球技、野球しか他に考えられない。サッカーやバスケのカードゲームなんて見たことない。(あっても認めない(笑)。)
対談は続く。

:時々凄い選手で、「自分がなんだかよく分からないのだけれど、とりあえず前に出て、そのことでパスコースがあく」ってことがあるわけじゃないですか。その時、(パスコースがあくことを)分かっているのかな、と思ったら、おそらく分かっていない時もあると思うんですよ。
糸井:それを言語化できないんですよ。で、サッカーをものすごく観ている人とか選手は、かなり言語化できかけているらしいんですよね、どうも。つまり、「~に決まっている」という細かいメソッドを頭に全部索引で持っているんだと思うんですよね。

”空気”を的確に言語化できる達人、糸井氏ならではの語りだ。そして、この部分に関しては、ラジオの実況で経験的に理解している。昔からテレビ中継のない日のタイガースの試合は、ラジオの実況放送のお世話になってきた。当然、完全放送だ。サンテレビ以上にたよりになる存在である。三十年以上にわたるラジオの実況中継との付き合いは、通算すると、テレビ観戦の時間を上回っているかもしれない。年季はかなり入っているつもりだ。

「ピッチャー久保田、振りかぶって小久保に第三球、投げました。打った。引っ掛けた。ショートゴロ。三遊間深いところ、鳥谷追いついた。踏ん張って一塁にノーステップスロー。ワンバウン、ツーバウン。間一髪アウト!」

この間、わずか10秒足らず。文字にして100文字足らず。わずか、これだけのセンテンスでも、久保田の力んで投げる様、小久保の打ち損じた顔、鳥谷の軽快なフィールディング、今岡のまるでヒトゴトで打球を見送る顔‥‥。それらはテレビの映像を見ているかのように、脳内で映像を投影してくれる。そして私は、誰もがそうだと思っていた。
ところがこれが怪しいのだ。野球はよく見るけれど、ラジオの実況を聞き慣れていない人には、ラジオ実況だけでは試合経過は分かっても、簡単には映像と結びつかないものらしい。それは言わば、野球盤ゲームのはずが、むしろプロ野球カードゲームに近い感じだ。古くからラジオの実況に親しんできた私には、そのことが理解できなかったようだ。

ところが、ある日のこと。カーラジオでサッカーの実況を聞いた私は、おなじことを経験した。実況アナウンサーの一言一句は、すべて理解できるのに、試合の経過は分かっても、まったく映像に結びつかないのだ。サッカーのカードゲームが存在するとしたら、言わばそんな感じだ。糸井氏の言を借りるなら、つまりはアナウンサーとリスナーの間で、共通の言語化されたメソッドが共有できているかどうかということなのだろう。私の場合、野球に関しては言語化されたメソッドを共有できても、サッカーに関しては共有できていなかったのだ。それでも、サッカーをものすごく見ている人と選手は、言語化が出来ているらしい。リスナー、アナウンサー共にあるレベルに達したら、サッカーも立派にラジオ実況で脳内映像化ができると言うことか。しかし、私にはサッカーの言語化は、野球ほど簡単にはいかないように思えるのだが‥‥。
糸井氏は続ける。

糸井:‥‥もう野球が後で追い抜かれる要素ばっかりだってことに気がついて。野球後進国が先進国をやっつけられる理由って言うのは、結局、方法論化できちゃってる、ってことですよね。で、サッカーはそれを肉体が覚えておかないと出来ないから…
:その場その場の判断ですものね。
糸井:で、(サッカー選手は)獣になるらしいんですよね。どうも。今僕らは、人間としてどこまで細かい情報を処理できる人間になるかっていう話をしているんですが、でも、それはウエイトトレで必要な筋肉を鍛えることだとか、いっぱい練習を積んで「これが出来るようにしておく」という、「高めていく」ということですよね。でもそこに獣がいたら、ミスして、噛み付かれて傷ついてもゴールする、っていうことをやるのが獣の動きだと思うんですよね。獣はミスしてもロスしてもやるべきことに飛び込んでいかなきゃならないんですよね。ってことは、死んじゃうかもしれない、でもゴールする、っていう人が現場で強いらしいんですよ。

かくも左様に、野球とはロジカル(論理的)なスポーツで、サッカーに至ってはフィジカル(肉体的)なスポーツなのか。野球にだって野性味あふれる選手やプレーは存在するし、サッカーにだって理論に裏打ちされた戦術こそが、強いチームの証だ。極論過ぎないか。しかし、野球が論理的で方法論化し易いこと、そして、言語化されたメソッドが、かなり蓄積されていることは事実だ。ラジオの実況中継を通して経験してきた。これほど、ラジオと相性の良いスポーツは他にあるまい。想像してみて欲しい、卓球の実況中継を。そこでは言語は無力なのだ。

そう考えると、ラジオ野球がとても愛おしく思えてくる。スピーカーの向こうには、生観戦やテレビでは味わえない、「フィールド・オブ・ドリームス」だ。
そして、視覚を経由しない野球には、自由なエフェクト調整や演出が可能なのだ。
芝生の緑以外は、すべてモノクロかセピア色にするもよし。
大阪タイガース時代のユニフォームに着替えさせるもよし。
金本のホームランをハイタッチでむかえる列に、掛布とバースも加えても素敵だし、イニングチェンジの投球練習に、江夏と田淵の黄金バッテリーを登場させるのもお気に入りだ。


    ラヂヲ野球の時間


来シーズンの出番に備えて、今年はすこし念入りにラジオの手入れをしておこう。