たわ言

思いつくまま

幸せって何、極楽

2011-10-28 13:52:08 | 日記
 今日は暖かくてよいお天気、つい幸せなことだと思ってしまう。
「手と手を合わせて、幸せ」というのはコマーシャル。 角川の日本国語大辞典には一番目に「運のいいこと」と何番目かに「幸福」がでてきたのが意外だった。諸橋の『漢和大辞典」には幸の字は「さいわい」①生きながらえること、②しあわせですねと、③めでたい、縁起のいいこと、2番目は「さいわいする」①いかす、②あわれむ、めぐむ、しあわせを与える、・・・とある。「幸福」はしあわせ、さいわい、とあるように 私は幸せ=幸福と思っていた。自分が不幸でない状態を「幸せ」といい、不幸と感じるようになって、それを認知する。すなわち、意識の世界のものだと思っていた。三木清の『人生論ノート』の中に普段はなんとも思わなかったことが、胃痛になって胃の存在とありがみを知り、歯痛になって歯の存在をしるように、幸福はそうでなくなったときに幸福を知る。とあったように記憶している。 今日書こうとしたのは幸福論ではない。

 先日仏教の本をみていたら(梵)スクハ・sukha を幸福と訳している。幸福とという漢訳がない。法蔵舘の『仏教学辞典』にも出てこないし、sukhaは経典には安楽と訳されているようで、中村元著『新仏教辞典』では、sukhaは元来、車などがたやすく流れるように流れるように動き走る意味の言葉であったから、「多くの人との間がうまく行くことである。多くの人との関係がうまくいく世界のことをスクハバァディー・sukhavtiと言い。極楽と訳されている。極楽は阿弥陀仏の世界・仏国土で(安樂国とも訳されている)ある。極楽世界に往生したら、「心のままに阿弥陀さんのお説教を聴いて、覚りをひらいて成仏する」のが浄土教の教えであり、私の目的であると思っている。
 しかし、かっての世の中には「極楽湯」という銭湯が各地に多くみられた。タオルを頭の上にのせ、世間話に花を咲かせ「いい湯だな、ゴクラク・極楽」と湯に浸っている。その状態が仏教語の語源からみた正しい理解だったのかなー。    まいる
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