ギターもリュートも長い曲は息切れがする。それに、一曲を頭から尻尾まで間違えずに弾くのは大変な事だ。表現はその後から載ってくるわけだからアマチュアが大曲に挑むのは無謀である(と、ヘボアマチュアは思う)それを半ばプロ並みにやる人もいるようだから、一も二もなく尊敬する。
大曲と言ってすぐさま想起するのがバッハだ、似たようなフレーズが少しずつ姿を変えながら延々と続く、目が回る、憶えられない、憶える以前に何処が違うか目がついてゆかない。
日本の作曲家で長大な曲と言って思い出すのは伊福部昭氏だ。自分にとってこれに優る邦楽はないと思うところの、氏の25弦筝の【琵琶行】、野坂恵子氏の名演奏で聴く。素晴らしい!そこで拙者も、と言うわけでギターの為の日本古代旋法による【踏歌】をやってみようかと薄ら考えている、が、長い曲だ。
楽器は弾かないと駄目になる。リュートと欲張って個性の違うギターを5台持っているが息切れがする。
さねさし相模の小野に燃ゆる火の ほなかに立ちてとはし君はも
わかければ道行き知らじ まいひはせむ したべのつかひおひてとほらせ
かわずの目 越えてさざなみまたさざなみ
白鳥は哀しからずや 空の蒼 海の青にも染まず漂う
ふるさとの 尾鈴の山の哀しさよ 今日も霞のたなびきてあり
からごろも 裾にとりつき泣く子らを 置きてぞきぬる 母なしにして
我が母の 袖もち撫でて我がからに 泣きし心を忘らえぬかも
このように秀逸な歌を詠んだ日本人が何故このような音楽を作曲できない、或はしない、のか?そればかりか学校音楽にグレン・ミラーの茶色の小瓶だとかを取り入れてみたり、アホな事をする。分からんのはあのビートルズと言うのを大変に誉める人々が居ることだ、あの品のないのを。
夏は熊野の浦過ぎて 匂いゆかしく渡り来ぬ
阿波より来る藍売りは 村の紺屋を立ちいずる
つばめの声にふるさとの 暮れゆく春を思うらむ (有本芳水)
どーだ、この染み入るように懐かしい日本の春、そして典雅な日本語の品格!