夜汽車

夜更けの妄想が車窓を過ぎる

息子が彼女を連れて来て結婚したいと言う場合

2015年11月15日 22時51分23秒 | 日記
僕の基本的な考えは『他人の胤を育てるな、一度手が着いた女性はやめておけ』だ。異論もあろう。しかしこれが『先祖と子孫に対して責任感ある者の言うべき事』である。それ以外は『息子の選択に任せる』。連れて来た相手が醜女であろうがオカメであろうがオタフクであろうが大きかろうが小さかろうが学があろうがなかろうが血統書付きであろうがなかろうがそれに介入するのは息子を一個の人格として尊重していないということになる。

仮にその結婚によって息子が不幸になるとしてもそれは実態世界での何らかの選択であろうと解する。口うるさい旧弊な母親諸姉、よーく考えたまえ、人に元々幸とか不幸とか言うものはない。あるのは事実であってそれをどのようにとらえるかによって人は幸、不幸を自分で構築する。非常に不思議な事であるが『わらしべ長者』の類の人が居る。その人は傍から見ていると転んだ!と見える時でも藁一筋を掴んで起きていつのまにか幸運を手にする。一方ものごとを否定的に考えがちな人はどういうわけか拙い選択をする。そういう人は大抵、こっちの水たまりを避けて跳んであっちのドブに落ちる。

嫁女(女性諸君、これは古い言い方なのだ)について面白い記事を昔見た。嫁女はワインに似ている、最初はチト味が浅い!と思う。が、年月が経つと、オッ、これはイケる!になる と言う。そうすると醜女も中から品格が輝き始め、冒しがたいオーラを放つようになる。オカメとは元々は美女の意味である。薩摩川内市に昔から『巣山おかめ殿』と言う言い方があるがある地域が歴代、美人を輩出するところからそういうようになった。オタフクはお多福と書く。こういう嫁女を得た男は果報者である。

さて、まことに奇妙な事ながら女は歳とともに母親に重なってゆく。最後は母親と全く同じになる。だから私は息子達の婚約者について、その母親やさらにその先の母親に関心があった。幸か不幸か私は初対面で人のオーラを読むことが出来る。二人、息子が居るがそのどちらの場合も最初の数分で彼らの選択の誤りでない事を悟った。

人生というものを信じている者は信ずるとおりになってゆく、不思議と言えば不思議。『神光あれ と言いたまいければ光ありき』つまり念が現象化するのがこの地上現象界の場の論理である。


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