ヨブの妻に関しては鑑三翁も強い関心を寄せています。それはヨブ及び「ヨブ記」著者への批難として聞くこともできます。
《しかも遂に最大の災がヨブに臨むに至った。そは彼の妻の離反である。‥産を悉く失うも宜(よろし)い。子を悉く失うもあるいは堪え得よう。悪疾に襲わるるもまた忍び得よう。しかし寂しき人生の旅路における唯一の伴侶(とも)たる妻が自ら信仰を棄てしのみならず、進んで信仰放棄を勧むるに会して、彼の苦痛は絶頂に達したのである。我らは深き同情を彼に表さねばならぬ。しかし一方またヨブの妻を以て悪き女となすべきではない。彼女は普通の婦人の堪えがたきを堪え来ったのである。財産を失い地位を失い子女を悉く奪われて、彼女はなお夫と信仰を共にして来た。最後に夫に不治の悪疾が臨むに至って、遂に信仰を棄つるに至ったのである。されば彼女に対してもまた深き同情を表わさねばならぬ。‥彼女も遂にサタンの罟(わな)に陥り、ヨブは全く孤独の人となった。》(p.25)
でもここで鑑三翁の一文で怪訝に思われるのは、ヨブの妻にも同情を寄せるべきとしながらも、子どもたちを一挙に喪った彼女の悲嘆感情には深く分け入っていないことです。私はこの連載で「Ⅱ37愛する者を喪った時」以降しばしば鑑三翁の悲嘆感情について記しました。内村鑑三翁は自らの悲嘆体験を抱えながら信仰の世界に直進する人間でした。彼が1891(明治24)年30歳の時に、いわゆる「不敬事件」のさなかに妻かずを喪った時、彼は次のように記し神への祈りさえ棄てたことを記しています(『基督信徒の慰』第1章)。
《余は余の愛するものゝ失せしより数月間祈祷を廃したり、祈祷なしには箸を取らじ、祈祷なしには枕に就かじと堅く誓ひし余さへも今は神なき人となり、恨を以て膳に向ひ、涙をもって寝所に就き、祈らぬ人となるに至れり。‥然れども余に一事忍ぶべからざるあり、彼何故に不幸にして短命なりしや、彼の如き純白なる心霊を有しながら、彼の如く全く自己を忘れて彼の愛するものゝ為めに尽しながら、彼に一日も心痛なきの日なく、此世に眼開てより眼を閉じしまで、不幸艱難打続き、而して後彼自身は非常の苦痛を以て終れり、此解すべからざる事実の中に如何なる深意の存するや余は知らんと欲するなり。》(全集2、p.5)
妻かずを喪った際の鑑三翁の喪失悲嘆はとても深く深刻なものでした。かずの短命や薄幸、死に至るまでの苦痛の連続の不条理を嘆き、”如何なる深意の存するや余は知らんと欲するなり”と記して神の意思に反意を表しているほどです。ここはヨブの妻がヨブに対して「もういい加減にして神をのろって自死しなさい」と言った部分と共振します。でもヨブの妻はヨブから愚かな女‥と批難されてヨブの許を去ったのでした。あまりにも哀れです。
しかしヨブの妻の悲嘆に対するヨブの共感の薄さを鑑三翁は批難してはいません。この『ヨブ記講演』が1920(大正9)年のことで鑑三翁は59歳、人生と信仰の円熟期にあったことも関係していると思われます。妻かずを喪ったのは30歳のことでしたから。
また鑑三翁は1912(明治45)年に一人娘のルツ(19歳)を病気で喪っていますが、この時の衝撃と悲嘆からの回復は比較的早かったと鑑三翁は記しています。その大きな理由としてはルツが信仰の強さと堅さをもちながら天に召されたことが関係していると思われます。また鑑三翁は51歳という人生の成熟期にありましたので、鑑三翁も(おそらく夫人も)一人娘を喪うという悲嘆からの回復は早かったと思料されます。
「ヨブ記」の著者はヨブの妻が子どもたちの死から受けた衝撃や悲嘆感情、妻のその後の行く末については全く触れていません。だから鑑三翁も聖書が記述していない事を勝手に推測することを避けたのだろうと思われます。
話は脇道にそれます。スウェーデンのノーベル賞作家ベール・ラーゲルクヴィスト(1891-1974)の作品に『バラバ』という素晴らしい作品があります。ヘロデ帝下のイスラエルで民衆の扇動で十字架にかけられたキリスト・イエスの代わりに慣例にのっとって牢獄から解放されたバラバのその後の人生を描いた作品です。バラバはその後盗賊の仲間のところに戻るものの、純粋なキリスト教徒らの殉教にも立ち会いながら生活します。そしてローマ帝政下でのキリスト教迫害の犠牲となって磔刑に処されます。その最後の時に「おまえさんに委せるよ、おれの魂を」との言葉を残して息を引き取る‥こんな小説です。私は聖書に題材をとったこの作品が好きです。誰か優れた作家がヨブの妻の事を小説にしていないか調べましたが見当たりませんでした。ヨブの妻は話の展開からして自死したとしか考えられないとしたら悲しいことですが‥。