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鑑三翁に学ぶ[死への準備教育]

内村鑑三翁の妻や娘の喪失体験に基づく「生と死の思想」の深化を「死への準備教育」の一環として探究してみたい。

[Ⅷ308] 世の変革者(8) / 鑑三翁の弁明

2024-08-30 17:16:30 | 生涯教育

鑑三翁の誠実と豪胆とは、神にあって自由なキリスト者としての深い信仰に基づくものであり、井上氏の受け狙いの個人攻撃にもひるむことなく独り立ち上がった鑑三翁の姿は、かのパウロを彷彿とさせる。

パウロはキリスト・イエスの昇天後に弟子たちによるキリスト信仰が拡大しつつあることを危惧して彼らを迫害する立場にあったが、ある日イエスの十字架の死の直後紀元35年(33年の説もある)、復活のイエスと出会いイエスの声を直接聞きパウロは回心した。そしてその後は翻ってキリスト・イエス信仰の宣教を行ってきたが、聖都エルサレムに帰ると、アジアのユダヤ教徒からの反感を買い彼らはパウロを捕え殺そうとした。パウロは殺される直前に千人隊長に助けられ、ローマ皇帝に助命を嘆願することになった。そこで千人隊長はパウロにユダヤ教徒に対して弁明する機会を与えた。パウロは神との仲保者キリスト・イエス信仰にこそ真の救済があること、キリスト・イエスは神の仲保者として必要な時に必要な所で必要な人を必要な物を必要な仕方で送り備えてくださる存在であると弁明し、キリスト・イエス信仰への翻意をユダヤ教徒に促したのである。

殺される危機のさ中にありながらも堂々とキリスト・イエスへの信仰の正しさを弁明したこのパウロの姿は、私には明治政府の圧力に抵抗し信仰の正統性を主張する鑑三翁の姿と重なる。また帝国大学哲学大教授井上哲次郎の正面にすっくと立ち、国家権力から圧殺される怖れを感じながらも正々堂々と自分の考えを主張した鑑三翁の胸の中には、このパウロの弁明の姿が浮かんでいたのだろうと推測する。

日本では江戸期までのキリシタン禁制の時代を経て、明治時代に入ると1873(明治5)年にはキリスト教禁制の高札が撤去され、表向きには信教の自由が認められるようになった。だがこれは文明開化の旗印のもとで外交上キリスト教を黙認しただけであった。一方では外来文化の移入への関心も高まり、宣教師とりわけピューリタン革命後の欧米各国のプロテスタント宣教師による布教活動、聖書の刊行(注:米英の資金援助により1875年から順次出版されて1880年に「新約全書」が完成し、1887年には「旧約聖書」が完成した。)によってキリスト教徒は増加し、教会が全国に建てられるようになった。当然鑑三翁や新島襄ら外国でキリスト教を学んで帰国した者たちの宣教活動も活発になってきた。

他方明治政府では明治初年に始まる皇室神道を頂点とする「神道国教化政策」が推進されていった。名目上は政府によって信教の自由が認められたとはいえ、万世一系天皇崇拝を表の顔として、廃仏毀釈、キリスト教(耶蘇教)の排斥の力が強く働いていた。また1890(明治23)年には「教育勅語」(教育ニ関スル勅語)が発表された。その後の日本の道徳教育の根幹となった勅語であり、「親孝行」などの「道徳」を尊重するような意見を、天皇が国民に語りかける形式をとり国民の支持を得ようとしていた。

 

以上のような政府の国家事大主義を背景として鑑三翁の「不敬事件」があり、東京帝国大学哲学教授井上哲次郎と鑑三翁の論争が起きたのである。

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[Ⅷ307] 世の変革者(7) / 反駁を開始する !   

2024-08-23 16:40:14 | 生涯教育

以上の井上哲次郎の批難に対して鑑三翁は正面から反駁を行っている(『教育時論』第285号(明治26年3月15日発行)「文学博士井上哲次郎君に呈する公開状:内村鑑三」) (全集6、p.126掲載)。 鑑三翁の反駁文の要旨を記した。

【‥‥私の第一高等中学校礼拝事件に関する井上氏の報知は事実ではないことをでっち上げている(※原文「誣〈ふ〉す」)と言わざるを得ない。私が天皇の尊影に対して奉り敬礼しなかったというのは全くの虚偽に過ぎないものだ。拝戴式当日には生徒も教員も尊影に対しての礼拝を命じられた事実はなかった。ただ教頭久原氏は私に命じて一人ずつ御親筆の前に進み出させて礼拝させた。ところが貴殿の記事中には「このような偶像や文書に向て礼拝しなかった」云々というような言葉は私の発したものではない。天皇陛下は我ら臣民に対して勅語や尊影に対して礼拝しろと仰せられたのではなく、これを常に心にとどめて忘れないように(※原文は「服膺〈ふくよう〉」)して、それを実行しろというのが真意である。ところが貴殿の”哲学的で公平な眼光”は、私たちキリスト教信徒に対しては、仏教徒や儒者、神道家、無宗教家、社会一般の公衆よりも「教育勅語」の深意から言えば、国家に忠誠を尽さず(実際の行動面から言えば)、兄弟を尊ばず、父母に孝ならず、朋友に対して信義なく、夫婦仲を悪くし、謙虚さに欠ける者たちであると言うのか。不忠/不孝/不信/不悌/不和/不遜をキリスト教信徒の特徴であるとでも言うのか。‥

君主政体にひたすら服従する”性(さが)”というものは、全ての悪の原因となるものだ。高潔の者が服従しないからといって拷問したり殺戮するのは不当であり悲劇である。これは知識を知る自由や思想の自由といった真正の進歩を圧殺するものだ。これはいずれの時代においても王室が行った災いをもたらした行為であり、それが国内に災いをもたらしてきた。過去の歴史書を見ても、現今の途上国や欧州の国々の状況を観察しても、主権に対する盲目的服従は道徳や知識を増進させると同時にそれを退縮させているではないか。昔の武勇崇拝の時代から今日の「オベッカ主義」(※原文は「flunkeyism」、事大主義・卑屈なおべっか者の意)の時代に至るまで、この盲目的な服従の精神は、人間性を貶めるという点において最も強力なものである。(以下略)】

東京帝国大学哲学教授が明治政府の委嘱を受けて鑑三翁及びキリスト教徒を強い調子で批難し屈服させようとして論陣を張った。鑑三翁はこれを真正面から受けて立ち一人で論陣を張った。そして井上氏の「不敬」に関する批難は事実に基づくものではなく、事実を歪曲していること、あたかも自分の発言のように記したりして極めて不当であることをまず鑑三翁は弁明した。そして個人の思想信条の自由を圧殺しようとする国家権力は歴史的に見ても不当であり、権力に盲目的に服従することは極めて人間性に悖るものだ‥として堂々と反駁した。

井上は勅語や天皇への”服従”と沈黙を鑑三翁に期待した筈である。ところが鑑三翁は井上氏を痛烈な批難をもって反駁した。鑑三翁の豪胆に井上氏は驚愕したに違いない。鑑三翁の真骨頂である。

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[Ⅷ306] 世の変革者(6) / 「不敬」と言わば言え!

2024-08-15 20:17:34 | 生涯教育

私はかつてこの連載で《[Ⅳ234] 日本人とか日本社会とか(14) / 鑑三翁の気骨「不敬事件」》 と題して、鑑三翁のいわゆる「不敬事件」について次のように記した。 

「鑑三翁は1891(明治24)年、当時勤務していた第一高等学校教育勅語奉読式典で、天皇真筆(のはずはないのだが)に奉拝(最敬礼)を為さなかった故に、同僚教師や生徒によって密告され批難された。その後新聞紙上では既に名の知られていた鑑三翁を批判する論調を掲げ、自宅には汚物が撒かれ生徒が押しかけて暴言を続けるなどの暴力もあった。キリスト教会関係者も、ごく一部を除いて手のひらを返す如く鑑三翁と離反し政府寄りの主張を繰り返した。いずれも全ては明治政府及びこれに連なる”お上”への恭順を示す迎合だった。」

この「不敬事件」当時の鑑三翁の世間・社会への”反骨と抵抗と抗議”は厳格で峻厳なものだった。人間として誠実にして真摯、キリスト・イエスへの信仰を第一義とする鑑三翁の信仰と気骨、信仰深きが故の自由人の為せる真剣な行動だったのだ。鑑三翁はこの不敬事件については、後年(明治42年10月「読書余禄」、鑑三翁48歳)には円熟した反省の記を残している。さらに老年期の鑑三翁であったなら、この不敬事件なるものは起こらなかったかもしれない‥晩年の日記に鑑三翁はそのように記している。鑑三翁らしく正直で率直だ。

さて「不敬事件」以後天皇を頂点として国体護持を喧伝し国体を堅固なものにし世界列強に伍していくために、「教育勅語」を教育段階から教え込み国民を洗脳する事の正統性を確立するために、帝国大学哲学教授井上哲次郎は政府に抱え込まれ、国体護持思想プロパガンダの切り込み隊長としての役割を命ぜられた。その過程で教育勅語の奉拝を拒んだ鑑三翁は、いわば”国賊”として恰好の反面教師として利用され、井上によって「不敬事件」に邪悪の火が再び点火されたことは先述した。

井上哲次郎は「教育と宗教の衝突」と題した論稿において、鑑三翁の「不敬事件」に触れて鑑三翁の言論活動を封じ込めようとして批難を開始した(『教育時論』第279号・280号・281号・283号及び284号所収、明治25〈1892〉-26年、国立国会図書館収蔵)。ここでは井上の論稿の「要点」のみを記す。

【第一高等中学校嘱託教師内村鑑三は同校の教育勅語拝戴式に出席したものの、陛下真筆の教育勅語及び尊影に対して敬礼しなかった。この行為は不遜であり陛下に対して不敬である。内村の「不敬事件」は、内村が熱烈なキリスト教(※原文「耶蘇教」)信者であったことは疑いのないところだ。キリスト教は唯一神教であり、信徒はその信仰する神以外の神のほかは、天照大神であれ弥陀如来であれいかなる神も仏も決して崇敬することはない。内村鑑三が勅語に敬礼することを拒否し、傲然として偶像や文書に向かって礼拝しないというのは、唯一神の信仰に起因するものである。わが国には古来より神道の教があり、一千万もの多くの神が存在する。ところがその最大の神たる天照大神は、尊くも皇室の祖先であるというだけでなく、倫理に関する教えも皇祖皇宗の遺訓と見做されている。これこそが今現実のわが国の「国体」の存する所以なのだ。ところがキリスト教徒の崇敬する神はこの神ではなく、ユダヤ人の唱える神に外ならない。私は今キリスト教徒に対して神道信者になれとは勧めないものの、キリスト教徒はわが国の「国体」を毀損しているではないか。】

井上は実に雑誌5号分もの誌面をさいて連載している。明治政府が神道の国教化と万世一系天皇制をもって国体護持(天皇を頂点としてこれを支える内閣、軍部、産業界、及び臣民をさす)及び国家統一イデオロギーで日本を統一しようとするにあたって、一大勢力として成長しつつあったキリスト教は、神を頂点とした信仰を尊びその神以外の権威を否定する教義に立つのだから、いかなる方法によるにせよ社会から排除しておく必要があり、これを井上に命じたのである。学者としての井上が政府から受けた強いプレッシャーを如実に表している。

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[Ⅷ305] 世の変革者(5) / 福澤諭吉 何するものぞ

2024-08-08 20:15:59 | 生涯教育

今でもしばしば鑑三翁を旧約聖書「ヨブ記」のヨブの再来と呼ぶ人がいる。上述の一文を読めば、私にはよく理解できる。ヨブは、全くかつ正しく神を恐れ悪に遠ざかる日々をおくっていた。東方の人々のうちで最も大いなる者と言われていた。ところがある日神のゆるしを得た上でのサタンの企みにより、家畜の羊七千、らくだ三千、牛五百、雌ろば五百、多くのしもべたちを全て殺された。さらに彼の愛する子どもたち男の子七人、女の子三人全員をも殺されてしまう。そしてヨブ自身も足の裏から頭までいやな腫物で悩まされるのだった。そんな彼を慮った信頼する妻も、神を恨みのろって死になさいと言い彼の許を去った。

これを聞きつけた老若の友人たちがヨブの許を訪ね慰撫する。ところが友人たちは、ヨブの神への信仰が不足していたからだとまで言う。だがヨブはそんな愛情のこもったように見える友人らの声を完璧に無視する。そして彼の正しさを神に向かって言うのだった。「わたしは神に申そう、私を罪ある者とされないように。なぜわたしと争われるかをしらせてほしい。‥あなたはわたしの罪のないことを知っておられる。またあなたの手から救い出しうる者はない。あなたの手はわたしをかたどり、わたしを作った。ところが今あなたはかえって、わたしを滅ぼされる。」(ヨブ記10章)「わたしは正義を着、正義はわたしをおおった。」(29章) そしてヨブは神の前に屹立した。そして自らの正しさを神に直接訴え続けた。ヨブは今や万象を通じて神を直感直視するの域に至ったのである。

そしてヨブは自分の無罪の証を立ててくれる証人を神に要求する。この証人は弱き人類の一員であってはならぬ。同じく弱き人ではこの事に当ることはできない。故に人以上の者でなくてはならぬ。故に神の如き者でなくてはならぬ。しかし神自身であってはならぬ。人の如き者にして我らの弱きを思いやり得る者でなくてはならぬ。神にして神ならざる者、人にして人ならざる者、これすなわち神の子たるものである。他の者ではない。ヨブの証者要求はすなわちキリスト出現の予表である。

そのヨブの姿を胸にイメージしながら上記一文をもう一度読んでみてほしい。ごく一般的には「私は神の前に正しい人間だ!」と宣言すれば、ヨブの友人たちのように一般社会でも教会の中でも「あいつはおかしい」と批難されるだろう。だが鑑三翁にとってはそのような一般社会こそ批難さるべきものなのだ。この一文によって、鑑三翁は神の前に屹立し神に人間社会の荒廃荒み不徳不条理‥を訴えていることが理解できる。私が上記の一文を取り上げた所以でもある。

この一文が掲載された『東京独立雑誌』の創刊されたのが明治31(1998)年のことであり、鑑三翁は生活の困難も省みず万朝報社を同年に退職している。万朝報社時代の鑑三翁の鋭い言論活動を封殺しようとした天皇崇拝者たちや、井上らのキリスト教排撃者たちへの抵抗を示し反駁するためには、あらゆるものから独立した言論活動を展開する雑誌が必須であると鑑三翁は考え創刊したものだ。雑誌は経営危機を乗り越えながら続けられたが明治33(1900)年7月には72号をもって廃刊し、同年9月には『聖書之研究』を創刊している(鑑三翁の死の年昭和5(1930)年まで月刊誌として刊行され、鑑三翁の遺言により357号をもって終刊している。)

因みに「社会」という言葉は中国の宋の時代の文献にも見られるが、日本ではどういうわけか福澤諭吉がsocietyの翻訳語として初めて使ったとされる。が、これは誤りで明治8年福地源一郎が東京日日新聞紙上で「ソサイエチー」とルビを振って「社會(社会)」としたことで「社会」という訳語として定着した‥とある(これはCopilotに調べてもらいました)。一体誰が”society”を「社会」と福澤が日本で初めて翻訳し、それが定着したと喧伝しはじめたのだろうか。

鑑三翁が一時期「社会(會)」と言う言葉を使わず「社界」という言葉を使っていたのには理由があるのではないか。例えば「胆汁数滴」〈万朝報、1897年4月。全集4掲載〉に「社界の病原」と題して「今や区々の改革を唱ふるも要なし、社界の病源は薩長政府其者にあり、革新此に及ばずんば枝葉の改革は徒労たるのみ」とある。鑑三翁がここで「社界」という言葉をあえて使ったのは、福澤諭吉がsocietyの翻訳語として「社会」と翻訳したと世間で誤って伝えられていたことに起因するのではないかと私は推測している。

また福澤がキリスト教の深化拡大を怖れこれを抑圧するために、仏教寺院でのカトリック信者の埋葬を政治的な力を使って抑え込むために司法に働きかけていた事実も当時はよく知られていたようだ(三河明大寺事件、明治13〈1880〉年)。

鑑三翁はこうした福澤諭吉を天皇制国体維持/富国強兵喧伝の先兵として見ており、腐敗した薩長政府に取り入り発言する福澤を警戒し嫌悪していたことが伺える。そして鑑三翁は『万朝報』誌上の「胆汁数滴」連載において「福澤諭吉翁」と題して「遠慮なく利慾を嗜みし者は薩人と長人となり、利慾を学理的に伝播せし者は福澤翁なり」として痛烈に批判し、さらに「金銭是れ実権なりといふは彼(※福澤のこと)の福音なり、彼に依て拝金宗は耻かしからざる宗教となれり」(「胆汁数滴」〈万朝報、1897年4月〉)として、福澤を金銭万能の拝金宗の宗祖として蔑視していたことも特記しておくべきだろう。

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[Ⅷ304] 世の変革者(4) / ”大社会”に対する悲憤慷慨   

2024-08-01 16:29:01 | 生涯教育

 

【私に欲念があるからこそ、私は社会という化け物にとらわれでしまうのだ。私の肉は食われ血まで啜られてしまうのだ。私が野心を満たそうとするから、私は政治家の罠にかかり、地縁血縁などの門閥によってたぶらかされてしまうのだ。社会は大きく、しかも強力なものとはいえ、私を誘惑する際には名誉や利益(※原文「名利」)を求めるだけで、それ以外には何ものもない。だから私が名誉や利益を嫌悪するに至ったときには、私は社会の厄介者となって、社会が私を憎んで私を殺さない限り、社会に隷属する危険は私にはなくなるのだ。これは宗教家が言うところの「世に死して天に生きる」の途であって、社会を足下に踏みつけるためには、欲念を心の外に棄て去ることが重要である。‥‥

しかしながら社会というものは大きく強大なものだ。私はこれに比していかにも小さくして弱い。私は私を押さえつけて服従させようとするにあたって、私は私だけに頼っても無駄だ。この妖怪のような邪悪の蛇を殺し、この魔界の王を倒そうと望むのならば、私は私以外の社会以上の力に頼らざるを得ない。即ち強大で清浄な者、無限の力に加えて無辺の愛を包蔵する者、その名称は何であれ、これは義者の救いであり勇者の隠れ場である。私は彼に依拠するのでなければ私の勝利は永久にない。

この無限の愛に頼って、タルソ生まれのパウロは片方の手(※原文「隻手」)でローマ帝国の頽廃に対処した注3)。彼の熱火のような信仰の確信は、400年後にはローマ大帝国にキリスト教の新しい組織を提供したのである。

パウロのこの愛に頼ってルターは時の政権やカトリック教会の権力を怖れることなく、剛直に(※原文「侃々」)声を上げて単純な真理を唱え、その結果欧州文明に新たな時代(※原文「新紀元」)を開いたのである。そしてこの愛に頼って清教徒(ピューリタン)は根本的改革を英国にもたらし、自由をアメリカ新大陸に植え付け拡大し、今なおオーストラリア、南アフリカに良心の確固たる基礎に立って新しい国家の建設を為しつつある。その他洋の東西を問わず、時の古今を言わず、超自然的な力に依拠せずして世の人々に裨益し国家を運営して一歩一歩これを光明の域に誘導した事例を見たことがない。社会の罪悪を社会そのものに訴えることなく、社会以上の制裁力に訴え、自分は自身以外の自然以上の力と結託して、その指揮を待ち自我の意思によらず、このようにすることで彼は思う存分に社会を叱咤することができ得るようにすれば、社会も究極的には彼の声を聞き、彼を教導の師として仰ぐに至るであろう。】(『東京独立雑誌』15号掲載、1898〈明治31〉年12月5日。全集6、p.239)

誠に表現が激烈である。実に鑑三翁らしい表現の一文である。鑑三翁の若き日々の考え方を反映して生硬さを感じるのはやむを得ない。日々鑑三翁の前に立つと私は常に居住まいを正すことを求められているような気がする。読んでいて首肩の筋肉が堅くなることもしばしばだが、そうさせるのがまた鑑三翁の真実と誠実に満ちた預言者のような文章なのだ。またここで指弾している曲学阿世の哲学者とは、国家主義的思想の流布と国威発揚のためのスケープゴートとして、天皇真筆不敬事件をぶり返して鑑三翁を引き合いに出して批難した帝国大学文科大学教授の井上哲次郎を指したものだ。そして井上の言動に乗じて、鑑三翁を批難し抹殺しようとした自らが身を置いていたキリスト教会世界、そして仏教界、思想界、学会、教育界、ジャーナリズム界を「社会」として糾弾したのがこの一文である。”大社会”に対する鑑三翁の悲憤慷慨を読み取ることができる。

 

*注3):使徒行伝19:11に「神は、パウロの手によって、異常な力あるわざを次々になされた。」とある。また鑑三翁はパウロはキリスト教神学の哲学的基礎を明確化しキリスト・イエスの福音を一つの宗教として構築した者として、原始キリスト教を確立したかけがえのない人物として評価している。パウロがいなければキリスト教は成立しなかったであろう。ローマ帝国では379年即位したテオドシウス帝は、ローマの伝統的な多神教を捨て、4世紀末キリスト教を国教化した。これがローマカトリックで、帝都コンスタンティノープルやローマを始め、帝国内各地にキリスト教の大本山が作られることとなった。

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