鑑三翁の誠実と豪胆とは、神にあって自由なキリスト者としての深い信仰に基づくものであり、井上氏の受け狙いの個人攻撃にもひるむことなく独り立ち上がった鑑三翁の姿は、かのパウロを彷彿とさせる。
パウロはキリスト・イエスの昇天後に弟子たちによるキリスト信仰が拡大しつつあることを危惧して彼らを迫害する立場にあったが、ある日イエスの十字架の死の直後紀元35年(33年の説もある)、復活のイエスと出会いイエスの声を直接聞きパウロは回心した。そしてその後は翻ってキリスト・イエス信仰の宣教を行ってきたが、聖都エルサレムに帰ると、アジアのユダヤ教徒からの反感を買い彼らはパウロを捕え殺そうとした。パウロは殺される直前に千人隊長に助けられ、ローマ皇帝に助命を嘆願することになった。そこで千人隊長はパウロにユダヤ教徒に対して弁明する機会を与えた。パウロは神との仲保者キリスト・イエス信仰にこそ真の救済があること、キリスト・イエスは神の仲保者として必要な時に必要な所で必要な人を必要な物を必要な仕方で送り備えてくださる存在であると弁明し、キリスト・イエス信仰への翻意をユダヤ教徒に促したのである。
殺される危機のさ中にありながらも堂々とキリスト・イエスへの信仰の正しさを弁明したこのパウロの姿は、私には明治政府の圧力に抵抗し信仰の正統性を主張する鑑三翁の姿と重なる。また帝国大学哲学大教授井上哲次郎の正面にすっくと立ち、国家権力から圧殺される怖れを感じながらも正々堂々と自分の考えを主張した鑑三翁の胸の中には、このパウロの弁明の姿が浮かんでいたのだろうと推測する。
※
日本では江戸期までのキリシタン禁制の時代を経て、明治時代に入ると1873(明治5)年にはキリスト教禁制の高札が撤去され、表向きには信教の自由が認められるようになった。だがこれは文明開化の旗印のもとで外交上キリスト教を黙認しただけであった。一方では外来文化の移入への関心も高まり、宣教師とりわけピューリタン革命後の欧米各国のプロテスタント宣教師による布教活動、聖書の刊行(注:米英の資金援助により1875年から順次出版されて1880年に「新約全書」が完成し、1887年には「旧約聖書」が完成した。)によってキリスト教徒は増加し、教会が全国に建てられるようになった。当然鑑三翁や新島襄ら外国でキリスト教を学んで帰国した者たちの宣教活動も活発になってきた。
他方明治政府では明治初年に始まる皇室神道を頂点とする「神道国教化政策」が推進されていった。名目上は政府によって信教の自由が認められたとはいえ、万世一系天皇崇拝を表の顔として、廃仏毀釈、キリスト教(耶蘇教)の排斥の力が強く働いていた。また1890(明治23)年には「教育勅語」(教育ニ関スル勅語)が発表された。その後の日本の道徳教育の根幹となった勅語であり、「親孝行」などの「道徳」を尊重するような意見を、天皇が国民に語りかける形式をとり国民の支持を得ようとしていた。
以上のような政府の国家事大主義を背景として鑑三翁の「不敬事件」があり、東京帝国大学哲学教授井上哲次郎と鑑三翁の論争が起きたのである。