ところがこのヨブと家族に突如として大きな悲劇が襲います。〈第1章〉(6-12)では突然聖書の記述が転調します。
【 ある日神の子たちのひとりサタンに神は告げます‥あなたはヨブのように完全で正しく神を恐れ悪に遠い生活をしている者を知っているか、彼は私のしもべなのだ‥と。するとサタンは神に答えます‥あなたがヨブを特別にひいきして保護してきたから家畜は増え家族も豊かな生活ができているのですよ、彼の家畜やしもべ、家族などを全てうち殺してみなさい、さすがの彼だってあなたを呪うことでしょうよ‥と。ここでサタンは神をそそのかしてヨブの完全無欠を毀損しようとしています。そして何と神はこのそそのかしに乗じるかのようにサタンに告げます‥ヨブの所有するもの全てをお前の手に委ねる、ただしヨブ自身には手を付けてはならない‥と。】
神は正しく歩む者をこれ以上ないような酷な試練に出会わせてその行く末を見ようとでも考えたのでしょうか。
聖書「詩篇」には、人間には正しい者(義人)はいないとあります。[主は天から人の子らを見おろして、 賢い者、神をたずね求める者が あるかないかを見られた。彼らはみな迷い、みなひとしく腐れた。 善を行う者はない、ひとりもない。](詩篇14:2-3)しかし神から見て実在しないはずの義人がヨブその人であったことになります。そのヨブに対して神はサタンのそそのかしを受け入れて痛哭の試練を与えようとしたのです。
ではこのサタンとはどのような存在なのか‥というより神は何ゆえサタンに対して甘く寛大なのでしょうか? ここはユング翁にも聞くことにします。《サタンに対するこの弱気な寛大さはなぜなのか? 神は人間をまことに弱く悪に染まりやすく愚かに造ったので、神の悪い息子たちに当然いつまでも対抗することはできないが、その人間に悪を執拗に投影するのはどうしてなのか? なぜ悪は根絶やしにされないのか?》(p.105) 神は人間が弱く愚かであっても愛し慰撫してくれる存在ではなかったのでしょうか? その人間に対して神は何ゆえ残酷な仕打ちを与えるのでしょうか? このことは人間が真摯に自らの人生に立ち向かうときに必ず泡のように次から次へと発生する疑問であり不条理さです。悪も根絶やしにされないのですから‥。
神とサタンのやりとりは恐ろしいものです。神は全てのものを創造しあらゆるものを支配下に置き森羅万象神の聖なる思念によらないものはないとすれば、人間に襲いかかる不幸や災禍も全て神がサタンに指示を出して試練に合わせているのだと誰だって考えます。しかしながらこの単純化された「神-サタン」の構図は、往々にして「ヨブ記」を読む者の短絡的な誤解を生みます。あるいは狂信や反キリストの原型ともなっています。その証拠に現今新興宗教の教祖さんたちはこの構図が大好きです。多くの教会関係者はこれらの事を承知しているので「ヨブ記」を素早く通り過ぎ軽視するのです。これはさかしらというものです。人間にとって不幸です。私は「ヨブ記」が正統的に深く解釈されることを願っています。
鑑三翁はこう記します。《人類に下る災禍は果してサタンが神の許可を得て起こす所のものなるかーこれ今日の人の疑問とする処である。彼らは言うすべての疾病は神より刑罰として降りしものにあらず、その他の禍にもそれぞれ天然的または人間的原因あり、これを天において神の定め給いし所と見るは誤れりと。》(p.20) ここで鑑三翁の言う「彼ら」とは、いうまでもなく一般の者のこと、信仰の薄い者のことです。ここは我々人間にとって極めて重要な「鍵」です。これは何も病気に限ったことではありません。わが身に降りかかる全ての災禍(あるいは喜悦)についても、誰でもが抱く疑問です。
ナチスドイツによってアウシュビッツ収容所に収容され生き残った一人のユダヤ人少女が次のように記しています。「神様はアウシュビッツという存在をお許しになったのだ。‥神様は種をまくが、悪魔はその苗を刈り取り、全てを破壊する。この狂気のゲームに勝つのは誰だろうとディタは自問した。」(A.G.イトゥルベ、小原京子訳 : アウシュビッツの図書係. p.225、集英社、2016) この少女の疑問と確信は人類普遍のテーマです。神と悪魔(サタン)と人間との確執を少女は素直に自問しています。この問いは誰でもが抱く根源的普遍的な問いですね。しかもその「解」には容易に辿りつけません。ただ強く安定した神への信頼をもつ人間だけがその「解」に辿りつくことが可能なのかもしれません。艱難を耐え忍び練達に至り希望を持つにいたる信仰(パウロ)をもつ者の特別の「解」です。
鑑三翁です。1920(大正9)年の講演録なので鑑三翁59歳、円熟の域に達していました。《すべての事は神の旨(みむね)に依りて召かれたる神を愛する者のために悉く働きて益をなすを我らは知れり」(ロマ書八の二十八)とのパウロの言は、すなわちキリスト者の実験である。余自身について言えば、病に罹りし時の如きこれを神より直接に来りしものとは思わず、他の原因が明かに認めらるれど、後に回顧すればその中に深き聖意を認めざるを得ないのである。》(p.21) つまり病気になった直後は他の原因だと考えたが、後に振り返ってみれば聖意(神の御心/恩寵)によるものだと認めざるを得ない、と。鑑三翁の「解」は、その時には地面をのたうち回っても見つからない、しばし「時」を待て、さすれば神は必ず「恩寵grace」という「解」を与えてくれると信じなさい‥という意味だと私は捉えています。