鑑三翁の著書に『求安録』(初版明治26(1893)年、復刻岩波文庫版昭和14〈1939〉年)があります。鑑三翁は明治24年1月にいわゆる「第一高等中学校不敬事件」を引き起こしその直後4月には結婚して二年もたっていない妻かずを病気と心痛の中で亡くしています。この著書は鑑三翁も病中にあり失職し生活も困窮しているさ中に執筆されたもので、出版によって生活費捻出の必要もあったのでしょう。鑑三翁32歳の時でした。この前後の事に関しては私のこの連載でも何度か触れていますが、この『求安録』は鑑三翁の悲嘆心痛の深さが極まった時の執筆でもあり、私は「ヨブ記」を読むたびにこの著書のある箇所を思い起こし、鑑三翁とヨブが完全に共鳴共振している事実に思い至り感銘を受けます。該当する『求安録』の部分を現代語訳しながら読み進めてみます。
《 神が霊によって私の心を詮議される時は、私は隠れる所はなくなってしまう。私が人の前で表白できない罪も神の前では顕かにされる。私の汚らわしい感情、私の浅はかな(卑陋・ひろう)思想、人にわからないようにして犯した罪、他人には知ることのできない私の欠点ー私はこれらをどうしたらいいのだろう。
‥たといわたしは「わが嘆きを忘れ、憂い顔をかえて元気よくなろう」と言っても、わたしはわがもろもろの苦しみを恐れる。あなたがわたしを罪なき者とされないことをわたしは知っているからだ。わたしは罪ある者とされている。どうして、いたずらに労する必要があるか。たといわたしは雪で身を洗い、灰汁で手を清めても、あなたはわたしを、みぞの中に投げ込まれるので、わたしの着物も、わたしをいとうようになる。」(ヨブ記9:27-31)‥
私は私の罪を恥じて神から逃れようとしても神は私を逃してはくれない。私は神の的となり「あなたの矢がわたしに突き刺さり、あなたの手がわたしの上にくだりました。」(詩篇38:2) 私が東に行くと彼はそこに居り西に行ってもまた彼を見るのだ。神は裁きの神であって赦し(宥恕)の神ではないのだ。
私は罪に責められて人生の快楽というものを失った。食事は進まず、夜の睡眠は妨げられ、何事かを為す気力も失せ、ただ恐怖とともに震えながら日々を過ごした。あまりに苦しいのである日私は教師を訪ねたところ、幸いにして二三人の著名な教師が居合わせたので、私は恥を忍んで私の心の中の苦痛を吐露して彼らに教えを乞うように求めたのだ。ところが私の希望に全く反して彼らの内の一人とて私の要求に応じる者はおりませんでした。そして三人が答えて言うのには、私たちはあなたのような経験を全くしておりませんのでご期待に沿えるような事を助言できません、と。そして私を誰一人顧みる者はいなかった。私は心の中の煩悶を表白してしまった事を恥じ、私の思慮の浅さを嘆き失望の内に帰宅したのだった。》(求安録、p.18-19)
ヨブが悲嘆の中にあって訪ねてきた友人たちが、むしろヨブの神への怒りを増長するような言葉を発した事を髣髴とさせる部分ですね。ここにあるように鑑三翁にも心を開いて苦悶の中味を話そうとした知人がいたのですが、ここで出てくる三人の”教師”とは間違いなくキリスト教徒の仲間であり、おそらく牧会をしていた教会関係者でしかも指導者であったことがわかります。その者たちは鑑三翁の深刻な相談であったにも関わらず、にべもなく鑑三翁を突き放します。おそらくはいわゆる「不敬事件」からさほど時間もたっておらず、この事件に関しては当時のキリスト教団体や教会関係者はほとんど全てが教育勅語奉読に賛意を示していましたから、鑑三翁の言動や弁明に対して「否」を突き付けていたことは関係資料からもわかります(小沢三郎:内村鑑三不敬事件. 新教出版社、1961. 等)。 そのため三人の教師は鑑三翁を避けていたとも考えられます。いずれにしても鑑三翁もヨブ同様、身近な者たちからは離反され孤立させられたてしまったのでした。孤独な鑑三翁よ、そしてヨブよ。
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