Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

恩田井水へ・後編

2016-11-16 23:59:59 | つぶやき

恩田井水へ・前編より

 

 恩田井水の取水源は、旧浪合村地積にある。国道153号線を阿智村智里から長い坂道を上り詰めると標高1073メートルの寒原峠に至る。かつてわたしはここから旧浪合村だと思っていたが、本当はもっと手前の坂の途中から浪合村に入っている。寒原峠より手前の水は流れ下ると阿知川に流れ込むが、峠より向こう側は、和知野川を経て直接天竜川へ流れ込む、いわゆる分水嶺となる。ようは第1取水源は分水嶺より向こう側にある。峠を超えるとすぐに国道から右折しあららぎ高原に向かう谷があるが、この谷、いわゆる恩田川から取水し、長九郎沢の水を補給しながら寒原峠を超えて大沢の谷に導水される。ちょうど国道を寒原峠に上り詰めようとする右手の山の中からその恩田井水の水路が一瞬顔を出す。いったん大沢に放たれた水は、三ツ渕というところで再び取水されて、昨日も触れた3キロほどの山腹水路が始まるというわけだ。長九郎沢から寒原峠までの間も山腹水路に変わりはないが、とりわれ三ツ渕から越田峠までが難所というわけである。

 等高線に沿って歩くと、至るところにかつての水路の残骸がある。とりわけかつて暗渠として利用されていた口が目立つのだ。当初はほとんどが等高線に沿って土水路が造られていたが、花崗岩の風化著しい山は、崩壊しやすい。斜面の窪みには雨水が集まるため、そうした場所は決壊することもあれば崩落土によって埋没してしまうのは常だっただろう。そうした場所は崩落土によって埋まらないように暗渠化して防ぐことに。写真の黒々した穴はそんなかつての暗渠の口なのである。直径にして5、600ミリ程度のもの。当初の水路がそれほど大きくなかったことが解る。ところが暗渠化しても崩壊が著しいため、決壊を繰り返す。等高線に沿っているから延長も長いと、管理するのが大変だったというわけだ。そこで考えられたのが隧道である。とりわけ等高線沿いに大きく迂回していた水路は、隧道化することによってショートカットされて延長は短縮される。崩壊の危険を避けられるとともに、落ち葉や崩落土による水路への影響からも回避されるというわけだ。当初掘られた隧道は幅にして1メートルもないようなもの。かつての水路用の隧道はどこも同様のものだった。したがって水路は隧道化されたが、もともとの水路敷は管理道として使われた。崩壊して水は通せなくなっても、歩く道はここに頼ったのである。戦後隧道化された以降も、こうして旧水路敷は管理道として管理されてきた。ようは水路と管理道という並走する施設を維持しなくてはならなかったというわけだ。したがって恩田井水にわたしがかかわるのは、多くは水路のためではなく、管理道のための方が多かっただろうか。とりわけ管理道が隧道から大きく迂回するのが智浪隧道(昭和44~45年に造成)のある場所だろうか。三ツ渕から越田峠までの3キロのほぼ真ん中あたりにそれはある。ここでは数年前に新たな隧道が掘られ、管理道があまりに迂回していて長いため、現在は隧道内を組合の人たちは歩く。写真はこの智浪隧道のかつての管理道の一部にあたる。けして通れないことはないが、迂回路が長いため、今は歩く人はほとんどいない。

 山腹の開渠が崩壊によって暗渠化され、次いで隧道化される、一時代の農業用水路の流れだったかもしれない。同じような経過をたどった水路も、県内には至るところに見ることができるが、とりわけ管理道が水路と沿わずに長い例は、恩田井水が典型的と言える。

 さて、前編でも触れた通り、今は農業用水路というよりも、水道水源の水路としての役割が大きい。もちろん阿智村伍和の水道水源にもなっているが、隣接する下條村全域の水道水源にもなっている。この契約が締結されたのは昭和61年のこと。災害発生時には阿智村に協力して速やかに応急復旧をするという条文も見られる。まさに「寒原の水」は「命の水」なのである。

終わり


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