「南信州とは?」を記したのは2006年だから、この日記を始めた草創期のころのこと。現在でも行政サイドで使われる「飯伊」(はんい)は、飯田下伊那地域のことを指す略称だった。しかし、わたしが「南信州とは?」を記してもう10年近く。あのころよりさらに「南信州」は当たり前のように使われるようになって、その認識も高くなったと言えるだろう。「“今ではお目にかかれないモノ”5」で取り上げたパンフレットが作られたのは、旧鼎町が飯田市に合併する以前のこと。鼎町は昭和59年に飯田市に編入合併されているからこのパンフレットは30年以上も前のもの。そのパンフレットには「南信州」という単語はただのひとつも登場しない。「飯田」といえば長野県の飯田と認識される人はけっこう多い。あえていうなら、そのパンフレットでも綴られているが「信州の小京都・飯田」なのだ。しかし、現在の飯田市のパンフレットには「南信州飯田」と飯田の上に「南信州」を冠す。時代が変わったという印象とともに、なぜ「南信州」なのだ、となる。以前にも触れたように、農協が郡単位で合併された時にこのエリアの農協は「南信州」と冠した。そして広域連合といわれる行政の連合組織に同じように「南信州」を冠した。そのあたりからである。「南信州」がこの地でよく使われるようになったのは。飯田観光協会と南信州広域連合が作成している長野県南部の観光ガイド「南信州ナビ」というものに、この「南信州」について説明がされている。それによると、「「南信州」とは、日本の真ん中に位置し、長野県の最南端、飯田市と下伊那郡(13町村)からなる信州南部の地域を言います」とある。あくまでも「南信州」は自分たちのもの、という宣言でもある。いっぽうウィキペディアでは、「飯伊地域」の説明として「飯田を中心とする下伊那郡を南信州、「飯伊地域」と呼ぶ事がある。」と書いている。あえて「呼ぶ事がある」としているのは「南信州」といってもその地域に限定されていると断言できないからだろう。この書き方が正解だろうとわたしも思う。
とはいえ行政がそう宣言している以上、近ごろは「南信州」とは飯田下伊那エリアのことだと県も考えているようだ。長野県下伊那地方事務所が出している「南信州お散歩日和」というページは、その名「南信州」を冠している。その巻頭に「広い長野県の南端に位置する飯田・下伊那地域。 地域の方には「南信州」という地名で親しまれています」と掲げている。これを読む限り、古くから「親しまれている」と捉えられても不思議ではない。さらに「地名」と表現しているが、「南信州」という地名はどこにもない。実はこのページの表現は冒頭から間違えているというわけだ。「今は南信州と呼ばれ、親しまれています」と書くのが正しいだろう。
さて、このエリアを対象にした地元紙「南信州」の1月7日版読者投稿コーナーに、「移住暮らしで思う」という文が掲載されている。投稿されたのは地元ではなく隣のエリアにあたる駒ヶ根市に住む女性の方。文によると房総から2年前に移り住まれたとのこと。そして「人生の新たな道に夢を託し南信州・駒ヶ根市に移住してきました」と表現されている。ようはこの女性は駒ヶ根も「南信州」だと捉えているのだ。そもそも信州の南に位置すればどこも「南信州」にあたる。いわゆる「南信」と言われる地域はそういう捉え方をすれば「南信州」といっても間違いではない。さすがに諏訪のことをそう呼ぶ人はいないだろうが、間違いではない。「南信州」といった飯田下伊那に配布される新聞に掲載されているから、きっとこの新聞を読まれた方の中には「この人間違えているよね」と思う人がいるかもしれないが、そう思う人が間違えているのである。地域を表現する地域名、なかなか使いづらいのである。
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