馬場家住宅
馬場家住宅のカッテにおいて、多田井幸視さんの解説
特別に公開された隠居屋と茶室
堀内家住宅(塩尻市堀ノ内)
小野宿油屋(辰野町小野)
小野宿問屋(辰野町小野)
長野県民俗の会において松本市馬場家住宅を例会の会場にするのは2度目である。とはいえ、今回は馬場家住宅だけではなく、塩尻市の堀内家、そして辰野町小野の同じ本棟造りの家々を訪ねた。長野県民俗の会第232回例会は、「本棟造り民家の見学」というもので、八十二文化財団が主催する民俗学講座の見学会に併せ本日行われた。八十二文化財団の催しに信濃史学会と長野県民俗の会が後援して共催する例会は、最近年は時おり実施されている。とりわけ財団の参加者が多いのは言うまでもなく、そして意外に財団の催しへの参加者には勉強熱心な方々が多い。そう思ってうかがっていると、名乗らなかったが(わたしと気かつかなかったのかもしれない)、顔見知りのその筋ではよく名の知れた方もいらっしゃった。いろいろ説明者の話に耳を傾けられていてわたしは気がついた。詳しいのもなるほど、と思ったしだいだが、逆になぜ見知らぬふりをされていたのか(わたしに限らずわたしたちの会のことは知っているはず)、これもまた地域間のかかわりが背景にあったりして融合しない理由をそこに見たわけである。
それはともかくとして、馬場家住宅については、2015年に実施された長野県民俗の会第193回例会の報告に記した。さらに本棟造りについては、かつて「なぜ流行った本棟造り」を記している。今から数十年前と言ってもよいのだろう、わたしがまだ子どものころには、本棟造りと称してよいか「ハフヤ(破風屋)」とも称する家がはやった。世代的なこともあって、わたしの父の世代には多かったといえる。証拠に親戚筋でも母方の姉妹には本棟の家がいくつかあった。そしてそれらは昭和40年代後半から50年代にかけて造られていた。いわゆるまだ生業が農業だった時代にあって、それら農家が建てる家によく見られた傾向である。本棟造りの話になると、必ず今もって本棟を望んで造る人がいると言われるが、わたしにはその印象は強くない。父の次世代にあって本棟の家を造ったという事例はあまり記憶にない。故に「なぜ流行った本棟造り」を記した。2009年だから、もう10年以上前のこと。
本棟造りとは長野県の中部から南部にかけて特徴的な建築物である。破風の面に入り口をを設けており、その面の幅は8間から10間と広い。本例会で多田井幸視さんの解説があったが、「8間三側(はっけんみかわ)」という言い方があるという。破風正面側に客間を設け表側とすると、中央の2列目に居間といった通常の生活空間を置き、奥側にあたる裏に寝間といったプライベート空間を配置する。3列配置からこの言葉があるようだ。以前の例会報告にも記したとおり、庶民とは少しかけ離れた存在の建物である馬場家住宅。とはいえ、そのあとに訪れた堀内家を見てみると、馬場家より立派な造り。それもまた庶民とはかけ離れた雰囲気があるが、しかし、わたしの生家に近い造りが各所に見られ、親近感はあった。例えばあがり鼻にある囲炉裏。大きさも天井を見渡した光景もかつての暮らしをイメージできた。座敷の印象も、縁側の印象も親近感があった。豪農の家だったというから、いわゆる農家とはことなるだろうが、馬場家よりは親しみを覚えた。そのいっぽうさらにその後見た小野のふたつの本棟造りは、馬場家並みの違和感を抱いた。それが旅籠であったり問屋であり陣屋代わりにもされたというところから当然の違和感なのだろう。そこには親しみのある営み空間は抱けなかった。結果的に自らの位の低さを知るに過ぎないわけだが、この地域では「雀踊り」が無ければ「本棟ではない」という言葉もあるように、家格を示す象徴のような姿が、人々に根付きながら「本棟造り」のイメージが出来上がっているといえ、今回見た4棟はいずれもその「雀踊り」が付属する建物だった。加えてこの日話題になった点については、後編に譲る。
後編へ
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