伊那市東春近田原上新田「庚申」と「道祖神」
伊那市東春近の大沢川沿い、地籍では田原になるが大沢川左岸側を上新田という。今は上新田と下新田が一緒になって新田というらしいが、集落と大沢川の間に水田地帯があり、5年以上前からこのエリアで砂利取りがされている。ようは建設資材となる砂利を、水田の下から採取して、そのあとには別のところから土を搬入して戻している。田原一帯の水田地帯を広く行っており、まだ何年もこの作業は続く。土を戻したあとは、元の区画に戻すのではなく、区画を大きくしたほ場整備を行っている。
写真1枚目は、大沢川の堤防の上から撮影したもので、水田の向こうハウスとハウスの間に舗装された道が見えている。この道が砂利取りする前はそのまま堤防まで繋がっていたのだが、区画を大きくした際にその道はなくなった。ちょうどかつての道が堤防の上に乗りあげるようにつながっていたもので、そのかつての道の上に大小石碑が2基並んでいる。写真は石碑の背面から写している。今までにも何度かこのあたりに来ていたのに、ここに石碑があることに気づかなかった。かつての道の上に安置されているから、もちろんほ場整備された後にここに移転されたとわかる。集落内ではなく、なぜか大沢川の端に建っていることから、「流されてきたものか」とも思ったわけだが、とりあえず『伊那市石造文化財』(伊那市教育委員会 昭和57年)の一覧で確認してみた。大きな碑は「庚申」であり、「寛政十二天 三月」とある。ちょうど1800年に当り、庚申年である。いっぽう小さな碑は「道祖神」であり、向かって左側側面に「文化十四丑年 上新田中」とある。両者ともに前掲書に記載がなく、やはり流された、あるいは埋まっていたものと想像された。「上新田中」とあるから上流から流されたものではない。明らかにこの地で建てられたもの。ということでその謂れを仕事でお世話になっている方に聞いてみた。
やはり今回の砂利取りの際に掘ったところ土の中から出てきたもので、「庚申」の方は前述したハウスとハウスの間にある道の突き当り、県道の端に上新田の大地主の田んぼがあって、そこに柿の木があったという。その水田から出てきたもので、処分するわけにもいかず、道の延長上の現在地に建てたのだという。「道祖神」の方は同じ場所ではなく、そこから南へいったところのやはり砂利取りした水田から出てきたものという。かつては水害の常襲地帯で、大きな水害は昭和26年にあったという。天竜川の水による水害といわれ、この下流にある伊那峡で川が狭まっているために田原では淡水することが度々ある。伊那市内では美篶のあたりでも掘りだされた石碑と言われるものがあちこちにある。水害の常襲地域では、土の中からこうして発掘される石碑があるわけで、前掲書に掲載されていないのも納得する。ちなみに道祖神は砂岩系かと思われ、庚申は緑色片岩と思われ、三峰川に流れてきた巨石と考えられる。、