goo blog サービス終了のお知らせ 

これはだめだ!

自信喪失、無気力な日本に”喝!”、反日、侮日に反撃、一矢を報いる。

8月12日、皇太子下田“静養”、心は国民と共にあるのか“抜け殻”か!殉国の英霊に背く反日か!(下) 

2014-08-14 | 皇室 

           2014年8月14日19時 NHKテレビ   
「8月12日、皇太子下田“静養”、心は国民と共にあるのか“抜け殻”か!殉国の英霊に背く反日か!(上)」 
の続き   

 元企画院総裁・内閣書記官長であった星野直樹は、東條元首相よりややおくれて巣鴨に収容され、そして東條元首相と同時に、戦犯容疑者として、極東軍察裁判にかけられた。かくて、3年余年、東條元首相が死刑の宣告を受けるまで、巣鵜で、同囚の身としての月日を送り、朝に夕に起居をともにした。

 星野直樹は、東條元首相の最期の様子を次のように語っている。  
 私が東條さんと、最後に別れたのは、判決を受ける直前であった。私は、しっかりと手を握り合って、東燦さんと涙ながらに別れの挨拶をした。   

 私は、「ながながとお世話さまになりました。いよいよお別れです」というと、東條さんは、「さよな、君までこんなところに引っ張ってきたのは、まことに相すまなかった」と、いわれた。 
 「いや、そんなことは、決してありません」といって、ふたたび私は、東條さんの手を握りかえした。その直後、私は終身禁固の判決を受け、東條さんは、死刑の宣告を受けたのである。かくしてふたたび会う機会は、永久に失われたのである。


 (戦争責任への確たる信念)
巣鴨における、東條さんの朝夕は、じつにりっぱなものであった。
いつも、おだやかなようすをしていた。かつて健在な時代に、ときどき見せた、東條さんらしい、あのかたい表情は、ほとんど見られなかった。
東條さんは、大東亜戦争の責任は自分ひとりが負うべきものと、かたく信じ、この信念のもとに、日々の行動を律していたものと思われる。 
 東條さんの考えとしては、「日本が戦うにいたったのは、やむをえない事由によるものである。けっして、好んでおこたったものではない。したがって、戦争をおこなったことを、犯罪としてさばかれるべきものではない。

しかし、もし戦勝国が、これを罪としてさばこうというならば、その責任は、完全に自分にあって他の人にはない。   

 天皇は、戦争を防ぐために、あらゆる努力をつづけられた。にもかかわらずついに戦争となったのは、戦争やむなし、と最後に自分が、補ひつをおこなったためである。その責任は、形式的にも実質的にも、自分ひとりにある。  

 その他の人たちも、この最後の決にいたるまで、それぞれの意見を述べた。が、これを最終的に決定しこれを補ひつしたものは自分のほかにはない。その結果、戦争がおこり、戦いは日本の完敗に終わった。そのために、祖国のこうむった損害、恥辱を思えば、いかなる処罰を受けるとも、自分はこれを甘受すべきはいうまでもない。

ただ、最後の、ご奉公として、この機会に、日本が、けっして好んで戦争をおこなったものではないことを、どこまでも天下に明らかにしたい」 

 裁判に関しても、東條さんはだれのためにも喜んで、その人の有利になるような証言をおこなうことにつとめた。なかには、東條さん自身が不利となる恐れのある場合にも、大本を逸しないかぎり、喜んでこれに応じていた。さらに。もとは東條さんにかわいがられていた部下が,自身の保身のためであろうか、検事側の証人となって、法廷に出て、聞いていても恥しいような証言をしたときにも、東條  さんは顔色ひとつか変えず、また、憤懣のことばももらさず、平然とこれに聞いていたことは、実に印象的であった。
 巣鵬プリズンにおける獄中生活の中での東條さんの態度は、まことにりっぱであった。想いおこすたびに、私は、いまでも、頭が下がる思いを禁じえないのである。
                  (『丸 エキストラ版100 ゴールデン特集 大本営の全貌』)   

被告は刑場の露と消えた   
 東京裁判の判決が言い渡されたのは1948年11月12日である。

 児島襄はその著『東京裁判(下)』(中公新書)の中で、この日の法廷の模様を次のように描写している。

この日、ウェヅブ裁判長は、ケンワージー憲兵隊長を呼び、宣告がよどみたく朗読できるよう、次々に間断なく被告を登場させよ、と指示した。午後3時50分-判事団が入廷した。
 予定の15分間よりも休憩がのびたのは、パル・インド判事が自分の少数意見朗読について、ウェッブ裁判長の再考を求めたためだが、裁判長は拒否した。 

 午後3時55分である。ウェッブ裁判長はせかせかと宣告文を読みあげた。「被告荒木貞夫……被告を終身の懲役刑に処する」とたんに法廷内にどよめきがひろがり、静粛を命ずる槌の音がひびいた。荒木大将は一礼して姿を消した。

土肥原賢二大将 “絞首刑(デス
バイ ハンギング)”。持病の顔面神経痛のため、顔がピクピク動いていた。太い首をうなずくように小さく動かして一礼した。

橋本欣五郎大佐 “終身刑”。直立して聞いていたが、ぐいと右に首をまわしたまま、背をむけた。
畑 俊六元帥 “終身刑”。二度礼をした。
平沼駿一郎元首相 “終身刑”。ケンワージー憲兵隊長にかかえられて登場した。前かがみにうなずいて、一礼した。

広田弘毅元首相 “絞首刑”。広田元首相は他人の話を聞くときは、眼をつぶる。このときも眼をつぶって宣告を聞き、イヤホーンをはずすと傍聴席の令嬢たちの姿を探して、微笑を送った。しかし、法廷は、意外の宣告に衝撃をうけたように静まり返り、ついで動揺した。およそ、予想しなかった決定であったからである。わざわざ通訳を代った林秀一は、あまりのことに蒼白の顔をひきつらせ、機械的に通訳したものの、ぼんやりとしていた。

星野直樹元書記官長 “終身刑”。よれよれのワイシャツだった。がくがくと頭を下げた。
板垣征四郎大将 “絞首刑”。一歩前進、不動の姿勢で聞き、回れ右をして去る。礼はしない。
木戸幸元内大臣 “終身刑”。丁重にお辞儀した。蝶ネクタイが ちょとゆがんでいた。次男木戸孝彦は昼食休憩中に、助かるぞ、という外人記考の情報をうけていた。

末村兵太郎大将 “絞首刑”。姿勢を正して聞いていた。  
小磯国昭元首相 “終身刑”。イヤホーンをつけたまま一礼した。
松井石根大将 “絞首刑”。たった一つの訴因で死刑である。2、3度、軽くうなずいた。 
次郎大将 “!終身刑”。宣告が終っても胸をはって立っていた。ケンワージー憲兵隊長が手をのばしてイヤホーンをはずすと、もう終りか、というふうに隊長を見て退出した。 

武藤
章中将 “絞首刑”。やはりそうか、という感じでうたずき、微笑して、軽く目礼した。 
岡敬純中将 “-終身刑”。黙然と無表情のままで背をむけた。
犬島 浩元駐独大使 “終身刑”。大またで歩いて行った。

佐藤賢了中将 “終身刑”
。大きな頭をさげると、外人傍聴席から笑声が起った。
重光 葵元外相 禁固7年”。通訳の日本語を聞かずに退廷した。
嶋田繁太郎大将 “終身刑”。きちんとした一礼を残して去る。

鈴木貞二元企画院総裁 “終身刑”
。顕髪がボサボサだった。むっつりと眉をひきしめ、ぎろりと眼をむいた。
東郷茂徳元外相 “禁固20年”。不機嫌そうにうつむいた。 
東條英機大将 “絞首刑”。両手を背にくみ、ゆったりと現われた。わかった、わかっとる、といいたげにうなずいた。
 
賀屋興宣元蔵相白鳥敏夫元駐伊大使、梅津美治郎大将については、欠席のままいずれも終身刑を言い渡し、ウェヅブ裁判長は午後4時12分、宣言した。
 「これを以て極東国際軍事裁判を閉廷する」 

刑死した被告は殉国の士として祀られた 
 1948年12月21日の朝、第8軍司令官ウォーカー中将は、第一生命ビルにマ元帥を訪問、13分間にわたって密談した。時期からいって、当然これは処刑の命令を受領したものとみられた。

 22日(木)夜には、渉外局へ各社の記者が徹夜を覚悟でつめた。23日(金)早暁のニュースを逃さないために。わが同僚の山口記者はそろそろ眠くなった。で、廊下へ出て、深呼吸をしていると部屋で電鈴が鳴った。

 キャンパス・ベットからはね起きた当直将校のホーキンス大尉が電語にかけ寄ると、クランツ軍曹がいち早く受話器をとった。渉外局長エコルズ大佐が、巣鴨の現場から第一報を送ってきたのだ。大尉がかわる。
 「零時1分から35分までの間に全員処刑された。異状はない」

 軍曹が、すぐタイプを叩く。外国通信記者があわててかけつげる。廊下を飛廻る記者たちの足音が、一瞬にして深夜のしじまをかき乱す。日本A級戦犯処刑のニュースは、こうして東京の夜空から世界にとんだ。

 この瞬間を予期はしていたものの、この死は、しめやかな、きびしい、強い-衝撃をあたえずにはおかなかった。

 その日の午後3時半、東大で花山博士(注、巣鴨拘置所の教誨師)との共同会見があった。「死刑囚」7人は、何の目印もない米軍の作業衣を着て、13階段をのぼった。死の金曜日を時が刻んでからホンのわずかばかりたった時刻に。 
 巣鴨には、絞首台の新設されたものは4基しかたかった。
 はじめ、土肥原、松井、東條  、武藤の4人が、まず刑場のしきいをまたいだ。

 つぎに、板垣、広田、木村の3人か手錠をかけた手で、双手をあげないまま「万歳」を唱え終ってから、刑場への道を歩いた。「万歳」は「あんたやんなさい」と広田がすすめ、板垣が大音声をあげたといわれている。   

 この7人の執行を、マ元帥の要請によって、米国代表のシーボルト公使、中国代表の商震上将、イギリス代表のパトリック・ショウ氏、ソ連代表のデレヴィヤンコ中将・・・・4人が死の「確認者」として、刑場で検分していた。  

 侵略戦争の共同謀議者、またはその遂行者として、残虐戦争の責任者として、そしてまた、松井将軍と、広田弘毅氏は、10年前の南京事件の責任者として、この絞首台のマニラロープに身を委ねたのだった。    

 この7人は作業衣を着て、手錠をはめられ、そして、スッポリと黒い衣を頭からかぶせられた。伝えられているのは、この7人が人の手をからずして、13階段をのぼったということと、一大轟音とともに空を蹴り、ややしばらくして、息絶えたということ、だけである。あとは、死囚を扱う人の手に渡った。 

 ニュールンベルグ裁判で死刑になったドイツ人戦犯の場合、火葬のあと、その灰はトラックで街賂に撒き散らされたが、日本の場合は、横浜の久保山で火葬に付された。この灰は、たしか飛行機か何かで海上へ撤き散らされたはずである。弁護土の三文字正平氏らが、その残灰をかき集め遺族に渡しと伝えられている。  

 東條夫人勝子は、切に大将の遺骨引渡しを望んでいたが、マッカーサー総司令部は頑として応じなかった。東條夫人は、総司令部に嘆願書を出していた。軍人の家族の一員として、夫の死刑については何の異議もないが、せめて夫の遺骨は日本の慣習と宗教によって葬らせていただきたい、という趣旨である。 

 しかし、好意ある回答は得られず、あきらめていた。だが、あきらめない者もいた。小磯被告担任の弁護人三文字正平である。三文字弁護人は、処刑前に、7人の遺体が久保山火葬場で処理されることを探知すると、7人の遺骨の奪取を計画した。久保山火葬場は、三文字夫人の遺体を荼毘に付した有縁の場所でもあり、火葬場に近い興福寺住職市川伊雄とも知己であった。    

 三文字弁護人は市川和尚を通じて飛田火葬場長を説得した。飛田火葬場長は、部下3人に指示して、7人の遺体の到着を待った。23日午前7時すぎ、2台のトラックが7つの棺を輸送してきた。広田元首相の棺に血が流れていたのが眼についたが、飛田場長らは火葬が終ると、首尾よく用意の7つの骨壷にそれぞれ7人の遺骨を分納することができた。 

 ところが、骨壷をかくした所に線香をそなえたために米兵に発見され、没収されてしまった。結局、25日、クリスマスで米兵の警戒もゆるむ夜をねらい、三文字弁護人、市川和尚、飛田場長の三人が、火葬場付属の共同骨捨場に接近した。米兵は7人の遺骨を鉄棒で粉砕して容器につめてはこび去ったが、残余をこの骨捨場に投棄したのを飛田場長が目撃したからである。3人は、骨捨場の上部にたまる真新しい骨灰をすくいあげた。  

 遺骨灰の殆どは米軍が処理したが、当時の飛田美善火葬場長と小磯国昭の弁護人三文字正平らにより密かに骨壷一杯分が集められ、翌年5月3日、松井大将ゆかりの興亜観音(興亜観音は静岡県熱海市伊豆山)に持ち込まれた。  

 当時の住職、伊丹忍礼師(法華宗陣門流、僧正)は即座に7人の遺骨灰と直感し、時期が来るまでとこれを匿い、1959(昭和34)年4月19日、吉田茂元首相筆による「七士之碑」が建てられ、遺骨灰はこの下に埋葬された。 

三文字正平弁護士は1952年のサンフランシスコ平和条約締結と同時に廟の建設運動を開始、1958年4月28日、東京の日比谷で開かれた極東国際軍事裁判弁護団解散記念会で墓碑建設が正式に発表された。愛知県西尾市東幡豆町の三ヶ根山に殉国七士廟が設けられ、興亜観音の七士遺骨から香盒一ヶ分を分骨して埋葬された。1960(昭和35)年8月16日に墓前祭が実現した。 

昭和天皇は戦後の復興についてどう考えたか      
 昭和天皇は国体護持に尽くし近衛元首相の自殺になんら反応を示さなかったが、さすが、戦犯として死刑を宣告され処刑されるに及び懊悩は大変なものであったといわれている。昭和天皇は自殺するかもしれない、退位するかも知れぬと占領軍や政府関係者などは危機感を抱いていたようである。  

 終戦の翌年の8月14日、昭和天皇は、午後7時より終戦一年に因んで、当時以後の首相と現在の閣僚らを花蔭亭に招き、お茶会を催された。出席者は次の13人だった。鈴木貫太郎、東久邇宮稔彦、幣原喜重郎、吉田茂、大村清一、石橋湛山、星島二郎、和田博雄、河合良成、石渡荘太郎、松平慶民、大金益次郎、広瀬忠隆。入江相政侍従は、隣室につめていた。  

 天皇の、やや甲高い声が聞こえてくる。「朝鮮半島における、白村江の闘いで唐、新羅の連合軍に敗北した後、天智天皇は、国内体制を整えるために、大化の改新を断行された。その際、天智帝は、敵であった唐の制度を採用し、国家体制を盤石にした。
 この度の敗戦も、同様の意義をもっていると私は思う。敵である米国の制度を取り入れ、取り込むことで、国家を再建すべきである」  

 さすが流石に、入江侍従は驚いた。大化の改新は、1300年も前の出来事である。
 その、太古とも呼ぶべき時代の出来事を参照して、今日の危機を乗り越えようと云うのだ。宮中に長い事勤めてきたが、天皇の時間感覚は、やはりとてつもない。  

 そうして、平然として、かつて天智天皇が唐の制度を導入したように、今回は米国の制度を取り入れてしまえ、と言ったのだ。天皇は、重臣たちに意見を求めた。東久邇宮と幣原が、早速、同意した。
「吉田は、どう考えるか」と天皇は、総理に意見を求めた。「誠に、時宜に遭った御決断かと存じます」 吉田は、即答した。  

 昭和天皇の復興に対する考え方は、1946年8月14日の会議における発言に要約されている。これを受けて、1946年10月10日、バイニング夫人が皇太子の家庭教師として来日した。今上天皇は米国の手によって教育され育った、まさしく占領政策の申し子である。また、昭和天皇が、国民の先頭にあって復興に取り組まれたことも明らかであり国民の認めるところである。
          皇太子の授業を参観するバイニング夫人
       
          読売新聞社 『月間THIIS 読売 1991-8特大号 秘話 昭和天皇』    

 今上天皇も敗戦後、疎開先の日光から帰京され国土が焼け野原に変わり果てた惨状を見られ、戦争の悲惨さを目撃されているためであろうか、今日も齢に鞭打ちつつ国民に寄り添うべくご努力されていることがよく分かる。  

皇太子一家の心は日本国民と共にあるのか、魂を米国に預けたか! 
 1948年11月12日、東京裁判の判決があった。訴追された被告は、誰一人として天皇に戦争責任が及ばないよう、“国体護持”天皇制存続のため身を賭して裁判に臨み、判決に反発することなく従容として死を受け入れた。 

 対する昭和天皇はマッカーサーとどのような話し合いを持ったか公表されていないが、マッカーサーの占領政策に協力して“国体護持”を確かなものにしたことは否定できそうにない。 

 皇太子一家は、毎年8月15日の数日前から15日以降の日まで静養に出かけられる。一般の庶民にとって8月15日という日は、月遅れの盆とか旧盆ともいい、この時期に先祖の墓参りをする家庭が多い。 

 皇太子一家が、毎年この時期を選んで静養に出かけるのは、8月15日には戦没者追悼式に出られる今上天皇皇后両陛下のあり方と対称的で、いささか奇異の念を抱かざるを得ない。 

 親子2代の生き方が対照的な理由はなぜだろうかと、毎年この時期になると思う。

 思うに、皇太子の義父・小和田恆は、「日本の外交は、東京裁判を背負っているハンディキャップ外交」であるという自虐史観の持ち主である。小和田は外務省官僚のトップとして外務省をコントロールしていた時期があった。   

 皇太子一家が、8月15日を挟む期間を選んで“静養”することは、“無色透明”ピーマンのように見受けられる皇太子の思いつきとは考えにくい。従米体質の外務官僚やそれと似た体質を持った宮内庁官僚に沿った動きなのであろう。従米の官僚が、皇太子一家の動向を通して“日本外交は、政治家の動きとは一線を画し、“占領軍が敷いた路線を継続する”とのメッセージを米国に発信しているようにも観察される。 

 東京裁判で、米国も対日占領政策を遂行する上で天皇に戦争責任を及ぼさないよう裁判を進め、被告に対し死刑または無期懲役を言い渡した。裁く米国と裁かれる日本側が“共同”して天皇に戦争責任が及ばないよう知恵を出して裁判を進行させた。 

 巣鴨拘置所における教誨師として“戦犯”の処刑に立ち会った花山信勝は『平和の発見 巣鴨の生と死』の中で、処刑直前のやり取りを書いている。その中から、刑死者の言葉を抜粋する。 
●土肥原賢二 享年62歳 
  『身はたとへ処刑の庭に巣つるとも 朽ちせぬものは心なりけり』  
  『夜をこめて汽笛の声も哀れなり 諸行無常の響きわたりて』
  『八寒も焦熱の苦も何かせむ 平和への贄われと思えば』 

●広田弘毅 享年71歳 
 教誨師の花山信勝の「歌か、あるいは詩か、感想か、何かありませんかの問いに 

 『公の人として仕事をして以来、自分はやったことが残っているから、いまさら別に申し加えることはないと思う』、 他に何かありませんかと言うと『それは、判決前に市ヶ谷で申し上げておきました。すべては無に帰して、言うべきことは言って、つとめを果たすという意味で自分は来たから、今更いうことは事実ない。自然に生きて自然に死んでいく』これが私の信条だといった。   

●板垣征四郎 享年64歳 
 『とこしへに わが国護る神々の 御あとしたひてわれ逝くなり』 
 『ポツダムの宣のまにまに とこしへの平和のために命捧ぐる    
   とこしへの平和のために身を捨てて糞土を黄金にかへる嬉しさ』 
 『全く内は糞土ですからね、外は飾っておっても・・・・』 

●木村兵太郎 享年61歳  
 『礎はいよいよ固く鎮まりて 建ち行く国を護りませ君』  
 『ちりますと聞けば恨めし桜花 人目ひきたる春もありしお』  
 『みさとしを我忘れぬや 世々強くし生きむいとし子のため』  

●松井石根 享年71歳 
 南京事件について、師団長級の遭徳的堕落を痛烈に指摘して、つぎのような感慨をもらされた。

 「南京事件ではお恥しい限りです。南京入城の後、慰霊祭の時に、シナ人の死者も一緒にと私が申したところ、参謀長以下何も分らんから、日本軍の士氣に関するでしょうと言って、師団長はじめあんなことをしたのだ。私は日露戦争の時、大尉として從軍したが、その当時の師団長と、今度の師団長などと比べて見ると、問題にならんほど悪いですね。日露戦争の時は、シナ人に対してはもちろんだが、ロシヤ人に対しても、俘虜の取扱い、その他よくいっていた。今度はそうはいかかかった。

 政府当局ではそう考えたわけではなかったろうが、武士道とか人道とかいう点では、当時とは全く変わっておった。慰霊祭の直後、私は皆を集めて軍総司令官として泣いて怒った。その時は朝香宮もおられ、柳川中将も方面軍司令官だったが。折角皇位を輝かしたのに、あの兵の暴行によって一撃にしてそれを落してしまった。ところが、このことのあとで、みなが笑った。甚だしいのは、或る師団長の如きは「当たり前ですよ」とさえいった。 

 從って、私だけでもこういう結果になるということは、当時の軍人達に一人でも多く、深い反省を輿えるという意味で大変に嬉しい。折角こうなったのだから、このまま、往生したいと思っている」

●武藤 章 享年57歳 
  刑の宣告の日の和歌ですがね、として、     
  『数ならぬ身に光栄の極みかな とはの平和の人柱とは    
   みんなみ(南)の死すべき我なりき 今さらなどか命惜しま』

●東條英機 享年65歳
 12月18日(木)教戒師の花山氏との面会の際、メモしたことを話された。公的な点に関しては、裁判終了の心境、判決、敗戦後の世界情勢をのべたあと4番目に戦死、戦病死者、戦災者、及びそれらの遺家族に関し次のように語っている。

 『戦死、戦病死者、戦災者、及びそれらの遺家族については、政府はもちろん、連合国側においても、更に同情を願う。これらの人々は、赤誠国に殉じ、国に尽くしたものであつて、戦争に対して罪ありというならば、われら指導者の罪である。私の処断によって、罪は決しておる。これらの人々を、悲境に泣かしめたくはない。また巣鴨にある戦犯者は、それぞれすでに罪に服している。戦犯者の遺家族に対しては、同情ある配慮を願いたい。ソ連に抑留されておる人々の、一日も速やかに内地に帰還されむことを願う。 以上、私は間もなく刑に処せらるるも、心に残りおる点である。』

 自決に関しては
 『それは結局のところですな、都下たちに俘虜となるな、そういうような時があれば死を選べと戦陣訓に数えておいたので、自らそれを実行したまでなのです。他の人には前の日に通知があったが、私には出し抜けに憲兵が来た。そこで、間髪を入れずやったのです。なお家のものに伝えてもらいたいが、秀正(満喜枝さんの婿)の自殺した軍用銃を使ったのだということを。誰も知っておらぬと思うから。ところが、直ぐ手当てをされたのです」  

 戦犯者といえば、日本の軍国圭義の罪悪のシンボルのように言われている。したがって、よく過去に引用された『七生報国』の精神でこの世を去ってゆくようにも、想像されがちである。しかし、事実この人たちは、戦争の肯定者ではなく、その最も痛烈な否定者として、この世を去っていったのである。それは、単に懺悔といった境地ではなく、これをなお数百歩も超えて、勝敗もなく、支配も被支配もない、個性もなにもない、平等の平和を発見して、極めて心豊かに、安らかな障害を終えたのである。
 人間の一生というものは、いろいろの過失にみちている。自らは氣がつかずして、人に迷惑をかけていることもままある。また、いろいろな罪障をつみ重ねてもいる。

 人間は、自我や、個性の上をのたうちまわって、一生の道のりをたどってゆく。それは、人間である以上、一兵士であると、将軍であるとを問わず、また、東洋人であると、西洋入であるとを問わず、人間そのものの、生れたときから持っている一つの業である。

 こうした人生の姿は、ひとり人間個人にとどまらす、一民族、一国家についても同じである。戦争や、衝突や、紛争の多くは、こうしたあらわな自我の抑しつけによって起こされてきたことは、歴史が語っている。歴史の姿は、そのまま人類の苦悩と、解脱へのもだえを示す萬華鏡である。

 永遠不変の正義が、遠い昔からの人類の志向でありながら、この地上には、なかそうした正義は訪れそうにもない。やはり、正義は、あらゆるものの上に立つ、力の源泉ではなくて、力こそ正義なりという事実がまだこの地上を支配しているようにもみえる。

 武装なき平和は、よほどの強い意志がなければ、この現実世界では確保しうるものではない。それをつらぬくためには、武力以上に強い人間の積極的意志を要するのである。私は、永遠の空間をうずめるほどに強いこの平和のへの意志を、この人々の死の中に、発見するのである。それは、いかなる暴力や権威をもってしても、屈伏せしめることのできぬ平和の強さであり、信仰の高さである。

 私は、このように強い人間の意志が他にあろうとは、信じられない。こうした意志のみが、ほんとうに万世の太平をひらき、世界の永世平和への道をひらくものと、かたく信じないではいられない。  
  花山信勝は、このように書いて『平和の発見 巣鴨の生と死の記録』 を終わっている。   

 軍国主義者として讒言を浴びた人々は、一人の例外もなく“国体の護持”を念じつつ刑を従容と受け入れ冥途へと旅たって行った。戦後日本の復興の影には、昭和天皇の臣下として大東亜戦争を戦った指導者や数多の英霊がいた。  

 皇太子は戦後の日本の原点に、これらの人々がいたことを知らぬのか、知っていても何ら感じることがないのか、皆目分からない。幸せそうに振舞っているのは私的には差し支えないが、公的な存在である。日本人としての矜持が有るのか、ないのか、末は国民統合の象徴になるとの自覚が全く窺がえない。   

 皇太子は、戦後の天皇家3代目である。祖父は国の復興、再建に文字通り尽力された。父は疲弊した国民に寄り添うかたちで今日にまで来られた。“三代目”は、8月の前半は、日本歴史の大転換を画する時期であったことに考えが及ばないかのごとく幸せいっぱい夢いっぱい、愛する妻と娘と一緒に満面笑みを湛えて生を楽しんでいる。
 マッカーサーは皇室の打倒を考えたフシがある。彼は占領政策を遂行するため皇室を最大限利用した。その残滓が戦後69年経った今も残っているようにも見える。
皇太子一家の、この時期における“静養”は、結果として、米国の占領政策が目指した日本国民の“精神の武装解除”を継続させるものとなっている。
皇太子に“魂”が有るのか、又は米国に預けたか、魂のない“抜け殻”か。魂の“抜け殻”のような人間が将来、日本国民の象徴になると考えるだけでもゾッとする。 

 “日本人は死んだ”、“皇室も死んだ”。 これは愚者である私が寝苦しい夜によくみる“A Midsummer Night's Dream”(“夏の夜の夢”)である。
 
参考文献(カッコ内は著・編者)

『ポツダム宣言』国会図書館 憲法条文・重要文書
『東京裁判(上)』(児島 襄)中公新書 1991年 
『東京裁判(下)』(児島 襄)中公新書 1991年
『裁かれた日本』(野村正男)角川新書 昭和31年
『ニッポン日記 上』(マーク・ゲイン著、井本威夫訳)筑摩書房 昭和29年
『ニッポン日記 上』(マーク・ゲイン著、井本威夫訳)筑摩書房 昭和29年
『平和の発見 巣鴨の生と死の記録』(花山信勝)朝日新聞社 昭和24年
『昭和天皇 第7部 独立回復(完結篇)』(福田和也)文藝春秋 2014年
長編<ワールド・ワイド>『激動の昭和史 東京裁判』(小林正樹監督 講談社 東宝東和)
『その瞬間 ショック写真百年史』毎日新聞社 昭和45年 
『月間THIIS 読売 1991-8特大号 秘話 昭和天皇』読売新聞社 平成3年  
『丸 エキストラ版100 ゴールデン特集 大本営の全貌』 発行 株式会社 潮書房 

 


この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 8月12日、皇太子下田“静養... | トップ | 戦没者追悼式の日、靖国神社... »
最新の画像もっと見る

皇室 」カテゴリの最新記事