これはだめだ!

自信喪失、無気力な日本に”喝!”、反日、侮日に反撃、一矢を報いる。

8月12日、皇太子下田“静養”、心は国民と共にあるのか”抜け殻”か!殉国の英霊に背く反日か!(上)

2014-08-14 | 皇室 

                  2014年8月12日 19時NHKテレビ
皇太子一家下田到着 静岡・下田で静養  
                   JCCテレビ  

 皇太子ご一家は静養の為今日から静岡県・下田市を訪れ、伊豆急行の駅前で集まった人たちに手を振ってこたえた。

今年4月、学習院女子中等科に進学した愛子さまは先月、皇太子ご夫妻と共に昭和天皇陵や伊勢神宮に初めて参拝したほか、今月全国総合体育大会の競技を初めて観戦された。皇太子ご一家は下田市にある須崎御用邸に1週間ほど滞在される。

伊豆急下田駅(静岡県・下田)の映像。  
https://www.youtube.com/embed/8na5M9opeww?rel=0  

伊豆急線下田駅に到着したのは午後4時頃である。皇居を午後1時頃、東京を13時26分発(?)の列車を利用されたのだろう。 

 皇太子一家の毎年、1945年8月初・中旬、当時の日本政府のポツダム宣言の受諾にいたるを動きや終戦の日に合わせるかのごとく、この時期のこの日のこの時刻頃に静養に出られる。 

1945年8月前半、日本政府の動向  
 1945年8月6日には広島市への原子爆弾投下された。

 8月9日の未明にはソ連が日ソ中立条約を一方的に破棄し、満州国、朝鮮半島北部、南樺太への侵攻を開始、ポツダム宣言に参加した。これらに衝撃を受けた鈴木内閣は同日の最高戦争指導会議の冒頭で「ポツダム宣言を受諾する他なくなった」とし、意見を求めたが強く反対する者はなかった。また会議の最中に長崎市への原子爆弾投下が伝えられたため、「国体の護持」「自発的な武装解除」「日本人の戦犯裁判への参加」を条件に宣言の受諾の方針が優勢となった。

 しかし陸相阿南惟幾はなおも戦争継続を主張し、議論は天皇臨席の23時からの最高戦争指導会議に持ち越された。 

 日付が変わって10日2時、鈴木から求められて昭和天皇のいわゆる「聖断」が下され、“「天皇統治の大権を変更する」要求が含まれていないという了解の下に受諾する”という回答が決定された。これは10日3時からの閣議で正式に承認され、スウェーデンとスイスに向けて送信された。  

 10日7時、米国はこの電文を傍受した。これを受けた米国政府内では、日本側の申し入れを受け入れるべきであるというスティムソン、フォレスタル、リーヒに対し、バーンズは「我々がなぜ無条件降伏の要求から後退しなければならないのか分からない」と反対した。結局フォレスタルの提案で、肯定的な返事をするが、米国政府の立場について誤解を与えない回答を行うべきであるという決定が下された。これにしたがってバーンズを中心とした国務省で対日回答案の検討が開始され、
10日の閣議で決定された。回答案は英・ソ・中の3国に伝達され、同意が求められたが、ソ連は条件をつけたことに反対し、占領軍最高司令官を米ソから出すことを提案したが、米国はこれを拒否した。

回答案は8月11日の正午にスイスに向けて打電され、12日午後0時45分に日本の外務省が傍受した。  

 8月13日午前2時になって駐スウェーデン公使岡本季正から、バーンズ回答は日本側の「天皇統治の大権を変更する」要求が含まれていないという了解の下に受諾するとの申し入れを受け入れたものであるという報告が到着し、外務省の主張に力を与えた。 

 8月14日に改めて御前会議を開き、宣言受諾が決定され、同日付で終戦の詔勅が発せられた。同日、加瀬俊一スイス公使を通じて、宣言受諾に関する詔書を発布した旨、また受諾に伴い各種の用意がある旨が連合国側に伝えられた。 

 8月15日正午、日本政府は宣言の受諾と降伏決定を国民に発表した。 

 日本国政府は、米国からの回答案が8月11日の正午にスイスに向けて打電され、それを12日午後0時45分に日本の外務省が傍受したことが、ポツダム宣言の受諾を決断するきっかけとなった。1945年8月12日、この日は敗戦日本の始まりの日であるが、皇太子一家は、平成23年以降、8月の静養は須崎で過ごされているが、いずれの年も8月16日、もしくはそれ以降の日と8月15日を挟むように静養されている。 
   1945(昭和20)年8
月15日 戦争終結の玉音放送の後、
     皇居前で土下座して、陛下に詫びる勤労少年  

        『別冊週間読売 実録太平洋戦争史 慟哭編』 読売新聞社 昭和49年9

マッカーサーと天皇の会談、 占領政策への協力 
 戦史作家の児島襄は、昭和20年9月27日の天皇のマッカーサー元帥訪問について、『東京裁判(下)』(中公新書)の中で次のように描写している。

 午後10時すぎから35間(38分との説もある)、マッカーサー元帥と会談され、午前10時45分、宮城に帰られた。会談の内容は極秘にされた。情報という形では、たとえば、天皇は戦争責任あるいは退位について、マッカーサー元帥の意見を求め、元帥はもっぱら“聞き役”の立場をとって明確な返答を避けた、と伝えられている。

 しかし、「天皇が、戦犯間題にふれて、『一切の責任は自分にある旨を強調された』とマッカーサー元帥が述べていた」とされていることは、事実に反するようである。

 会見の後、天皇は、木戸内大臣に次のように語られている。

 「本日マッカーサーとの会見の際、マ元帥は『国民および政界の要人等につき一番御承知なるは陛下たりと信ず。就ては今後も種々御助言を得たし』との意味の話あり、マ元帥は特従長を以てと云ひ居たるが、之は都合によりては自分が会ひてもよし、叉内大臣が使ひしても宜しからんと思うから、其積りで考へて置く様に」と。 

 また、天皇とマッカーサー元帥との会見の2日後、東久邇宮首相は元帥を訪ねたが、そのさい、首相は、自分は「封建的遺物」である皇族であるので民主化を進める政治指導者には不適当ではないのか、また内閣の政策、閣僚に不満はないか、とたずねたからである。

 元帥は同席の参謀長サザーランド少将と、顔を見合せた。首相には、その質問のいずれにも消極的な回答をしたが、首相が部屋を出ると、元帥は、渋い表情をあらわにして、いった。「だめだ、すべては、われわれでやるほかはない。」 と児島 襄は書いている。 

 マッカーサーと天皇が並んだ写真が9月29日の新聞第1面に掲載された。この写真は、それまで宮城前になお戦争努力の足りなかったのを詫びるようにして平伏していた人の姿は次第に少なくなっていった。マックアーサーの「だめだ、すべては、われわれでやるほかはない。」という発言は、マッカーサーの心理作戦は成果を挙げたが、日本政府に与えた効果に疑問を持ったことを示している。  

 以後、マッカーサーは天皇及び日本政府を、より強くコントロール下に置き占領政策を遂行した。 

近衛元首相の自殺を米国人ジャーナリストはどう見たか  
  1945年12月16日近衛元首相が自殺した。この件に関してボルティモア・サンの記者だったマーク・ゲインは『ニッポン日記 上』(筑摩書房)の中で、日本人の反応を次のように記している。

 (12月16日の日記の中で)  
 1937年の夏、私は上海にいた。近衛が、亜細亜および全世界の新しき秋序』を樹立するため日本2枢国に加担するとの声明を発した1938年の秋にも未だ私は上海にいた。この時代は氣分屋の首相近衛が軍のせっかちどもの影響下におり、堕落した西欧は日本の発展を阻止し得ないとい彼等の考に同調していた時代だった。
 が、その後近衛の気分は変化した。1941年の近衛は、罰を蒙ることなしに世界を征服することが可能だとはもはや考えていなかった。

 メランコリイと昂奮の交替に支配され虚栄心が強く他から影響され易いこの男は、頑丈な軍部の連中には抗し得べくもなかった。日本の国と一緒に近衛は戦争の中へ漂流して行った。最後の数時問においてさえ、彼自身の閥歴の高さほどに、彼自身の決断力を支配し得はしなかった。

 皇室の縁辺であり、代表的な封建費族の一族であるが故に、彼は犯罪人として法廷に立つことが出来なかった。彼に絞首刑の判決が下されたとすれば、それは彼が長年スポークスマンの役割を果して来た封建日本に対する絞首刑判決を意昧するものであったろう。 

 また、天皇を連座せしめず、また日本の『国体』・・・・・その護持を彼は息子に遺言している・・・・を覆すことなしに日本の戦争への漂流の筋書きを国際法廷に陳述することは近衛には不可能だったろう。まことに、毒薬の壜を取り上げたその手は近衛の手ではなかった。それは歴史の環境の手だっか、と私は思った。
 12月17日 東京
 近衛邸の書斎で近衛の次男をかこんで友人たちが集って弔辞について打ち合わせをした。今までのところ皇室からは未だ弔問の勅語をもたらす勅使は差遣されていない。

 果して戦犯として裁かれることを免かれ得るかどうか不安な天皇は長い年月に亙って信頼をおいていたこの男に対する同情を表わすことによって自分の立場を悪くするようなことはしないのではあるまいか。 

 しかし無情なのは天皇ばかりではない。日本の新聞や指導者たちは、今日この死んだ男の上に ざん罵 をつみあげる野外演習を行った。典型的なのは一流の日刊紙『朝日』の態度で、朝日は『近衛の死屍に鞭打つ』のは潔しとせぬと冒頭しながら正にそれをやっている。「公は戦争を好まなかった。が、彼の弱い性格が、戦争の到來を招いた。政界の指導者の性格が弱いということは国家的罪悪である。故に戦争犯罪人でああったことは明白である。』 

 政治家たちも負けず劣らず、返衛に泥をなすりつけている。近衛に泥をなすりつければつけるほど、彼等自身の罪が深くない様に見えるだろう、と信じているらしい。貴族たちだけが、この憂鬱な雨天の日に礼節を発揮した。貴族院は緊急大会議を開いて近衛家に弔問使を派遣することを決議した。  
    (マーク・ゲイン著、井本威夫訳『ニッポン日記 上』 (筑摩書房))  

 福田和也は近衛文麿の葬儀の模様を 『昭和天皇 第7部独立回復(完結篇)』 の中で、次のように書いている。
12月21日、近衛文麿の葬儀が麻布有栖川公園の養正館で、とり行われた。
女婿である細川護貞は、弔間客の少ないのが、情けなかつた。当然、来るべきはずの人で、姿を見せない者が、何人もいた。
「平時の世の中であれば、数万人が弔問に訪れただろうに・・・・時勢と交通難と火災のためなのだろうが」 
米国軍の爆撃調査団の将校が一人でやってきて、玉串を捧げた。 

 マーク・ゲインは,天皇やマスコミそして政治家が 『近衛の死屍に鞭打った』 ことを日記に書きとめていた。  
 福田和也によれば、葬儀の模様がマーク・ゲインが指摘したことの正しさが分かる。 日本人の“お上”に弱い卑屈な体質がよくわかる。 天皇も例外ではなかった。

 天皇がマックアーサーに「戦争の全責任は自分にある」と発言したと伝えられているが、戦史作家の児島 襄が「マ元帥は『国民および政界の要人等につき一番御承知なるは陛下たりと信ず。就ては今後も種々御助言を得たし』」と書いたように、天皇が米国の対日占領政策に協力する旨の話を“持ちかけ”、マッカーサーも天皇を利用することの有利性を認識したとのであろう。
 米国政府は、ポツダム宣言受諾にさいしての、天皇の統率力、影響力を目の当たりにしていた。そのため、天皇を戦犯としては訴追せず、占領政策に協力させる事にしたのである。 
 米国政府は天皇を訴遣しない代りに、天皇制を打倒するという政策を定めた。 “国体護持”は、このような背景で決まった。天皇が米国の占領政策に忠実に従う形で・・・・・。 

                   東京裁判の被告席         
        毎日新聞社 『その瞬間 ショック写真百年史』 昭和45年 

極東裁判、全被告が天皇に責任なしと国体護持のため戦った
戦史作家・児島襄は東京裁判における検察と被告のやり取りをが『東京裁判(下)』(中公新書)の中で、次のように描写している。(米内大将)

 米内大将はその事情(注、米内内閣が倒れたときの状況)を知っていたので証言を承知したのだが、法廷では閑院宮云々は公表できない。検事側の質問をのらりくらり式答弁でかわしていたが、9月22日、畑陸相から米内首相にあてた書簡をめぐる問答で、ウェッブ裁判長は「こんな愚昧な証人はみたことがない」という罵言を、大将に浴びせた。  

 その書簡内容は当時の『朝日新聞』に報道された。証拠として新聞を提示し、このとおり報道されているがどうかと質間したのにたいして、米内大将は、そういう物はうけとった覚えがない、と的をはずした答弁をくり返したからである。  

 しかし、米内大将は、裁判長の罵言を聞き流し、頑としてとぼけた答えをつづけて検事側の追及をはねのけた。愚昧どころか、「まれにみるスマート(賢明)な人物だ」と、キーナン検事は退廷する大将を見送りたがら、大将にいなされて気落ちした様子のD・サットン検事にいった。 

 平沼騏一郎元首相の弁護人は、土肥原大将担任のウォーレン弁護人が兼務する。土肥原大将の場合と同じく、ウォーレン弁護人は平沼元首相を証言台に立たせず、最後に「法廷が希望するなら証言台に……」という念句をつけ加えて終った。喚問した証人も少なく、ほほ岡田啓介元首相に代表させ、立証は平板的であったが、岡田証言の過程で、またもや天皇問題に照明があてられた。  

 反対訊問を行なったのはキーナン検事だが、検事は真珠湾攻撃の前後に、天皇はとにかく戦争を欲せず、回避のためにあらゆる努力をしておられたと確信をもっていえるか、とたずねた。「それは確信をもって言えます。天皇陛下は、負けるとか勝つとかいうことを考えておられず、戦争がおいやなのです

 「しかし、陛下の努力をもってしても、これを回避することができなかったわけですか」 「そのとおりです」

 被告席の重光元外相は顔をあげた。キーナン検事は、明らかに、天皇に戦争責任はないという結論を引き出そうとしている。
「ちょっと、主席検事、ただいまの質問と本裁判との関連性が理解できないが」

 ウェッブ裁判長が口をはさんだ。天皇は訴追されていたい。被告以外の者にかんする証明は裁判に関係なかろう、との意味だが、この発言にはさらに含意がある。キーナン検事がうなずいて質問をひっこめれば、天皇に対する訴追は留保されたという効果を生むからである

 キーナン検事は、関連性は大いにある、これら被告は「共同謀議によって日本国民をあざむき、宣戦の大詔を発することによって、天皇が戦争を支持したと日本国民に信じさせたのだ」と、主張した。

それはおかしい、この長い裁判でそういうことを聞いたのははじめてだ、「今まで提出された検事側の証拠に反するものだ」と、ウェッブ裁判長は今度は意中を露呈しながら反ばくしたが、キーナン検事はきっぱりと答えた。  

 「主席検事として法廷の注意を喚起したいが、現在被告席にいる者が本裁判の被告である。われわれは、戦争に責任があるのは彼らだと信じている。ほかにいるなら、その者もこの席に並んでいるはずである」  

 重光元外相は肩の力をぬいた。天皇の訴追または出廷問題は、なにぶんにも裁判が11カ国の連合裁判であるだけに、一国の主張で左右される保証はなく、なお不安定である。とりわけ、ウェッブ裁判長の態度は気にかかる。が、ともかく、この明確な一言明で、キーナン検事に天皇訴追の意向がないことは、はっきりした。ひと安心であろうか・・・・・・。 

(平沼首相、広田首相)
 平沼元首相につづく広田弘毅元首相も証言を拒否したが、その理由は、独自のものであった。「私には賛任があります」広田元首相は、巣鴨でも市ヶ谷でも端然とすごしていた。広田元首相は、罪状認否のときに有罪を申し立てようとして花井忠弁護人をてこずらせたように、証人として立つことも最初から拒否していた。花井弁護人だけでなく、スミス弁護人もすすめたが、広田元首相は首を横にふった。 
 私には責任があるのです-というのが、広田元首相の主張である。

         東京裁判の東條元首相とキーナン検事 
      
        『月間THIIS 読売 1991-8特大号 秘話 昭和天皇』 読売新聞社 

(東條首相)
 天皇の不起訴きまる。12月31日-前日の口供書朗読終了とともに訊問に立った木戸被告担任ローガン弁護人が、さらに木戸内大臣に関する質間をつづけるうち、キーナン検事はあやうく絶息するほどに仰天した。

 午前9時33分に開廷されて、ものの十分間もたたないころ、ローガン弁護人は、天皇の平和に対する希望に反した行動を木戸内大臣がとったことがあるか、とたずねると、東條大将は則座に答えた。

 「そういう事例は、もちろんありません。私の知る限りにおいては、ありません。のみたらず、日本国の臣民が、陛下のご意思に反してかれこれするということは、あり得ぬことであります。いわんや、日本の高官においておや」

東條大将は、アゴをひき、独特の発声で粛然と述べた。大将の信念の披歴でもあったわけだが、これは失言である。もし日本国民の行為がすべて天皇の意思に従ったものなら、戦争も残虐行為も天皇の意思ということになるからである。

 まずい、とキーナン検事が奥歯をかみしめるのと、ウエッブ裁判長の声がひびいたのは、同時であった。「ただいまの回答がどのようなことを示唆しているかは、よく理解できるはずであります」

 キーナン検事は、嶋田被告担任のブラナン弁護人の訊問が終るのを待ちかねて、反対訊問を開始した。

「被告東條、私は貴下を大将とは呼ばない。日本にはすでに陸軍はないからである。この3日または4日間、貴下が述べたこの口供書の目的は、自分の無罪を主張しようとしたのか、それとも日本国民にたいして、かつての日本の帝国主義、軍国主義の宣伝をなお継続しようとしているのか」

 質間というよりは雑言に近い発言であり、このキーナン検事の第一問は、たちまちブルーエット弁護人の異議申立てで却下された。明らかにキー-ナン検事は平静さを失っていた。年末でもあるので、法廷は正午に休廷となったが、キーナン検事は「三井ハウス」に帰ると、秘書山崎晴一に、田中隆吉少将を呼べ、すぐ呼べとわめきたてた。

 まさに非常事態である。おそらく、東條大将は、太平洋戦争の開戦決定事情に注意を集中していて、ほかの問題でも天皇責任問題にひっかかるとは思わなかったのだろうが、ウェッブ裁判長が指摘したように、今後、よほど明確な形で前言訂正をおこなわないかぎり天皇の法廷喚問の可能性は強まったとみなければならない。 

いや、現に、法廷が終るや否や、ゴルンスキー・ソ連検事は、「天皇を訴追する十分な根拠が発見できた」とキーナン検事に進言している。

 田中少将は山中湖畔の家にいて、電報をみて「三井ハウス」にきたのは、すでに除夜の鐘の音が近い深夜だった。しかし、一刻の猶予もできぬ思いにかりたてられて、3人は頭をしぼった。  

 田中少将が式部長官松平康昌に相談することを思いついたのは、元旦の午前4時ごろ。すぐ車を迎えに走らせ、松平長官をまじえて、相談がつづいた 。

 時問がない。元日は休みだが、法廷は2日に開く。3日、4日はそれぞれ土、日曜日なので休み。せめて5日朝までに東條大将にとくと事情をのみこませ、明白な答弁をさせねばたらない。

 問題は、誰が東條大将に納得させるか、である。午後10時ごろ、やっと結論が出た。松平長官は東條大将は知らないが、木戸内大臣はよく知っている。木戸内大臣または令息の木戸孝彦に東條説得を依頼しよう。  

 一方、キーナン検事は、天皇問題とは別の質間をつづけながら、東條説得の報せを待ち、連絡をうけてから天皇にふれる。  

 連絡方法は、松平髪官から山崎秘書に電話をかけ、「カモ猟に行ってきます」という。意味は、東條諒解せり、である。松平長官が木戸孝彦と連絡がとれたのは、1月4日、そして、木戸孝彦が東條大将に話したのが、1月5日の昼食休憩時間であった。東條大将は、喜んで証言を訂正する、と答えた。松平長官が山崎秘書電話したのは、5日夕刻であった。  

 「山崎さんですか。松平でございます。明日、カモ猟に参りますので、よろしく、お願いいたします」  

 待ちわびた電話に、キーナン検事も田中少将も欣喜した。それまで、キーナン検事は2日、5日といたって冴えたい質間をくり返し、「キーナン準備不足の為めか非常に不成績なり」と、重光元外相も不審げに首をかしげる調子であった。

1月6日-この日は、東條夫人勝子が、2度目そして最後の傍聴に法廷を訪ねた日であったが、キーナン検事は、午後の審理がはじまって間もなく、「さて・・・・」と、問題の焦点に質間を移した。

2、3日前にあなたは、日本臣民たる者は何人たりとも天皇の命令に従わぬ者はないといわれましたが、正しいですか。
「それは私の国民感清を申しあげたのです。責任問題とは別です。天皇の御責任とは別の間題」  
 しかし、あなたは実際に米、英、オランダに対して戦争をしたではありませんか。
 「私の内閣において戦争を決意しました」 

 その戦争をおこなわなければならないというのは・・・・・おこなえというのは裕仁天皇の意思でありましたか。

 「私の進言・・・・統帥都その他責任老の進言によって、しぶしぶ御同意になったというのが事実でしょう。そして、平和御愛好の精神は、最後の一瞬に至るまで陛下は御希望をもっておられました・・・・・昭和16年12月8日の御詔勅の中に、明確にその御意思の文句が付け加えられております。しかも、それは陛下の御希望によって、政府の責任において入れた言葉です・・・・・まことにやむを得ざるものあり、朕の意思にあらずという御意味の御言葉であります」  

 まさに満点の問答である。質問が、塩原、神崎両弁護人とも打ち合せた開戟責任に集中したので、余裕もあった。  

 キーナン検事は満足して質問を別問題に移したあと、最後に東條大将の心境を知りたいとたずねた。日本の首相として戦争をおこなったことについて道徳的、法律的に間違っていなかったと思うか、というのである。
 「間違ったことはしていない。正しいことを実行したと思います」

 静かに答える東條大将に、それではもし無罪放免にたったら、再びくり返すつもりか、とキーナン検事はいったが、ブルーエット弁護人の異議の叫びに、すぐ撤回した。もはや最大の目的は達成している。無意味な話戯は必要ないはずである。  

 翌日、1月7日、朝の法廷で、ウエッブ裁判長は「証人以外の何人が天皇に対し、米英に宣戦するよう進言したか」など、なお天皇問題に関して東條大将に質問したが、あえて深くは追及せず、東條大将は午前11時15分、証言台をおりた。

 さらにその翌日、1月8日夜、マッカーサー元帥は、ウエッブ裁判長、キーナン検事を総司令部に招き、東條証言の経過を聞き、東條大将の責任の明確化、いいかえれば天皇の免責が確認されたとみなして、天皇不起訴を決定した。ウエッブ裁判長は、なお釈然としない表情だったが、「よろしいな」という元帥の言葉にうたずいた。

 1月8日は、たまたま、若槻元首相らがお返しとしてキーナン検事を熱海に招待していた。  

   手錠をかけられた不自由な手で死の数分前にしたためた7人の絶筆 
       
                花山信勝 『平和の発見 巣鴨の生と死の記録』

以下
「8月12日、皇太子下田“静養”、心は国民と共にあるのか”抜け殻”か!殉国の英霊に背く反日か!(下)」  
へ続く    

参考文献(カッコ内は著・編者)
『ポツダム宣言』国会図書館 憲法条文・重要文書 
『東京裁判(上)』(児島 襄)中公新書 1991年  
『東京裁判(下)』(児島 襄)中公新書 1991年
『裁かれた日本』(野村正男)角川新書 昭和31年
『ニッポン日記 上』(マーク・ゲイン著、井本威夫訳)筑摩書房 昭和29年
『ニッポン日記 上』(マーク・ゲイン著、井本威夫訳)筑摩書房 昭和29年 
『平和の発見 巣鴨の生と死の記録』(花山信勝)朝日新聞社 昭和24年 
『昭和天皇 第7部 独立回復(完結篇)』(福田和也)文藝春秋 2014年 
長編<ワールド・ワイド>『激動の昭和史 東京裁判』(小林正樹監督 講談社 東宝東和) 
『その瞬間 ショック写真百年史』毎日新聞社 昭和45年  
『月間THIIS 読売 1991-8特大号 秘話 昭和天皇』読売新聞社 平成3年  
『別冊 週間読売 実録太平洋戦争史 慟哭編』 読売新聞社 昭和49年9月

『丸 エキストラ版100 ゴールデン特集 大本営の全貌』 発行 株式会社 潮書房

 


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