これはだめだ!

自信喪失、無気力な日本に”喝!”、反日、侮日に反撃、一矢を報いる。

柔道も教育もケジメがない、中国の”攻撃準備”の挑発も日本が国としてのケジメがなかったためだ!

2013-02-06 | 安全保障

内部封殺され、不信感…告発の柔道女子選手声明

                       読売新聞  2013年2月5日(火)08:01 
 柔道女子の15選手が、園田隆二・全日本女子前監督(39)から暴力などを受けたとして告発した問題で、選手の代理人を務める辻口信良弁護士らが4日、大阪市内で記者会見して15選手の声明を発表し、告発に踏み切った理由などを説明した。
 選手は同席しなかった。
 声明によると、今回の行動は「憧れであったナショナルチームの状況への失望と怒りが原因」と説明。一連の問題を全日本柔道連盟(全柔連)に訴えたが、「内部で封殺され、日本オリンピック委員会(JOC)にも告発したが、私たちの声は十分に拾い上げられなかった」と全柔連、JOCへの不信感が、今回の記者会見による声明発表につながったとしている。
 園田前監督は辞任したが、「(強化担当理事である吉村和郎)前強化委員長をはじめとする強化体制やその他連盟の組織体制の問題点が明らかにされないまま、前監督の責任という形をもって今回の問題解決が図られることは真意ではない」とし、徹底的な原因究明と問題解決を求めている。
● 内部封殺され、不信感…告発の柔道女子選手声明(読売新聞)  

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大津いじめ
第三者調査委が最終報告書
            
滋賀報知新聞 平成25年2月1日(金) 第16489号 

 =「いじめが自殺の直接的な要因」=    
 平成二十三年十月、大津市立中学の男子生徒(当時十三歳)がいじめを苦にして自殺したとされる問題で、事実調査を行ってきた市の第三者調査委員会(横山巌委員長)は先月三十一日、同級生のいじめが自殺の直接的な要因とする報告書を、越直美市長に提出した。

学校・市教委の危機管理の欠如を批判 
 
報告書では自殺の原因について、平成二十三年九月上旬から十月七日までの加害者とされる同級生B、Cから亡くなった生徒Aへのいじめ行為(主に十九件)を認定し、「Aに屈辱感、絶望感と無力感をもたらした。いじめの世界から抜け出せないことを悟り、生への思いを断念せざるを得なかった。したがってAに加えられたいじめが自死につながる直接的な要因になったと考える」と結論づけた。 

 また、いじめに加わったとされた同級生三人のうちDについては、「(力関係のアンバランスが生じている)『一定の人間関係にある者』という要件に該当しなかった」と、いじめ行為を認定しなかった。 
 市教委が自殺要因に挙げた家庭問題は、亡くなる前の生徒の行動・言動から、「自死の要因とは認められなかった」と否定した。

 学校対応では、複数の教員や生徒がいじめを指摘していたのに認知できなかったことに、「情報が担任と学校主任に留まり教員全体で共有できず、有効な対策を取ることができなかった。学校組織が有効に機能していじめの事実を知らせる情報が学校全体において共有されなかった」と組織対応のまずさを浮き彫りにした。

 市教委の対応は「学校を支えるという役割を早々に放置し、事実調査、いじめの認定作業を学校に丸投げしたことは、混乱状況下にあった学校を孤立させ、事実確定を困難にさせた」と厳しく批判。   

 学校・市教委共通の問題点については「Aの保護者が虐待してきたというフィクションへ寄りかかったことで、いじめと自死の関係への解明作業が、事実上放棄された」と問題視した。  

 将来に向けては、「子どもが安心していじめから救済を訴える窓口が不可欠である。学校外に子どもが救済を求めることができる第三者機関が是が非でも必要」と提言した。

 一方、最愛の息子を失った父親(47)は「調査報告書を読んで『やはり息子は学校に見殺しにされた』と感じた。県警で押収された資料を初めて目にした時、子どもからはいくつものサインが出されていたことを知った。しかし、それに対して現場の先生は、気付いていたが見て見ぬふりをしていたとしか受け取れない。息子が亡くなってから今日までの学校・教育委員会の対応は、常に後手後手であり、自ら進んで不利になるような事実を公表することはしなかった」と声を詰まらせた。

 さらに「『いじめ』とは常に『死』に繋がる危険な行為であり、『犯罪』であることを、教師といじめを行っている子ども達には認識してほしい。今後、司法の場で、今回出された報告書を受けて、『いじめと自殺には因果関係がある』との見解をはっきりと判決で明言してもらいたい。いじめと自殺には必ず因果関係があるとの見地に立たない限り、真の改善策は打ち出せないからだ」と訴えた。   
 報告書を手渡された越市長は会見で「学校や市教委で隠蔽(いんぺい)や責任転嫁があったことをおわびする」と謝罪した。  
 今後の対策として、来年度から市長部局にいじめ対策推進室を設ける一方、いじめ調査を行う第三者委員会設置の意向を示した。 

 また、国や県に報告書を提出し、いじめ対策の拡充を要望していく構えだ。  
 第三者調査委員会の横山委員長は「亡くなった少年を忘れることなく、調査に取り組んできた。子ども達の命がこれ以上なくなることのないよう、この報告書を活かしてほしい」と話した。   

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レーダー照射、これまでとはレベル違う…防衛省  
 
 中国による挑発行為がエスカレートする中で、5日に発覚した中国海軍艦艇による火器管制レーダー照射。防衛省幹部は新たな挑発行為に、「これまでとはレベルが違う」と警戒を強めている。  


 昨年9月の尖閣諸島国有化後から、東シナ海での中国による挑発行為は、階段を一歩ずつ上るように激化してきた。領海のすぐ外側の接続水域を航行した監視船の1か月あたりの「のべ隻数」は、昨年10月や11月の約120隻に比べ、1月は約60隻に減ったものの、今月4日には海洋監視船2隻がそれぞれ過去最長の約14時間も領海内に居座った。   

 これまで領海侵入などには海上保安庁が対応し、自衛隊は一定の距離を置いて警戒にあたってきた。ところが、昨年12月から、中国機が同諸島の領空に侵入したり、接近したりするケースが相次ぎ、空自の戦闘機が緊急発進(スクランブル)する事態に発展。今回の事態に、防衛省幹部は「空自に続き、海自も前面に引き出されてしまった」と警戒感をあらわにする。 
             (2013年2月6日09時20分  読売新聞)  
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指導する側のケジメの無さ    
  
ケジメといえば、古臭いイメージが伴うが、それを言う人は、一定の基準を持っていて、裁断しているように思われるが、ケジメの基準はどこにもない。ただ、世間の常識の指し示すところが、ケジメの領域である。それだから、ケジメは一人一人の良心と良識の範囲でしか存在しない。つまり、人が人と上手く折り合って行ける一線がケジメであり、それをもたらすものは、その人の体に蓄積された世渡りの知恵なのであろう。  


 大津市立皇子山中学校のいじめ自殺事件に関する外部委員による報告書がようやく提出された。当該の教育委員会や中学校は事件を隠蔽、有耶無耶にすることに汲々し何の解決策も導き出すことができなかった。今、日本柔道連盟も教育現場と同じ醜態を曝け出してしている。関係者が辞職すること以外に、組織として何をすべきかわからないような体たらくである。無様な姿は、頭のない獣といっていい。
 学校の先生の中には個人的には、立派な人もたくさんいるいが、教職を職業にしている人たちに対しては、一種の嫌悪感を抱いている。

 教師を商売にしている人たちは、往々にして内心自分で自分を偉いと思っていているので気位が高い。しかし生活能力と世問的常識はなく、小心で、体制迎合側か反体制迎合側のどちらかについて群れたがり、事大主義で権威に弱い。その後ろ姿は寂し寒い。私が住む町では、小学生の通学経路に父兄や町内会の人が毎日交代で登下校時の見回りをしているが、たまに一緒に当番につく先生は、町内会の人に自分から挨拶するのでもなく、ご苦労さまという声をかけることもない。自分から教職以外の世界の人に声を掛ける勇気というか、自信がないのだ。反対に、父兄や町内会の人に“ご苦労様です”と言われてから、話しかけてくる。杜会人が守るべきケジメや折り目がなく、崩れている。世の中の常識が通用せず、自分でまたそれを良しとしているから始末が悪い。  

 学校職員に公私のケジメがない証拠は、他にもある。かって、私の子供が通っていた小学校の校長がある日、“生徒に良い環境で勉強してもらうため学校の外柵沿い花壇を作りたい”と父兄会に呼びかけた。父兄会は校長の呼びかけに応え花壇を整備し、花を植えた。後日、この校長は優良な環境を整え、教育熱心とのことで教育委員会の評価が高まった。ところが、この校長は、定年後、市の教育委員会で勤務するようになった。今も、花壇整備に関わった父兄の間では、校長の点取り稼ぎに利用されたと不満を漏らす者がいる。校長という権威を傘に父兄を利用し、上に媚、点数稼ぎをする卑屈な体質、ケチと権威主義のみごとな結合を示している。まことに嫌らしく汚い、うすよごれた根性である。 
 教室では何も分からない生徒を前に“先生”と偉そうな態度で安住していられるのは、組織されすぎた世界に生き、そのなかで便宜だけを見いだし、危険を感じないからであろう。環境によって甘やかされているから職場と自分の家庭以外の世界に思いが至らない。 

 このような環境であれば、いい加減な先生が増えてくる。教師が教師としての立場を忘れ、生徒と一緒になって遊んだり、ふざけたりすることになる。皇子山中学校では、虐めの現場を見た教師が “程ほどにやれよ” と言いつつ通り過ぎたと言われている。生徒の心になり、生徒の立場に立って指導するのだと称して、実態は生徒のレベルにまで自分を下げ、ふざけて暮らしているようなものだ。
 小中学生時代の体験は、その後の人生に大きな影響をもたらすと言われるが、教師と生徒とでは年齢が違いすぎるし、生きてきた時代の空気も違う。だから、己が心を生徒の心にして、生徒を理解するなどということは、本当にはできるはずがない。それは男が女を、女が男を、結局は理解できないのと同じである。もし大人が子どもの心になるといえば、それはウソ、欺瞞か、愚かさを示すものだ。  

 教職という職業は、公立の学校であれば民間企業と違って、特に研究業績を発表したから、地位が上がったり月給やボーナスが上がるというわけではない。昔、組織をあげて勤務評定に反対した教職員の職場は、競争原理が働かないから無風地帯、別世界であろう。 無理して出世街道を突っ走るより、一生ヒラでいいから安穏、安楽に暮らしたいという思えば、それも可能であろう。金を儲けようと儲けまいと、地位が上がろうと上がるまいと、物質的な生き方に対した違いはない世界である。最初の一、二年こそ、授業の下調べとか授業の工夫などで忙しいが、授業の土台がいったん出来てしまえば、あとは同じことを繰り返していればいい。親は我が子の教育に熱心であるから、いったん教職に就職すれば、人口減少で統廃合がない限り学校が潰れたり失業したりする心配はいらない。せいぜい転勤するだけですむ。私立の学校であれば、生徒の募集に支障があるので経営者の顔色を伺い、学校や教師に都合悪いことは隠蔽する。  

 このような世界に長らく身を置いていると、毅然とした教師、ひたむきに研究に臨むとか仕事に自分を賭け、情熱を傾ける教師、生徒とのケジメをきちんとし、自分なりの考えを正直に表明し、押しても引いても動かぬ壁として生徒の前に立ちはだかり、生徒がそれに自分をぶつけ、痛みを覚えながら自分自身を白覚できるような教師、こういった、人生の先輩としての教師は、いなくなってくる。 
 
 多くの教師は教師用指導書という授業用のアンチョコを頼りにして、機械的な話を教室でしていれば事足りる。表面的には真面目そうに見えるが、教師の個性は乏しくなり、教師が生徒の友だちになり下がり、教師が先生であるということがなくなってくる。

 というわけで、世間には一人前の社会人として通用しない、非常識な、欠陥のあるダメ教師が、生徒・学生を教えてダメ生徒・ダメ学生にする。そのダメ生徒・ダメ学生が社会に出て常識人になる機会を得ないまま、いよいよ非常識を拡大し、子どもたちを非常識にしていく。こういう悪循環で、ダメ教師→ダメ生徒→ダメ教師→ダメ生徒のサイクルが繰り返されればされるほど、教育の世界と実社会との開きは、いよいよ大きくなってしまう。 
 柔道の世界も教育の世界と同じような閉鎖社会である。ともに同じような醜態を曝している。 


仕事も社会も国家間にもケジメが必要
 
日常生活のケジメ、個人の心のケジメ、そして仕事や社会でのケジメが求められている。これらは、それぞれ独立した問題ではなく、相互にオーバーラップしている。個人の心のケジメがなければ、日常生活のケジメも、仕事や杜会のケジメも失われる。


 中学校や高校での仲間いじめも、ひどくケジメを欠いている。クラスの多くのものが集団となって一人の子を伸間はずれにするとか、仲間の前で、弱い子のズボンを下ろして下半身を露出させたり、虫けらを食べさせて喜ぶといった行為は、いたずらのケジメを超えている。公務員の不祥事もテレビや新聞紙上をにぎわすが、これも公人としてのケジメを忘れた姿である。

 大津市の教育関係者も柔道協会の役員も、魂の抜けたような表情をしている。頭のない生き物は、始末に困る。 それだけではない、これらのケジメがない社会で育った人間が政治家や官僚になって枢要なポストについても、国と国のケジメが分からない。民主党政権時代の閣僚、党員の動向は、公人としての自覚、使命感が伺われず、ケジメのなさの典型である。個人レベルのケジメ、仕事レベルのケジメ、社会レベルのケジメと考えを進めていけば、国家関係にもケジメがあって当然である。

 最近の中国や南北朝鮮、ロシアの対日外交には、挑発、侮蔑の姿勢が露骨に伺える。これらの国々から挑発・侮蔑され、竹島、北方領土の実効支配を許しているのは、自国の領土・領海は、断固守るという決意とその準備を日本がしてこなかったからである。このようなことを国民に向かって説いた政治家はいただろうか。普通の国家として当然なすべきことをしなかったケジメの無さによるのだ。たとえケジメをつけることの必要性を分かっても、何をしていいか分からない。いざ!というときにはとるべき手段がなく、行動に移すこともできない。中国、南北朝鮮やロシアの挑発は今後、より活発化することを覚悟しなければならない。それは正義の問題ではない。これら周辺国の力の増大に反し、日本が生存を委ねたアメリカの力が相対的に弱まり、影響力が縮小しつつあるからである。アメリカが”縮む”分、周辺国が跳梁する ことになる。
 ケジメを失い、ケジメを忘れると悲しいことになる。学校現場では生徒の自殺、スポーツ界では“被害者”集団による告発でスポーツ界に対する信頼の失墜、それだけではないオリンピック招致失敗の可能性がある。国においては領土・領海の喪失につながる。 日本も国としてケジメをつけ、普通の国家として生きるべき時がきた。



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