これはだめだ!

自信喪失、無気力な日本に”喝!”、反日、侮日に反撃、一矢を報いる。

今も続く日米戦争、12月23日の天皇誕生日は東京裁判の戦犯の処刑を祝う日、対日占領政策

2014-12-24 | 皇室 

       (2014年12月23日 NHK NEWS7)

天皇陛下81
歳 一般参賀2万8933

 天皇陛下の81歳の誕生日を祝う一般参賀が23日、皇居で行われ、記帳を含めて2万8933人が訪れた。

参賀者は、平成に入って2番目に多かった昨年に次ぐ多さだった。

 陛下は午前中に3回、皇后さま、皇太子ご夫妻、秋篠宮ご夫妻と長女眞子さまとともに宮殿・長和殿のベランダに立たれた。今年各地で相次いだ自然災害について触れ、「決して安泰であったとは言えない1年が過ぎようとしています」と振り返り、「皆さんにとって来る年が明るい年となるよう願ってやみません」と述べられた。

 午後からは宮殿で祝宴が開かれ、皇族方や安倍首相、閣僚ら約440人が出席。
各国の駐日大使らを招いた茶会など祝賀行事も催された。
             2014年12月24日(水)読売新聞朝刊34面 
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“天皇誕生日” は米国の「降伏後における初期の対日方針」再確認の日
 12月23日は、天皇陛下の81歳の誕生日を祝う日である。
また、この日は1948(昭和23)年に東京裁判の死刑の判決を受けた、いわゆるA級戦犯7名が巣鴨拘置所で処刑された日である。連合軍総司令官マッカーサーは、戦犯の処刑を祝うよう声明を出した日である。 

12月23日は 東京裁判の戦犯が処刑され、
  これを祝えと命令された日 

 1948年11月12日東京裁判は「審判の日」がやってきた。裁判長は、個人別に、有罪、無罪の判定をよみあげた。 ニュールンベルグ裁判では、3人の無罪があったが、ごこでは、無罪は、1人も出なかった。共同謀譲者、戦争遂行者としてのどれかの訴因の網に、25人が皆とらえられてしまった。
 この段階では、通例の戦争犯罪(捕虜虐待、残虐行為)に有罪とされるかどうかが一つの大きな山場であった。

この54、55訴因のいずれかにかかると、死刑の範囲に入るものと想像されたから。

「侵略戦争の共同謀議」同じく「遂行の罪」で有罪にはされたが、54、55の忌むべき犯罪では、幸い有罪にされなかった被皆は、つぎの通りであった。

 荒木貞夫、橋本欣五郎、平沼騏一郎、星野直樹、賀屋興宣、木戸幸一、南次郎、岡敬純、大島浩、佐藤賢了、嶋田繁太郎、白鳥敏夫、鈴木貞一、東郷茂徳、梅津美治郎。

 元海軍軍務局長岡は、
 「いくらかの証拠はある。しかし刑事事件において有罪とするほどの標準には達しでいない」、
元陸軍軍務局長の佐藤は、「陸軍の会合の主宰着は東條で佐藤はその部下で反対はできなかった」、
海軍大臣の嶋田は、「証拠不十分」、
元参謀総長の梅津は「十分の証拠はない」という理由で、「死」の判定から辛くも免除された。

 この判決を受けて、マッカーサーは裁判所条例によって、
11月19日までに判決の再審査申し立てを受理する旨公表し、
全被告の弁護人は、19日中にその申立を司命部へ提出した。

 判決の再審査の結果は、24日の総司令部の特別発表で、マッカーサー元帥の声明として公表された。
その結果、判決、宣告通りに確認され、ここにも7戦犯の死刑は確定し、
第8軍司令官ウオーカー中将が、その執行の責任者と定められた。 


マッカーサーの声明の全文は、つぎの通りであった。

     (1948年11月25日の毎日新聞)  
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いやな仕事だった審査 

 私の長い公務生活は、苦悩の多い、寂しいまたわびしい仕事や責任に富んだものであるが、その公務生活中に遂行を命ぜられ任務で、今回の極東軍事裁判所によって下された判決を審査する仕事ほど私にとっていやなことはなかった。 

 一国の行動について責任を持つ人々によって国際的道義の規律を確立し、これを法典化することを目指して行われた今回の画期的裁判に盛られた普遍的的な根本原則を吟味するということは、私の目的でもないし、また私はそのような卓越した知性をもたないであろう。この問題は基本的には、人類が歴史はじまって以來その解決のために苦闘したところのものであり、またその完全な解決は、歴史の最後の瞬間まで待たねばならぬかもしれないものである。 

 この場合私は、私自身の直接の義務と、制限された権限が許す限りの範囲で、かく言明することができる。すなわち関係連合各国が極めて詳細にわたって記述した諸原則並びに諸手続きのもとにあっては、私はすでに下された判決に私が干渉することを正当ならしめるほど重要な関係をもつ技術的な作為または不作為は、何一つ今回の裁判それ自体の進行途上には見出しえないということである。 

 人間の行う決定には、絶対に誤りがないということはありえない。しかしながら私は正義を進化させるがために、これ以上に大きな保護の加えられているような裁判の手つづきがあるとは考えられない。 

 多くの人がこの判決に、違った意見をもつことは避けられない。東京法廷を構成した学識ある判事たちでも完全に意見の一.致をみたわげではなかった。しかしながら文明社会今日の不完全なる進化のもとにあっては、限りある命の生きものとしては、この厳粛なる宣言の完全さを信ずることについて、これ以上の権利は与えられていないのである。

 もし、われわれがかかる手続きと、かかる人々を信ずることができぬならば、われわれは、何ものも信ずることはできない。故に私は、第8軍司令官に対し、極東国際軍事裁判所が下した判決通り、刑の執行を行うごとを命令する。

刑の執行当日は平和を祈れ
 私は、かかる命令をあたえることにより、全知全能の神が、この悲劇的な罪障消滅の事実をもって、人類の最悪最大の罪である戦争というものは、全く無用なものであるということをすべての善意の入々に認識させ、ひいでは、すべての国家をして戦争を放棄せしめるにいたるまで、象徴として使いたもうことを願うものである。 

 かかる目的のため刑執行当日は、私は日本全国のすべての宗致団体の会員たちが、祭致上の致義信仰のいかんを問わず、家庭の中で、または公共礼拝所の祭壇の前で、われらの崇高なる神が、人類の滅亡を來さないよう、この世界を平和のうちに在らしめるため、加護し、導かれるよう祈りを捧げることを求めるものである。

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 マッカーサーは「人間の行う決定には、絶対におやまりがないということはありえない。多くの人がこの判決について違った意見を持つこととはさけられたい。東京法廷を構成した学識ある半事たちできえも完全に意見の一致をみたわげではなかった。
 しかし、現在の不完全な文明社会の進化過程においては、法廷が下した厳粛な決定の完全さについて、神ならぬ人間として、これ以上信頼できるものはありえないように思われる」と言った。

 マッカーサーは、文明社会の不完全性を認めた。多くの人が異なる意見を持つだろうと言った。が、彼は、これ以上のものはないといって原決定を支持した。 

ところが、パル判事にしても、ウエップ裁判長にしても「いまの文明社会が不完全、不公平でも、公正でもありえなしことがある」というので決定は峻厳であってはならない。そこに寛容と、慈悲が必要だということを言っていたのではなかったか。 

 人間自身、法自身が不完全であればこそ、人間には一歩退くことが必要だということを、この司令官は、理解することができなかった。軍人は、前へすすむことを知っている。しかし、一歩退いて、「仁」を布くことを知つてはいない。判決に対する根本的な非難や、抗議の多くは、裁判所条例によって「減刑権」を行使するには、まさしくその「時」であることをおしえていた。

 検察側の論告ですら、ドイツの犯罪の性質とは違うということを繰り返し指摘さしていたのだから。 

 しかし、マッカーサーは言った。
「私は、第8軍司含官に対し、国際軍事裁判所が下した判決通り、刑の執行を行うことを命ずる。私は、かかる命令を与うることにより、全知全能の神が、この悲劇的な罪障消減の事実をもって、人類の最悪最大の罪である戦争というものは、全く無用のものであるということをすべての善意の人々に認識させ、ひいてはすべての国家をして戦争を放棄せしめるに至るまで象徴として使い給うことを願うものである。 

 かかる目的のため、刑執行当日は、私は、日本全国のすべての宗教団体の会員たちが、人類の滅亡を来さないよう、この世界を平和のうちに在らしめるため、加護し、導かれるよう祈りをささげることを求めるものである」 

 この文章は、神さまを引合に出してきて、日本人を納得させ、永久平和への象徴として、死の意義を見出そうとした。その手法は鮮やかである。 

 文章の中には、もう一つ意味深重な言葉が使われていた。
それは、「悲劇的な罪障の消減」という言葉である。この文章全体の調子を分りやすく説明すると、「7人に対する死刑の執行は、敗戦国日本の悲劇的な罪障の消滅を意味している。罪障はこれで消滅する。日本は戦争を放棄したが、世界全体が戦争の放棄に向うよう祈りをささげることを求める」ということである。

米国の対日占領政策の大筋は、端的にいうと、旧指導者、特に軍部と、国民との分離という政策であった。冒頭陳述の中で、キーナンが「日本国民はむしろ被害者だ」といったのはそれをはっきりと証明したものであった。 

 ところが、マッカーサーは、最後に至ってこの裁判の結末は、「悲劇的な罪障の消減」を意味するというのである。このことは、何を語っているか。それは、裁判の目的が、日本帝国の「罪障」を追及することにあったことを示している。

 共同謀議者個人だけの犯罪を追求するのだと言ってはいたが、実はこれは、日本の懲罰を目的とするもので、個人に科せられた刑罰上か、その「代表罰」であったことを告白しているのである。代表罰ならば、古代から多くの国々が、報復や、懲罰として、その家族にまで科してきたところだ。代表罰ならば、裁判も、審理もいらない。それは、司令官の直接の手で出来たことである。

 7人の絞首刑のあと、裁判中ずっと拘禁されていた多くのA級戦犯容疑者は、あたかも、「入質」から解き放たれたように、一斉に巣鴨から釈放された。敗戦以来禁止されており、その禁を破って「軍事裁判」にまでかけられた人の出た「国旗」の掲揚は、祝祭日に限って掲げてよろしいというお触れが出た。

 ここにある「罪障消滅」というコトバの意味は深重いといわなければたらない。この言葉の中に東京裁判そのものの性格がある。 
 
   奴隷根性の原爆死没者慰霊碑の碑文
  「安らかに眠って下さい 過ちは繰り返しませぬから」
   原爆を落としたのは米国である その手は汚れている
                    (2014年12月23日 NHK NEWS7)  
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戦犯とされた被告は刑執行に際しどう振舞ったか  
 死刑執行当日の状況を 巣鴨拘置所で収容者の世話にあたった教誨師の花山信勝はその『平和の発見 巣鴨の生と死の記録』(朝日新聞社)で処刑の模様を描写している。 
 以下に同書からの転記である。

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12月23日午前0
 12月21日(火)、この朝私は、新聞社の人に起こされ、同道して巣鴨に出かけた。
 終戦連絡事務所で、昨日こちらに残して行かれた東條夫人からの手紙を受取り、今夜は帰宅できるかどうかを内心危みづつ門を入った。
 助手のマックさんから、土肥原さんが会いたいといっていることを聞き、早速心構えをする。
ところがプルム大尉は、今朝はいそがしくて将校の手が足りないし、午後はキリスト教のサービスがあるので、このまま事務室に待っているようにとのことである。
 かえって幸いと思い、新聞の写真を見たり、本を読んだり、東條、木村、松井さんなどから託された手紙を読んだりしていた。

 午後4時過ぎ、人の往来も少くなったころ、プルム大尉のところに呼ばれ、今夜は泊るようにと言い渡された。やがて刑執行宣告の席に立会い、所長からの宣告のすぐ後で、明日の午後5時から処刑まで、私が一緒にいるから、それ以前に面会したいかどうかを聞くようにいわれた。

 それから例の36号室に移る。
 夕食は部屋まで運ばれて来た。所内の入々にも気付かれないためであるらしい、チャブレンス・オフィッスが臨時宣告の場所に都屋変わりした。私は最後の努力と思って、明日は午後5時から12時までの7時間のほかに、各人に一時間ずつ対面する約束をした。それから36号の部屋に移った。
 時計は10時を少しまわっていた。シャワーを浴びてこの日の記録を書く。  

宣告下る
 チャプレンス・オフィッスで、所長のモーリス・C・ハンドワーク大佐、副官の大尉、通訳杉野、それに私の4人が前列に、後方には中佐の人とウォルシュ牧師(少佐の2人。

 ブルム大尉が指揮して他に将校4、5名が交代に、アルファベット順に、土肥原と廣田、板垣と木村、松井と武藤、東篠の7人を4回にわたって連れて来た。いずれも将校と手をつなぎ、もう一入の将校が監視をしていた。

 その時の言い渡しは、

「東京裁判の判決およびマッカーサー元帥の認定による刑の執行を、第8軍憲兵司令官ピクトール・フェルプス大佐と奥鳩拘置研長のモーリス・C・ハンドワーク大佐とに指令された。そこでその意味をこれから本人に伝達する。昭和23年12月23日午前零時1分、巣鴨拘置所において執行す」  

 そのあとで、何か願いがあるかとたずねられ、チャプレンとブッディスト・ブリースト花仙が明日午後5時から刑執行までつき添うむねをつけ加えられた。 

 最初に出て来られた土肥原さんは、私に手紙を渡したいといわれたが、それは検閲の緒果渡すと言渡された。 

 そこで午後5時以前の面会について、土肥原さんは一時間もらえればなお結構だといわれた。廣田さんも、同様にしてくれと。廣田さんは少し面やつれして見えた。そして執行の一日が何日であるかも直ぐには感じられなかったようである。私が明日の夜中であることをいった。いずれも、背中にP印のあるアメリカ兵の作業服を着て、靴下の上に下駄をはき、バンドなどはなかった。

部屋を去る時には、各々体重を計って行かれた。 

 次に板垣さんと木村さんが出て見えた。
板垣さんははっきりと諒承した旨を告げ、5時以前に一時間会いたいといわれた。
木村さんは私に遺言伝達方を依頼された。
所長は、一応プルム大尉に渡し検閲の後渡す、ただし口頭で伝達することは差し支えないと伝えられた。.

 次に松井さんと武藤さんが出て見えた。
松井さんは手紙3通ほどを持って、手には念珠をかけていられた。
私は、明日お部屋の方へたずねるから、手紙は部屋に持ち帰られるようにといった。
武藤さんは紫と少し赤味がかった例のガウン、それにはU・Sの印が小さく胸についていた。これにいつものように寒い時に着るガウンである。
少し風邪を引いているのを用心されたらしい。
下駄をはいて、手にはやはり念珠をかけていられた。

 最後に出て見えた東條さんは、いつものように、左の手に念珠をかけておられたが、それに房のついてないのが目についた。そして宣告の一語々々にうなずかれた。
 宣告が終わった時に念珠をかけた手を上げて拝むようにOK、OKといわれた。
それは全く承知したという意味と、感謝の意味が含まれていたように思われた。
何か願いがないか、とたずねられたのに対して、東條さんだけは極めてはっきりと所感を表明された。

 「2、3週間前にわたって願書を所長宛に出しておいた。もしそれがあなたでかなわなければ、さらに上官に願い出たい旨を認めておいた。その一つは5カ条ほど書いておいたが、ほとんどかなえていただけた。感謝している」
 と手を上げて頭を下げられた。

 そのの5カ条というのは、夜は眠れるように、というようなことなどであった。あとの2カ条は、処刑以前に花山さんに2、3時間ほどしっかり法話を願いたい。宗教は絶対的自由で、われわれは仏教を信じている。また刑死する最後まで、花山さんについていて見届けてもらいたい、ということであった。そうして、さらに付け加えられた。

 「あなた方は警戒し過ぎる。決してわれわれは自殺などしない。立派に死んで行って見せます。

 その一例を申すと、便所の時などでも、一々監視されるが、これは日本人として堪えられないことだ。
あなた方でもやられればわかおと思う。それからつまらんことですが、日本食を一度くらいは、食いたい、日本人ですからね。すしでもなんでもよい。
それから、一杯くらい呑みたい。ここに入っている同僚の家族達は、実に氣の毒な人達が多い。
アメリカの兵隊とちがって、貧乏なののだから、飯の食える方法を考えてもらいたい。
具体的にいえば、ここで働いている毎日の労賃を家族に渡すことですね」  

 これに対して所長は、 

「それは私の関与するところではない。上官の命に從ってやっていることである」と答えられた。

 『それでは』といって去られた。
私は明日訪ねるからと見見送った。終わったのは10時である。36号室に引上げた。
隣の部屋へ、ただ今通訳した軍曹の杉野君がプルム大尉に連れられて入って来た。
眠られぬ一夜であった。 

12月22日(水)朝7時のニュースを聞く。
大審院の訴願却下の全文が、マ元帥に到着したと発表された。私は9時からいつもの仏間で、7人に個人面談を始めた。

 面談時間
 廣田弘毅    午前9時から10時まで。
 武藤 章    午前10時10分から10時50分まで。
 松井石根    午前11時から11時50分まで。
 板垣征四郎  午後1時10分から2時まで。
 木村兵太郎  午後2から2時50分まで。
 土肥原賢二  午後3時から3時50分まで。
 東條英樹   12月22日午後4時から4時50分まで。 

 午後7時かち独房に入ることになった。
従来の女囚房1階1室に安置してあった仏像を、A級7人のみのいる第1棟1階の一室に移し、ローソク立て、香炉、盛り物台、ブドー酒、チョコレート、ビスケット、コップ、水の用意、並びに線香の用意を整え、仏壇の内外を掃除する。

 

それから3階に上り、中央の一室のドアを開けて、7人が一人ずつ続いて呼びだされて来て、ここで最後の個人面談を行う。

 3畳の独房の中の畳2枚の真中に毛布を高く積み上げて、これを座とし、後方の独房内取付けの椅子に一人、房の入口の椅子に一人、それぞれ看視が腰かけ、この房の入口の看硯の直ぐ前に私が椅子に座って、独房内の一人々々と相対す。間隔約2、3尺。この時も、別段面会の順序はない。一番奥の一室から、順次呼んで来てもらった。この時はじめて手錠なしである。 

面会時間
  松井石根  午後7時半から8時まで。
  廣田弘毅  午後8時から8時25分まで。
  武藤 章   午後8時から9時30分まで。
  東條英樹   午後9時半分から10時半まで。
  板垣征四郎 午後10時半から10時50分まで。
  木村兵太郎 午後11時から11時30分まで。
  土肥原賢二 午後11時14分から11時30分まで。

往相から還相へ
 かくて、11時半にもなったので、私は大急ぎで一階にかけ降りて、再び仏間の用意をし、コップにブドー酒をつぎ、水を入れたりして7人の到来を待った。
まもなく三階から処刑第一組として土肥原、松井、東條、武藤の4人の順で、列をつくって降りて来られた。
それぞれ2人の看視につきそわれていた。両手に手帳がかけられ、さらにその手錠はバンドで股に引っかけられていた。
極めて不自由な姿である。着物はいつも着ていられた米軍の作業衣であった。 

 しかし、シャツは見えた。クツは編み上げの日本クツであった。
係宮から時間が7分しかないということをいわれたので、取敢えず仏間のローソクの火に線香をつけて、一本ずつ手渡し、
私か香炉を下げて手もとに近づけて立てていただき、それから仏間に重ねてた奉書に薯名をしてもらった。

不自由な手ながらインクを含ませた筆をとって、土肥原さんから順に筆を揮った。
それからコップに一ぱいのブドー-酒を口に付けてあげて飲んでもらう。
さらに水のコップを私がコップを私が少しずつ飲んでは、みなさんに飲んでいただいた。
東條さんの『一ぱいやりたい』も、どうやらこれで果たされ、大変な御機嫌であった。

 その後、まだ二分あるというので、『三誓偈』の初めの三頌と、最後の一頌を声高らかだ私は読んだ。四人は頭を下げて、静かに瞑目して聞いておられ、終わった時、

『非常に有難うございました』とお礼をいわれた。それから誰言うことなく『万歳』という声が出て、多分東條さんと思うが、『松井さんに』というので、松井さんが音頭をとって『天皇陛下万歳』を三唱、さらに『大日本帝国バンザイ』参照を共に叫ばれた。

プドー酒のあとで「お菓子はどうですか」といったが、みな入れ歯を取っていられたので、歯がないからと遠慮されたが、松井さんに、やわらかいビスケットを一つ口の中に入れてあげたら、もぐもぐたべられた。 

 以上の行事は、仏間ではせまくて、すべて廊下に立つたまま行われた。
この時、東條さんから、約束通り念珠を受取った。松井さんも、手にかけておられたので、『これを、奥さんに差上げましょうか』といったら、『そうして下さい』といわれ、受取った。 
他の2人は、部屋(独房)の袋に残して来られたという。やがてチャプレン・ウォルシュ牧師及び2、3の将校にあいさつをして、それぞれしっかりと握手を交わされた。
私も、いちいちみなの手を握って、最後の挨拶をかわした。
いすれの方も非常に喜んで、長い間の労苦を感謝され、また、「あとの家族のことをよろしく」

と頼まれた。時間は、刻々と遭って着いた。

 出口の鉄の扉が開いた。当番将校先導で、その後に、チャプレンと私がつづき、そのうしろに土肥原、松丼、東條、武藤の順で並び、両脇には看視、あとに将校が2、3名つづいて、静かに中庭を歩んで-ゆく。その間、約2分ぐらいかかつたが、念仏の声が絶えなかった。とくに東條さんの声が、刑場の入口(コンクリート塀)で、私は隊列を離れ、さらに4人と、また一人一人手を握って最後の『御機嫌よろしう』をいったところ、

 『いろいろ御世話になって有難う。どうか、また家族をよろしく願います』と、みなにこにこ徴笑みながら、刑場に消えた。あとで聞いたところ、台上では4人とも、最後の南無阿弥陀仏を称えておられていたということだ。

 急いで仏間に帰る途中、ガタンという音をうしろに聞いた。時計をみると、午前零時1分だった。

 仏間に戻って、再び用意して待っているところへ、第2組の3.人、板垣、廣田、木村さんか降りて来られた。顔を含せると、すぐ廣田さんが眞面冒な顔で、『今、マンザイをやっててたんでしよう』といわれた。

 『マンザイ?いやそんなものはやりませんよ。どこか、隣りの棟からでも、聞えたのではありませんか』
 私も真面目に、こうこたえた。『いや、そんなことはないが・・・・』

 とにかく、今度は3人とも仏間の中に入ってもらって、お線香を一人すつに、前のように渡して立ててもらい、署名されたあとで、今度は時間があったので『三誓偈』を全部読んだ。木村さんだけは、メガネをかけて降りて来られ『意訳聖典』も持って来られたため、私の読書中それを明けて読み、私の読経に合せておられた。 

 お経の終ったあとで、廣田さんが、『このお経のあとでマンザイをやったんじやないか』といわれた。私も、やっと氣がついて、

『ああバンザイですか、バンザイはやりましたよ』といった。それでやっと、マンザイがバンザイだとわかって、

『それでは、ここでどうぞ』というと、魔田さんが板垣さんに、『あなた、おやりなさい』
とすすめられ、板垣さんの音頭で、大きな、まるで割れるような声で一同は『天皇陛下万歳』を三唱された。もちろん、手はあげられない。それから、仏間の入口に並んで、みなにブドー-酒を歓んでもらった。このときは、米兵の助けをからす、私がコップを持って、一人ヵヵ全部に飲ませてあげた。
 廣田さんも、おいしそうに最後の一滴まで飲まれたし、板垣さんの如きは、グッと元氣よく一氣に飲みほされた。よほど好きらしかった。木村さんだけは、半分以上残された。余り、酒の好きな人でないと見えた。
次に、水を欽みかわして、しっかりと握手をした。
みな、にこにことあいさつをされて、『いろいろお世話になりました。どうぞお大事に、また家族たちをよろしく』

たいへんに、感謝をされた。
 
それから、前のような列になって刑場の入り口へすすみ、私はここで、前と同じように、別れた。最後に、木村さんは頭を幾度も下げ、にこにこ笑って、私に、『どうか、家内たちをよろしくお願いいたします。お泄話になりました』と、長いあいさつをして刑場に入られた。
 
 中庭はそうでもなかったが、形場の中はあかあかと照明に照らされていた。この時も、また途中でガダンと聞いた。零時20分だった。仏間にもどって跡片すけをして、再び刑場入口にもどる。
「もう入つてもいい」と合図されたので、刑場に入った。7つの寝棺が運ばれた。私はその前で『正信偈』に念仏回向をつけた。これまでは阿彌陀経を読んだの花が、「意訳聖典」にはそれが入っていなかったからである。
私が、読経するあいだ、ウオルシュ牧師は、懐中電燈で、聖典をてらしていてくれた。

 刑場内は、跡始末であわただしく、人が右往左往していたが、棺と、私の間を、通ったり、さえぎったりするものは、一人もなかった。
 こうして、すべては終った。さきほどまで笑って話していた7人は、いま沈々として横たわり、微動だもしない。これほど、生と死の境が一つになっていることも、あまりなかろう。

 さきほどの死直前の署名は、この意昧でも、まれな人間の記録となった。いささかの悲しみも動揺もなく、平常心そのまま、念仏とともに死についた7人の死は、私にとっても、生涯消えがたい感銘を刻むことである。

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 12月23日、7人の死刑が執行された。「刑の執行当日は平和を祈れ」とマッカーサーはいった。
日本国民は国旗掲揚を許された。この日は皇太子、現在の天皇陛下の誕生日である。
米国の対日政策、天皇陛下が生きておられる限り続く。

「原爆こそ裁け」
 マッカーサーは、文明社会の不完全性を認めた。多くの人が異なる意見を持つだろうと言った。
人間の行う決定には、絶対におやまりがないということはありえない。
多くの人がこの判決について違った意見を持つこととはさけられたい。
東京法廷を構成した学識ある半事たちできえも完全に意見の一致をみたわげではなかったとも言った。

 全被告は、起訴事実の全部について無罪と決定されなければならず、また全部の起訴事実から免除しなければならぬと主張した判事もいた。
 *
   戦後の対米外交と周辺国に対する「土下座外交」によって日本人が学んだことがある。
 ① 祖先がやってないことは当然、謝らない。
 ② やったか、やってないか分からないことについても謝らない。
 ③ 本当に祖先が悪いことをしたのであれば、その行動を正当化し徹底的に擁護して決して謝らない

 国際連盟創立の委員会で日本の牧野伸顕は「人種平等の原則」を定義した。日米開国条約は不平等条約であった。米国、英国の当時の国民政府に対する援助と対日経済封鎖は中立を無視したものであり、また国際法が今なお非交戦国に課している根本的な義務を放棄するもので、直接戦闘に参加しているに等しかった。

 米国の犯した数々の戦争法規違反に目をつぶり、日本軍を犯罪者に仕立てて平和の守護者然とふるまってきた米国から、日本人は「先の大戦に関して謝罪をする必要はない」という大切な事を教えてもらったのだ。

             米国は自らの戦争犯罪を隠ぺいしたいのだ! 

 

 「罪なき女子供、老人を無差別かつ大量に殺戮した原爆投下は人道に対する罪だ!」とアメリカ人の目を真っ直ぐに見て言えば、彼らが言う空疎な空念仏「人権尊重」など一遍の価値もなく、反論もできないだろう。
これらは今も起こっている白人警察官の黒人殺害やCIAの拷問など米国の抱える暗部が白日にさらされている。 

東京裁判は “裁判ではない” 
 米国の対日占領政策である

 マッカーサーの声明の中には、「悲劇的な罪障の消減」という言葉がある。マッカーサー言うところは「7人に対する死刑の執行は、敗戦国日本の悲劇的な罪障の消滅を意味している。罪障はこれで消滅する。日本は戦争を放棄したが、世界全体が戦争の放棄に向うよう祈りをささげることを求める」ということである。

 キーナンも「日本国民はむしろ被害者だ」といったように、米国の対日占領政策の大筋は、端的にいうと、旧指導者、特に軍部と、国民との分離という政策であった。

   
       

米国の民主主義を知ることを奨励されるべし
  拷問も学べ!

 
 米国は広島、長崎に対する原爆投下という自らが抱える史上最大の戦争犯罪から世界の目を反らすため慰安婦問題、南京虐殺などなど歴史問題で中朝を唆すだろう。中朝の反日外交は米国の暗黙の了解があるのだろう。
 日米安保同盟は日本の暴走を抑える道具。米国は中国が台頭すればするほど日本を守る余裕はなくなる。日本は米国の従属から自主性を取り戻さざるを得なくなる。対米従属一辺倒の時代は終わった。 

 12月23日の天皇誕生日は、マッカーサーが東京裁判の戦犯処刑を国旗を掲げ祝えと命じた日である。
先般の処刑をこの日に行ったのは、半永久的に「米国の初期の対日方針」を日本人の心に刻み込むためである。
今も日米戦争が続いている。

 終戦70年の2015年に中国や朝鮮が謝罪を求めてくるならば、安定政権の基礎を築いた安倍首相は米中朝等に対して「謝罪はすでに終わった」と答えるべきである。
国家指導者は毅然とした姿勢が戦後レジーム脱却に不可欠である。


 



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