PowerGun ブログ別館

日記、小説と書評、音楽、その他管理人の趣味によって成り立つブログ。

真意

2005-11-04 18:55:20 | 小説、創作文芸関連
 正直もうこれ以上、このトピックに触れないようにするのはやめよう、という風に思っていました。
 というのも本質的に、「通じない人には通じない話題なんだ」という事がよくわかったからです。もう、これ以上この話題については、言っても無駄なんだ、と。

 先月の26日~30日まで触れた話題ですが、これは実は、全て同じ事を、別々の例から言っているだけに過ぎません。つまり、一つの例について共感したり、また、賛同したりするならば、他の意見も全て、賛同しなければならない意見なのです。

 ここで批判したのは、『意識の無さ』です。
 自分が創作し、それを世に送り出すということについて、あまりに簡単に考えすぎている、という事が見て取れる例を挙げて、一つひとつ批判したに過ぎないのです。
 コメント欄でのレスとして、『小説は人を傷つけるもの』と書いたのも、本質的にはその一つです。どのような作品を書いたところで、その作品で「傷ついた」と言う人が出てくるのは、結局避けられない(自分の予期しないところで「傷ついた」という人は必ず出てくる)事です。もっと深いところで言いますと「そもそもそんなところに捕らわれているのはおかしい」という事まで含んでいます。

 一度公開した作品を(意見に応じて)改変したり。
 本来自分の主義、思想、思考、経験、想像力に委ねなければならない事を、他人に訊いて安直に答えを導き出そうとしたり。
「一つ上」ですらなく、ただ単純に馴れ合い的に活動したり。

 これらは全て「意識の無さ」から来るものだと考えています。

 これが同人誌やごく狭い(オフラインの)サークルなどの活動であるならば、まだ文句は言われないでしょう。同好の士で集って、個人的な活動をしているだけですから。
『無自覚な荒らし』という言葉を使ったのは、サイトの話などでは一切無く、これらが『創作行為そのもの』を荒らしている、または、創作行為をお手軽なものに貶めている、という現状があるからです。
 サイトを荒らしてはいないかもしれません。しかし、創作行為自体を(気楽に考えているが故に)荒らすというのは、それは結果的に「創作行為から派生する(した)もの全てを荒らす」という事になりかねないのです。

 本質的にネット上での表現活動は、同人レベルやサークルレベルではありません。その対価こそ受け取ってはいませんが、極めて大多数の、不特定多数の人間に閲覧されるという事で、既に(技術的、作品のレベル的にはどうあれ)意識的にはプロと同じものが求められるはずです。
 プロとネットでの活動に(対価以外の)違いを考えるならば、ネットでの活動は「最初は下手でも構わない」という事でしょうか。しかしそれでも、当初のレベルはどうあれ、レベルの向上を示すのであれば、それは違いですらないのです。

 そう言った意識の無さが、顕著に表れている例を出したのが、今までに書いた事です。
 こう言ったところで例えば「小説を書くのを止めろ」というのは、ある意味非常に厳しく言いすぎた、というところで、自分でも反省していることではあります。しかし、これをバネにして書くくらいの気概は欲しいところです(ここで多分、意識の有無とその強さが求められると思います)。

 勝手ながらこの意見を、これまでのコメントのレスに替えさせていただきます。

これはちょっと言い逃れ出来んなあ。

2005-10-19 18:59:47 | 小説、創作文芸関連
 漫画の表現盗用、2chの指摘で絶版・回収に(Yahoo! ニュース - ITmedia)
 
 このニュースを知ったのは、今日の毎日新聞の朝刊だったんですが、まあ、大きく騒ぎすぎなんじゃないの? という感じでした。
 しかし……。

 漫画家・末次由紀氏 盗用(盗作)検証

 これを見たらさすがに呆れましたわ。
 
 マジでこれ、アマチュアでやるレベルだよ……。
 そのレベルでやってるんだもん……。


 しかし、これを商業ベースに載せた講談社と作者の神経が、どうしても理解できないです。いや、マジで。
 トレースはあくまで『プロ並の実力を身に付けるためのトレーニング』です。それ以上になってはいけないですし、それ以下でもありません。
『スラムダンク』や『バスタード』は、天下の『少年ジャンプ』に連載された人気漫画ですし、両方とも今でも人気のある漫画です。『トレーニングとしてのトレース』の題材としては、これ以上に優れている漫画は少ないですが、まさかそれを『わかんねーだろう』と思って自作にして描いた作者の神経と、編集者の意識の薄さを、マジで疑いますよ。

 作者のほうは連載中止から絶版って流れらしいですが、編集長と編集者も懲戒免職くらいの処罰を受けたんでしょうね? そのくらいやらないと、話にならないと思いますが……。


 しかし、これが問題になるって言うのに、○○○○○・○○○○と○○○○○○○”○”のほうがまだ問題にならないってのも、相当狂ってるぜ(何の事か解るよね?)。相当問題になると思うんで、誰かこれの纏めサイトを作ってくれないかな。

 ―SPIDERMAN[Spider Mix] / MARK FOSTERを聴きながら―

個人的に考える『推敲』の注意点

2005-10-13 18:33:02 | 小説、創作文芸関連
 推敲の注意点について、今日は語ってみたいと思います。
 なんだか最近、ブログの方向性を見失っているような気がしたので、今回は原点に回帰するという意味で(苦笑)。

 個人的に推敲で気をつけている点は『たった一つ』です。

「作品に矛盾するところは無いか?」

 これだけ気をつけます。
 これは、言ってみればたった一言でありながら、異常なほど重い項目です。というのも、この言葉の中には、無数の意味が含まれているからです。
「面白いかどうか?」とか、そんなところに目をかけているようでは駄目だと思います。推敲の段階になってそんな事を言っていては、自分の作品に自信が無いという事であり、そんな感じであるなら、そもそも『作品を書くべきでは無い』のです。

 ただ、いくら面白い作品であっても、読者の読む手を止めさせては話になりません。そのときに特に考えなければならないのは、「作品に矛盾が存在しないか?」という事です。
 一瞬でも矛盾を感じさせると、その時には読者は離れていると思って過言では無いです。どんな面白い作品でも、例外はありません。それを防ぐためにも、出来る限り作品の矛盾は、遡ってチェックするようにしましょう。

 一言で「作品にある矛盾」と言っても、様々なケースが存在します。
 例えば、

(1)一行の中に孕む矛盾
(2)作品のストーリーに孕む矛盾
(3)作品構造自体の完全な矛盾

 大まかに思いつく限りでは、こういったところでしょうか。細分化すると、もっと多くあるのですが。
(1)は簡単に言えば「よぼよぼの老人が背中を伸ばして歩いている」みたいな感じのものです。こう言うのは結構、誰にでも目につきます。
 
(2)は作品に齟齬があることです。例えば最初のほうで、世界的に大多数の人間が「魔法なんかあるわけない」という風に認識している社会の話で、最後のほうでいきなり刑事が「あなたの魔法がこの事件を引き起こしたのではないかと疑っている」云々を言われると、これはかなり致命的な打撃になります。

(3)は実際、小手先の推敲ではどうしようもないですね。例えば「殺し合いを描いて逆説的に人の命の大切さを訴える」作品の舞台が「全体主義国家」だったら、もうどうしようもないです。
 ぶっちゃけ言うと、バトル・ロワイヤルとか言う、勘違いした駄作の事です。
 前にも言ったと思うのですが「全体主義国家=国民の個性を消す」というのが、基本的な政策方針です。という事は、全体主義国家では人間の個性など出てきようも無いのです。それなのに人々に個性がありすぎる……というのは、作品全体を読んだときに「駄作」と烙印を押さなければなりません。
 こう言った舞台構造とテーマ(メッセージ)の齟齬があると、小手先の推敲ではどうする事もできません。完全に書き直しをするしかないですね。
 まあ、そんな作品を(初稿の時点でも)書くというのは、流石に『才能なし』といわざるを得ないのですが……。

 とりあえずは、こんなところでしょうか。

 ―C'MON C'MON C'MON / DEE DEE を聴きながら―

登場人物の役割

2005-10-07 18:37:24 | 小説、創作文芸関連
 作家でごはん! さんでこう言った質問があったので、ついぞ条件反射的に答えてしまいました。
 で、これについて幾つか書きたくなったので、今日のブログはこの話題でいきます。
 そう言えばブログでこのサイトを取り扱うのって初めてだなあ……小説関連のサイトじゃ国内最大級なのに。

 それはさておき。

 登場人物の役割というのは、要するに「主人公」と「その他のメインキャラ」「サブキャラ」「敵役」それぞれの役割の事です。
 最近の小説(特にライトノベル)では、キャラクターノベルスになる傾向が結構強く、何よりも重要視されるケースが少なくありません。しかし意外なことに、キャラクターそれぞれの「役割」を把握して書いていないケースが、特にネット上では増えているように思います。
 とりあえず一般論としてあるのは、

(1)主人公は完璧にしない、また、間抜けにしない。
(2)主人公を補う形で、その他のメインキャラを作る。
(3)サブキャラは『小石』で。
(4)敵役は対照的存在で

 というところでしょうか。

(1)(2)は言うまでも無いですね。うちのサイトの『創作概論』でも結構言っている事ですから。

(3)については、『小石』のようなものと考えてください。
 これはどういうことなのかと言うと、その小石があったために、道筋を変更する必要があったり、無かったり、という話ですね。
 主人公がハンドルを握り、他のサブキャラがナビシートに座っているとするなら、こう言った喩えになります。要するにその小石が、進路に影響を及ぼすのか、或いは及ぼさないのか、という感じの話なのです。
 まあ、こう言ったキャラクターは結構難しいですが……。

(4)は、とりあえず主人公を(自分の)主張の代弁者とするなら、敵役は対論を持ち出し、論を深めさせるための存在という風に考えてください。
 自分の論旨は正しいとは限りません。特に主義や思想などの話になると、自分が正しいと思っていたことが、実は(他の人が)全く通用しない論旨だったという事が良くあります。これが一般社会ならば考え方を改めればいいだけの話ですが、小説の場合はいつまでもその論旨が残ります。
 例えばジャンプで連載されていた某明治漫画で、
『弱肉強食は絶対に間違っているんだ』と主人公に言わせた上で、
「富国強兵という政策で弱肉強食を推し進めていく――」
 なんていう「馬鹿も大概にしろよ」な台詞がありましたね。
 こんな「現実世界で通用しない夢想」で締めた上で「近代日本批判」かよ――。この話で作者の底が読めたように思います(だからこれ以降、この作者の作品は一冊も読んでいません)。
 これは『敵役を上手く使えていない』からこそ起こる事です。主人公の論旨が完全に凝り固まっており、さらに言うなら敵役に論拠が無かった事から起こったことなんですね。
 僕が(過去、現在を通して)ジャンプの漫画では「ダイの大冒険」が一番好き、というのはこの辺りにあります。思想的に好感の持てる――現実世界で通用する「夢想ではない理想」を掲げたからこそ、終わってから何年も経つのに好きな漫画の一つとして掲げているのです。
 話が逸れました。
 要するに「薄っぺらな理想(夢想)論では話にならねーぞ」という事を言いたかったのです。
 本来どんなものであっても、理想論というのは空虚な妄想に過ぎないもので、ネットでよく「チラシの裏」といわれるようなものでしかありません。それを対比させる思想によって深く磨かれる事こそ必要です。とするなら、敵役の存在意義とは思想を深化し、現実に通じるものとして伝える為の対論者だと言えるのです。

 こう言ったことを注意して作品を書くと、作品に凄い「深み」が生まれます。
 この辺りを注視してみてはいかがでしょうか?

 ―MUSIC FEVER / DJ LUKE PENN feat. MR."M"を聴きながら―

感想を書く側の資質(上)

2005-09-29 19:08:24 | 小説、創作文芸関連
 小説を――否、あらゆる創作物は、それを造って公表すると、大抵の場合『感想』或いは『批評』がつきます。
 こればっかりはどんな状態でも(プロだろうがアマだろうが)異論を挟むことは出来ないと思います。うちのサイトでも、本館(PowerGun)で公表されている小説に対して、少ないながらも(本当に少ないんだよ……泣)感想や批評はついていますから。

 本館の『創作概論』のところでも書いてはいますが、感想や批評はどんなものであれ、その作家の技術力や構成能力などの向上に役立ちます。
 これは、作者だけではなく、読者にも言えることです。
 真剣に書いた感想や批評というのは、感想を書く側にとっても、文章力や構成力の向上に役立ちます。


 ところが最近では、その事をあまり重視していないような感想や批評を、所々で見ることができるようになりました。ただ自分の作品に感想をつけてもらいたいばっかりに、さしさわりのない堤燈感想を書く人や、ただ自分の意見を押し付けたいだけの人、無自覚な誹謗中傷……小説サイトを十件巡れば、7~8件くらいは、そんな感想ばっかりのサイトに出会う事が出来ます。

 そんな感想を書く人間に、まともな文章を書くことが出来るわけが無いと、個人的には思っています。
 感想を書くのにも構成能力が必要ですし、何より、その作品の真贋を見抜く能力が必要です。また、酷評する際には気遣いが必要ですし、良い作品にはきちんと良いと言える素直さも必要になります。
 そして、そういった能力は、一般社会でも十分に役立つものであると、個人的には思います。

 しかし、堤燈感想や中身の無い酷評には、どう考えてもそういったことを考えて書いているとは思えないものが多いです。
 つまり、まともな心構えの出来ていないまま、自分の作品に感想をつけてもらいたいがばかりの堤燈感想や、或いはストレス解消を目的としたような、全く中身の無い感想を書く人が、やたらと多くなりつつあります。

 こう言った感想は、正直止めて欲しいとすら思います。
(この項続く)
 ―BANG BANG BANG / JOE BANANAを聴きながら―

どこに「こだわる」か

2005-09-27 20:26:15 | 小説、創作文芸関連
 まあ、このブログで何度も話題に挙げていますし、また、創作関連サイトではかなり有名なサイトなんで、知っている方も多いと思いますが。

ライトノベル作法研究所』さんで、今日付けでUPされた「テクニックの弊害を克服するには?」という記事が、極めていい記事でした。
 この記事の話については、うちのサイト(本館)でも何度か書いたものなんですが、簡単に要約すると、以下のような感じです。

 ・テクニックは重要であるが、そればかり重視するとオリジナリティが壊れる。
 ・しかし、オリジナリティばかりに目が向いても駄目。テクニックが無いものは駄作でしかない。
 ・オリジナリティとは勘違いされやすいもの。自分ではオリジナリティがあるつもりでも、他人から見れば既存の焼き写しにしか過ぎないことが多々ある。
 ・そのパラドックスを破る一つの方法に「こだわり」がある。

 確かにその通りだと思いましたね。

 しかし、ちょっと気になったのが一つだけありました。
 それは最後の項目――パラドックスを破るのに「こだわり」がある、という点です。
 個人的に思うのですが、上記の記事ではこの「こだわり」に関して「専門的知識の活用」という意味合いで書かれているような感じです。しかし、こういった「専門的知識」は、使い方を間違うと駄目駄目な作品を送り出す元になってしまいます。
 小説を読む人にとって、専門的知識などどうでもいい事です。確かに専門的知識によってリアリティを出す効果もありますが、このさじ加減を間違うと「うざい小説」を送り出す元になってしまいます。

 専門的知識に頼らずとも、十分なオリジナリティを出す事はできます。

 例えば「文体へのこだわり」というものもありますし、「心理描写へのこだわり」もあります。「キャラクターの感情のこだわり」というものもありますし「設定へのこだわり」というものも存在します。

 どれもこれも全て「こだわり」の話ですが、個人的にはこう言った場所でこそ「こだわる」べきだと思います。専門的知識は誰でも勉強すればすぐに身につきますし、そもそも「専門的知識」に「こだわって」いては、まともに作品を書けなくなると思います。

 この点も結構難しいのですが、少なくとも専門的知識に関しては、個人的にはあまり「こだわる」べきではないと思うのですが――どうでしょうか。

 ―ROCK IT / RADIORAMAを聴きながら―

「訊くべきではない」質問

2005-09-24 21:45:31 | 小説、創作文芸関連
 このブログを起こしてから既に数ヶ月、時々は、こう言うことを言わないといけないんだなあ……という風に感じています。

 さて、タイトルどおりの話です。

 つまり、このブログでも一度触れ、本館のほうでもコラムとして取り上げ、また、あちこちで事あるごとに言っている事ではあります。
 Web上の創作文芸サイトではよくあるのですが、例えば「小説を書くためには何をすればいいんですか?」とか「今度○○のような作品を書きたいんですが教えてください」系の質問は絶対にするな、という事を、事ある毎に言ってきました。
 はっきり言って、こう言った質問をするくらいなら、小説なんか最初から書くべきではないと思っています。
 小説とは基本的に、自分で面白いと思うものを書きます。ところが上に挙げたような質問というのは、その大前提を捨て去っているのです。

 前にライトノベル作法研究所で、上記と同じ趣旨の発言を問題定義として書いたところ、何も理解できていないような連中からは非難ごうごうだったのですが、しかし、大半の方々からは好意的に受け取ってもらいました。
 ただ、好意的に受け取ってくれた人からも「言い過ぎだ」という声がありましたが、僕としては言い過ぎだったとは思っていません。というのも、この意見に関しては、例として質問を取り上げたり、「貴様に小説を書く資格など無い」くらいのことを言って、敢えて挑発的にやらないと、絶対に「受け取ってもらいたい人に」受け取ってもらえないからです。
「俺はこの意見には当てはまらない」と思う連中は、大概僕の想定した「受け取ってもらいたい」層に含まれています。そんな人たちに、柔らかく言って伝わるでしょうか。
 伝わるべくもないです。なぜなら、こう言ったネット上では、名指しで批判されないと、そのことに気付かないケースが多いからです。
 無論ここで「なにくそ」と思って反駁するなら、ある程度望みはあります(まあ、反駁されたって再反論することは出来るんだけどね)。しかし、反駁になっていない反論のような形で、変な詭弁のような事を言われると、こちらとしても反論する気概すら失せます。

 では、ここで、小説創作相談などで、絶対に人に訊くべきではない――或いは書き込むべきではない質問を、大別して書いておきます。

・なんでもかんでも『教えてください』
・自分のセンスに関わることを、他人に助言を求める。
・十人十色の回答が出る意見について、他人に意見を求める。

 共通するのは全て「自分で調べること、自分で答えを求めること」を「他人に求めようとする」という事です。

 何度でも言いますが、小説を書くことは(というより、物語を創作する事は)自分の考え出したものの面白さ、自分のセンス、自分の思想を、不特定多数の人にぶつけることです。
 それが多くの人に受け入れられると言う事が、つまり「世の中の人間にとって面白い」と言う事であり、受け入れられなければ「面白くない」という事になります。
 しかし、この前提すら理解できていないと、上に例として挙げたような質問をすることになります。
 だから僕は、「質問する前に、少しは自分で考えろ」という事を、事ある毎に言っているのです。

 ―NEEDIN' U II / DAVID MORALES presents FACE feat. JULIET ROBERTSを聴きながら―

推敲と校正の違い

2005-09-22 20:18:26 | 小説、創作文芸関連
 現在、本館のノベルページのほうでUPしている「魔導伝綺(仮題)」ですが、数日前に本格的に、SD新人賞に応募するための推敲の作業に入りました。

 結構個人的に「ここの表現何とかしたいなあ」とか「こいつのキャラ、良く出てないな」なんて言うことが結構ありますが、あまり苦戦せずに終わりそうです。ただ、後半部分は殆ど書き下ろしたようなものなんで(当初はアクションシーンは殆ど無かった)、後半でかなり、いろいろと変更しないといけないかな。
 ことによったらアクションシーンを幾つか見直す必要もあるかもしれない。

 それはさて置きとして。

 皆さんは「推敲」と「校正」の違い、わかりますか?
 どうも創作HOW TO系のサイトでは、うちも含めて「推敲」の事しかやっていないケースが多いのですが、前に某所の創作掲示板で「推敲と校正」と、明らかに分けて言っていた人が居たので、ちょっと気になって調べてみました。

すいこう ―かう 0 【推▼敲】

(名)スル
〔唐代の詩人賈島(かとう)が、「僧は推す月下の門」の「推(おす)」を「敲(たたく)」にしようかと迷って、韓愈の助言で「敲」にきめたという故事から〕詩文を作るとき、最適の字句や表現を求めて考え練り上げること。
「―を重ねる」「原稿を―する」

三省堂提供「大辞林 第二版」より

校正【こうせい】

(1)印刷で,仮刷りと原稿とを照らし合わせて,文字の誤りを正し,体裁を整えること。
(2)計測機器に表示される値と,それに対応する既知の値(国際標準など)との関係を,特定の条件下で確認する一連の操作。
〔(2)は「較正」とも書く〕

三省堂提供「デイリー 新語辞典」より

 いずれもGoo! 辞書よりの引用ですが、これを見る限りでは、『アマチュアが新人賞などに応募する原稿』という観点からすれば、校正という言葉は完全に無視でいいと思います。
 というのも、校正作業云々って、これを見る限りではプロのやる事、広義にはネット上で小説を公開する際にやることのような気がします。
 つまり、校正という作業は「誤字脱字のチェック」のみで、推敲というのはそれを含めた「表現、描写、ストーリーのチェック」という風に取れるのです。

 言葉の意味合いからして全く違いますね。

 ―BOOM BOOM TOKYO / LUNAを聴きながら―

書きたいものを書かずして何を書く?

2005-09-10 22:30:35 | 小説、創作文芸関連
 こう言った話題というのは、あまり好きでは無いんですが。
 もう、誰がどう言ったって結論出ている話ですし、個人的にもどう議論を重ねても無駄だと思いますし。

 で、タイトルの話です。
 個人的には「自分で書きたいもの=自分の考える面白い話」という公式が崩れない以上、自分の書きたいものを書くべきだと思っています。
 そうじゃないとおかしいです。自分の書きたくないものを書いていて、貴方、筆が進みますか? 何より、自分にも世の中にも「面白い!」と思える作品を書けますか?

 プロ作家のマーケティング云々とかの話を持ち出して「プロになると書きたいものなんか書けない!」なんて言っている人もいますが、これはちょっと、あまりに物事を一方からしか見ていない発言だと思います。
 ちょっと考えてみましょう。
 例えばジャンプJBOOKS辺りが得意にしている、漫画のノベライズですが、あれだって実際のところ、原作となった漫画が嫌いな人が書いているわけではないでしょう。原作を知らないと書けないし、何より嫌いだったら、そもそも見向きもしないわけで。
 編集者が企画を持っていくというのはよく聴く話ですが、それにしたって、作者には断る権利もあるわけですし、何より編集サイドが「この人はこの作品が合いそうだな」という観点から(ノベライズの)仕事を依頼するわけですから、必ずしも「編集が作者のことを何も考えていない」わけでは無いと思います。

 話が少しずれましたが、マーケティングだの市場原理だのと言う話は、プロになってから考える事ですし、そもそも新人賞というのは「自分の書きたいもの」を書いて、その優劣を競う場所です。
 そのときで自分が一番書きたいものを書くのが、小説書きとしての本道でしょう。

 ああ、何だかまとまりの無い文章だなぁ……。

 ―AMERICA / PRISCILLAを聴きながら―

女性がボーイズラブを好きな理由

2005-09-09 20:47:54 | 小説、創作文芸関連
 実はこれ、ライトノベル作法研究所さんで長い事(第四研究室で)話題になっている話なんですが、ちょっとこの事を個人的に纏めてみたいと思います。

 で、その前に「ボーイズラブ」(以下BL)の定義について語っておきます。
 まあ、言わずもがななんですが、ボーイズラブ=男性同士の恋愛小説(漫画)という事になるんでしょうか。どちらかと言えばポルノよりなところがあり、大概のやつには(男同士の)絡みがあったりします。
 一年くらい前に僕も「コバルト・ロマン大賞」に応募する為に雑誌「Cobalt」を買い、それに載っていた幾つかのBL小説を読んでみたのですが……感想については敵を作りたくないのでそれは言うまい。

 閑話休題。

 で、ボーイズラブが女性に好まれる理由を、女性側から上げたのが、上記のリンクである「ライトノベル作法研究所」の第四研究室にある「女性がボーイズラブを好きな理由とは?」なんですが。

 ○リアリティ度外視
 ○恋愛の障壁が異端である
 ○女性が読む事の出来るポルノ

 上記の記事で上げられているのは、言葉に多少の差異はありますが、大体この3本の柱に絞って間違いないものと思われます。
 しかし、僕からするとこれらの論旨は、少々根拠が希薄という感じがします。というのも、

 ○どんな恋愛小説であれ、多少のリアリティ度外視はある。
 ○恋愛の障壁が異端であるなら、ほかにもやりようはある。
 ○女性向けのポルノは、書店に行けばいくらでも男×女である。

 という感じがするからです。
 というわけで、必ずしもBLでなくてもいいのに、何故BLに拘るのか、という疑問はまだまだ氷解はしていません。
「こちらが論破できないBLのBLたる所以」が導き出されなければ、話にならないので、もう少し掘り下げてみましょう。
 実は「女性が読む事の出来るポルノ」という言葉の中には、もう少し突っ込んだ解説があります。

 ○女性と男性のセックスの場合、必ず男性が攻めに回るが、BLでは必ず(どっちにしろ)男が受けになる。

 という論旨がありまして、これなら頷いてもいいかな、と思いますが――ちょっと待った!
 実はこれも、本当はちょっとおかしいのです。
 その理由を語る前に「ショタコン」という言葉を知っているでしょうか?
 要するにロリコンの少年版です。つまりは少年趣味恋愛――という事になるんでしょうか。これは本来は男性×男性の趣味の一つであったのですが、今では女性と男性の間でも、そう言った言葉が使われるようになりました。
 つまりは「女性が受けに」ならないポルノならば、考えようによってはいくらでも導き出せるのです。SMでSが女性であってもいいわけですしね。
 こうなると本当に「女性がBLを好む(好まなければならない)理由」というのは、どんどんなくなっていきます。

 ここでちょっと、話を変えてみましょう。
「BLが好きな女性」が「本当のゲイ」を好むのか? という点です。
 本当のゲイが絡み合っているポルノビデオを見せられて、BLの好きな女性は興奮できるのか、という疑問点が出てきます。
 これは実際のところ、出来ないでしょう。というのも前に挙げている「リアリティの度外視」という項目に引っかかってしまうからです。
 血管を浮かび上がらせて屹立する逞しい男根に口髭の絡んだ厚い唇が近づいていく――なんて描写は、少なくともBLの世界にはありません。もしBLの世界で、こんな描写をしていたら、(BLとしての)人気は絶対に取れないでしょう。
 という事は――
 大体ここで結論は出たかと思いますが、改めて結論を言いましょう。長くなりすぎるのも嫌なんで。
 ボーイズラブとは、完全なリアリティ無視の中の恋愛――つまり「ファンタジー恋愛」だからこそ支持を得ているという風に言えるのではないかと思います。
「恋愛ファンタジー」ではなく「ファンタジー恋愛」です。恋愛要素の絡んだファンタジーではなく、ファンタジックな恋愛を読みたい、という人に、ボーイズラブは受けているのだと、僕は結論付けたのですが――いかがでしょうか?

 ―KING OF YOUR EXTASY / DAVE SIMONを聴きながら―