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ネットオヤジのぼやき録

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P4P考察 - 序にかえて - パウンド・フォー・パウンド・ランキング A to Z -

2020年09月20日 | Pound for Pound A to Z

パウンド・フォー・パウンド後進国(?)の我が国で、リング誌(世界に冠たる老舗専門誌)のP4Pランキングが注目を集めるようになったのは、ごく最近のことである。

きっかけとなった出来事は、2015年5月。1ヶ月前に7位のディエゴ・サンティリャンを7回KOに下して、保持するWBCバンタム級王座のV8に成功した山中慎介が、日本ボクシング史上初めてリング誌のP4Pランキングトップ10入りを果たす(9位)。

ただしこの時は、スポーツ紙だけでなく、SNSや掲示板に頻繁に投稿するマニアたちの間でも、さほど盛り上がってはいない。米英におけるリング誌の権威や認知について、日本のメディアもファンも、まだまだ充分に知ってはいなかった(知ろうともしていない)。

さらに翌6月には、5月にタイの実力者ジョムトーンの挑戦を受け、苦戦を予想される中、僅か2回で戦闘不能に落とし入れ、節目となるV10を成し遂げたWBA S・フェザー級王者,内山高志が10位に登場。


※写真左:山中慎介(最高位:8位/日本人初のリング誌P4Pトップ10入り)
 写真右:内山高志(最高位:10位/日本人トップ10入り第2号)


山中と内山の2人が、リング誌P4Pランキングに同時に入ったのだから、これはもはや大事件なのだが、この時もまだ、思ったほどファンは騒いでいなかった。国内のスポーツ・メディアも、相変わらず何が起きたのかほとんどわかっていない。

ところが、歴史的な快挙と称すべき事態は、あっという間に一変する。まさに同じ月の20日(2015年6月20日)、プロモーターとの契約を巡るゴタゴタに怪我が重なり、1年半を越える長期ブランクに入っていたアンドレ・ウォードが復帰してしまったのだ。

実戦のリングに戻ってきたS.O.G.(Son of God)を、リング誌は当たり前のようにP4Pランク上位に再ランク。その煽りをまともに食らったのが、10位にいた我らが内山という次第で、早々にランク外へと追いやられてしまう。

あらかじめ予測された事態とは言え、「やっぱり内山か・・・」との無念さは如何ともし難く、トップ10に踏み止まることができれば、念願の統一戦やビッグネームとの対決が現実味を帯びる筈だっただけに、持って行き場のないやるせなさに囚われる。


その後も防衛を続ける山中は、判定が物議を醸したアンセルモ・モレノとの第1戦(2015年9月/V9)、2度のダウンを喫したリボリオ・ソリス戦(2016年3月/V10)があったにもかかわず、クラス最強と目されるモレノと互角の勝負を繰り広げ、長期政権も評価されてトップ10圏内に留まり続けた。

さらに山中は、モレノとの再戦を見事なノックアウトで締め括り、リング誌からチャンピオンの認定も受けている。

そして2016年4月、あの男が遂にP4Pトップ10の扉をこじ開ける。リアル・モンスター,井上尚弥が9位に入り、防衛回数で上回る山中は8位になった。

S・フライ級で防衛を続けた井上は、P4Pランキングの常連として定着。アンセルモ・モレノとの再戦で鮮やかなKO勝ちを収めた山中も、選択戦で9位のカルロス・カールソンをKOしたが、途中いいパンチを貰ってあわやダウンのピンチを迎えるなど、打たれ脆さが目立ち始め、悪夢のルイス・ネリー戦(2017年8月/京都の島津アリーナで4回TKO負け)で王座から転落。


その翌月(2017年9月)、井上は念願の渡米を実現する。倒されないことに全力を傾注するアントニオ・ニエヴェスの逃げ腰をやや持て余したが、6回終了後の試合放棄に追い込み、115ポンドのWBO王座をV6。

長身痩躯のヨアン・ボワイヨを圧倒してV7に成功した井上は、満を持してバンタム級に進出し、ジェイミー・マクドネルを初回で粉砕(2018年5月)。そのリング上でWBSSへの出場を宣言して、"モンスター"の全貌をいよいよ露にする。

WBSSの緒戦(2018年10月/横浜アリーナ)では、ラフ・ファイターのファン・C・パジャーノ(元WBAスーパー王者)に何もさせず、初回僅か1分余りで撃沈。さらに井上は、続く第2戦(準決勝)で初渡英。

スコットランドのグラスゴー(人口では首都のエディンバラをしのぐ)にあるSSEハイドロ(1万人規模の屋内施設)で、IBF王者エマニュエル・ロドリゲスを2回で圧殺(2019年5月)。

あらかじめリング誌は、この試合の勝者をチャンピオンとして承認する意向を示しており、井上には伝統のベルトが贈呈された。
※スーパー王者ドネアの存在を理由にWBAはタイトルマッチを未承認


※井上尚弥/ロドリゲス戦の勝利でリング誌チャンピオン/ドネアを下してP4Pトップ3入り


2試合連続の即決KOでIBFのベルトを手中にした井上を、リング誌はその月の更新でP4Pの4位にアップ。井上の上に位置するのは、ロマチェンコ,クロフォード,カネロのベスト3。

日本人の過去最高位というだけでなく、東洋のボクサーとしても、2011年のノニト・ドネア(ドネアの最高位も4位)に並び、2008~11年までの4年間に渡ってP4P1位をキープした東洋の奇跡、マニー・パッキャオに次ぐ評価である。


※写真左:パッキャオ
(P4P1位となったウェルター級ではチャンピオンとしての承認を受けずフェザー,J・ライト,J・ウェルターの3階級で認定)
 写真右:ドネア(3つ目のバンタム級でトップ10入り/J・フェザーで自己最高の4位)


2019年11月7日、さいたまスーパーアリーナでWBSSの決勝に臨んだ井上は、36歳になったドネアと激突。前半戦でのKO勝ちを予想する声が大勢となる中、第2ラウンドによもやの1発を浴びて右の瞼をカットし、右眼窩底骨折の重傷を負った井上は、想定外の苦境に陥ってしまう。

ドネアの右をまともに貰ってグラつき、プロ転向後初めてクリンチに逃げる姿を見せるなど、思わぬ激闘を強いられたが、強烈なボディでダウンを奪い(レフェリーの邪魔さえなければKO決着)判定勝ち。

井上の負傷にも助けられたが、想像を遥かに越える見事なコンディションでリング・インしたドネアは、"フィリピノ・フラッシュ(フィリピンの閃光)"の異名を欲しいままにし、パッキャオの後を追ってスターダムを駆け上がった、20代後半の輝きを取り戻す勢い。敗れてもなお、強烈なインパクトを残す。


晴れてWBSSの優勝者となり、唯一のWBA王者であることを証明した井上を、リング誌は引き続きチャンピオンとして承認するとともに、11月中旬の更新において3位にアップ(!)。ランクダウンを心配するマニアが少なくない中、在米専門記者たちのドネア戦に対する評価は意外なほど高かった。

「井上が世界のベスト3!!」

国内のスポーツメディアが、P4Pランクについて本格的に取り上げ出したのは、この時点からである。

ボクシング人気が全盛を誇った1960年代半ば頃~70年代初頭なら、TVの報道枠も含めてヘッドラインになっていた筈だ。勝っても負けても、結果とともに大まかな内容が報じられる、4大大会出場時の大阪なおみと錦織圭のように。

だが、不人気マイナー競技に転落して久しい現在のボクシングに、テニスやサッカー、アメリカの4大スポーツなどと同じ扱いを望むのは、流石に無理が有り過ぎる。


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■Waht's P4P(Pound for Pound)?

「パウンド・フォー・パウンドって、そもそもいったい何のこと?」

階級制の競技であるボクシングにおいて、「~級の最強は誰なのか?」との議論は、洋の東西を問わず、何時の時代もファンとマニアを熱くせずにはおかない、最高の酒の肴であり続けた。これから先も、人間の営みとボクシングが続く限りそれは変わらないだろう。

しかし、今からおよそ60年ほど前、リング誌を創設したナット・フライシャーが、1人の傑出したボクサーを賞賛する為に使った表現が、マニアの酒の肴を巡る事態をややこしくする。

「He is Pound for Pound Best.」

博覧強記の"ミスター・ボクシング"をして、「全階級を通じてNo.1」と言わしめたボクサーとは、勿論あのお方。シュガー・レイ・ロビンソンである。


※左:シュガー・レイ・ロビンソン(1950年代前半)
 右:ナット・フライシャーからリング誌のベルトを贈呈されるシュガー・レイ(1951年/1回目のミドル級王座獲得時)


180センチの長身(リーチ:184センチ)と類稀なスピード’&柔軟性に恵まれ、カモシカのようにスラリと伸びた脚を縦横無尽に動かし、リングを丸く広く華麗に飛び回りながら、閃光のように鋭いジャブを突き、美しく伸びやかなムーヴから自在なコンビネーションを放ち、積極果敢に出入りしつつ崩して行く。

そしてここぞという場面では、背筋も寒くなるほどの野生とパワーで対戦相手を蹂躙したが、その一方で慎重かつ丁寧なアウトボックスも難なくこなし、唖然とする他ない絶妙なタイミングと精度で、一撃必倒のカウンターを操る。

本気で安全運転をやらせたら、ジェームズ・トニー,ロイ・ジョーンズ,バーナード・ホプキンス,フロイド・メイウェザー,アンドレ・ウォードを筆頭に、現代アメリカの黒人トップたちが束になっても敵わないだけの高い技術とスキル,ボクシング・センスを併せ持つ。


「50年代当時、シュガー・レイこそが、俺にとって唯一絶対の神だった。」

かのマイルス・デイヴィスをして「神」と言わしめ、ウッディ・アレンも「前例のない革新。突然変異的な事象。それはまるで、ボクシング界におけるチャーリー・パーカーのようだった。」と絶賛を惜しまない。

数多くのボクシング・ヒストリアンとライターたちは、次のようにシュガー・レイを定義した。

「ボクシングは、シュガー・レイ以前と以後に分かれる。」


余りに優雅で秀麗なスタイル故に、黒人の若者に限らず、後に続く多くのボクサーをインスパイアしたが、どれほど懸命に真似をしても、その足下に近づくことさえできない。

そうした若者たちの一群の中から現れたのが、ヘビー級に前代未聞のスピード革命を巻き起こすモハメッド・アリ(カシアス・クレイ)であり、オリジナルのシュガー・レイも後継者の太鼓判を押す。

ベアナックル以来連綿と続く「スタンド&ファイト(正々堂々限界まで打ち合って決着を着ける)」の伝統とセオリーを根底から覆し、「ノーガード&流麗なフットワーク」をヘビー級に持ち込んだ異端の天才アリも、オリジナルのシュガー・レイと同様黒人の若者たちに多大な影響を及ぼし、いわゆる"アリ・クローン"が数多出現した。


ヘビー級で筆頭に位置する最良のコピーは無論ラリー・ホームズだが、どこまでいってもコピーはコピー。オリジナルを超えることはおろか、肩を並べることも許されない。

アリのバトンを受け取ったのは、オリジナルと同じウェルター級で最初のベルトを獲った"2代目シュガー”・レイ・レナードである。

レイ・シールズ(72年ミュンヘン五輪L・ウェルター級金メダル)や、シェーン・モズリー(3階級制覇王者/アマ通算:250勝16敗)等々、"シュガー"を名乗るボクサーは他にも存在するが、いずれもオリジナルの正統な継承者とみなされていない。


偉大過ぎる足跡を残した初代シュガー・レイは、アマチュアで無傷の85連勝(69KO)をマークした後、1940年10月に19歳でプロ・デビュー。スタートはライト級だったが、成長に伴いウェルター級にアップ。生涯に6度拳を交える宿敵ジェイク・ラモッタに10回判定負けを喫し、初黒星(1943年2月)を献上するまでに40連勝(29KO)をマーク。

アマ87連勝(KO及びRSC数不明)+プロ46連勝(38KO)=133連勝のローマン・ゴンサレス、アマ40連勝(28KO・RSC)+プロ47連勝(35KO)=87連勝(63KO/最終的に1分けを挟みプロ51連勝37KO=91連勝65KO)のリカルド・ロペスも文句無しに素晴らしいけれど、初期の元祖シュガー・レイは、最激戦区のライト~ウェルター級でプロ・アマ通算125連勝(98KO)を達成したことになる。

なおかつ、ラモッタに初黒星(1943年2月5日/10回判定負け/ラモッタ:160ポンド,シュガー・レイ:144ポンド1/2のウェイト・ハンディ戦)を喫した後の勝ちっぷりが凄まじい。


僅か2週間後の2月19日に再起戦を行い(10回判定勝ち)、その1週間後にはラモッタとのリマッチという、現在では到底考えられない強行軍。10回判定で雪辱を果たしたシュガー・レイは、文字通り向かうところ敵無しの快進撃をスタート。

ウェルター級王座の奪取とV5,ラモッタとの最終決戦でミドル級も獲り、160ポンドの初防衛戦で渡英し、伝統ある会場アールズ・コート・アリーナに登場。

地元イングランドの伏兵ランドルフ(ランディ)・ターピンに、よもやの15回判定負けで王座を失うまで、なんと2つの引き分けと1つのノーコンテストを挟んで、88連勝(56KO)をマークしている。


最初の世界ウェルター級タイトルは、1946年の暮れに25歳で獲得。上述した通り5度防衛すると、ミドル級で世界王者となった"レイジング・ブル"ことラモッタに挑戦(1951年2月14日/29歳)。"聖バレンタイン・デーの虐殺"と呼ばれ、永く語り継がれる激闘を13回TKOで決着して2階級制覇を達成した(ウェルター級王座は返上)。
※この試合がラモッタとのラスト・ファイト/通算:6戦5勝(1KO)1敗

ミドル級では短い間に陥落と奪還を繰り返すことになったが、2度目の載冠でV2に成功した後、3階級制覇を目指して時のL・ヘビー級王者ジョーイ・マキシムにアタックする(1952年6月25日/ヤンキースタジアム)。


※契約書に署名するシュガー・レイ(左手前/世界ミドル級王者)とジョーイ・マキシム(右手前/世界L・ヘビー級王者)
 後方左:ジョージ・ゲインフォード(シュガー・レイのマネージャー),後方中:ボブ・クリステンベリー(NYSACコミッショナー),ジャック・カーンズ(マキシムのマネージャー)


173ポンドで計量したマキシムに対して、シュガー・レイは普段とまったく変わらない157ポンド1/2。15.5ポンド(約7キロ)もの体重差(身長差は5センチ)をものともせず、最終盤の第13ラウンド終了時点で、審判団3名(主審×1/副審×2)の採点は、三者とも軽量のチャレンジャーを支持(10-3, 9-3-1,7-3-3)。

しかし試合当日夜のニューヨークは40度近い異常な気温で、暑さで呼吸困難に陥ったシュガー・レイは、14ラウンド開始のゴングに応じることができず無念の棄権。長い休養をったが、家族の懇願もあってその年の暮れにミドル級王座を返上。31歳で一旦引退を表明するも、カムバックに期待を寄せるファンの熱は一向に冷めず、1955年1月に33歳で復活。

7月までにランカークラスを含む6戦(5勝2KO1敗)を行い、暮れの12月9日にボボ・オルソンを衝撃の2回KOに下してベルトを取り返す。ジーン・フルマー,カーメン・バシリオとの間で獲ったり獲られたりを繰り返し、1958年3月のバシリオ戦(36歳)まで、何と5度の復活を果たしている。


世界のトップ戦線から外れた後もファンの声援は止む事がなく、シュガー・レイは1965年の秋まで戦い続けて、同年11月11日に完全なる引退をアナウンス。44歳で本当にリングを後にした。

生涯戦績は202戦175勝(106KO)19敗6分け2NC(※)。19敗のうち、16敗は復帰した1955年以降の10年間(33~44歳)に喫したもので、18名の世界チャンピオン(うち10名が殿堂入り)と戦っている。
※200戦173勝(109KO)19敗6分け2NC説有り

大変な人気を買われて、現役時代から映画に出演していたが、引退後は得意のタップダンスを活かして芸能活動をやったり、ボクシング界の垣根を飛び越えてメディアに呼ばれ続け、キャリアを追うドキュメンタリーが米・英両国で数多く製作された。


船旅で豪華な周遊(欧州)に出たり、スーパースターに相応しい贅を尽くした生活ぶりで、「おそらく400万ドルは遊びに費やした。」と述べているが、幸いにもボクサー特有の言語障害や運動機能障害に苦しむことはなく、ロサンゼルスで夫人と一緒に長く暮らし、幸福な家庭生活を送っている。

還暦を過ぎてから重篤なアルツハイマーを発症し、高血圧と糖尿が加わって急速に衰弱。1989年4月12日、呼吸不全を引き起こして病院に救急搬送されたが、治療の甲斐なく67歳の若さでこの世を去った。

原因不明の脳障害を報じる記事もあったが、現役時代のダメージとの因果関係を含めて、詳細な病状などはよくわからない。


※ボクシング史に燦然と輝く「シュガー・レイ三代」
 左から:初代シュガー・レイ・ロビンソン,2代目シュガー・レイ・レナード(3代目),モハメッド・アリ(2代目)
(1978~79年頃/ラスベガス)


※左から:若きアリ,シュガー・レイ,偉大なる"ブラウン・ボンバー"ことジョー・ルイス(60年代前半)


1951年の年明け、前(50)年度のファイター・オブ・ジ・イヤーにシュガー・レイを選出したナット・フライシャーは、翌月(51年2月)号の誌面において特別なコラムを書き、「ベスト・パウンド・フォー・パウンド」の言葉を用いている。
※参考記事:THE RING POUND FOR POUND HISTORY: FROM “IRON” MIKE TO “CHOCOLATITO”
2015年11月10日/リング誌公式サイト
https://www.ringtv.com/403193-the-ring-pound-for-pound-history-from-iron-mike-to-chocolatito/

これ以降「パウンド・フォー・パウンド」の概念が広く知られるようになり、定着して行った・・・という流れなのだが、フライシャーはあくまでシュガー・レイ個人を賞賛する為だけに「パウンド・フォー・パウンド・ベスト」と書いたのであり、彼自身はランキングを作成してはいない。

有名な著書「リングサイド50年(50 Years At Ringside)」や、その他の著作の中で、フライシャーは様々な定義を駆使して自らの眼で見続けた名選手たちを選び出し、時には順位付けも行って歴史に埋もれることがないよう書き残したが、純然たる「パウンド・フォー・パウンド・ランキング」は、カレント(その時点でのリアルタイム)にしろオールタイムにしろ作らなかった。

彼が作成発表した最も有名なランキングは、階級別の「オールタイム・ランキング(1958年と72年の2回)である。「オールタイムとカレントのパウンド・フォー・パウンド」を順位付けして公表する意思が、フライシャーにはなかったらしい。あるいはあったけれども、作成途中で検討している間に天に召されてしまい、発表には至らなかったのか。


いずれにしても、「カレントのパウンド・フォー・パウンド・ランキング」をリング誌が作成発表したのは、1972年にフライシャーが亡くなってから17年後の1989年。以来、1924年(創刊は1922年)から連綿と続く「階級別ランキング」とともに、定期的な更新が行われて今日に至っている。

■リング誌が選出した歴代パウンド・フォー・パウンド・ランキング1位
<1>マイク・タイソン:1989年
<2>フリオ・セサール・チャベス:1990~93年(メキシコ/3階級制覇王者)
<3>パーネル・ウィテカー:1994~95年(4階級制覇王者)
<4>ロイ・ジョーンズ:1996年(3階級制覇王者)
<5>オスカー・デラ・ホーヤ:1997~98年(4階級制覇王者/後に6階級制覇)
<6>ロイ・ジョーンズ:1999年(3階級制覇王者)
<7>シェーン・モズリー:2000~01年(3階級制覇王者)
<8>バーナード・ホプキンス:2002年(ミドル級長期安定政権)
<9>ロイジョーンズ:2003年(4階級制覇王者)
<10>バーナード・ホプキンス:2004年(ミドル級長期安定政権)
<11>フロイド・メイウェザー:2005~07年(5階級制覇王者)
<12>マニー・パッキャオ:2008~11年(比国/8階級制覇王者)
<13>フロイド・メイウェザー:2012~14年(5階級制覇王者)
<14>ローマン・ゴンサレス:2015~16年(ニカラグァ/4階級制覇/現WBA S・フライ級王者)
<15>ゲンナジー・ゴロフキン:2017年(ミドル級長期政権/現IBF王者)
<16>ワシル・ロマチェンコ:2018年(ウクライナ/3階級制覇/現WBA・WBOライト級王者)
<17>カネロ・アルバレス:2019年(メキシコ/4階級制覇/現WBA S・ミドル級王者)


■トップ10入りした東洋及び日本人選手(日本のジム所属選手を含む)
<1>柳明佑:1990年度9位(韓国/WBA J・フライ級王者)
<2>カオサイ・ギャラクシー:1990年度10位,91年度8位(タイ/WBA J・バンタム級王者)
<3>文成吉:1991年度10位,92年度8位(韓国/WBAバンタム,WBC J・バンタム級王者)
<4>ユーリ・アルバチャコフ:1993年度10位,95年度6位(ロシア・協栄/WBCフライ級王者)
<5>マニー・パッキャオ:2003年度6位,04~05年度5位,06~07年度2位,08~11年度1位,12年度7位,13年度7位,14年度3位,15年度7位,19年度10位(比国/8階級制覇王者)
<6>ノニト・ドネア:2009年度6位,10年度5位,11年度4位.12年度5位(比国/5階級制覇王者)
<7>ポンサックレック・ウォンジョンカム:2010年度6位,11年度7位(タイ/WBCフライ級王者)
<8>山中慎介:2015~16年度9位(帝拳/WBCフライ級王者)
<9>内山高志:2015年度10位(ワタナベ/WBA S・フェザー級王者)
※実戦復帰したアンドレ・ウォードに押し出され年間トップ10には残れず
<10>井上尚弥:2017~18年度6位,19年度3位(大橋/3階級制覇/現WBA・IBFバンタム級王者)
<11>シーサケット・ソー・ルンヴィサイ:2017年度10位,18年度8位(タイ/元WBC S・フライ級王者)
<12>ドニー・ニエテス:2018年度10位(比国/4階級制覇王者)

※ロマ・ゴンは帝拳との共同プロモート契約選手/ホルヘ・リナレスのようにJBCライセンスを取得し日本国内でプロ・デビューした帝拳ジムの所属選手ではない


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※P4P考察 第1回 パウンド・フォー・パウンドの定義と小史 へ続く

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