■綺羅星のごときチャンピオンたち - 4 - V
◎ヘビー級
※写真左:ジョージ・フォアマン(第1期:1973年1月~74年10月/V2/2003年殿堂入り)
写真右:ラリー・ホームズ(1978年6月~83年12月/WBC単独認定V17/2008年殿堂入り)
■マイケル・スピンクス戦
<1>第1戦:1985年9月21日/リヴィエラ・ホテル&カジノ,ラスベガス
15回0-3判定負け/IBF世界ヘビー級タイトルマッチ15回戦
<2>第2戦:1986年4月19日/ラスベガス・ヒルトン
15回1-2判定負け/IBF世界ヘビー級タイトルマッチ15回戦
WBCの指名戦指示を蹴とばして、足掛け5年半,16(17)度も守った緑のベルトを失ったホームズは、1983年に発足した第3の団体IBFから、(一方的に)王者としての承認を受けていた。
中南米に主導権を奪われた旧NBAの残党が決起し、会長選挙に敗れたロバート・リーを担いで、ニュージャージー州内に本部を置いて活動を開始。初代会長のリーは、85年までニュージャージー州ボクシング・コミッション(State Athletic Control Board - State of New Jersey)のコミッショナーを務める重鎮の1人である。
「ボクシングを今日の隆盛に導いた最大の原動力は、アメリカではないのか。その我々の意見が、どうして軽んじられなければならないのか?」と声高に主張するリーだが、出来たばかりの新興マイナー団体IBFに、そう易々と世界タイトルの権威を認めるファンはいない。
チャンピオンベルトの権威を1分1秒でも早く確立する為には、実力と人気を兼ね備えたスター王者が必要不可欠・・・という訳で、ヘビー級のホームズを筆頭に、手前勝手な初代王者認定を開始。
※ロバート・リー初代IBF会長(左)とホームズ(右)
(カール・ウィリアムズとの防衛戦後に行われたベルト贈呈/1985年5月20日,ネバダ州リノ)
マイケル・スピンクス(統一L・ヘビー級王者)、マーヴィン・ハグラー(統一ミドル級王者)、ドナルド・カリー(WBAウェルター級王者/85年にWBCを吸収)、アーロン・プライアー(WBA J・ウェルター級王者)の4名も、IBFは勝手に王者として認めてしまう。
決定戦無しでの王座承認(それも5階級)について、無節操過ぎるとのファンの批判が当たり前に巻き起こるが、既にケン・ノートン(WBC)の先例があじゃないかと、ロバート・リーは居直った。
総スカン状態のファンはもとより、勝手に認定された5名の王者とマネージャーたちも、「そんなん知らんがな。」を決め込む。
※IBFが初代王者に指名した4名
左から:スピンクス,ハグラー,カリー,プライアー
ホームズは83年月のスコット・フランク戦(WBC王座の最後の防衛戦)は勿論、11月にやったマーヴィス・フレイジャー戦にも、IBFの王座を懸けてはいない。マイケル・スピンクスも、83年11月のV7(A・C統一後の初防衛)戦には、IBFのタイトルを懸けなかった。83年9月の初防衛戦におけるドン・カリー、83年9月にアルゲリョとのリマッチに応じたプライアーも、IBFのベルトには無関心の体である。
王者を承認してしまった5階級以外は、5月21日のクルーザー級を皮切りに、ボチボチ決定戦が動き始めはしたものの、戦う2人の選手の報酬総額に、一定の歩率を掛けて徴収する承認料(サンクション・フィー/唯一の収入源)は、高い人気と集客力を誇るスター選手と王者ほど高額になる。
ミドル級のハグラーだけは、83年5月のV7戦からIBF王座も懸けて防衛戦を消化し、L・ヘビー級のスピンクスは84年2月のV8戦から、ウェルター級のカリーも84年2月のV2戦から懸けているが、規定通りの承認料を請求できたのかどうかまでは知らない。
こうした中で、ベルトを巡る状況が大きく変化したのが、稼ぎの桁が違うヘビー級のホームズであり、J・ウェルター級のプライアーだった。
アルゲリョを再び退けたプライアーは、長らくターゲットにしてきたシュガー・レイ・レナードが、左眼の網膜はく離を理由に引退を表明(83年12月)。これが堪えたのか、防衛疲れと勤続疲労を理由にWBA王座を返上し、引退をほのめかす。
しかしプライアーも、左眼の網膜はく離と白内障を発症していた(この時点では明らかにしていない/85年の夏頃にはほとんど失明に近い状態だったらしい)。WBAを放棄して引退をチラつかせるプライアーに対して、IBFは王座の承認を継続。9ヶ月のブランクを経て、84年6月にカナダのトロントで再起したプライアーに、当然IBFは防衛戦を許可した。
深刻な薬物依存の風聞に加えて、左眼の視力に重大な問題を抱えているとの噂も流れ、カナダまで飛んだのは、米国内でのライセンス認可が困難(メディカル・チェックで必ず引っ掛かる)だからに違いないとも言われたが、プライアーにはIBFのタイトルしかすがる物が無い。
また、既に詳述したように、キングが交渉を進めていたWBC1位グレッグ・ペイジではなく、ノーランクのマーヴィスと戦った為にWBCのベルトを失ったホームズは、すぐさまIBFに乗り換えて防衛を続けることになった。
IBFはWBCに反目するWBAに歩調を合わせ、15回戦制を採用していたことから、疲労とダメージの蓄積,スタミナ配分への懸念はあったが、四の五の言っている場合ではなく、試合数を減らして調整するしかない。
好むと好まざるとによらず、ホームズは”振興マイナー団体IBF”の旗振り役とならざるを得なくなった。
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■相次ぐ中止と予期せぬレイ・オフ・・・マルシアノの連勝記録更新へ
ところがどっこい、試合がなかなか決まらない。84年4月6日にネバダ州リノでジョン・テイトとの防衛戦が決まったが、テイトが左肩を故障して中止。
さらにWBA王座に就いたゲリー・コーツィ(南アの白人王者)との統一戦が、6月8日シーサースパレス開催で合意されるも、プロモーターのケニー・バウンズ(JPD Sports)が予定していた資金を期日までに調達できず、シーザースパレスが5月中旬に撤退を表明する。
コーツィをハンドリングするセドリック・クシュナー(南アのプロモーター)、ムラド・モハメッド(M&M Sports/在ニュージャージー)らによる興行権を巡る主導権争いが訴訟に発展するなど、混乱した状態が続いたことも影響した。
手を切りたがっていたドン・キングとの関係を継続せざるを得ず、11月9日にリヴィエラ・ホテル&カジノで、5月にフランク・ブルーノをKOしたジェームズ・ボーンクラッシャー・スミス(86年にWBA王者となりタイソンに譲る)との対戦が決定。
2度の中止によるブランクは丸1年に及び、34歳になったホームズにとって痛いレイ・オフとなる。さらにホームズは痔の手術も受けていて、コンディションは万全とは言い難かったが、12回TKOでスミスを一蹴した。
85年3月には、前(84)年8月にグレッグ・ペイジを12回判定に下し、USBA(IBF直轄の北米)王者となったデヴィッド・ベイ(無傷の14連勝中/11KO)にリヴィエラ・ホテルで10回TKO勝ち。僅か2ヵ月後の5月20日、ネバダ州リノのローラースポーツ・センターで、やはり16連勝中(12KO)のカール・ウィリアムズに15回3-0判定勝ち。
IBFのベルトを短期間に3度防衛して、1年間の無給生活をカバーしたホームズは、73年にプロとして戦い始めてからの12年間で、48連勝(35KO)を積み重ねていた。
引き分けもノーコンテストも挟まないパーフェクト・レコードであり、およそ30年前にロッキー・マルシアノが達成した49連勝(43KO)の更新が大きな話題になる。
※49連勝で王者のまま引退したマルシアノ
さらにWBCのベルトを16回連続で守り、評価と権威はともかくIBFタイトルを3度防衛したホームズは、連続19回の防衛に成功。偉大なる"ブラウン・ボンバー"ことジョー・ルイスの25回に次ぐ、長期防衛記録だった。
なおかつモハメッド・アリが2度の政権で積み重ねた通算防衛記録(ブランク前の第1期:9回/ブランク後の第2期:10回)にも並んでいる。IBFタイトルのV4は、節目となる連続20回目の防衛となり、そのままアリの記録を抜き去って、単独の歴代2位へと頭1つ抜け出ることを意味した。
また、10度目の防衛戦で挑戦者に指名され、3ラウンドでノックアウト(81年6月)された兄レオンの敵討ちもかかっている。兄弟揃ってホームズに負ける訳にはいかない。
48連勝のタイ記録とさらなる更新が懸かる2試合の相手には、それ相応のバリューが求められた。ホームズの後継王者となったティム・ウィザスプーン(83年5月のV15戦で対戦済み)は、初防衛戦(84年8月)でピンクロン・トーマスに敗れ、6月15日にマイク・ウィーバーを8回KOに下して初防衛に成功。候補の先頭に立つ1人だった。
ホームズが本当に戦いたがっていたWBAの白人王者コーツィも、グレッグ・ペイジに8回KO負けで初防衛に失敗(84年12月)。そのペイジもまた、85年4月の初防衛戦でトニー・タッブスに15回判定負け。
ホームズの手が付いていないタッブスは、トーマスとともに優先順ではトップに位置していたが、評価は"猫の目打線の暫定4番"に過ぎず、ビッグマネーを望むのは難しい(事実86年1月の初防衛戦でウィザスプーンに敗れている)。
30代半ばのホームズは、文字通りキャリアの集大成を50連勝の新記録で飾るとともに、アリ戦とクーニー戦に匹敵するギャランティで締め括りたいと願う。そしてこのタイミングで登場したのが、L・ヘビー級で連続10回の防衛を果たし、WBAとWBCを統一して28連勝(20KO)中のマイケル・スピンクスだった。
「175ポンドでやるべき事は何も残っていない。ヘビー級に挑戦する。多くのL・ヘビー級王者が出来なかったヘビー級制覇の夢をこの手で成し遂げたい。」
20世紀初頭にL・ヘビー級を獲り、史上初の3階級制覇をやってのけたボブ・フィッシモンズは、L・ヘビー級が無かった19世紀末にミドル級とヘビー級を獲り、階級をダウンして3冠王となっている。L・ヘビー級からヘビー級を獲った王者は、ボクシングの歴史上1人も存在しない。
79年の暮れに190ポンドをリミット上限に設定したクルーザー級(※)がスタートしていたが、スピンクスの関心はヘビー級1本に絞られていた。
※ヘビー級の大型化が急速に進み、各認定団体がS・ヘビー級の新設を協議したがまとまらず、2003~04年にかけて、IBFを除く3団体がリミット上限を200ポンドにアップ。IBFも暫くして追随した。
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■兄弟金メダリストにして兄弟世界王者
マイケル・スピンクス(1956年7月22日~/1994年殿堂入り)はミズーリ州セントルイスの出身で、3歳年長の兄レオン(1953年7月11日~)とともに、貧しく過酷な幼年~少年期を過ごしている。セントルイスでも1~2を争うスラム街に生を受け、父親はマイケルが4歳の時に家族を捨てて遁走。
7人兄弟(男6人/女1人)の黒人の母子家庭で、幼いマイケルは父親代わりを務めた。新聞配達で日銭を稼いで母を助け、真面目で勤勉なマイケルの信用で、やがて2人の弟も一緒に働くようになる。
ボクシングを最初に教わったのはレオンで、第一にセルフ・ディフェンスが目的であり、ストリートで無駄に命を危険に晒さない為だった。マイケルも同じジムに通うようになり、長じて経済的な成功を目指す手段、人生の道しるべとなる。
昼夜を厭わず身を粉にして働く母と、少しでも家計が楽になればと、懸命に新聞を配る弟たちを横目に見ながら、レオンは犯罪と薬の誘惑を断ち切るべく海兵隊に入隊した(1973年)。母と弟たちの厄介になる現実に負い目を感じながら、それでも自分の身を守るのに手一杯で、彼は彼なりに辛かったに違いない。
家長として母を支えるマイケルは、ジムで指導に携わっていたジム・メリルというコーチに誘われ、各地域のトーナメントに出場する。そうした小さな地方大会では、貧しい少年たちの為に食事が用意され、5ドルほどの小遣いも貰えた。
5ドルの報酬と食事は、マイケルがボクシングを続ける大きな動機となり、やがてジュニアの有望株として頭角を現す。海兵隊で正式な選手となったレオンは、L・ヘビー級でマイケル以上に優れた戦績を残し、ナショナル・チームに招聘されるまでに成長。
74年の世界選手権(ハバナ/キューバ)で銅メダルを獲得した他、75年にはパン・アメリカン・ゲームズ(メキシコシティ)でも銀メダルに輝く。75年と76年のAAUトーナメントで連続優勝も果たし、無事五輪代表に選出。
マイケルはナショナル・ゴールデン・グローブスを2連覇(74年L・ミドル級/75年ミドル級)し、米国最終予選でリンデル・ホームズ(後のIBF S・ミドル級王者)やキース・ブルームらのライバルを破り、ミドル級の代表となる。辿る道筋こそ違ったけれど、兄弟揃ってオリンピックへの出場を決めた。
1976年のモントリオール五輪は、マイケルとレオンにとってまさしく檜舞台となる。ミドル級とL・ヘビー級でそれぞれが見事金メダルを獲得。同一大会の同一競技で史上初の兄弟金メダリストとなる快挙を達成。
※アマチュア戦績/マイケル:93勝(35KO・RSC)7敗,レオン:178勝(133KO・RSC)7敗
※1976年モントリオール五輪の表彰式(左:マイケル/右:レオン)
モントリオールから帰郷した兄弟を待っていたのは、熱烈な歓迎とパレード。セントルイス市長と大勢の市民が集まり、苦労のし通しだった母と弟妹たちにとっても、生涯忘れられない一日となったが、レオンが渇望した大きな契約の申し出は無し。
フィラデルフィアに拠点を持ち、東海岸で顔と名前を知られたブッチ・ルイス(プロモーター)がスカウトに現れたが、生活の心配をせずにボクシング1本に集中できるスポンサーシップは得られない。
ただし、ヘビー級でスタートしたレオンには、たった8戦でモハメッド・アリへの挑戦が決まる僥倖が待っていたけれども。
マイケルはブッチのスカウトを断り、ホテルの厨房で皿洗いをやったり、工場の清掃員(夜勤)の職に就いた。少ない収入でも、堅実に働くことを選んだのである。
「金メダルには当然誇りを持っていたが、それだけで食えないことはわかっていた。プロになるつもりもなかった。現役でいる間は多少稼げるかもしれないが、辞めた後で十中八九惨めな生活に転落する。私が悲惨な人生を送ることになれば、母も家族も救われない。」
金メダリストになった後も、マイケルが最も大切にしたのは、家長として母を支えることだった。イチかバチかのプロボクサーになって、失敗してしまったら元も子もない。地道で安定した仕事を優先するのは当然だった。しかしブッチも簡単には引き下がらず、粘り強く勧誘を続け、結局マイケルもレオンより1ヶ月遅れてデビューすることに。
※写真左:試合本番のコーナーにセコンドとして入るブッチ・ルイス
写真右:上半身裸になり蝶ネクタイとグローブを着けたブッチ・ルイスとタキシード姿のスピンクス(宣材写真)
チームをまとめるチーフトレーナーには、大御所のエディ・ファッチが招かれ、良好な関係を築く。
※ファッチ(左)とスピンクス(右)
1977年に揃って戦い出したが、レオンは上述した通り8戦目でモハメッド・アリに挑戦するビッグ・チャンスに恵まれ(78年2月/25歳)、超大番狂わせの15回判定で破り統一ヘビー級王者となるも、7ヵ月後の再戦(1978年9月)で雪辱を許して陥落。81年6月には、ホームズのWBC王座にアタックして3回TKOに退き、以降再浮上の機会を伺いながらキャリアを継続。
マイケルは、軽めのL・ヘビー級(今ならS・ミドル級)でスタートしたこともあり、少しづつ増量を図りながら、17戦目でエディ・ムスたファ・ムハマドを攻略してWBA王座を獲得(81年7月/15回3-0判定勝ち/25歳)。連続5回の防衛に成功した後、WBC王者ドワイト・ムハマド・カウィを15回3-0判定に下して統一すると、さらに4度の防衛を追加してV10に成功。
サンデーパンチの右強打(ストレートとフック)は、一度び炸裂すれば必ず勝利を引き寄せる決定力から「スピンクス・ジンクス」と称され、そのままニックネームとして定着した。
兄弟揃って五輪の金メダリストで、プロでも世界王者(兄は防衛出来なかったけれど)。私生活や契約を巡るトラブルが多い兄に比して、クリーンライフを絵に描いたような弟は、年齢も28歳(試合本番時には29歳)。今が盛りの真っ最中で、油が乗り切っている。
受けて立つホームズは、78年6月から続く在位期間は丸7年に及び、WBCとIBFを合わせてV19。35歳を過ぎて流石に防衛疲れが隠せなくなり、15ラウンズをフルに渡り合ったカール・ウィリアムズ戦では、左の瞼を大きく腫らした上に、終盤ガス欠してフラフラの状態だった。
年齢的にも体力的にもピークアウトの兆候は明らかで、最重量級の制覇を阻む最大の壁とも言うべき、爆発的なパワーを心配する必要が少なくて済む。スピンクスにとって格好の獲物と言えなくもない。
それでも直前の賭け率は、6-1の大差が付いた。近代ボクシングの繁栄と栄華を象徴するヘビー級の歴史は、死屍累々たるミドル~L・ヘビー級の屍の上に築かれたと表しても、あながち間違いとは言い切れないだろう。
ロッキー・マルシアノ(1955年9月)とフロイド・パターソン(1956年11月)に挑み、いずれもノックアウトで散ったアーチー・ムーア、全盛のスモーキン・ジョーに僅か2ラウンドで破壊され(1970年11月)、世界戦ではないがアリにも8回KOで一蹴されたボブ・フォスターの悪夢が付いて回る。
350万ドル(うち50万ドルはキャンプ費用)を提示されたホームズはともかく、100万ドル(10万ドルのキャンプ費用込み)を呑まされたスピンクスは、カウィとのA・C統一戦で得た120万ドル(キャリア・ハイ)にも届かなかった。
85年2月8日、ニューヨークで行われた発表会見には、現代アートの人気作家リロイ・ニーマンが呼ばれ、ホームズとスピンクスが激しくパンチを応酬する作品を披露。
※左から:ドン・キング,ニーマンの作品を中央にホームズ,スピンクス
※ニーマンが描き上げた作品(カラー)
本番当日には、「ロッキーIII」でクラバー・ラングを演じたミスターTに、なんとアリまで登場する豪華な演出。ファンは勿論、記者と関係者も大喜びだった。
※本番当日,リングサイドに陣取り観戦するアリ,ニーマン(中央後方),ミスターT
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■近代的なフィジカル・トレーニングで増量・・・ボクシング界初の試み
こうしてホームズへの挑戦が整ったスピンクスだが、6月6日に最後の防衛戦が決定済みで、9月21日のホームズ戦まで猶予はたった3ヶ月しかなかった。
史上初のL・ヘビー級王者によるヘビー級制圧と、兄弟ヘビー級王者の夢を目論むにしては、余りにもタイト過ぎる。
190センチ近い長身に恵まれ(リーチ: 193センチ)、175ポンドの調整が楽な訳ではないにしても、220ポンド超のホームズを相手に、190ポンドに満たないクルーザー級のウェイトでは容易に勝機を見出せない。
そこでスピンクスは、これまでボクシング界ではほとんど顧みられなかった、科学的なフィジカル・トレーニングに取り組むことを決め、コーチとしてマッキー・シルストーンをチームに招く。
シルストーンは複数の大学でスポーツ・サイエンスと栄養学、防疫と公衆衛生等を修めた後、オジー・スミス(MLBの大スター)をサポートした他、多数のトップ・アスリートを指導した実績を持つ。
※写真左と中:スピンクス,マッキー・シルストーン(1985年)
写真右:マッキー・シルストーン(2019年近影)
※スピンクスとシルストーンのトレーニング風景
栄養士を雇って食事の改善に取り組み、フィジカル&ストレングスの専門家と契約して、最先端の器具を使う筋トレに着手したり、自重を利用した筋トレにバリエーションを追加するボクサーはアメリカでも少しづつ増えてはいたが、減量法の改善や怪我の予防、疲労回復等が主な目的だった。
限界を超える(?)階級アップを成功させる為(+短期間に結果を出す)に、科学的なトレーニングを導入して一気に肉体強化を図る例は、ボクシング界では初めての試みであり、大きな注目を集める。
"オールドスクール"の流儀に従う古株のトレーナーの中には、例えばカス・ダマトのように、器具を使った筋トレについて否定的な立場を採る人たちも多い(ボクサーにムキムキの筋肉は不要)。
直前の試合までホームズとスピンクス両方のチーフを努めたエディ・ファッチ(オールドスクールを象徴する名匠の代表格)は、「2人のうちどちらかを選ぶことはできない。どちらのコーナーにも付かない。」と語り、、中立の立場を宣言。
ホームズはリッチー・ジャケッティとの復縁を選択し、スピンクスはネルソン・ブライソン(ブッチ・ルイスの異母兄弟)という新しいトレーナーを呼び、ファッチとシルストーンとの関係を危惧する周囲の不安は杞憂に終わるのだが、スピンクスにはファッチの不在に対する懸念が持ち上がる。
※写真左:スピンクス(左)と新チーフのネルソン・ブライソン(右)
写真右:旧知のジャケッティ(左)と再び組んだホームズ(右)
試合の中継を行うHBOは、スピンクスとシルストーンのキャンプを取材。食事の場面も含めて短く編集した映像を、当日の生中継の冒頭にわざわざ挟んでいたが、PPVを購入するマニアックなファンの関心はそれだけ高かった。
※参考映像:HBOが放映したスピンクスとシルストーンのキャンプ
映像のタイトル:Boxing - 1985 - Special - An Inside Look At Michael Spinks Transformation From Lt Heavywt To Heavywt
スピンクスがシルストーンと取り組んだフィジカル強化の結果は、驚くべきものだった。アーチー・ムーアやロベルト・デュランのように、増量によってお腹回りがダブダブに膨らむこともなく、ボディビルダーを彷彿とさせるムキムキの筋肉マンになることもない。
ナチュラルに引き締まった身体で秤に乗り、199ポンド1/4を計測すると、スピンクスはにっこり微笑んで成果を誇示。L・ヘビー級時代の体型をそのまま保ち、3ヶ月という短期間に、およそ25ポンド(11キロ超)ものウェイトアップに成功したのである。
※スピンクスの肉体強化/Before & After
写真左:L・ヘビー級(175ポンド)
写真右:ヘビー級(199ポンド1/4)
L・ヘビー級時代のスピンクスは、180ポンド台のウェイトでヘビー級に挑んだボブ・フォスターに近い痩躯だったことから、困難な仕事を請け負ったシルストーン自身が語っていた通り、「200ポンドに増やしても充分に動くことが可能な、高いポテンシャルの持ち主」だったことは間違いない。
「マイケルはウェイトを25ポンド増やしたが、体脂肪は9.1%から7.2%に減少した。増量前に比べて、1.5ポンド脂肪を削り落としている。すなわちマイケルが身に付けた25ポンドはすべて筋肉であり、彼はより速くより強くなっている。」
シルストーンは具体的な数字を列挙し、自ら作り上げたトレーニング・メニューの正しさを強調。誇らしげに胸を張った。
スピンクスの肉体改造は、体格差とパワー不足に悩む中~重量級のボクサーや、レナード,アルゲリョ,ベニテス,ハーンズ,デュランらに刺激を受け、複数階級制覇(階級アップ)を目指す人気選手たちに多大な影響を与え、フィジカル・トレーニングの重要性と効果を広く知らしめる。
スピンクスの肉体改造は、体格差とパワー不足に悩む中~重量級のボクサーや、レナード,アルゲリョ,ベニテス,ハーンズ,デュランらに刺激を受け、複数階級制覇(階級アップ)を目指す人気選手たちに多大な影響を与えた。
オールドスクールのトレーナーたちが否定し嫌った、ムキムキの筋肉マンと化すイヴェンダー・ホリフィールドは、肉体改造と聞いて一般的にイメージする典型例で、レナードと不毛な5階級制覇争いを繰り広げたトーマス・ハーンズも、フィジカル・トレーニングを導入してL・ヘビー~クルーザー級まで上げている。
2003年3月、スピンクス以来18年ぶりにヘビー級を攻略したロイ・ジョーンズは、シルストーンを招いて増量に取り組み、ボクシング史上2例目の快挙を達成した。
ジョーンズの場合本番まで半年の猶予があり、スピンクス以上にスピード&アジリティの維持が生命線となるだけに、L・ヘビー級での前戦から増やした体重はおよそ18ポンド(約8キロ/前日計量:193ポンド)。
熱望していたタイソン戦が実現せず、ヘビー級のベルト(WBA)を放棄してL・ヘビー級に出戻った直後、アントニオ・ターバーとグレン・ジョンソンにショッキングなKOで立て続けに敗れたのは、ヘビー級制覇以上の驚愕だったけれど・・・。
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■衰えを見せながらも奮闘したホームズ
リング上で対峙すると、221ポンド1/2で仕上げたホームズの大きさが目立つ。そして、試合が開始されると早速左を突く。一番いい頃の伸びとキレは望むべくもないが、それでもなお、ヘビー級ではNo.1のジャブだ。
スピンクスは慎重に距離を測りながら、ホームズの様子を伺う。フェイントを仕掛けて歴戦の王者を動かし、ワンツーを誘い出しにかかる。手足を含めた身体全体のスピードと反応を見極め、早めに右のパワーショットを打たせて、ホームズの全貌を掴もうという算段。
とは言え、スピンクスも適時踏み込んで力のこもった右を放ち、ジャブの刺し合いを挑む。好きにさせ過ぎて調子に乗せ、ペースを握らせる訳にも行かない。スピンクスの特徴を把握したいのはホームズも同様で、ベテラン同士の鍔迫り合いが続く。
※決定的な場面に結び付かないホームズとスピンクスの攻防
高度な技術と豊富な経験を併せ持つ手練れ同士がぶつかると、いわゆる将棋の千日手のように、「下手に仕掛けた方が負ける」とばかり、じりじりとした駆け引きの応酬と神経戦から抜け出せなくなることがある。
ホームズとスピンクスはその典型例の1つであり、ロイ・ジョーンズとバーナード・ホプキンス、同じくジェームズ・トニー,マイク・マッカラム戦なども、「千日手パターン」と呼んでいい。
勝負をかけたくてもかけられない苛立ち、フラストレーションを互いに溜め込みながら冒険を避け合い、一進一退の展開を繰り返して15ラウンズを終了。ジャッジのスコアは、僅少差ながらも0-3のユナニマウス・ディシジョンで、新チャンピオン誕生を支持。
◎オフィシャル・スコア
ハロルド・レダーマン(N.Y.州):142-143
デイヴ・モレッティ(ネバダ州):142-143
ローレンス・ウォレス(ニュージャージー州):142-145
※主審はアリ VS フレイジャー戦を担当したフィリピンのカルロス・パディーリャ
節目となるV20を逃し、マルシアノの連勝記録に並ぶことも叶わず。現役L・ヘビー級王者のヘビー級奪取ばかりか、兄弟ヘビー級王者誕生をアシストしたホームズは、判定が告げられた直後のインタビューで敗北を受け入れ、一応スピンクスを讃えている。
「(今回の敗北を)恥ずかしいとは思わない。誰にも借を作っていない(勝負に勝って試合に負けたの意?)。ラスベガスでチャンピオンになり、同じ場所で偉大なL・ヘビー級チャンピオンに敗れた。」
「(負けたつもりはないが)彼は独特のユニークなスタイルの持ち主で、非常に上手く戦った。彼を祝福する。」
ただし、マルシアノの連勝記録について聞かれると、つい感情的になって失言(放言)してしまい、大変な批判を浴びることになった。
「俺は35歳で自分より若い挑戦者と戦った。25歳のロッキーは年寄り(ラスト・ファイトでKOしたアーチー・ムーアを指している)を甚振っただけだ。」
「みんなロッキーが大好きで大事なんだろうが(オヤジ狩りしかできない腰抜けのオカマ野郎じゃないか!)、要するに、黒人の俺が白人のロッキーが作った記録を破るところを見たくないんだろう!」
思いっ切り意訳してしまったが、ホームズは「Rocky couldn't carry my jockstrap.」と言っている。
「jockstrap」はアスリート用のサポーターなのだが、男性の局部を保護する為のもので、なおかつ「Jock」は学校で女子にモテモテのスポーツ男子(体育会系のリア充)を意味する言葉でもあり、転じてスクールカーストの頂点に立つ人気者(必ずしもマッチョとは限らないらしい)を指す。
※女子のトップは"Queen Bee(女王蜂)"
ロッキー・マルシアノ(イタリア系の白人)は、ヘビー級の歴史にその名を刻む代表的なヒーローの1人で、黒人の自分が49連勝に並ぶ(+50連勝で更新する)ことを誰も望んでいないと、人種差別的な意味合いを込めて揶揄したのである。
49連勝のタイ記録達成に備えて(前評判はホームズの圧倒的有利)、HBOはマルシアノの兄弟(ピーター・マルシアノ)を招いていた。ホームズの失言は、ゲストの兄に向けられたと解釈されても止むを得ず、擁護のしようが無い。
※左から:ピーター・マルシアノ,ロッキー・マルシアノのブロンズ像,ピーター・マルシアノ・Jr,(2015年に48歳で逝去)/2010年に撮影された写真
HBOの名物インタビュアー,ラリー・マーチャント(無論白人)は、流石にマズイと思ったのか、ホームズを落ち着かせようと「グレート・チャンピオン」を繰り返す。インタビューを切り上げる際にも、「もう一度言わせて貰うよ。グレート・チャンピオン。」と声をかけている。
大願を成就したスピンクスは興奮して大ハシャギしながら、「神に感謝するのみだ!。次の目標?。そんなこと今は考えられない!」と叫ぶ。傍らにはブッチ・ルイスが得意満面の笑顔で寄り添い、ショックを隠し切れないドン・キングが背後から近づくが、スピンクスはお構いなしの体。
※参考映像:ラリー・マーチャントによるポストファイト・インタビュー
映像のタイトル:Boxing - 1985 - Post Fight Interview - Heavyweight Title - Larry Holmes VS Michael Spinks - Fight 1
連勝を48まで伸ばした後、メディアの前に出れば必ずマルシアノの話題が出る。記録について聞かれ続け、いい加減ホームズもウンザリしていたのだろうが、ブッチ・ルイスと家族に強く説得されたらしく、兄のピーターがラスベガスを離れる前に直接謝罪を申し入れた。
思わぬ舌禍で大きなミソを付けたホームズだが、12年間負け無しの連勝に土を着けられ、余程腹に据えかねていたのだろう。ジャッジにも"報復の一刺し"をやってしまう。
「(ジャッジの)ヤツらは酔っ払っていたに決まってる。さもなきゃあんなスコアになる筈がない!」
さらに「右肩の具合が悪かった。」と、聞かれてもいない故障まで持ち出し、「負けたことが悔しいんじゃない。勝利を盗まれたことに腹を立ててるんだ。」と続けたが、率直に言って恥の上塗りでしかなかった。
7ヵ月後(86年4月19日)にラスベガス・ヒルトンで行われたダイレクト・リマッチは、第1戦以上に競った内容となり、判定は僅少差の2-1と割れたが、またもやオフィシャルはスピンクスを支持。
◎オフィシャル・スコア
ジョー・コルテズ(ネバダ州):144-141(ホ)
ジェリー・ロス(ネバダ州):142-144(ス)
フランク・ブルネット(ニュージャージー州):141-144(ス)
※主審:ミルズ・レイン(ネバダ州)
ニューヨーク州の公式審判を辞して、HBOのアンオフィシャル・ジャッジに転身したハロルド・レダーマンは、144-141の3ポイント差でホームズの勝利を示した。
※レダーマンがリアルタイムで付けたスコアカード
「ベガスの証明(Vindication in Vegas)」と題されたキャッチフレーズが、思わずブラックジョークに聞こえてしまいかねない何とも微妙なスコアではあるが、命からがらベルトを守ったスピンクスにはキャリアハイとなる200万ドルが保障された。
前戦に引き続き、賭け率では7-5の有利だったにもかかわらず、リベンジに失敗したホームズは120万ドルの報酬を手にして復帰を否定。引退を表明する。
※写真左:1-2の判定負けを聞いた瞬間のホームズ/「やっぱりな・・・」とでも言いたげに苦笑いの中に諦念の表情を浮かべている
写真右:TVカメラに気が付き視線をカメラに向け意味ありげにニヤリとするホームズ
「It's over, this is it.」
レダーマンだけではなく、現地で取材に当った46名の記者のうち、実に42名がホームズの勝利を支持する顛末となり、第3戦の必要性を力説する者もいたが、ホームズは皮肉交じりに言い放つ。
「これだよ。もう終わりにする。」と言い、「何度やっても同じさ。こちらが望む結果にはならない。」と諦めの言葉を口にした。
「(前回も負けてはいないが)今回はより明確な内容で勝利を収めた。(もう一度やれと簡単に言うが)どれだけ俺に証明を要求するつもりなんだ?。何回証明すれば、あんたたちの気が済むんだ?」
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チャンピオンベルト事始め Part 3 - 4 - VI - 綺羅星のごときチャンピオンたち - 4 -VI