ネットオヤジのぼやき録

ボクシングとクラシック音楽を中心に

チャンピオンベルト事始め Part 3 - 4 - IV - 綺羅星のごときチャンピオンたち - 4 -IV

2020年08月07日 | Box-History

■綺羅星のごときチャンピオンたち - 4 - IV

◎ヘビー級
※写真左:ジョージ・フォアマン(第1期:1973年1月~74年10月/V2/2003年殿堂入り)
 写真右:ラリー・ホームズ(1978年6月~83年12月/WBC単独認定V17/2008年殿堂入り)


■ジェリー・クーニー戦
1982年6月11日/シーザースパレス,ラスベガス
13回TKO勝ち/WBC世界ヘビー級タイトルマッチ15回戦

目の上の大き過ぎるタンコブ(アリ)を除去したホームズは、後のWBC王者でタイソンの最年少王者誕生をアシストするトレヴァー・バービック(81年4月/15回3-0判定)、まぐれ(?)とは言え一度はアリに勝ったレオン・スピンクス(81年6月/3回TKO)、シカゴ・ゴールデングローブスで優勝した中堅のレナルド・スナイプス(81年11月/11回TKO)を3タテし、防衛回数を11に伸ばす。

バービックに判定まで粘られてしまい、初防衛戦から続いた連続KOは「8」でストップしたが、主だったランカーを一掃。挑戦者選びに困窮するところに出現したのが、白人の巨漢選手ジェリー・クーニーである。


※"The Great White Hope" ジェリー・クーニー


クーニー(1956年8月4日~)はニューヨークのマンハッタン出身で、実弟のトミーとともにボクシングを薦めた父は、アイリッシュ系の移民でブルーカラーだった。

ロングアイランドにある地元では名の通ったジムに通い、ジョン・カポビアンコというイタリア系のトレーナー(弟のジェリーも現役のコーチ)に教わり、ジュニア(1973年/ミドル級:16歳)とシニア(1976年/ヘビー級:19歳)で、由緒あるニューヨークのゴールデングローブスを制したクーニーは、55勝3敗の戦績を残し1977年2月にプロ・デビュー。

4回戦から始めて連勝街道をひた走り、79年12月までの2年10ヶ月に22連勝(18KO)をマーク。プロ入りに際して組んだマネージャーは、デニス・ラパポートとマイク・ジョーンズ。ハワード・デイヴィス・Jr.(76年モントリオール五輪ライト級)とロニー・ハリス(68年メキシコ五輪ライト級)の金メダリスト2名ととともに、クーニーをハンドリングした。


※写真左:共同マネージャーのマイク・ジョーンズ(左)とクーニー(右)
 写真右:デニス・ラパポート(共同マネージャー)

トレーナーはプエルトリカンのビクター(ビクトル)・ヴァーレというベテランで、日本のオールドファンには懐かしいアルフレド・エスカレラ(柴田国明,バズソー山辺を破った)、エステバン・デ・ヘスス(石の拳デュランの最大のライバル/ガッツ石松からWBC王座を奪取)、サムエル・セラノらの同胞の他、ビリー・コステロ(WBA J・ウェルター級王者)、グレンウッド・ブラウン(ウェルター級コンテンダー)らを指導している。


※チーム・クーニー
 左から:マイク・ジョーンズ,ジョージ・マンチ(アシスタント),クーニー,ビクター・ヴァーレ(ヘッド・トレーナー)


ドウェイン・ボビックが大成できずにリングを去り(79年)、入れ替わるように上昇してきたクーニーに、否が応でも大きな注目と関心が集まる。

映画「シンデレラ・マン」のモデルとなったジム・ブラドックを8回KOに下し、栄光の"ブラウン・ボンバー"ことジョー・ルイスがヘビー級の王となって以降、ロッキー・マルシアノとインゲマル・ヨハンソンの僅か2例を除き、アフロ・アメリカンの優れた才能が世界最強の座を独占し続けてきた。

ヘンリー・クーパーとジョー・バグナーを撃沈された英国に現在のような活気は無く、旧ソ連を中心とした共産圏からのプロ流入も当然無い。肌さえ白ければ、文字通りホワイトカラーへの道が開けるようになり、アイルランドとイタリア、ポーランドからやって来た貧しい移民たちも、過酷で危険なボクシングに身を投じることなく、安定した生活を送れるようになった。

強いボクサーと言えば、昔はアイリッシュかイタリア系と相場は決まっていたが、彼らに代わって登場したのが、社会の最下層で喘ぎ苦しむ黒人の若者たちである。

高い身体能力(スピード&柔軟性)とパワーに恵まれた彼らに、唯でさえ選手層が薄くなる一方の白人選手は、まともに勝負をさせて貰えない。ヘビー級の頂点を狙うことができそうな白人選手は、貴重なタレントして扱われ、"ホワイトホープ"と呼ばれるのが恒だった。


身長198センチのタッパに206センチのリーチを持ち、220ポンド超のウェイトを身にまとう巨漢のクーニーは、アイルランド系の出自も大きな追い風となり、白人の最後の希望の星(?)として、オリンピアンのボビックを越える熱い声援を背にリングに登る。

本当に世界の頂点で勝負が可能なのか。1980年(23~24歳)を勝負の年と位置づけた陣営は、5月25日にジミー・ヤング(32歳になっていたがまだ最前線に踏み止まっていた)をアトランティックシティで4回終了TKOに屠り、10月4日には40歳を目前にしたロン・ライルを、初回でノックアウト(ニューヨーク州ナッソー)。引退へと追い込んだ。


※写真左:ヤングを追い詰めるクーニー
 写真右:スラッガーのライルを倒すクーニー

さらに81年5月、ケン・ノートンも初回で圧殺すると、WBAに続いてWBCもクーニーを1位に押し上げる。安全確実(?)にWBAを狙う手もあり、事実81年10月22日開催でマイク・ウィーバーへの挑戦が決まりかけた。

しかし、ジェームズ・ティリス(3位)に指名挑戦権を認めたWBAがはく奪をチラつかせた為、ボブ・アラム(ウィーバーのプロモーター)はより大きな金が動くであろうクーニー戦を泣く泣く諦める。


流れは完全にホームズ戦へと傾き、自他ともに最強の評価を確立したWBC王者以外に選択の余地無し,との空気が充溢。勧進元となるドン・キングは、ホームズとクーニーに1千万ドル(!)を提示。

衛星中継と結んだクローズド・サーキットは勿論、HBO(PPV)にABCの地上波(1週間後の録画放送)も加わり、ホームズにとってアリ戦を越える大興行が実現する。


※発表会見(1981年12月16日/ニューヨーク)
 左から:ホームズ,ドン・キング,クーニー

東西両海岸を始めとする全米各地を回るカンファレンス・ツアー、各種エキジビションへの出席、数多くのインタビューやトークショーへの出演等々、現代のメガ・ファイトでは当たり前のプロモーション&パブリシティの出発点となった。


キングは「黒人 VS 白人」の対決を煽りに煽る。「アイリッシュ+カトリック」の出自をこれでもかとアピールし、メディアに登場したクーニーのマネージャー,デニス・ラパポートは、「ホームズは正統のチャンピオンではない。クーニーは白人であるということ以上に、人として正しい。」と微妙な発言を繰り返す。

アメリカに根深く巣食う人種間の対立を、意図的に利用したキングのプロモーションは、思わぬ騒動に発展した。ホームズに死を予告する脅迫状が送り付けられたのである。クーニーの勝利を願うKKK(Ku Klux Klan/クー・クラックス・クラン)が集会を開き、ホームズには家族も含めて護衛が付く。

シーザースパレスの巨大な駐車場に特設された屋外アリーナには、32,000の客席が用意され、29,000を越える動員を記録。ライヴゲートは730万ドルと発表された。衛星中継による放映権料は3千万ドル超が見込まれ、クローズド・サーキットが2千万ドル、PPVも500万ドルと見積もられた。
※最終的な着地を4千~5千万ドルと豪語

ホームズへの脅迫は続いており、過激派の黒人グループが武装して会場に紛れ込み、ホームズへの銃撃が行われたら反撃すると声明を出す。万が一の事態に備えた地元の警察が狙撃チームを組織し、シーザースパレスだけでなく、近隣のホテルの屋上にも配置。厳戒態勢が敷かれた。

 

クーニーのパワーとプレッシャーを最も警戒したホームズは、"生ける伝説"とも言うべき名匠レイ・アーセルを招き(チーフはあくまでエディ・ファッチ)、ジャブとフットワークを鍛え直し(たとされている)、距離をキープしながら接近戦を回避する作戦。

初回から足を使い、クーニーの様子を伺うホームズ。打ち合いへの欲求を上手に自制しつつ、ペース配分の為に足を止めて下がる場合でも、長くロープを背負わない。

クーニーのスピードと間合いを掌握すると、ゆっくりとした足取りで左回りの基本を維持。ジャブと速いワンツーを軸に、クーニーの侵入を防ぐ。アーセルの役割はともかく、ホームズがしっかり仕上げて来たのは疑う余地がなかった。


そしてクーニーのコーナーにも、新しい顔があった。カットマンのアーティー・カーリーである。デビューしてからここまでは、チーフのヴァーレがカットマンを兼務していたが、

ベテラントレ-ナー,パナマ・ルイスの相棒としてアーロン・プライアーのコーナーに入り、ルイスの指示で「疑惑のブラック・ボトル」を渡した張本人・・・として今では有名になってしまったが、アレクシス・アルゲリョとの大一番(第1戦)は、この試合から5ヵ月後の82年11月12日のこと。


※左から:アーティ・カーリー(カットマン),ヴァーレ(チーフ),クーニー

第2ラウンドに狙い通りの右カウンターを決め、早々とダウンを奪ってペースを掴むホームズ。足の速いボクサーを捕まえる時の定石に従い、クーニーが下(ボディ)からアッパーで攻め出すと、圧力がそれなりにかかっていい形になりかけたが、ホームズはけっして慌てることなく余裕を保ち、ジャブ,ワンツーの防波堤を維持し続ける。

ホームズのジャブが邪魔になり、距離を潰し切れないクーニーは、それでも意を決してリードに右ストレートを被せ、ワンツー(右ストレート)に相打ち狙いの左フックを合わせて行く。

クーニーが手を出す度びに大きな歓声が沸き、背中を押されたホワイトホープがプレスを強めて前に出る。しかしこの日のホームズは、慎重な組み立てをけっして崩さない。丁寧にジャブを突いてロング・ディスタンスに身を置き、時折りアリを彷彿とさせるフットワークをサービスしながら、安全圏を保ち続ける。


※終始距離と展開を支配したホームズのジャブ


顔が腫れ出し、いいパンチを当てることができないクーニーは、第6ラウンドにまた痛烈な右(ワンツー)を食って大きくグラつき、左の瞼もカット。ホームズもここは攻め込んだが、クーニーが打たれ強さを発揮して持ち応える。

クーニーも懸命にホームズに組みついて抵抗を試みるが、左アッパーが低くなって主審ミルズ・レインのチェックが入り、クリンチワークにも阻まれ打撃戦への糸口を見出せない。ホームズもけっして楽に戦っている訳ではないが、ダメージを溜め込んで鈍って行くクーニーを冷静に観察し、無理や深追いを慎む。


第10ラウンドには、疲労が健在化し出したホームズが短い打ち合いに応じ、クーニーのパンチもようやくヒット。第11ラウンド以降、ホームズの動きが止まって反転攻勢のチャンスを迎えるも、クーニーはローブローで減点を3回受けてしまう。

お互いに疲れてスタミナが切れかけた第13ラウンド、右のカウンターを2発立て続けに決めたホームズが、左右のコンビネーションで追撃。まともに浴びたクーニーが耐え切れずにダウンすると、ミルズ・レインが迷わずストップを宣告した。


※勝負が決した第13ラウンド/ホームズの痛烈な右がフィニッシュを呼び込んだ

12ラウンドを終了した時点でのスコアは、ジェリー・ロスが115-109の6ポイント差を付けたが、ドゥエイン・フォードとデイヴ・モレッティは113-111の2ポイント差。

クリーン・ノックダウンを奪い、大半のラウンドをホームズがコントロールした上、3度の減点を含めての採点だけに、「白人王者の誕生に手を貸していたのでは?」と、問題視する記者とファンが続出する。

お三方ともごく最近までオフィシャル・ジャッジとして活躍し、ラスベガスのリングを長く差配した重鎮だが、首を傾げざるを得ないスコアリングは、今に始まったことではないようだ。
※フォードは2013年にNABF(North American Boxing Federation/北米王座認定機関)の会長となり、ジャッジを引退。ロスも2015年に勇退。モレッティは現役を継続中。


ホームズに完敗したクーニーは、丸々2年以上を休み84年9月に再起。格下を3タテして元気なところを見せたが、老いらくのホームズを攻略して新興IBFの王者となりながら、指名戦を拒否して無冠となったマイケル・スピンクス(無敵のL・ヘビー級統一王者)と対戦。

ベルトをはく奪されたスピンクスは、リング誌から正統の世界チャンピオンとして認定を受け続け、全米18州(詳細は不明)からも承認された15回(世界)戦として挙行されたが、WBA・WBC・IBFのいずれの王座も懸けられていない。

スピンクスにもいいところなく5回TKOで敗れると、試合後引退を表明。1990年1月15日、10年ぶりの再起を決行したジョージ・フォアマン戦のオファーに応じて復帰(33歳)したが、僅か2ラウンドで轟沈。完全にリングから身を引いた。


ホームズ戦で露になった人種間対立は、クーニーにも大きな苦悩を与えていた。白人王者への希望を一身に背負わされ、”The Great White Hope”と呼ばれることも、耐え難い苦痛以外のなにものでもなかったという。

致命的な敗北による精神的なダメージは深く、憑り依かれたようにホームズへのリベンジを口にし、「こうなったら(試合が成立しないなら)、場所は何処でもいい!」と叫び、車でイーストンにあるホームズの自宅に行こうとまでしたらしい。

キャリアを左右する重要な試合に負けたことをきっかけに、精神のバランスを崩したトップボクサーが酒と薬に走るのは、欧米では珍しい話ではないけれど、クーニーも例外ではなかった。状況は相当に深刻だったようで、2年余りのブランクでよく再起に漕ぎ着けたと思う。

スピンクスとフォアマンに止めを刺された後、アルコール&薬物の誘惑と闘いながら、現役時代から温めていた大事なプラン(※)を実行に移す為、クーニーは積極的に多くのボクサーに協力を要請。ホームズをその筆頭に置いて、自ら関係の改善に動く。


※旧交をあたためるホームズとクーニー
(2011年1月5日,ニューヨーク/ボクシングを題材にしたTVドラマ"Lights Out"のプレミアショーでのひとコマ)


クーニーのプランは、引退したボクサーに仕事を紹介したり、医療保険への加入を促進する支援組織の設立で、ホームズは喜んで協力を申し出る。FIST(Fighters 'Initiative for Support and Training)は、こうして1998年に船出した。

さらにクーニーは、「モハメッド・アリ法」の成立を受け、2003年5月に発足した史上初のユニオン,「JAB(Joint Association of Boxers)」の発足にも尽力している。これらの活動を通じてクーニーとホームズは親交を深めて、家族ぐるみの打ち解けた関係を築く。


●●●●●●●●●●●●●●●●●

■マーヴィス・フレイジャー戦
1983年11月25日/シーサースパレス,ラスベガス
初回TKO勝ち/ノンタイトル12回戦

クーニーとの注目の大一番を終えたホームズは、年間3~4試合のハイ・ペースを3年続けた疲労に加えて、加齢(31~32歳)による回復力の減退から、82年はこの後5位ランディ・コッブ(11月26日/15回3-0判定勝ち/アストロドーム,ヒューストン)との1試合だけとなる。

翌83年は、3月27日のルシアン・ロドリゲス戦(9位/ペンシルベニア州スクラントン/12回3-0判定勝ち/V14)と、後の王者で4位のティム・ウィザスプーン(5月20日/デューンズホテル&カジノ,ラスベガス/12回3-0判定勝ち/V51)、そして10位スコット・フランク(9月10日/アトランティックシティ/5回KO勝ち/V16)に続き、11月15日にシーザースパレスでスモーキン・ジョーの息子マーヴィスを迎え撃った。


※試合のポスター
(アンダーカードに登場する人気者レイ・マンシーニの名前もある)


WBAのライト級を保持していたマンシーニは、無名選手を相手に137ポンド契約のチューンナップ。1987年に154ポンドのWBC王者となるルペ・アキノ、10回戦に上がって間もないウィルフレド・バスケス、ホームズの実弟(10歳年下のミドル級)マーク・ホームズらが前を固めていた。

王者になってから最もハードな年間4試合をこなせた理由は、上位ランカーに目ぼしい相手がおらず、下位ランカー中心の選択試合が可能だったことと、WBCが独断専行したラウンド短縮(12回戦制の強行)のお陰である。


1980年9月19日(ルペ・ピントールに12回KO負けしたジョニー・オーエンが死去)と、1983年11月13日(アルバート・ダビラに12回TKOで敗れたキコ・ベヒネスが死去)のWBCバンタム級タイトルマッチで、立て続けに死亡事故が発生(いずれもロサンゼルス開催)。

なおかつ1982年11月13日には、人気者のWBAライト級王者レイ・マンシーニにラスベガスで挑戦した韓国の金得九が、終盤14ラウンドでTKO負けした後、やはり意識を回復することなく亡くなっていた。

3年続いて世界戦で重大事故が続き、なおかつすべて後半~終盤にかけての決着だったことから、WBCは15回戦制の廃止を強く訴える。しかし、オポジションのWBAとニューヨーク,ネバダ,カリフォルニア3州に英国のBBBofCが、「医学的な根拠が薄弱だ」として反対を唱えてまとまらない。

WBAの賛同を得られず(これはまあ予定通り)、世界最大のマーケットであるアメリカを主導する3州の説得に失敗した先代スレイマン会長は、「WBCだけでやる!」と宣言して短縮に踏み切る。


当然WBAは15回戦制を継続し、東海岸を根城に83年に発足したIBFも、15回戦を支持するニューヨーク州に同調。全米に絶大な影響力を行使する3州が折れて、12回戦を容認する85~86年まで対立(分裂)が続いた。

1国1コミッションのアメリカ以外の加盟国には、12回戦制の遵守を強く求め、渡辺二郎のようにラウンド数の違いを最大の理由に、WBC王者パヤオ・プーンタラト(タイ)との統一戦を潰された王者が居た反面、元々A・Cの統一王者だったマイケル・スピンクス(L・ヘビー)、マーヴィン・ハグラー(ミドル)の2王者には15回戦を容認するしかない。

なおかつ85年12月6日にラスベガスで行われたドン・カリー(WBA) VS ミルトン・マクローリー(WBC)のウェルター級王座統一戦でも、WBCは15回戦を認めている。

いずれも開催地を所管する米国内の各州が、ルール上15回戦制を採用している為だと言い訳したが、アメリカとそれ以外の加盟国に対するあからさまなダブル・スタンダードについて、「15回戦を認めるのはルール違反だ。王座をはく奪して決定戦を承認すべき」だと、総会で苦言を呈する(利害)関係者も皆無では無い。


12ラウンド制で息を吹き返したホームズは、ノーブランドの挑戦者を相手にした防衛戦に飽き飽きしていた。コッブ戦からフランク戦までの4試合で稼いだギャラは、合計で650万ドル(1試合平均162.5万ドル)。大きな金額には違いないが、アリ戦で600万ドル、クーニー戦で1千万ドルを得ていた。

自分自身の顔と名前だけで、アリ,クーニー戦と同じ規模の金額を稼ぎ出せないことにも、ホームズは当然苛立つ。怒りの矛先は、当然プロモーターのドン・キングに向く。

「俺には、200万ドルの価値すら無いのか?」


そんな時、プロになったフレイジャーの息子との対戦が具体化。直接傘下に収まっている筈のキングは、トップアマから転向したグレッグ・ペイジ(アマ通算:94勝11敗/84年にWBC王座を獲得する)との交渉を進めていたが、ホームズはキングが提示する金額に不満を示し、代理人を通じてWBCに防衛戦の履行期限延長を要請。

マーヴィス戦を計画したのは、ロバート・アンドレオーリというニューヨークのローカル・プロモーターで、310万ドルを保障するとのことだった(マーヴィスには100万ドル)。明確な金額は不明だが、ペイジ戦をまとめようとしたキングの条件を上回っていたのは間違いない。


ジュニアの世界選手権(1979年/横浜文体で開催された)で金メダルを獲り、ナショナル・ゴールデングローブス(79年)とAAU(80年)のトーナメントでも優勝を果たし、幻のモスクワ五輪代表候補でもあったマーヴィスは、56勝2敗の戦績を残して80年9月にプロ・デビュー。

7戦目から10回戦に進み、直近の試合(83年6月/アトランティックシティ)でジョー・バグナーに判定勝ちを収めてはいたが、プロでは10戦しか経験してない(全勝6KO)。当然世界ランキングにも入っておらず、184センチの小兵に加えて、200ポンドあるかないかの軽量にも懸念の声が上がる。

ただし、コーナーに控えるスモーキン・ジョーの金看板はデカい。しかもホームズの傍らには、あのエディ・ファッチがいる。手ずから鍛えた愛息を従え、かつての恩師が見守る最強の王者にスモーキン・ジョーが挑む。

史上初の親子王者誕生は成るのか・・・これだけでも充分にドラマは成立する。在米マニアと熱心なファンのハートを、がっちり捕まえて離さなかった筈だ。


※写真左:マーヴィスとスモーキン・ジョー
 写真右:ファッチとホームズ


ホームズはマーヴィスを選び、11月25日にシーサースパレスでの挙行が決定。どうやってキングとの間(普通ならとんでもない揉め方をする)を収めたのかわからないが、おそらくプロモーターのアンドレオーリとホームズの代理人がタッグを組み、それ相応の金銭で解決したのだろう。

残る課題はWBCである。ノーランクのマーヴィスに、防衛戦を許可するのかしないのか。先代スレイマン会長とチャンピオンシップ・コミッティの決定は、やはり否であった。マーヴィスのキャリアが当然のように問題視され、「世界タイトル挑戦に相応しくない」との意見が大勢を占めたらしい。

ただし即座にはく奪はせず、試合が終わってから3週間近く経った後(12月11日)に発表が行われた。正式なアナウンスの遅れが原因で、マーヴィス戦も防衛戦としてカウントするメディアもあり、日本国内でも長らく17度目の防衛戦としてみなされた。
※試合前のリングコールでは、WBCタイトルマッチの宣言は行われておらず、WBCの立会人も派遣されていない。


開始ゴングと同時にホームズに正対したマーヴィスは、アマのスタイルを踏襲した高いガード&ブロッキングで王者のジャブを弾いたかと思えば、父譲りの大きなボビングとクロスアームもどきの構えから飛び込もうとしたり、はたまたノーガードで素早く左右に動いて挑発する。

一回り違うサイズの不利をカバーする為には、唯一のアドバンテージと言っていいスピードを最大限に活かすしかない。多少は戸惑いを見せたホームズだが、よく言えば変幻自在にして融通無碍、悪く言えばどっちつかずのマーヴィスを暫し観察。

ガードが開く瞬間を見逃さず、スピードの乗ったジャブを連射すると、これが見事にヒット。ここで一旦サイドに動いて距離と間合いを取らず、同じポジションでカウンターを合わせようと欲をかいたのが命取り。


※狙い済ました右の一撃で弾け飛ぶように倒されたマーヴィス


息を呑むほど鮮やかな右ストレートを放ち、マーヴィスの顎を撃ち抜いた。もんどり打って吹っ飛ぶ軽量のマーヴィス。リング下で様子を見守るスモーキン・ジョーの顔が大写しになったが、この一撃で試合が決着したことを理解していた。

マーヴィスは何とか立ち上がり、主審のミルズ・レインは再開を許可したが、たちまちコーナーに追い詰められ、ホームズはレインに「さっさと止めろ!」と合図を送りながら、決定打を猶予する。


※試合を終わらせる為に最後のラッシュをかけるホームズ


何度か催促を繰り返したがストップはかからず、止むを得ずホームズが右の強打を連射。致命傷を負う寸前に、ミルズ・レインが脱兎の勢いで割って入った。プロとしての年季の違いが、ここまで明白に露呈するケースも珍しい。

「無益な殺生はしたくない。早く止めて欲しかった。」と語るホームズに対して、「まだ、マーヴィスの眼が活きていた。最後のチャンスを与えるべきだと思った。」と切り返すミルズ・レイン。

今なら最初のダウンからマーヴィスが立ち上がったところでストップがかかり、ホームズがミルズ・レインに催促をする必要はない。

息子の敗北を確信しながら、スモーキン・ジョーはタオルの準備をしていなかった。山中慎介とルイス・ネリーのケースも含めて、ストップのタイミングを巡る攻防は、洋の東西と時代を超えて常に論議を呼ぶ。


マーヴィスはキャリアを続けて、ジェームズ・ティリスとボーンクラッシャー・スミスに勝ったが、世界を獲る直前のマイク・タイソンにも即決KOを緩し(86年7月)、88年10月の試合を最後に引退。8年に及んだプロの戦績は、21戦19勝(8KO)2敗だった。

現役を退いてからは、兄のジョー・ジュニア(ヘクター)、レイラ・アリと対戦した妹のジャッキー・フレイジャー・ライドのコーナーに付いたが、1994年に牧師となり、刑務所を慰問する慈善活動に長く従事した他、リムジンのハイヤーサービスを家族で経営している。


●●●●●●●●●●●●●●●●●
以下の記事へ続く
チャンピオンベルト事始め Part 3 - 4 - V - 綺羅星のごときチャンピオンたち - 4 -V

この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« チャンピオンベルト事始め Pa... | トップ | チャンピオンベルト事始め Pa... »