日本の企圖せる大東亞政策
殊に之を繼承して東條内閣に於て其の實現を圖りたる諸事項 141
〔大東亜政策〕
日本の企図して居りました大東亜政策といふものは其時代に依て各種の名称をもって表現せられて居ります。即ち例えば「東亜新秩序」「大東亜新秩序」又は「大東亜共栄圏」の建設」といふのがその例であります。
此の大東亜政策は、支那事変以来具体的に歴代内閣に依りその管理を企画せられ来たものであります。そしてその究極の目的は東亜の安定の確立といふことにあります。
而して1940年(昭和15年)7月第二次近衛内閣以後の各内閣に関する限り、私はこの政策に関係したものとして其の真の意義目的を証言する資格がある者であります。
142
抑々日本の大東亜政策は第一次世界大戦後世界経済の「ブロック」化に伴ひ近隣相互間の経済提携の必要から此の政策が唱えられるに至ったものであります。その後東亜の赤化と中国の抗日政策とに依り支那事変は勃発しました。
そこで日本は防共と経済提携に依て日華の国交を調整し以て東亜の安定を回復せんと企図しました。日本は支那事変を解決することを以て東亜政策の骨子としたのであります。
然るに日本の各般の努力にも拘わらず米、英、蘇の直接間接の援蒋行為に依り事態は益々悪化し、日華両国の関係のみに於て支那事変を解決することは不可能であって之がためには廣く国際関係の改善に待たねばならぬようになって来ました。
日本は之に努力しましたが、米、英は却って対日圧迫の挙に出たのであります。茲に於て日本は止むを得ず一方仏印、泰更に蘭印と友好的経済提携に努ると共に東亜の安定回復を策するの方法をとるに至りました。
以上は元より平和的手段に拠るものであり、亦列国の理解と協力に訴えたのであります。
然るに米英蘭の圧迫は益々加重せられ、日米交渉に於いて局面打開不可能となり、日本は止むを得ず自存自衛のため武力を以て包囲陣を脱出するに至りました。
右武力行使の動機は申す迄もなく日本の自存自衛にありました。一旦戦争が開始せられた以後に於ては日本は従来採り来った大東亜政策の実現即ち東亜に共栄の新秩序を建設することに努めました。
大東亜政策の実現の方策としては先ず東亜の解放であり
次で各自由且独立なる基礎の上に立つ一家としての大東亜の建設であります。
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〔東亜解放〕
大東亜政策の前提である「東亜解放」とは
東亜の植民地及至半植民地の状態に在る
各民族が他の民族国家と同様世界に於いて対等の自由を獲んとする永年に亘る熱烈なる希望を充足し、
以て東亜の安定を阻害しつつある不自然の状態を除かんとするものであります。
斯くして世界の此の部分に於ける不安は除去せられるのであります。恰も約一世紀前の昔「ラテンアメリカ」人が「ラテンアメリカ」解放のために戦ったのと同様であります。
当時、東亜民族が列強の植民地として又は半植民地として又は半植民地として、他よりの不当なる圧迫の下に苦悩し、之よりの解放を如何に熱望して居つたかはこの戦争中、1943年(昭和18年)11月5日、6日東京に開催された大東亜会議に於ける泰国代表「ワンワイタラヤコーン」殿下の演説に陳へられた所により之を表示することができます。
曰く
『特に一世紀前より英国と米国とは大東亜地域に来り、或は植民地として、或は原料獲得の独占的地域とし、或は自己の製品の市場として、領土を獲得したのであります。従って大東亜民族は或は独立と主権とを失ひ、或は治外法権と不平等条約に依て其独立及び主権に種々の制約を受け而も国際法上の互恵的取扱を得るところがなかつたのであります。
斯くして「アジア」は政治的に結合せる大陸としての性質を喪失して単なる地理的名称に墜したのであります。斯る事情はより生まれたる苦悩は廣く大東亜植民の感情と記憶とに永く留まつて居るのであります』と(法廷証第二三五一)
又同会議に於て南京政府を代表して汪兆銘氏は其の演説中に於て中国の国父として尊敬せられたる孫文氏の1924年(大正13年)11月28日神戸に於いて為された演説を引用して居ります。
之によれば『日支両国は兄弟と同様であり日本は曾て不平等条約の束縛を受けたるため発奮奮起し初めてその束縛を打破し東方の先進国並びに世界の強国となった。中国は現在同様に不平等条約破棄を獲得せんとしつつあるもものであり、日本の十分なる援助を切望するものである。中国の解放は即ち東亜の解放である。』と述べて居ります。(弁護側証第二七六〇-B)
以上は単にその一端を述べたるに過ぎませぬ。之が東亜各地に鬱積せる不平不満であります。
なほ東條内閣が大東亜政策を以て開戦後之を戦争目的とした理由について簡単に説明いたします。
従前の日本政府は東亜に於ける此の動向に鑑み又過去に於ける経験にも照らして、早期に於て東亜に関係を有する列国の理解に依り之を調整するのでなければ永久に東亜に禍根を為すものであることを憂慮いたしました。
そこで1919年(大正8年)1月より開催された第一次大戦後の講和会議に於て
我国より国際連盟規約中に人種平等主義を挿入することを提案を為したものであります。
(弁護側証第二八八六号)
しかし この提案は、あへなくも列強に依り葬り去られまして、その目的を達しませんでした。
依て東亜民族は大いに失望を感じました。1922年(大正11年)の「ワシントン」会議に於ては何等此の根本問題に触るることなく寧ろ東亜の植民地状態、半植民地状態は九か国条約に依り再確認を与えられた結果となり東亜の解放を希ふ東亜民族の希望とは益々背馳するに至ったのであります。
次で1924年(大正13年)5月米国に於て排日移民条項を含む法律案が両院を通過し、大統領の署名を得て同年7月1日から有効となりました。
これより先、既に1901年(明治35年)には豪州政府は黄色人種の移民禁止の政策をとったのであります。
斯くの如く東亜民族の熱望には一顧も与えられず常に益々之と反対の世界政策が着々と実施せられました。そこで時代に覚醒しつつある東亜民族は焦眉の気分をもつてその成行を憂慮いたしました。その立場上東亜の安定に特に重大なる関係を有する日本政府としてはこの傾向を憂慮しました。歴代内閣が大東亜政策を提唱しましたことは此の憂慮より発したものであって東條内閣はこれを承継して戦争の発生と共に之を以て戦争目的の一としたのであります。
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〔大東亜政策の眼目〕
大東亜政策の眼目は大東亜の建設であります。
大東亜建設に関しては当時日本政府は次のような根本的見解を持して居りました。抑々世界の各国が各々その所を得、相寄り相扶けて万邦共栄の楽を偕にすることが世界の平和確立の根本要○(注、一文字判読不能)である。
而して特に大東亜に関係深き諸国が互い相扶け各自の国礎に培ひ共存共栄の紐帯を締結すると共に他の地域の諸国家との間に協和偕楽の関係を設立することが世界平和の最も有効にして且つ実際的な方途である。
是が大東亜政策の根底を為す思想であります。
右は先に述べた1943年(昭和18年)11月5日大東亜会議の劈頭に於て私の為した演説(法廷証第一三四七号A)中にも之を述べて居るのであります。此の思想を根底として大東亜建設には次のような5つの性格があります。
(一)は大東亜各国は共同して大東亜の安定を確保し共存共栄の秩序を建設することであります。
蓋し大東亜の各国があらゆる点に於て離れ難き厳密な関係を有することは否定し難い歴史上の事実であります。斯る関係に立ちて大東亜の各国が共同して大東亜の安定を確保し共存共栄の秩序を建設することは、同地域に存在する各国共同の使命であるからであります。
大東亜の共存共栄の秩序は大東亜固有の道義的精神に基づくべきものでありまして、此点に於て自己の繁栄のために他民族、他国家を犠牲にする如き旧秩序とは根本的に異なると信じたのであります。
(二)は大東亜各国は相互に自首独立を重んじ大東亜の親和を確立することであります。
蓋し大東亜の各国が互いにその自主独立を重んじつつ全体として親和の関係を確立すべきであり、相手国を手段として利用するところには親和関係を見出すことを得ずと考えました。
親和の関係は相手国の自主独立を尊重し、他の繁栄に依り自らも繁栄すし以て自他共に本来の面目を発揮し得るところにのみ生じ得ると信じたのであります。
(三)は大東亜各国は相互にその伝統を尊重し各民族の創造性を伸長し、大東亜の文化を昂揚することであります。
由来大東亜には優秀な文化が存して居るのであります。殊に大東亜の精神文化には崇高幽玄なるものがあり、今後之を長養醇化し廣く世界に及ぼすことは物質文明の行詰りを打開し人類全体の福祉に寄与すること少なからずと考えへました。斯る文化を有する大東亜の各国は相互に其の光輝あるある伝統を尊重すると共に各民族の創造性を伸長し以て大東亜の文化を益々昂揚すべきであると信じました。
(四)は大東亜各国は互恵の下緊密に提携し其の経済発展を図り大東亜の繁栄を増進することであります。
蓋し、大東亜の各国は民生の向上、国力の充実を図るため互恵の下、緊密なる提携を行ひ共同して大東亜の繁栄を増進すべきであります。大東亜は多年列強の搾取の対象となって来ましたが今後は経済的にも自由独往相倚り相扶けて其の繁栄を期すべきであると信じたからであります。
(五)は大東亜各国は万邦との交誼を厚くし人種的差別を撤廃し普く文化を興隆し進んで資源を開放し以て世界の進運に貢献することであります。
蓋し斯くの如くして建設さるべき大東亜の新秩序は排他的なものでなく廣く世界各国と政治的にも経済的にも将又文化的にも積極的に協力の関係に立ち以て世界の進運に貢献すべきであると信じてきました。口に自由平等を唱えつつ他国家他民族に対し抑圧と差別をもつて臨み自ら膨大なる土地と資源とを壟断し他の生存を脅威して顧みざる如き世界全般の進運を阻害する如き旧秩序であってはならぬと信じたのであります。
以上は大東亜政策を樹立せる当時より政府は(複数)此の政策の基本的性格たるべしとの見解でありました。斯の如き政策が世界制覇とか他国の侵略を企図し又は意味するものと解釈せらるるといふ事は夢だもせざりし所であります。
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〔大東亜宣言として表示〕
以上の大東亜建設の理念は日本政府(複数)が従来より抱懐して居つたところでありましたて、日本と満州国との国交の上に於ても又日華基本条約乃至日満華共同宣言の締結に於いても、日支事変解決の前提としても、なほ又仏印及び泰国との国交の展開の上に於ても、総て平和的方法に依り其の達成を期せんとして居たことは前にも述べた通りであります。
この主旨は1943年(昭和18年)11月5日開催の大東亜会議に参集した各国代表の賛同を得て同月6日に大東亜宣言として世界に表示したのであります。 (証第一三四六号英文記録第一二〇九八頁)
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〔実行した二の事柄〕
大東亜戦争が勃発するや、私は太平洋戦争の完遂と共に此の戦争を通じて以上の大東亜政策の実現に渾身の努力を盡くしました。之に関連する施策中、内に対するものとしては大東亜政策の実行並びに之と重大なる関係を有する占領地行政につき徒に理念に墜せず独善に陥らず且つ斯く民族の希望及び只情に即したる施策足らしめんとして二の事柄を実行しました。
(一)其の一つは1942年(昭和17年)3月大東亜審議会を設置し、内閣総理大臣の諮問機関としたことであります。(弁護側証第二七三五号)
(二)その二つは1942年(昭和17年)11月大東亜省を設置し、大東亜政策に関する事務を管掌せしめたことであります。(証九〇)
又、外に対するものとして左の3つの政策を行うことによりて大東亜政策の実現を図りました。
(一)一は対支新政策を立てたことであります。之により我国と中国の間に従来存して居りました不平等条約の残滓を一掃し、之と対等の条約関係に切りかへました。
(二)その二は占領地域内の各民族に対し又は各国家に対し各々その熱望に応へ大東亜政策に基づく具体的政策を実行したことであります。
(三)その三は大東亜会議の開催を提議しその賛同の下に各国の意志の疎通と結束の強化を図ったことであります。
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〔大東亜審議会の設置〕
大東亜政策に関し内に於てとりました第一の措置たる大東亜審議会の設置につき一言いたします。
1942年(昭和17年)3月、内閣総理大臣の諮問機関として之を内閣に設置しました。
此の大東亜審議会の内容は弁護側第二七三五号のとおりであります。
その設置の動機は占領地行政及大東亜建設に対する国策を進むるに当たり政府の独善的施策に陥らず各民族の希望及び事情に即したる施策を為すため日本朝野各方面有識の人々の智嚢を施策の上に反映せしめんとするの意図に出たのであります。
偶々議会の於ても同様の考えに基く調査機関設置の提議(弁護側証第二七三六号)を見たる機会を動機として諮問会議の形に於て設置いたしました。
そして本審議会の委員は政治、外交、財政、経済、産業文化等各方面の有識者を網羅しました。
そして各部門に於て政府の諮問に応じ専門的に研究し或は自発的に意見を立て、又之を政治的に実施する方途を審議し、施策樹立の参考に資したのであります。
因に大東亜建設に関する研究として検事側より国策研究会等の研究と称する幾多の証拠が提出されて居ります。然し乍ら大東亜建設に関する政府の政策樹立のための機関としては右大東亜審議会の外はありません。
右国策研究会の私的会合で研究しましたことについては政府は全く関知いたしません。
総力戦研究所は公的機関とは言へ既に立証せられたるが如く学生の養成と総力戦の研究のためでありまして政府の政策樹立には関係ありませんでした。
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〔大東亜省の設置〕
内に対する政策の第二でありまする大東亜省の設置については、大東亜政策の本旨に鑑み1942年(昭和17年)11月1日之を設置し従来外務省に於て取扱ひ来つて居りました条約締結の如き純外交を除く大東亜政策に関する外政を専ら之に管掌せしめ、
之によりて外務省を其の幾多なる業務より解放し、大東亜地域以外の同盟国中立国及び敵国に対する溌剌たる外交施策に専念せしめもつて戦争遂行に関し並びに戦争の終結に関し寄与せしめんとしたものであります。
蓋し大東亜地域内の各独立国間に関係は恰も一大家族の各員の関係の如くに和親し提携すべきものであって従って其の他国に対する如く利害を基本とする従来の外交とは大に趣を異にするとの観念に出発したのであります。
唯、此の地域内の国家は固より独立国家たる以上は条約の締結の如きは外交として存立すべきを以て此のことは外務省の所管に置きました。
大東亜省の所管事務の内容を大別すれば左の三つであります。
(一)大東亜地域内の各独立国家との経済、文化、通商等の交渉事務
(二)関東庁並びに南洋庁に関する行政
(三)軍の管掌する占領地行政に関する援助行政
その管制は証第九〇号に在る通りであります。又その官制の枢密院で議せられたときの状況の一部は証第六八七号にあるものに大差ありません。
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〔日支間の不平等条約の撤廃〕
外に対する施策として実施しました事としては1942年(昭和17年)12月21日対支政策を立て大東亜政策の本旨に合する如く日支間の不平等条約撤廃を目的として逐次左の如く施策を進め1943年(昭和18年)10月30日を以て之を完了しました。
即ち
(一)1943年(昭和18年)1月9日取りあえず中国に於ける帝国の特殊権利として有したる一切の租界の還付及び治外法権の撤廃に関するに日華協定を締結し直ちに之を実行しました。(証第二六一〇号)
(二)1943年(昭和18年)2月8日中国に於て帝国の有せる敵国財産を南京政府に移管しました。
(三)次いで1943年(昭和18年)10月30日、日華同盟条約(法廷証第四六六号)を締結しその第5条及付属議定書に依り、之より曟1940年(昭和15年)11月30日に締結した日華基本条約に定めてあった一切の駐兵権を拠棄し日支事変終了後日本軍隊の駐兵権を含め全面撤退を約束しここに日支間の不平等条約の最後の残滓を一掃したのであります。
(四)而して対等の関係に於て新たに前述の同盟条約を相互に主権及領土の尊重大東亜建設及東亜安定確保のため相互協力援助並に両国の経済提携を約したのであります。
右に関し1943年(昭和18年)11月5日の大東亜会議に於て中国代表汪兆銘氏は次の如く述べております。
(弁護側証二七六〇-B)
『本年1月以来日本は中国に対し早くも租界を還付し、治外法権を撤廃し殊に最近に至り日華同盟条約をもつて日華基本条約に代へ同時に各種付属文書を一切破棄せられたのであります。国父孫文先生が提唱せられました大東亜主義は既に光明を発見したしたのであります。国父孫文先生がに日本に対し切望しましたところの中国を扶け不平等条約を廃棄するということも既に実現せられたのであります』 と。
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〔外に対する施策の其の二〕
外に対する施策の其の二について一言しますれば
〔ビルマ国の樹立〕
(A)先ず「ビルマ」国の樹立であります。
1943年(昭和18年)8月1日、日本は「ビルマ」民族の永年の熱望に応え、その「ビルマ」国として独立を認め且つ同日之と対等の地位に於て日緬同盟条約(弁護側証第二七五七号)を締結しました。
而して其の第一条に於て其の独立を尊重すべきことを確約しております。
又、1943年(昭和18年)9月25日帝国政府は帝国の占領地域中「ビルマ」と民族的に深き関係を有する「マレー」地方の一部を「ビルマ」国に編入する日緬条約(弁護側証第二七五八号)を締結し之を実行しました。
之に依ても明瞭なる如く日本政府は「ビルマ」に対し何等領土的野心なく唯、その民族の熱望に応へ大東亜政策の実現に望んだことが判るのであります。
元来「ビルマ」の独立に関しては日本政府は太平洋戦争開始間もなく1942年(昭和17年)1月22日第79議会に於て私の為した姿勢方針の演説中に於て其の意思を表明し(法廷証第一三三八号○英文記録一二〇三四頁)
又1943年(昭和18年)1月22日第81議会に於て私の為した施政方針演説に於ても「ビルマ」国の建国を認める旨を確約しました。 (弁護側文書二七一一号)
そして同年3月当時「ビルマ」行政府の長官「バー・モウ」博士の来朝の際、之に我政府の意思を伝へ爾後建国の準備に入り1943年(昭和18年)8月1日前述の如く独立を見たのであります。
「ビルマ」民族がその独立を如何に熱望して居たかは同年11月6日の大東亜会議に於ける「ビルマ」国代表「バー・モウ」氏の演説の中に明らかにされて居ります。その中の簡単な一節を引用しますれば次の如く言っております。(法廷証第二三五三号)
『僅に1600萬の「ビルマ」人が独力で国家として生まれ出づるために闘争し他時は常に失敗に終わりました。何代にも亘って我々の愛国者は民衆を率い打倒英国に邁進したのでありますが我々が東亜の一部に過ぎないこと、1600萬人の人間がなし得ないことも10億の「アジア」人が団結するならば容易に成就し得ること此等の基礎的事実を認識するに至らなかった我々の敵に対するあらゆる反抗は仮借することなく蹂躙されるのであります。
斯くて今より20年前に起った全国的反乱の際には「ビルマ」の村々は焼払われ婦女子は虐殺され志士は撲殺され或いは投獄され又は追放されたのであります。然し乍ら此の反乱は敗北に終わったとは言へ此の火焔は「ビルマ」人全部の心中に燃えつづけたのでありまして、反英運動は次から次へ繰り返され此のようにして闘争は続けられたのであります。
而して今日漸くにして遂に我々の力は壹千六百萬の「ビルマ」人の力のみでなく十億の東亜人の力である日が到来したのであります。即ち東亜が強力である限り「ビルマは強力であり不敗である日が到来したのであります」と。
〔フィリッピン国の独立〕
(B)次は「フィリッピン」国の独立であります。
1943年(昭和18年)10月14日、日本は「フィリッピン」に対し全国民の総意によるその独立と憲法の制定とを認めました。(弁護側証二八一〇号) 又同日之と対等の地位に於て同盟条約を締結しました。(弁護側証二八一〇号)
又之と対等の地位に於いて同盟条約を締結いたしました。その第一条に於て相互に主権及び領土の尊重を約しました。右の事実及び内容は弁護側第二七五六号の通りであります。元来『フィリピン』の独立に関しては太平洋戦争開始前米国は比島人の熱望に応へ1946年7月を期して独立せしむべき意思表示を行っております。
我国は開戦まもなく1942年(昭和17年)1月22日の第79議会に於て比島国民の意思の存するところを察し、その独立を承認すべき意思表示をしました。(法廷証一三三八号)
而して1943年(昭和18年)1月第81帝国議会で之を再確認しました。(弁護側証第二七一一号)
次で更に同年5月私は親しく比島に赴きその民意のある処を察し、その独立の促進を図り、同年6月比島人より成る独立準備会に依り憲法の制定及び独立準備が進められました。
斯くして1943年(昭和18年)10月14日比島共和国は独立国家としての誕生を見るに至ったのであります。
而して比島民族の総意に依る憲法が制定せられ、その憲法の条章に基き「ラウレル氏」が大統領に就任したのであります。又、日本政府は「ラウレル氏」の申出に基きその参戦せざること及軍隊を常設せざることに同意しました。
以上を以て明瞭なる如く日本は比島に対し何等領土的野心を有して居らなかったことが明らかとなるのであります。
〔泰國との関係〕
(C)帝国と泰国との関係に於ては 太平洋戦争が開始せられるる以前大東亜政策の趣旨の下に平和的交渉が進められ、
その結果
(1)1940年(昭和15年)6月12日日泰友好和親条約を締結し(法廷証五一三号)
(2)1941年(昭和16年)5月9日保障及政治に関する日泰間議定書を締結し(法廷証六三七号)相互に善隣友好関係、経済的緊密関係を約しました。
以上は太平洋戦争発生以前日泰両国間に平和的友好裡に行われたのであります。
而して太平洋戦争後に於ては更に
(1)1941年(昭和16年)12月21日、日泰同盟条約を締結し(弁護側証第二九三二号)東亜新秩序建設の趣旨に合意し相互に独立及主権の尊重を確認し且つ政平的軍事的相互援助を約しました。
(2)更に1942年(昭和17年)10月28日には日泰文化協定を締結し(弁護側証第二九三三号)両民族の精神的紐帯を強化することを約しました。
(3)1943年(昭和18年)8月20日帝国が「マレー」に於る日本の占領地域中の旧泰国領土中「マレー」四州即「ベルリス」「ケダー」「ケランタン」及び「トレンガン」並に「シャン」の二州「ケントン」「モンパン」を泰国領土に編入する条約を締結したのであります。(弁護側証第二七五九号)
此の旧泰国領土編入の件は内閣総理大臣兼陸軍大臣たる私の発意によるものであります。
此の処置は昭和18年5月31日午前会議決定大東亜政策指導大綱に基き行ったものでありまして(此決定の原本は今日入手不能弁護側証二九二二号)
同年7月5日私の南方視察の際、泰国の首都訪問に際し「ピブン」首相と会見し日本側の意向を表明し両国政府の名に於いて之を声明したのであります。
元来泰国に譲渡するのに此の地域を選びましたのは泰国が英国に依り奪取せれた地域が最も新しき領土喪失の歴史を有する地域であるがためであって其他の地域の解決は之を他日に譲ったのであります。
本来此の処置については当初は統帥部に反対の意向がありましたが私は大東亜政策の観点より之を強く主張し、遂に合意に達したのであります。帝国の此の好意に対し泰国朝野が年来の宿望を達しその歓喜に満てる光景に接し私は深き印象を受けて帰国しました。
帰国間もなく本問題の解決を促進することにいたしました。
1943年(昭和18年)11月6日の大東亜会議に於て泰国代表「ワンワイ・タイヤラコン」殿下は之につき次の如く述べて居ります。(法廷証第二三五一号中)」
『日本政府は宏量、克く泰国の失地回復と民力結集の国民的要望に同情されたのであります。
斯くて日本政府は「マライ」四州及「シャン」2州の泰国編入を承認する条約を締結されたのであります。これは実に日本国は泰国の独立及主権を尊重するのみならず、泰国の一致団結と国力の増進を図られたことを証明するものでありまして、泰国官民は日本国民に対して深甚なる感激の意を表する次第であります。』と。
もって泰国のこれに対する熱意を知るとともに帝国に於ては占領地域に対し領土的野心なきことの明白な証明であります。
本条約に関する1943年(昭和18年)8月18日枢密院審査委員会の審査に於ては占領国の占領地に対する領土権の有無につき質問応答が交わされました。(法廷証一二七五号)
右に関する法理的見解は森山法制局長官をして答弁せしめた通りであります。条約案も此の見解の如くに起案されて居ります。
私の発言として右筆記録に記載されてある点は私が軍事的政治的見地よりする率直且素朴なる確信を披歴したものであってその末段に於て条約第1条第2条に於ては無用の摩擦を避くるために斯る表現を為したるなりと述べたのは軍事的政治的の素朴なる独自の心持を表現せず前期の法理的表現を採用せる旨を述べたものであります。
之を要するに本条約の取り扱いは国際法違反と考へて居りませぬ。而も本措置は此の占領地を自国の領土に編入するものではなく、泰国の福祉のため其の全て英国に依り奪取せられたる旧領土を泰国に回復せんとする全く善意的のものであり且之が東亜の平和に資するものであります。
当時此の措置を為すに當り、もって居った私の信念を率直に申せば、1940年(昭和15年)12月独「ソ」間に「ポーランド」領を分割し国境の確定を為せる取り決めが行われたること 又1940年(昭和15年)6月『ソ』連が「ルーマニア」領土の一部を併合したことを承知して居りました。
此等の約定が秘密であると公表されたるものであるとに拘わらず条約即ち条約であり共に国際法の制約の下に二大国家間に行はれたる措置なりと承知して居りました。
なほ日泰条約は戦争中のものであります。
而して日本としては戦争の政治的目的の一は東亜の解放でありました。
故に私は此の目的達成に忠ならんと欲し何等躊躇するところなく東亜の解放をドシドシ実行すべきであると考へたのであります。即ち独立を許すべきものには独立を許し自治を與ふべきものには自治を與へ失地を回復すべきものには失地を回復せしむべきであるとの信念でありました。此等のことは戦後を待つ必要もなく又之を欲しなかったのであります。
なほ終戦後左記の事実を知って此の間の措置が国際法に毫末も牴触せざることを私は更に確信しました。
即ち
(1)1943年(昭和18年)11月米、英及び重慶政府間の「カイロ」会議に於て未だその占領下にもあらざる日本の明瞭なる領土中、台湾、澎湖島を重慶政府に割譲するの約束がなされました。
(2)1945年(昭和20年)2月ヤルタ協定に於て是亦未だ占領しあらざる日本領土である千島列島及樺太南部を「ソ」聯に割譲することを米、英「ソ」間に約定せられ、而も他の条件と共に之をもってソ聯を太平洋戦争に参加を誘ふ具となしたのであります。
斯の如き措置は国際法の下に大国の間に行われたのであります。私は此等により日本の先に為した措置が違法にあらざる旨の確信を得て居ります。
〔蘭領印度〕
(D)蘭領印度に対しては現地情勢は尚ほ其の独立を許さざるものがありましたので、不取敢、私は前期昭和18年5月31日御前会議の決定「大東亜政策指導大綱」に基き内閣総理大臣として1943年(昭和18年)6月16日第82回帝国議会に於て其の施政演説中に於て(弁護側証第二七九二)
「インドネシア」人の政治参與の措置を取る方針を明らかにし、之に基き、現地当局は、之に応ずる処置をなし、政治参與の機会を與へ増した。而して東條内閣総辞職後日本は蘭印の独立を認める方針を決定したと聞いて居ります。
さる1947年(昭和22年)3月7日証人山本熊一氏に対する「コミンス、カー」検事の反対尋問中に証拠として提示せられたる日本外務省文書課作製と称せらるる 『第二次世界大戦中ニ於ケル東印度ノ統治及帰属決定ニ関スル経緯』(法廷証第一三四四号検察番号第二九五四号)に
1943年(昭和18年)5月31日御前会議に於て東印度は帝国領土へ編入すべきことを決定したと述べて居ります、昭和18年5月31日の御前会議に於て蘭印東印度は一応帝国領土とする決定が為されたことは事実であります。
此等地方の地位に関しては、私を含む政府は大東亜政策の観点より、速かに独立せしむべき意見でありましたが、
統帥部及現地総司令部並に出先海軍方面に於て、戦争完遂の必要より過早に独立を許容するは適当ならずとの強き反対があり、議が進行せず他面「ビルマ」「フリッピン」の独立の促進及泰国に対する占領地域の一部割譲問題等政治的の急速処置を必要とするものあり、止むを得ず、一応帝国領土として占領地行政を継続し置き、更に十分考慮を加へ且爾後の情勢を見て変更する考えでありました。
これで本件は特に厳秘に付し現地の軍司令官、軍政官等にも全く知らしめず、先ず行政参與を許し其の成行を注視すると共に本件御前会議決定変更の機を覘って居ったのであります。
即ち1943年(昭和18年)5月31日御前会議決定時に於ても此等の土地の永遠に帝国領土とするの考へではありませんでした。
此の独立のための変更方を採用する前に私どもの内閣は総辞職を為したのでありました。
小磯内閣に於て「インドネシア」の独立を声明しましたが私も此の事には全然賛成であります。
〔自由印度仮政府の誕生〕
(E)帝国政府は1943年(昭和18年)10月21日自由印度仮政府の誕生を見るに及び10月23日に之を承認しました。
右仮政府は大東亜の地域内に在住せる印度の人民を中心として「シュバス・チャンドラボース」氏の統率の下に印度の自由独立及繁栄を目的として之を推進する運動より生まれたのであります。
帝国は此の運動に対しては大東亜政策の趣旨よりして印度民族の年来の宿望に同情して全幅の支援を與へ増した。
なほ1943年(昭和18年)11月6日の大東亜会議の機会に於て我国の当時の占領地域中唯一の印度領たる「アンダマン、ニコバル」両諸島を自由印度仮政府の統治下に置く用意のある旨を声明しました。(弁護側証拠第二七六〇号-E) 是亦我が大東亜政策の趣旨に基き実行したものであります。
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〔大東亜会議〕
大東亜政策として外に対する施策の第三である大東亜会議は、日本政府の提唱に依り1943年(昭和18年)11月5日、6日の両日東京に於て開催せられました。
参会した者は中華民国代表、同国民政府行政委員長汪兆銘氏、
「フィリッピン」代表同国大統領「ラウレル」氏、
泰国代表、同国総理大臣「ピブン」氏の代理「ワンワイタラヤコン」殿下、
満州国代表、同国務総理張景恵氏、
「ビルマ」代表、同国首相「バーモー」氏
及び日本国の代表、内閣総理大臣である私でありました。
此の外に自由印度仮政府首班「ボース」氏が陪席しました。而して本会議の目的は大東亜新秩序の建設の方針及び大東亜戦争完遂に関し各国間の意見を交換し隔意なき協議を遂ぐるに在りました。
此の会議の性質及目的に関しては予め各国に通報し、その検討を経且つ其の十分なる承諾の下に行われたのであります。
私は各国代表の推薦により議長として議事進行の衝に当たりました。
会議第1日 即11月5日には各国代表がその国の抱懐する方策及び所信を披歴しました。
第2日即ち11月6日には大東亜共同宣言を議題として審議し其の結果満場一致を以て之を採択しました。
之は証第一三四六号の通りであります。
ここに関係各国は大東亜戦争完遂の決意並に大東亜の建設に関してはその理想と熱意につきその根本に於て意見の一致を見、大東亜各国の戦争の完遂、及大東亜建設の理念を明らかにしたのであります。
次に満州国の代表張景恵氏より此の種の会合を将来に於ても随時開催すべき旨提議がありました。
「ビルマ」代表「バーモー」氏より自由印度仮政府支持に関する発言があり、之に引続きて自由印度仮政府首班「ボース」氏の印度独立に関する発言がありました。
私は「アンダマン、ニコバル」両諸島の帰属に関する日本政府の意向を表明しました。(弁護側証二七六〇-E)
斯くして本会議は終了しました。
本会議は強制的のものでなかったことは、その参集者は次のやうな所感を懐いて居ることより証明ができます。「フイリッピン」代表の「ラウレル」氏はその演説中に於て次の如く述べて居ります。
曰く『私の第一の語は先ず本会合を発起せられた大日本帝国に対する深甚なる感謝の辞であります。
即ち、此の会合に於て大東亜諸民族共同の安寧と福祉と諸問題が討議せられ又大東亜諸国家の指導者各閣下に於かれましては親しく相交わることに依りて互いに相知り依て以て亜細亜民族のみならず、全人類の栄光のために大東亜共栄圏の建設及之が恒久化に拍車をかけられる次第であります。』(法廷証二三五二)と申して居ります。
又会議に陪席せる自由印度仮政府代表「ボース」首班の発言中には『本会議は戦勝国の戦利品』の分割の会議ではありません。それは弱小国を犠牲に供せんとする陰謀謀略の会議でもなく、又弱小なる隣国を瞞着せんとする会議でもないのでありまして此の会議こそは解放せられたる諸国民の会議であり且正義、主権、国際関係に於ける互恵主義及び相互援助等の尊厳なる原則に基いて世界の此の地域に新秩序を創建せんとする会議なのであります。』(法廷証二七六〇-D)といって居ります。
更に「ビルマ」代表「バーモー」氏は本会議を従来の国際会議と比較し次の如く述べて居ります。
曰く
『今日此の会議に於ける空気は全く別個のものであります。此の会議から生まれ出る感情は如何様に言ひ表はしても誇張し過ぎることはないのであります。多年「ビルマ」に於て私はアジアの夢を夢に見つづけて参りました。
「私のアジア」人としての血は常に他の「アジア」人に呼びかけてきたのであります。昼となく夜となく私は自分の夢の中で「アジア」はその子供に呼びかける声を聴くのを常としましたが今日此席に於て初めて夢に非ざる「アジア」の呼声を聞いた次第であります。我々「アジア」人は此の呼声、我々の母の声に答へてここに相集ふて来たのあります。』と (法廷証二三五三号)