日本の心

激動する時代に日本人はいかに対処したのか振りかえる。

笠井 孝著『裏から見た支那人』序に代へて 、緒言

2024-02-17 22:35:39 | 中国・中国人

  
 笠井 孝著『裏から見た支那人』  

 序に代へて 

一 本稿は支那人、特に支那の主要民族たる漢民族の特質を、拾び上げたものであって、
就中その悪徳方面のみが、多過ぎる嫌びがないでもない。
素より支那人にも美點はある。

 併しながらそれあるが故に、その悪徳方面を見逃がす譯には行かない。
そこで私は、この方面について、私の體驗を、極めて率直に記述した次第である。

 
ニ 満洲の漢人と、支那本土の漢人とは、
血族に於いても、性格に於いても、多少の差異はあるが、
満洲國が出來たからとて、その爲め満洲の漢人だけが、
一躍美化された譯ではないから、本記述は、この點にも取捨をして居ない。


三 本稿は主として昭和五、六年の頃、
業務の餘暇を以って、已に記されありしものを蒐集して、
随筆的に書き改めたもので、内容の檢討、記述の整理共に不十分ではあるが、
過去多年に互り、洽く出先きの者の實地體験せる報告を基礎とし、
これに筆者の十数年間に滿喫せしめられた實例や、
支那人から飲まされた煮え湯の味感やらを、加味して記述したものである。
 
 恐らくは大多数の者な
「イクラ支那人たって、マサか斯んなんではあるまい、支那人だって人間である」と、
御考への向もあることであらう。それはそれで宜しい。


四 併しながら、やがて幾年かの後に、
諸君が支那人と死生を共にし、利害を共にしようとして、
幾度か鮮やかに背負い投げを満喫せしめられた時に、
この小冊子を鐇もかれたならば、
思はす小膝を叩いて「ナール程」と三嘆せられる場合があり得ると、私は確言して置く。
 

五 行文拙、爲めに意到らず、
往々にして徒らに支第人の悪徳汚點だけを摘發物するに却って感情的に過ぐるやに思はれる點さへあり、
支那人の美點を賞める暇のなかったことを、御詫びすると共に、
他日続編に於いて、支那人の美點を褒める機会を、
特ちたいものだと念じて居る。
従って本第な、云はばその前編である。

                               著者誌

 

 

緒言
  謎の支那 
  ・・・・・支那は国家にあらず
  ・・・・・日支は兩立せず
  ・・・・日支親善は大馬鹿
  ・・・・・同文同種は愚案也

 華府會議に於て佛國代表ブリアンは
『支那とは何ぞや』と云ふ謎の様な疑問を舁ぎ出したが、
確問題に如何にも認識不足であり、また如何にもアヤフヤであったのはマダしもであるが、
お隣りの日本人も、また支那の實體を、究明することが、如何にも不十分ではあるまいか。
 
 日本人は、従来口を開けば、直ちに日支共存共栄を唱へ、同文同種を振りかざし、
 或いは日支の黄色同盟を唱へるものすらあるが、
これまた支那に對するベラボウな認識不足と云はなければならぬ。
 
 外國育ち似而非支那人孫中山が、
三民主義の大旗を振りかざして、中華民族の革命を提唱するや、
恰も新興支那人の復活であり、明治維新の再来ででもあるかの如く、
支那革命に瑞気の涙を流した日本人も、決して少くはなかった。
 
 併し私をして言はしむれは、
如上の支那観は、憐れむべき謬れる支那観であって、
支那の主要民族たる漢民族の性情を知らず、
世界文化のバチルスである漢民族の暗黒性状を、顧慮外に置いたものであり、
結局は日本人の支那に對する研究不足に出発して居るものであると言はねばならぬ。
 
 私をして忌憚なく云はしむれば、
漢民族は四千年来のスレッカラシであり、
頽廃民族であり、
従ってまた支那は、東亜平静の癌である。
 
 支那は一つの社會ではあるが、國家ではない。
少くとも近代組織の法治國と見做すべき國ではない。

 或いは寧ろ支那は、匪賊の社會であると云った方が、適評である。
然して土匪、政匪、學匪これ等は支那に横行するパチルスである。
 
 日支共存共栄など云ふことは、
複雑なる漢民族の心理状態から見れば、
實に嗤ふべき口頭禅であるに相違ない。


物質の貧弱な日本が、物質の豊富な支那に對し、
 文化の貧弱な東夷日本が、文化の優れた大中華に對する欲求から出た叩頭である』と
見るのが彼等であり、
且また支那人固有の道徳観念、ならびに心理状態から割出たされた日支親善観
なのである。

 然して
『日本は貧乏で、支那に求むるところあるが故に、親善を云ふのである。
 日本のやうな小國は、嚇しつけてしまへば、譯なくヘコムだろう』と考へて、
 持ち出されたのが、すなはち、数年前の排日運動である。 


 自尊と自惚れと、利害打算の排日は、恐らく今後も永久的であると見るべきであらう。
 永久の排日と、日支の共存共栄? 
それは餘りにも解決の困難なる、然して到底兩立すべからざる二つのテーマではある。

 昨今の言葉を借りて言へば、
満蒙は日本の生命線であり大日本の死活問題であらうが、
併し満州全土にも匹敵すべき、然して日本の26倍にも相當すべき四百餘州の大地域と、
多大なる物資とを擁して、支那第大陸に頑張って居るものは、漢民族である。

 従って漢民族との関係を調整せずして、満蒙を語ることは、末葉である。
然もこの民族の複雑なる、多面的の心理状態と、その傳統的以夷制の政策とは、
永久に日本と兩立すべからざるものがある。

 この故に支那に對する穏和主義、叩頭主義をカナグリ捨てて、
新たなる立場に於て、日本の死活問題を考へ、
新アジアの行途に立脚して、
冷静にこの民族を研究し、冷静にその對策を講ずることこそは、
日本刻下の急務
であらねばならぬ。

 この意味に於て、私は次に忌憚なき漢民族の内幕を、解剖して見ようと思ふ。
これやがて日本の執るべき對支政策の基調とり、
また對支發展の礎石ともなるべきものである。

  



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