頭山満 述 西郷隆盛(3)
俊傑、四人兄弟
大西郷は四人兄弟ちゃ。
長兄が南洲、次が吉次郎、その次が愼吾、その次の四男が小兵衛である。
二番目の吉次郎は餘程の傑物であったらしい。
惜しいことに、島羽の戦ひで戦死した。
その時、大西鄕が大いに其死を惜しみ、泣いたそうぢゃ。
さうして出來ることなら愼吾と代らせてやりたかったと殘念がったそうぢゃが、代らせてやりたかった、その愼吾が、後年、日本になくてはならぬ、國の桂石たる、西郷從道となったのだから、惜まれた、吉次郎は餘程の人傑であったことは想像がつく。
兄弟四人、人傑揃ひであった。
從道の愼吾が大西郷にえらく叱られたことがある。
気を利かせたつもりで、五百圓で家を建てて失策ったのぢゃ。
大西郷は、實に簡單な人で、金のいらぬ人ぢゃ。浴衣の着代へ一枚持って居らん。
無論住む家なども考へても居らんのに、從道が氣を利かせて、家を建てたので、大西郷は大いに怒って怒鳴りつけたさうぢゃ。いつでも死ぬ用意をして居る身體に家などがいるものかと言うて手嚴しく叱りつけたさうぢゃ。
又大西郷が、明治政府に居った頃、英國公使・ハーグスが、大西郷の家を訪ねて、其簡素なのに驚いたそうぢゃ。
パークスが訪問した時、門前で草取りして居る大兵の書生があった。
近づいて見るとそれが當の主人の大西郷であったので、先づ面喰った。
案内された家が、實に、簡素なので二度ビックリしたさうぢゃ。
萬事がこんな風で、粗朴、簡潔であったのぢゃ。
「我家遺法人るや否や皃孫の爲に美田を買はず」の詩の通りぢゃ。
征韓論の眞相
大西郷は征韓論に破れたとよく言ふが、さう言ふ譯ぢゃない。
あの頃、日本政府が歐米諸國に脅かされてをるのを見て、韓国では、日本を西洋の奴隸の如く心得、西洋の奴隷に、韓國の土を汚さ亡る譯にいかんと言ふので、例の大院君が「日本人は洋人と交通し、夷狄の民と化したるを以て、自今日本人と交るものは死刑に處す」と言ふが如き、無禮の排外令を出し、あまついさへ、在韓國、日本人全部の引上げを要求したのぢゃ。
そこで、大西鄕が、出かけて行って判るやうにする、意氣込んだのぢゃ。
彼の頃の人物、木戸も岩倉も三篠も、相當のものだが、議論では、板垣(退助)が一番出して居った。
板垣の意見では、岩倉や、大久保などの西洋かぶれの意見に対し、「近い隣同志の國の始末さへつかんのに、西洋の眞似ばかりすると言ふことがあるか。
先づ以って、近い隣り同志の、韓國や支那との折合ひをつけにやいかん」と言ふのだ。
大西郷も全くこれと同意見ぢゃ。
但し、ヤの南下は手厳しくやつつけねばならぬと言のであったさうして、韓や、支那とは、仲よくしようと言ふのちゃ。併し西鄕の言ふ通りに、若し西郷を韓國にやったらどんなことになるか判らん。
是非、西郷が行くと言ふなら、護衛の名義で、兵を附けてやらう、と言ふ意見もあったと言ふが、大西郷は笑って、「兵隊など附けて貰ふても、おいどんは戦は下手ぢゃ。
なんの、韓國位に出かけるのなら、竹の杖一本と、薬草履一足の外別段何もいり申さん。きっと譯の判るやうにしてみせる」と意気、軒昂たるものがあったそうぢゃ。
併し一部の反對で到頭成り立たなかったのは遺憾ぢゃ。
大陸經營の泰斗
大西郷は、我國、大陸経營の泰斗だ。日本民族發展の一大象徴だ。
近頃、大東亞共榮圏だの、大東亞建設だの、色々と新しい言葉が出来るが、大西郷はすでに遠く百十年の昔、日本民族展の基地として大東洋主義の具現、皇道大亞細亞の建設を實踐せんとしたのた。
それがために、韓國と支那と善隣し、露西亞の南下を抑へ、止むを得ざれば之を撃ち、日本精神の殿堂を大東亞に打ち建てようとしたのだ。
大西郷が、征韓の正論を主張し、太政大臣三條に迫った際の、大陸経營意見書と言ふやうなものが、内閣記録として遺ってをると云ふことを誰か言うて居った。
その一節に何んでも、
「太政大臣な篤と聞いて下され、今の太政大臣な、昔の太政大臣でなく、王政復古、明治維新の太政大臣でごはす。
日本を昔からの小日本で置くも、大神宮の神勅の通り、大小、廣狭の各國を引寄せて、天孫のうしはき給ふ所とするも、皆おはんの双肩にかかって居り申すでごはす。
日本も此儘では何時までも島國日本の形態を脱することは出來申さぬ。今は好機會でごはすので、歐羅巴の六倍もある亜細亜大陸に足を踏み入れて置かんと、後日、大なる、憂患に遇ひ申すぞ。
朝鮮と清國とは、こけ威しで決して恐るるに當り申さん。露西亜は國民の耳目を外国にそらさんことを終始致し申さんでは、自己の身體が危いでごはす。
大兵を出して我日本を、征するなんちうことは迚も出來申さん。
今おいどんが言ふ事を聽きにならんと、後日、此倍も又その倍も骨が折れ申す。さうしてどう骨折っても、おいどんが今言ふことをせんばならんどうごはす。どうでもこうでも日本の神慮大職でごはすけん、結局、朝鮮を外垣として、後に朝鮮を策源地とし申して、魯西亞と手を引き合ふ事になり申す。
然し一度は戦爭をし申さんと、相手の事情も結極本當に呑み込み申さんから、假令仲好くなり申しても、皮相の同盟で、誠意の同盟は出來まつせんから一寸の利害ですぐ崩れ申すぞ。此通りになり行くことは、既降盛が判断したことではなか。實は、天祖の御神旨、日本の國令が此通りでごはすから、いやでも遲かれ左様なり行き申す。
おはんは、おいとんより、年下ぢやけん、おいどんより後に生き残りましようで、只今申した事はよう覺えちょって下され。云々」
と言ふやうな意味で痛烈に訓へてをる。
仲々痛快ぢゃ。今より数十年以前に、きつばり言ひきったものだ。其達識と明察に驚くではないか。
又、大西郷が、征韓論を提唱する迄には、實に眞摯なる省察と周到なる用意があった。
大西郷は、これより早く、復心の府介、北村重賴を韓國に派遣し、著く鷄林八道の實状を踏査せしめ、同時に同じく門下の池上四郎、武市熊吉等を、滿洲地方に出向かせ、朝鮮と支那と而して露西亞との、関係を精査、考究せしめ、更に又、板垣(退助)、伊知地(正治)等にをを含めて作載を樹てさせてる。
一方外務卿副島(種臣)は、清及び露との折衝に對する準備をしてをるなど、誠に重を極めて居ったのだ。
これ等は言ふまでもなく、ロシヤ並に西歐諸国の暴慢と其侵略とに備ふるのみならず、進んでで、我肇園の大精神を具現する爲め、大陸進出の第一段階を作る爲めであつたのだ。
大西郷を以て皇道亞細亞の建設、日本民族發展の表徴と言ふのは此のことだ。
大西郷の主張通り、日本の大陸進出が實行されて居ったならば、今少しく我國の犧牲を少くして、日本の大飛躍の機會を早めて居ったに違ひない。即ち、大東亞の建設が一世紀前に其緒について居ったことと思ふ。
況んや、大西郷の経綸が用ひられなかった爲、大西郷の最期を早めたことを思へば、惜しみても猶餘りあることぢゃ。
併しながら遅れたりと雖も、御稜威の下大東亞戦争の赫々たる戦果が着々具現せられつ、あり、大東亞の建設を見ては、地下の靈も定めし満足であらう。