陶芸みち

陶芸のド素人が、その世界に足を踏み入れ、成長していく過程を描いた私小説です。

その133・合理

2010-05-17 09:11:31 | 日記
 炎が大きくなると、燃料の供給も急を要してくる。今までに体験してきたマキ窯焼成は、かたわらに山と積み上げられた割り木をポイポイ放りこんでいくだけで事足りたが、若葉家の窯焚きはそれほどお手軽ではない。マキ小屋に転がっているのは「マキ」ではなく、輪切りにされた丸太なのだ。こいつを片っぱしからオノで断ち割りつつ、窯を焚かなければならない。つまりマキの生産と消費が同時進行なのだ。在庫ゼロのかんばん方式。せわしないったらない。かぶと窯はいつまでたってもオレたちを肉体労働から解放してはくれない。しかしそれがあってこそ、やり甲斐と、作品を手にしたときの喜びがあるというものだ。徹底的に現代の利便性を排除し、古代の作法に帰ろう、というのが太陽センセーの理念なのだ。
「古来のものをこしらえるには、古来の装置のメカニズムを思い起こすんじゃ。なぜ窯がその場所に築かれ、なぜ炉内のその位置に柱があり、なぜ棚板やツク(棚組みをするときの支柱)がその形状であり、なぜその燃料を用いなけれなければならなかったのかを考えねばならん。窯の傾斜、風向き、湿気、道具の寸、マキの種類・・・それらはすべて偶然ではなく、意図されたものなんじゃ。合理なんじゃ」
 だからその頃のやり方をそのまま再現してみる。それこそが、当時の技術を探る最良の方法であり、当時の陶工たちの心の内を知る最大の術なのだ。上手な焚き方は最新の情報をひもとけば簡単にわかる。効率的に温度を上げるには最新式の窯の構造を写し取ればいい。上質な炎を得たければ高価な燃料を使えばいい。しかしセンセーは、もっと深い部分を掘り起こそうと考える。どれだけ理詰めで最高のものを用いようと、当時のように焼きあげることはできない。だからこそ、非効率でも桃山時代式のやり方にこだわるのだった。彼らは粗末な窯で焚いていたのだから。雑木を焼いていたのだから。

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園