陶芸みち

陶芸のド素人が、その世界に足を踏み入れ、成長していく過程を描いた私小説です。

その130・ネコ移送

2010-05-13 09:10:35 | 日記
 運びこまれた材木は、たちまち中庭に小山を築いた。雨が本降りになる前に、今度はそれを山の上のマキ小屋に移さなければならない。運搬には、工事現場で砂利を運ぶときに使う「ネコ」と呼ばれる一輪の台車が役立った。これも若葉家の中庭に落ちていた。この庭はまるで、欲しいものがなんでも出てくるドラえもんのポケットなのだ。
 輪切りの材木を、一輪車に載せられるだけ載せてロープで結わえつけ、それを後ろから押す者、サイドから支える者、上からロープで引っぱり上げる者の三人がかりで山道を運び上げる。
「せーのっ!」
で、満身の力をふりしぼる。湿気を帯びた木塊は岩のように重い。一瞬でも気をゆるめると、一輪車はいっきに何メートルも後退し、あらがいようもなく横転した。ぬかるみはタイヤをくわえこみ、濡れ落ち葉で足もとはつるつるとすべる。肩を濡らす雨は、からだの熱気でたちまちもうもうとした湯気になった。
「はあ、はあ・・・」
「ぜえ、ぜえ・・・」
 三本ほどの丸太をようやく運び上げ、束の間、荒い息をととのえる。これほどしんどいとは思わなかった。この調子でピストン輸送など、正気の沙汰ではない。一回の登攀だけで、全体力を使い果たしてしまうのだ。
ーほんとにこんな原始的なやり方しかないのか・・・?ー
 素朴な疑問が頭をよぎるが、言葉にはしない。弱音を吐いたら負けだ。カラの一輪車は休むことなく山をくだり、再び満載されて山をのぼる。
 こんな往復運動を、日が暮れるまでくり返した。体力は常時エンプティだったが、休みたいとは言いだせなかった。それは、となりで青筋を立てるオオアリクイたちが、その言葉を決してこぼさなかったからでもある。バカは伝染するものなのか。一歩、一歩と足場をさがし、疲労困憊でガクガク震えるつま先を山肌に立て、パンパンに張った腕で一輪車を押すしかない。仕方なくのぼり、仕方なくくだり、仕方なく満身の力をふりしぼる。
 ついに最後の荷が山をのぼり終えたとき、小屋は、見上げるほどの材木を飲みこんで満杯状態となっていた。オレはほっとして、雨上がりの草っぱらに突っ伏した。食いしばっていた歯をほどいたら、もう、立ち上がるほんの少しの力も残っていなかった。他の連中もそうだったが。

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園

その129・代々木くん

2010-05-12 09:41:37 | 日記
 さて、幸いにも材木は近くの産業廃棄物処理場で分けてもらえることになった。オレたちは、知り合いから徴用した軽トラの荷台に乗りこみ、いそいそと現場に参上した。そこには、昭和時代に電柱として活躍したとおぼしき丸太や、巨大な建築廃材が野積みにされていて、まるで宝の山だった。
 冷たい小雨そぼ降る中、すぐさま作業をはじめた。丸太の山から程度のいいものを運びおろす係と、それをチェーンソーで適当な長さに断裁する係、それをまたトラックに積み上げ、若葉邸までピストン輸送する係にわかれ、てきぱきと仕事をこなす。役割分担とはいえ、たった四~五人しか人手がない。あっちに狩り出され、こっちに力を貸し、結局走りまわることになる。しかし窯づくりで心をひとつにした者たちのチームワークは、ここにきて成熟していた。
 ここでアカギの他にもう一人、重要な人物を紹介しておかなければならない。「代々木くん」というオロカ者だ。登り窯づくりの初期段階から参加している、訓練校製造科の出席番号13番氏は、四角形だけで構成された無骨な体躯を持つ33歳。顔のパーツが中央にかたよって、常にすっとぼけた表情をしている。肩にハンガーを入れっぱなしのようないかつさと相まって、オオアリクイそっくりの風貌だ。昼休み野球部では破壊的豪打者であり、学校の外では空手家でもある。それでいてだれとでもあたたかく触れ合える、愛すべきおっちょこちょい男。それが代々木くんだ。
 また入校早々、空手道場でいきなりろっ骨を骨折、数日後には前歯を数本折り、それが癒えるとすぐに蹴つまずいて足を骨折するというツイていない男でもあった。不吉の出席番号・13番はダテではない。しかし松葉杖生活をしながらもろくろを挽きつづけ、週末には爆音を轟かせるバカ改造車(こんなキャラばっかで申し訳ない)で山を越えて登り窯づくりに通いつめるという根性も持ちあわせている。彼はのちにもっと大きなケガを負うことになるのだが、それは持ち前のやる気とおっちょこちょいが連動して引き起こす、最悪の事件なのだった。
 その話は後述するとして、代々木くんのバカ力と意外な器用さ、几帳面さは、窯づくりの大きな戦力となっていた。オレたちは協力して丸太をかつぎ、輪切りにし、トラックに積みこんで、せっせと若葉邸に運んだ。

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その128・マキ小屋

2010-05-11 18:26:45 | 日記
 作品ができても、窯を焚く前に準備すべきことはまだまだある。窯に火を入れるには、マキ(割り木)を用意しなければならない。しかし若葉家では、マキのために金を使ったりなどしない。タダの材木をさがしてきて、人力でいちいち切って、割って、マキにするのだ。材木を確保するには木の持ち主との交渉が必要で、さらにそれをもらい受けたとしても、窯場の敷地内にストックする場所が必要だ。そしてストック場には、雨露をしのぐ屋根が必要で・・・と、気の遠くなるような逆算の論法。要するに、また土木工事がはじまるのだった。
 タダの材木は皮算用するとして、まずはそれを運びこむ屋根小屋を建てる。ちょうど窯の横におあつらえ向きのフラットな場所があったので、利用することにした。竹をなぎ倒し、雑草を刈り、平らに整地し、スペースを確保する。あとは屋根だが、もちろん材料確保も大工仕事も自分たちの役割だ。屋根は、四スミに柱を立て、梁をわたし、天井にトタンを打ちつけるだけの単純なものだ。オレたちはすでに、登り窯づくりと平行して窯を覆う掘っ立て屋根もつくっていたので、こんな仕事はお手のものだった。材料はすべて中庭に落ちている。・・・いや、保管してあったと言わなければ失礼だろうか。太陽センセーの驚くべき先見の明。こういった事態を見越して、すでにいろんなものが拾い集めてある。ただの趣味か、貧乏性の収集ヘキだと思っていたのは、とんだ見当ちがいだったようだ(そのセンも濃いが)。ガラクタの中から屋根の材料になりそうなものをせっせと選んでは、山道を運び上げ、てきぱきと屋根小屋をつくった。
 つづいて、眼下の公道から小屋につながるケモノ道を切りひらいて、マキ材を搬入する登攀ルートの足場を固めた。草も刈りこみ、デコボコもならし、台車がスムーズにのぼれるようにしなければならない。重大事の前には些末な付随作業が多いものだ。しかしこうして周到に準備を重ねるうちに、窯焚きへのモチベーションはつのっていく。

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その127・唐津絵

2010-05-10 05:54:27 | 日記
 センセーが描いてくださったのは、一枚きりだった。
「あとはここに手本がある。よう見て描くんじゃぞ」
 センセーの筆によるいくつかの唐津作品が目の前に陳列される。緊張。その心配りに、今度こそは、と気合いをみなぎらせた。しかし手本よりも、センセーが今さっき示してくれた、踊るような筆使いが目に焼きついて離れない。
ーそっか、一回きりしか見せてくれないのはこのためか?ー
 インフレ防止か、なるほど、と得心した。まぶたの奥の受像機が、筆の運びをはっきりと記録し、くり返し再生しつづける。この集中力を発揮させるための、一回きり、だったのだ。
 手本は頭の中にある。それを思い出しながら、筆を走らせた。素焼き済みの小皿に、鉄絵の具(「黒浜」という真っ黒な泥=磁鉄鉱)で、ススキや柳、梅などを描いていく。オレとて元全国区のマンガ家だ。画力で人後に落ちるとは思わない。しかし原稿用紙にペンを走らせることは雑作もないが、からからガサガサ素焼き生地の上に、泥のまとわりついた筆で画を描くのには苦労した。生地が水気を吸って、思うように筆先がすべらないのだ。しかし太陽センセーの絵は、実に奔放に、いきいきと線が伸びている。葉にしたたる露までが見えそうだ。勢いが生む生命感よ。
 天衣無縫の唐津絵は、心の内の表出でもある。上手に描こうと萎縮したオレのかたわらには、こざかしく縮こまったへっぽこ絵皿が山と積まれた。
「描けたか?」
 センセーにのぞかれ、さらに身が縮む。
「なんじゃこれは?ま、えーわい。できたら、庭にもってこいや」
 絵を描き終えると、今度は釉薬がけだ。太陽センセーお手製の唐津釉は、山中を探索して見つけだした長石や、自ら焼いた樹木の灰で調合された、秘伝のもの。バカ弟子のへっぽこ皿にまとわせるにはもったいないようなシロモノだ。なのにセンセーはそれを惜しげもなく使わせてくださった。素人の半年間の働きっぷりと勉強っぷりが認められたのだろうか?恐縮しきりだ。
 その期待に応えるためにも、今回の窯焚きは絶対に成功させたい、と思った。Fさんちの穴窯、越前の無量窯につづき、はや三度目のマキ窯焼成だ。要領はわかっている。自信があった。
 ところが、この「かぶと窯」は想像以上の難物だった。

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その126・プロセス

2010-05-09 06:02:01 | 日記
 不ぞろいで不格好な小皿が長板に並んだが、オレは新しい充実感を知った。つまり、作品の出来映えという「結果」ではなく、方法論を掘り起こす、あるいは編みだすという「過程」の重要性に気づいたのだ。学校では、体得した技術をどう生かして作品づくりを展開していくか、という順序で学んだが、センセーは逆に、イメージした作品にたどり着くにはどういう方法論を用いなければならないか、を考えさせてくれる。設計図から完成形をつくるのではなく、完成形から製法を導きだすのだ。それはまさに、つくり方が未解明な桃山時代の作品を追いかけ、迫ろうとするひとの考え方のプロセスだ。創作の感動は「?」からはじまるのだと、センセーは一枚の小皿を示して伝えてくださったにちがいない。その意を汲んで、悩みつつ、じょじょにつくり方を解明していき、三百の小皿を積みあげた。
 大量のブサイク作品の中からまあまあ恥ずかしくないものを選りすぐると、五十そこそこしか採れなかった。技術不足を痛感し、もっと精進せねば、と唇を噛みしめる。しかしその五十点を若葉邸に持ちこむと、センセーは「ヨシヨシ」と、目尻にほがらかなシワを刻んでくださった。
「今度はこれに絵付けをするんじゃ」
 唐津の鉄絵を伝授してくださるという。願ってもない。簡素にして奥深い味わい。バカバカしく思えるほどのヘタウマに趣きを見いだす「唐津絵」は大好きだ。勇んで筆を準備した。
「描いてみせよう」
 しっぽを振ってセンセーのすぐ脇に陣取り、手元を見つめる。
 さらさらさらっ。
 それでおしまい。キョトンとしているうちに終わってしまった。あまりにテキトー・・・いや、大胆な筆さばきだ。ハネツキで負けた弟の顔に落書き、あの感じ。ところがその筆致の末にできあがった絵は、実に力強く、深い。線のメリハリが効き、風になびく秋草ののびのびとした躍動感、またか弱さまでも表現している。緩急なのだ。

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その125・粘土づくり

2010-05-07 09:14:23 | 日記
 翌日から格闘がはじまった。センセーからいただいた土は、掘りざらしのパサパサざらざらな原土だ。まずはそれを粘土というブッシツにまで吟醸しなければならない。土を砕いてふるいにかけ、ゴミや小石を取りのぞき、さらに細目を通してサラサラのパウダー状にする。次に、作業台の上でパウダーの小山を築く。頂上に噴火口をうがち、その穴に水を打って湖をつくり、指先で混ぜながら水分を浸透させていく。そば打ちそっくりの作業だ。水がゆきわたってベタベタの泥になったところで、石膏の容器に移す。泥のままでは練りあげることができないので、2~3日かけて余計な水分を飛ばすのだ。泥が土っぽくなり、手で持てる程度までソリッドになったら練りごろだ。その頃にはバクテリアも旺盛に繁殖し、粘り気も出てくる。作業台をぐちょぐちょに汚しながらひたすら練りこみ、ねっとりとまとまってくるを待つ。練っていくうちにだんだん手応えが粘土っぽくなっていくのがわかる。こうなると土もお行儀がよくなる。菊練りをして円すい形にまとめ、もうしばらく寝かせれば、「アタイをろっくんと踊らせてよ~」とおねだりをする艶っぽい粘土のできあがりだ。
 何日か置き、可塑性を身につけて成形しやすくなった土をいよいよろくろにのせた。回して土殺しをすると、「美濃唐津」と呼ばれるその土は、さっくりとしながらも滑らかな指触りだった。
 試作がはじまった。ところがセンセーから下賜された手本の小皿は、難解なクイズのようだった。簡単につくれそうで、つくれない。高い技術が巧妙にかくされている。口べりの折り返しがなんともむずかしい。薄く挽ききってから円周部に手を加えると、ストレスの集中する腰(根っこ)がどうしてもひずんでしまう。指の操作方はなんとなく理解できるが、感覚は実際に数をこなさないとつかめない。例によって失敗作を山と積み上げ、試行錯誤をくり返した。すると、じょじょに構造がつかめていく。

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その124・小皿

2010-05-06 08:43:58 | 日記
「まてよ」
 と、ふと思いいたる。窯自体が作品であるわけではない。作品をつくるための装置を、オレたちはやっとつくったところなのだ。
「作品がねーや」
 窯が完成したうれしさのあまり、うっかり忘れていた。入れるべき作品をつくらねば。登り窯にふさわしい作品を。そして、焼かねば。それでこそ「つくりあげた」というべきだろう。
「小皿を挽くのじゃ」
 太陽センセーから課題を頂戴した。センセーは自作の小皿を見本として示し、陶芸家はこういったものを名刺代わりに配るとかっこええんじゃ、と耳打ちしてくださった。
 なるほど、これはシブい。一見、豆皿だが、杯にも使えそうな一品だ。手のひらにおさまるほどの小皿は、唐津風の鉄絵が大胆に描かれてしゃれている。形は、広くたっぷりと張った見込み(のぞきこんだときに見える底の面)からへりをひょいと立ち上げ、その端をもう一度外側へ開き折った、シンプルだが細工のゆきとどいたものだ。「リム」と呼ばれる西洋風の皿形に似ている。裏返すと、一息にカンナを巡らせて削り出された高台が、全体の形に緊張を与えている。器体に比べてその高台はひどく小さい。しかし糸底の外側わずかな部分にしか刃を入れていないのを見ると、ろくろ成形のときに思いきって高台脇をしぼり、そこから極端な角度で水平方向に開いて挽いたのだと知れる。手が込んでいるようには見えないが、そこここにさりげない技術がほどこしてありそうだ。「つくり方は器に書いてある」というセンセーの言葉を思い出した。
「来週までに三百挽くんじゃ」
 ぎょっとした。
「手本をいっこあげるから、よく研究してな」
 さらに腰が抜けそうになった。
「センセーの作品を、い、いただけるんすか・・・!?」
「うむ。がんばってつくれや」
 つくり方は教えてもらえない。試されているのだ。・・・というよりも、理解できていることを前提としている。オレは「つくれるに決まっているひと」ということになっているらしい。さらに小皿をつくるにあたっては、センセー自らが山から掘り出した大切な土を使わせてくださるという。逃げるわけにはいかない。

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その123・かぶと窯

2010-05-05 09:32:45 | 日記
 やがてあらゆる方角から伸びてきたレンガの最前線は、ドームのいちばん中心に位置する最高点で結ばれた。最後に天頂部のレンガがくさびのように打ちこまれると、空は完全にふさがった。登り窯完成の瞬間。それは初秋の、とっぷりと日の暮れ落ちた夕刻遅くだった。
 ドームの石室を囲んで、みんな雄叫びをあげて喜び合った。出たり入ったりの代替わりをくり返したメンバーは、この時点で、片手に余るほどのわずかな人数に減っていた。ひやかしや思い出づくりで参加した人物たちが、長続きするような仕事ではない。残ったのは、初志を貫徹した熱い仲間だけだった。オレたちは、つなぎ材の泥にまみれた手でハイタッチをくり返し、石粉を厚くかぶった顔で笑い合った。しかし歓声がこだまとなったそのあと、奇妙な沈黙が横切る。そこでようやく、じんと深いものにひたった。春先からつくりはじめ、暦を半周以上してついに完成にこぎ着けたのだ。掛け値なしに、自分たちの登り窯だ。頭の中に虹が立つような気分だった。
 太陽センセーは満面に笑みをたたえていた。肩の荷を降ろした心持ちだったにちがいない。念願の窯を手に入れた火炎さんは、泣きまねをしてみんなを笑わせた。そのメガネの下のつぶらな瞳は、実際に潤んでみえた。みんな浮かれながらも、しんみりと感慨にふけった。ビールで乾杯し、言葉数も少なく、その夜は窯のかたわらでいつまでもすごした。
 できあがった窯は、三の間から伸びる長い長い煙道が山の斜面を伝い登り、やがて空へと向かうエントツが特徴的だ。三つ連なるコブのような背もたくましい。ツノを高々と掲げ、山を登らんとするカブトムシのように見える。窯は「かぶと窯」と命名された。
 さて、窯は完成したが、それはスタートにすぎない。甲虫つくって魂入れず、では意味がない。窯には炎という生命を吹きこみ、その真価を発揮させなければならないのだ。再びあのしんどい、そして楽しい楽しいマキ窯焚きがはじまろうとしていた。

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その122・グラインダー

2010-05-04 07:29:17 | 日記
 メンバーは、積みたい場所にいちいちレンガをあてがい、フォット感を確かめてはハツる部分を鉛筆でしるし、それを巨大な固定グラインダーで削り出した。このグラインダーというのがまたものすごいシロモノだ。メーカー製ではなく、手作りなのだ。それはサビサビ鉄骨のテーブルに大きな万力を固定し、その万力で巨大モーターを締め上げて固定し、そのモーターにまた無理やりドでかい研削盤(砥石)を噛ませて回してしまうという原始的なものだ。オレたちはそれを見て、なるほど庭に転がってるガラクタはこうして使っていたのか、と納得した。しかしそれと同時に、恐怖に震えずにはいられない。
ーあのポンコツマシーンのネジがどこか一カ所でも外れたら、それだけで腕や腹の肉は根こそぎ持っていかれるな・・・ー
「へーきへーき。そんなこたーありゃせんわ」
 太陽センセーはこちらの心配をよそに、からからと笑う。どこにそんな安心の根拠があるのか?若葉家ではこれが普通の状況なのか?だけどちょっとまて。太陽センセー手作りの電源のスイッチ盤は、触れるといつもびりびりと軽く感電する。どこまで信頼を置いていいのか、センセーには悪いが疑心暗鬼だった。それでも郷に入っては郷に従わねばならない。十字を切って、グラインダーの巨大な回転に立ち向かった。
 軟質な耐熱レンガは、噴煙のようなものすごい土ぼこりを吐き散らしつつ、角を落とし、姿を変え、屋根のすき間におさまっていく。何週間も、何ヶ月も、こんな作業がつづいた。メンバーは必死に頭をひねってピースを整え、ピタリとはまると歓声をあげた。こんな小さな喜びの積み重ねは、大きな達成感を予感させた。勾配をつけたレンガを一段、二段・・・五段、六段と積み上げていくうちに、壁はじょじょに内に傾いて切れこみ、脳天にぽっかりと開いた空間を埋め立てていく。

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その121・レンガ屋根

2010-05-03 07:34:06 | 日記
 屋根の形状は、手前ふたつ(一の間、二の間という)がドーム型、最後尾の窯(三の間)がカマボコ型と決まった。レンガ屋根の築造は興味深い。つくり方はまず、重い屋根がのっかっても本体が崩れないように、レンガ壁ぐるり一周を鉄枠で締めあげる。これには、高熱による窯の膨張に備えて、という意味もある。壁がしっかりと固定されたら、竹の骨組みで仮屋根を形づくる。タテに割いた竹を壁のあちこちから対角へ渡してアーチ状にし、天井の空間を埋めながら、ゆるやかな丸みをつくっていくのだ。すると湯船に大きな竹カゴをかぶせたようになる。それを土台にしてレンガを積んでいけば、屋根は崩れることなく組み上がる。内側に隠れた竹の骨組みは、窯を焚けば燃え尽きる。骨組みがなくなれば、レンガ自体の重みで屋根のすき間ががっちりとふさがり、強固なキメとなるという寸法だ。よく考えられている。
 しかし簡単な作業ではない。やってみると、これがとてつもなく複雑で大変な作業だ。直方体のレンガの連結で、曲線を築くことはできないのだ。レンガ一個一個を削って厚みに微妙な勾配をつけつつ、しかも隣としっくり噛み合うように整形しなければならない。ドーム屋根とはいってもまん丸ではなく、素人のつくるデコボコイレギュラーな卵形だ。一様な形に削り出しても意味がない。すべてのピースをその箇所に合わせて、しかも窯の中に崩落しないようなくさび形に微調整してはめこんでいく。まるで大きな立体パズルを組み上げていくようなものだった。

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その120・間近

2010-05-02 08:18:01 | 日記
 土ぼこりにまみれながら、その場所からはいろんな季節を見た。春の陽光は、新緑の山肌を満たした。盛夏の陽射しは、山すその屋根の連なりを焼いた。秋口の夕暮れの柔らかな光線は、竹薮を横切ってゆっくりと消え入った。そんな風景をふるさとのようにしてすごすうち、若葉家の登り窯は次第に全容を現してきた。半年もの間、スコップやトンカチを振るいつづけ、またレンガを磨き、運び、積み上げつづけ、やっと完成の形が見えてきたのだ。
 最初、草蒸す斜面にうがたれたただの穴っぽこだった場所は、ひろびろと三段の階段状に整地され、今や子供の背丈ほどのレンガ壁が巡っている。まだ天井がないので、ちょうど銭湯の湯船が三つ並んだように見える。
 三連房の登り窯は、太陽センセーの指南で三つの部屋それぞれに工夫がなされ、まったくちがったものが焼けるように設計されていた。燃焼室も兼ねるいちばん手前の窯では、灰をかぶらせる焼き締めものを焼く。炎の通り道に特徴のある朝鮮ふうの穴窯となっている第二の窯では、酸化炎と還元炎によるふたつの影響をひとつの器に生じさせる「片身代わり」と呼ばれる特殊な焼き味をねらう。第三の窯には絵付けなどを施した釉薬ものを詰め、手前のふたつの窯からこぼれる炎によって効率よく焼きあげる。まさに一石三鳥の窯だ。
 三つの湯船の天井をレンガで閉じれば、いよいよ登り窯の完成だ。

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