陶芸みち

陶芸のド素人が、その世界に足を踏み入れ、成長していく過程を描いた私小説です。

その126・プロセス

2010-05-09 06:02:01 | 日記
 不ぞろいで不格好な小皿が長板に並んだが、オレは新しい充実感を知った。つまり、作品の出来映えという「結果」ではなく、方法論を掘り起こす、あるいは編みだすという「過程」の重要性に気づいたのだ。学校では、体得した技術をどう生かして作品づくりを展開していくか、という順序で学んだが、センセーは逆に、イメージした作品にたどり着くにはどういう方法論を用いなければならないか、を考えさせてくれる。設計図から完成形をつくるのではなく、完成形から製法を導きだすのだ。それはまさに、つくり方が未解明な桃山時代の作品を追いかけ、迫ろうとするひとの考え方のプロセスだ。創作の感動は「?」からはじまるのだと、センセーは一枚の小皿を示して伝えてくださったにちがいない。その意を汲んで、悩みつつ、じょじょにつくり方を解明していき、三百の小皿を積みあげた。
 大量のブサイク作品の中からまあまあ恥ずかしくないものを選りすぐると、五十そこそこしか採れなかった。技術不足を痛感し、もっと精進せねば、と唇を噛みしめる。しかしその五十点を若葉邸に持ちこむと、センセーは「ヨシヨシ」と、目尻にほがらかなシワを刻んでくださった。
「今度はこれに絵付けをするんじゃ」
 唐津の鉄絵を伝授してくださるという。願ってもない。簡素にして奥深い味わい。バカバカしく思えるほどのヘタウマに趣きを見いだす「唐津絵」は大好きだ。勇んで筆を準備した。
「描いてみせよう」
 しっぽを振ってセンセーのすぐ脇に陣取り、手元を見つめる。
 さらさらさらっ。
 それでおしまい。キョトンとしているうちに終わってしまった。あまりにテキトー・・・いや、大胆な筆さばきだ。ハネツキで負けた弟の顔に落書き、あの感じ。ところがその筆致の末にできあがった絵は、実に力強く、深い。線のメリハリが効き、風になびく秋草ののびのびとした躍動感、またか弱さまでも表現している。緩急なのだ。

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園