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新徴組探訪

一応、完結したはずの山形レポートですが、新徴組のことを忘れていましたので追加いたします。写真は湯田川にある新徴組の墓。

新徴組は、幕末に結成された治安維持を目的とする警護隊で、京都の新選組に対しての江戸版とでもいう組織です。

もともと新選組のもとは、庄内藩の清川(河)八郎によって結成された「浪士組」に由来します。

清河八郎は、当時の幕府が外国の圧力によって、開国に流れていくのを懸念して、外国に対して毅然とした天皇中心の日本民族結集、いわゆる尊皇攘夷論を展開して、仲間の結束を図っていましたが、弾圧に屈し、諸国に逃亡することになりました。一方で、幕府に対して、京都の治安を理由に、江戸の浪人を集めて「浪士組」を作ることを提案します。幕府は、攘夷組の一掃のためにも、似たもの同士のような清河らの提案をあえて受けて、京都に上らせます。この組の目的は幕府の将軍の警護で集められた隊でしたが、実は朝廷派の攘夷軍の結集であったという清河の策略だと知って、袂を分かつ者が出たわけです。それが、近藤勇、芹沢鴨らであり、壬生浪士組と名付けられ新選組になったわけです。これらは会津藩によって召し抱えられていきます。

一方、江戸に戻って攘夷活動をしようとした清河一派は、清河が暗殺されることで、求心力を失います。そして、攘夷としてではなく、本来の目的の江戸の治安維持部隊として存在意義を高めていきます。これが新徴組です。この江戸の治安を任されていた藩が庄内藩なのです。
 
前段の話が長くなりましたが、ここからが山形県の話です。
新徴組は、ある意味でその役割を終えて大政奉還を迎えます。庄内藩の藩士が山形県に戻るのと一緒に、新徴組の組員とその家族も山形の地に送られてきました。はじめの滞在先が湯田川温泉だったのです。この後、各所の開拓に駆りだされたりして、数奇な運命をたどる者も多かったようです。
 

この湯田川の長福寺裏の墓地には、この湯田川の地で無くなった組員のお墓が残されています。
         

ここを訪れないと、見逃していた歴史の一コマを発見したような想いがいたしました。
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