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Destinyという嫌米

2004年07月11日 15時52分03秒 | 世情雑感(サブカルチュア)
 機動戦士ガンダムSEEDは2002年から03年にかけて放映されたガンダムシリーズの最新作である。旧来のU.C.(ユニバーサル・センチュリー)ではなくC.E.(コズミック・イラ)を舞台とした作品である。この作品のについてはこのBlogの4月13日付においても論評しているが、本日はまったく違った視点からである。
 各種情報によれば、今年の10月からこのSEEDという世界観を用いての新しいシリーズの放映が始まるとの事である。名称は「機動戦士ガンダムSEED Destiny」という。舞台はSEEDより2年程後に設定され、アスラン・ザラと言ったSEEDで活躍した登場人物も登場することになる。前作はストーリーが急展開を示していく。当初はナチュラルVSコーディネーターという構図であったが、途中より「原理主義」と言うものへ焦点を合わせたものになって行っている。無論、米国同時多発テロ後の世界と言うものを考えるならば「原理主義」は重要な存在だ。しかしながら、その「原理」は製作側サイドの独善的な「原理」観であったように思われて成らない。それはSEEDの最終回においてジェネシスの照準が大西洋連邦の首都ワシントンに合わされるシーンがある。確かに設定では、大西洋連邦は南北米大陸を支配する国家とされているので(現在に置き換えて考えるならOAS-米州機構のような感じか。この本部はワシントンにある)この設定自体はおかしくは無い。しかし、ここでのワシントンという言葉の生々しさは推して図るべきものだ。SEEDの製作者達は第2次湾岸(イラク)戦争に対する結論の無い感情的な疑念を提示し続けていたという背景(文庫版5巻の監督のあとがきを参照されたい)を提示された状況下においてそれは、戦争と言うものを考えさせるアニメと言うよりも嫌米というアニメである事を示してしまったと言えるだろう。機動戦士ガンダムはしばしば指摘が成されるように第2次世界大戦をある意味で書き直したアニメであった。放映されたのは1979年であり、現在よりも第2次世界大戦の持つ意味は大きいものが合ったかも知れない(この25年の間に冷戦構造が崩壊するという大きな要素があった)。しかし、第2次世界大戦と1979年の社会構造と戦争観は同じではなかった。しかし、このSEEDシリーズが舞台としているのは今戦われている戦争をベースとしているのだ。アニメの中のストーリーは如実に現実の世界と重なって考えてしまうものなのだ(SEEDにおけるオーブの中立姿勢が米国への「追従」を行ったとされる日本外交への批判以外の何者であろうか)。
 SEEDの世界には米国を象徴する用語が数多く登場する。ニュートロン・ジャマー・キャンセラーを搭載したガンダムである「フリーダム」と「ジャスティス」は米国がその行動原理としている言葉である。こレらの言葉をどのようにSEEDの文脈において語られたかは現在、語るべきものではない。しかし、この文脈に新しい言葉が付け加わる事は間違いない。
 Destiny
 新しいシリーズに冠されたその名前は、米国の西進の標語「Manifest Destiny(明白なる運命)」に起因している事は疑う余地が無い。確かにDestiny単体では運命と訳すのが正しいのかもしれない。しかし、各種情報によれば世界観的にはSEED世界と変化は無い。世界はナチュラルとコーディネーターに分かれたままなのだ。これは米国が米国同時多発テロ後に規定した世界観である米国の味方かそうでないかと同じような構図だ。つまり、この同種の構図があるということは、現実世界への肯定か否定になるという事は容易に想像できる。そして、その中でのDestinyには「フリーダム」や「ジャスティス」と同様の意味付けが成されるのではないか。米国を象徴する言葉は、今では嫌米の標語としかなり得ないそんな時代がアニメ界に訪れているのかも知れない。