昭和の恋物語り

小説をメインに、時折よもやま話と旅行報告をしていきます。

水たまりの中の青空 ~第二部~ (二百二十四)

2022-04-26 08:00:46 | 物語り

「課長。局長への報告、済ませてきました」
 小柄な五十を数える杉田課長も、今では正三に頼りきっている。
乱雑に積み上げられた書類の陰から、くぐもった声が返ってきた。
「ありがとう、ご苦労さんでした。佐伯くんが行ってくれると助かるよ。
本来ならあたしがご説明に行くべきなんだが、質問をされると困っちゃってね。
結局、佐伯くんを呼ぶことになる。で、局長のひと声で佐伯くんになった。
これからもよろしく頼むよ」

「課長、今晩の予定は大丈夫ですね。
ちょっと趣向を変えて、キャバレー辺りに繰り出そうかと思うんですが。
お嫌いですか、そういった場所は」
 小声で正三が確認をする。
“上司を手なづけるのも大事なことだ。飲み食いをしっかりさせて、お前のシンパにしておけ”とは、源之助のご託宣だ。

「キャバレー? こりゃ意外だ。佐伯くんの口からそんな言葉を聞けるとは。
好きですよ、キャバレー。実を言うと、その方が良いんです、あたしは。
今ね、口説いてる女給がいましてね」
「それは好都合だ、そこにしましょう。是非にもその女給さんに会ってみたいものです。
課長の好みの女性って、美人なんでしょうね。楽しみです、ほんとに」

「いやいや、あたしは美人は嫌いです。美人はお高くとまって、面白味がない。
客を客とも思わぬのが多いです。客がご機嫌取りをさせられてる、実にけしからん!」
“そうだな、確かに。美人は、気位が高い。
ちやほやされないと気がすまんらしい。そして意地悪な面がある”と、つい小夜子を思い浮かべた。

ホテルのロビーでの一件は、少なからず正三のプライドを傷付けた。
“確かに連絡をしなかったのは僕の落ち度だけれども、あんな公衆の面前であれほどに罵倒されるとは。
一介の学生だった昔ならいざ知らず、今は逓信省に勤める身だ。
民を指導する立場にあるぼくだ。
幸いぼくを知る者が居なかったから良かったものの、大恥をかいてしまった”

 腹立たしさを抑えきれない正三だ。自席に戻りはしたものの、書類の文字が躍っている。
引出しのタバコで一服し、気持ちを落ち着けようとした。
小夜子に対する思いが薄れた今、現在の己に尊敬の念を抱かないことに疑念を感じた。
“御手洗武蔵とかいう市井の商売人ごときと比較されるとは、いかがなものか。
国家の大事業にたずさわるぼくを見下すがごときふるまいは、断じて許せない。
たしかに不実な面があったことは否めない。それはぼくが悪かった。
しかし機密事項の作業中だったんだ、それは理解すべきだ。

どうせ、金だろう。金のために、身体を許してしまったのだろう。
それをぼくに知られることが怖くて、なじられることが怖くての、あの態度さ。
正直に打ち明けてくれれば、ぼくにしても分別はある。
事情が事情なんだ、許すことがあったかもしれないのに”
 一本の煙草を二度ほど吸っては消し、すぐに一本に火を点けてまた消す。
そんな繰り返しをつづけながら、終業の時間を迎えた。



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