昭和の恋物語り

小説をメインに、時折よもやま話と旅行報告をしていきます。

水たまりの中の青空 ~第三部~ (四百二十五)

2024-05-28 08:00:23 | 物語り

 しかし万里江にしてみれば、女としての自分は死んだと思っている。
子を生せぬ体では、女としての価値はないと打ち据えられた。
「これからもこの家に居たいのであれば、妾のひとりやふたりは認めてもらいます。
その妾たちに子を生させます。
それが条件です!」
 姑のことばに反論ができない万里江だった。
しかしとどめとなったのは、夫からのひと言だった。
「置いてやるんだ、そのくらいは辛抱しろ」

 いま五平を目の前にして、まじまじとその顔を見るにつけ、己の不遇を嘆かぬわけにはいかなかった。
どこか卑しさを感じる、特に締まりのない口が許せない。
そして薄く空いたその中から見える、ヤニ色の歯が背筋に悪寒を走らせる。
あの口がこの体を舐めまわす、想像しただけで卒倒しそうになる。
そして、鼻。まるでガマガエルのようにひしゃげたそれが、顔の中心にデンと居座っている。
風邪を惹いたときに、ジュルジュルと鼻汁をすすられては……。
そして黄色がかった白目が、万里江には許せない。
さらには垂れ下がった目尻、卑しさの源がこれだと確信させられる。

しかしそれでも、富士商会株式会社の次期社長なのだ。
そしてその妻である万里江は、社長夫人となるのだ。
小なりとはいえども、一国一城の主なのだ。
しかも業界の雄として君臨している。
「お前の手で、株式を上場させなさい」
 父親の佐多に言われるまでもなく、大望を抱いている。
これからは佐多万里江ではなく、加藤万里江として、陰の社長として君臨する。

 日々の生活は、家政婦を雇うことで解決した。
一切の世話を万里江が拒否した。
「気持ちが落ち着くまでは、」とことばを濁す佐多に対し、五平は、構いませんよと応じた。
子どもじみたことをと思いつつも、五平にしても余計な気遣いをせずにすむと、安堵の気持ちもあった。
今さらながら、わかのありがたみをしみじみと感じる五平だった。
“今日から俺には家庭はない。ここも戦場だ”、“いっそ引退して、わかの元へ帰ろうか”と、考える五平でもあった。
しかしそれでは、武蔵との約束を果たせない、どころか、五平自身のねがいも費える。
武蔵の思いは、五平のおもいでもある。

 朝、五平は定時に出社する。
以前は7時には出社していた。しかしそれでは他の社員たちが萎縮してしまう。
実質的なトップである五平に、会社の鍵を開けさせるわけにはいかない。
当番制にして女子社員が出社してくる。
そのことをやんわりと竹田に指摘され、武蔵のことばを思いだした。
「上が張り切りすぎると、下が縮こまる。上が緩むと、下はだらけてしまう。
難しいなあ、会社経営というのは。下は、いつも上を見ているからなあ。
個人商店の方が、よっぽど楽だ」

 万里江は、遅れて十時に出社する。 
五平と連れだっての出勤がいやなこともあるが、「気負いすぎないように」という父親のことばがある。
会社の、組織の何たるかは、短い期間ではあったが、父親に教え込まれた。
これから休日には父親の元に出かけて、知識と実践との差を、問題点を話し合うことになっている。
それがゆえに、一歩しりぞいた位置からの観察を、当面の仕事と考えた。
一般事務の大部屋に同室して、過去の帳面類に目を通す日々をおくることにした。
小夜子同様に、口にはしないが、新しい女性としての先を見すえている万里江だ。



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