昭和の恋物語り

小説をメインに、時折よもやま話と旅行報告をしていきます。

愛の横顔 ~100万本のバラ~  (四)

2023-08-16 08:00:14 | 物語り

 時計を見ると、八時半を指している。
「いつものことよ、あいつが約束を守ったことなんて、ほんの数えるほどじゃないの」
 口に出してこぼしてみるが、だれも慰めてはくれない。
気をとりなおしてCD機に手をのばした。
「わりい、わりい。おそくなっちゃったな」
 健二のストレートなむしろ険をさえふくんだ声が背後からとどく。
決して正面切っては顔をあわせない。

どうせ、せせら笑いをしているのだろうと栄子は思う。
ぐっとこみ上げてくる涙をこらえながら、「来てくれるとは思ってなかったわ。どういう風の吹き回しかしら?」と、せめてもと栄子もまた険のあることばで返した。
「なあ、栄子。もういちど医者に診せないか。
知り合いがな、大学病院の医師を紹介してくれるというんだけど。
手術は、イヤか? 歩けなくなるかも、なんてことは昔の話らしいぜ。
いまはな、しっかりとした技術の医師ばかりだし……」

 栄子の背に話しかける。相手の目をみて話すことがにがてな健二だ。
自分自身さえ持て余し気味なのだ、他人の人生を背負い込むことなど到底考えられない健二だった。
ときどきいまの自分を捨てて、アメリカでもヨーロッパでも、どこでもいい。
逃げ出したいという衝動に襲われることがある。
昼夜逆転のような生活をおくる自分が、なぜか吸血鬼のような気分になってしまう。
他人の生き血を吸って――昨今はやりの○○詐欺まがいで収入を得ているわけではない。
しかし健二の音に反応してくれる観客たちの血が、健二の生命の源だと感じているのだ。

 健二の指からくりだされる弦の音が、アイドルたちの動きを活性化させる。
彼女たちの言を借りるならば、「あたいじゃないの、音があたいを動かしてるの」。
「体がね、くうに浮いて、なんのじゃまもない、そう宇宙空間にほうりこまれた感じ」。
「神さまって、きっといるわ。あたしの願いをきいてくださったもの」。
「すっごく冷たいの。いっつもね、体中をチクチク刺してね、やめさせてくれないの」。
「そうよね、そんな感覚がある。ちょっとでも間違った動きをすると、ギュッ! って、つねられるの」。



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