昭和の恋物語り

小説をメインに、時折よもやま話と旅行報告をしていきます。

水たまりの中の青空 ~第二部~(二百八十二)

2022-11-08 08:00:54 | 物語り

「だんなさま、おどろかれたでしょ。でも、分かる気がします。包丁を持って、いざ!
という時に声を掛けられたのでは」
「『なに考えてるんだ、お前は!』って、怒られちゃった。千勢は、怒鳴られたことはある?」
 間髪いれずに、千勢が答えた。
「とんでもございません。声をあらげられることなど、いちども。
だまってあたしの前にさしだされて、『食べてごらん』と、ひと言です。
辛かったり甘すぎたり、ありました。
でも、『お前の一生懸命さは知っている。次は、もう少しおいしくしてくれ』と。
『手際の悪さでお待たせしちゃだめだ、なんて考えるな。
なんでもそうだが、手間暇をかけてこそ、実がなるというものだ』とも言われました」

「そう、千勢には優しいのね」
「いえいえ、千勢はどんくさいので。」
「武蔵は、千勢が可愛くてしかたないのね」
「こんな、おか目のあたしがですか? キャハハハ、そんな」
 底なしに明るい千勢が、時として荒みがちだった武蔵の心を和ませていた。
そして今は、小夜子の奔放さが武蔵には嬉しい。

「ほんとにおやさしいだんなさまです。
会社ではこわい社長だとお聞きしましたけれど、決してそんなことはありません。
きっといっしょうけんめいにおやりにならないから、強くおしかりなんだと思います。
小夜子奥さまもそうお思いでしょう?」
 嬉々として話していた千勢だったが、次第に目がうるみ始めて、とうとう最後には涙声になってしまった。
「もうしわけありません、あたしったら。どうしたんでしょ、悲しくなんかないのに。
ちがうんですよ、うれしいんです。また呼んでいただけるなんて、思ってもいませんでした。
だんなさまにお聞きしました。お前のことをきらったんじゃないぞって。
あたしてっきり小夜子奥さまにきらわれたんだって思って。
悲しくて悲しくて。しばらくの間、実家にもどっていたんです」

 小夜子の差し出すハンカチで、笑みを浮かべながら涙を拭いた。
「でも、遊んでばかりもいられないので、新しいお屋敷でお世話になっていたんです。
そのお屋敷でもかわいがってはもらえたのですが、やっぱりだんなさまと小夜子奥さまが忘れられずに……。
そんな時に実家から手紙がとどいたんです。
だんなさまからお声がかかったけれどどうする? と」
「いつなの、それって。あたし、全然聞いてないわ」
  小夜子を思っての武蔵なのだが、ひと言の相談もなかったことが腹立たしくも感じる小夜子だった。
“家事のことは、あたしに決めさせてくれなきゃ”。しかし
“武蔵らしいわね。あたしのこととなると、素早いんだから”と、満更でもない。



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