少年が立ち上がった。
しかし逡巡はつづいている。
帰られるのだ、このまなにごともない顔をして帰ることができるのだ。
しかし少年の足は、あの女のもとにうごいた。
手足のない達磨のごとくにすこしの歩みではあっても、かくじつに少年の歩はすすんだ。
亀のようにのろい歩みではあっても、たしかに女の元へ。
少年にはえいえんの時間のように感じた、その道のり。
話にきょうじるアベックたちの間のびしたこえが、少年の耳にとどく。
バンドの音楽も回転数をまちがえたレコード音のごとくに、間のびして聞こえる。
少年が立ち上がって、ものの五、六秒。
三つのテーブルさきに陣取っていたあの女が、いままさに目と鼻のきょりにいる。
そして階段も。
「あのお……」
少年は、自分でも信じられない程にたやすく女にこえをかけた。
つまりつまりながらも、少年が女に話しかけた。
いぶかしげに見あげる女に対し、せいいっぱいの真ごころをこめて話した。
つきそいの女の雑音にはまるで耳をかさず、ひたすら女にむけて発信した。
少年のあつい目線をさけてうつむく女にたいして、異国のことばでかたりつづけた。
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