昭和の恋物語り

小説をメインに、時折よもやま話と旅行報告をしていきます。

ボク、みつけたよ! (四十七)

2022-03-12 08:00:18 | 物語り

 翌日に、父にはないしょで母のもとにいきました。
前夜しこたま叱られた兄が、もうおまえの相手はしてられんとばかりに、母親に投げたわけです。
うち沈んだ表情をみせる母親にたいして「かあちゃん、ズルイぞ。じぶんだけたべて!」と、部屋にはいるなり、なじりました。
甘いにおいが充満していたのです。
なつかしいにおいでしたが、すぐにはそれが何なのかを思い出すことはできませんでした。
きょろきょろと部屋をながめますが、わかりません。
そのにおいをかもし出すお花があるわけでもありませんし、果物があるわけでもありません。

そこは殺風景な部屋で、真っしろなかべが印象的でした。
ベッドの横にいすがひとつと、小さな正方形の台があるだけです。
そしてその台の上にあるのは、水差しだけです。
くすりを飲むおりにつかうのでしょうが、ひょっとしてその水がにおいの正体かと口にしてみました。
ですがやはりただの水で、無味無臭そのものでした。
「ぼくにもたべさせてよ、のませてよ」。せがんだ気がします。

そのときに看護婦さんがやってきて「お母さん、あした手術なの。こまらせないでね」と、わたしに言います。
なんのことか分からぬわたしは「しゅじゅつってなあに?」と、ベッドに座っている母親に抱きつこうとしました。
「だめ、だめ!」。看護婦さんに、強い口調でたしなめられました。
「ボクちゃんは強い子、男の子でしょ」。母もまた、わたしを拒否したのです。
その部屋にはなにものも寄せ付けない潔さがあって、そのくせせきりょう感もただよっていた気がします。

 夏休みが明日には終わるというのに、母がもどりません。
まだ病院かとおもい、行きたいと兄につげても首をたてにふりません。
父には内緒のことですので、話すわけにもいきません。
ひとりでと考えもしますが、どこをどう歩いたのか、わからないのです。
兄に連れられて歩いたがために、あちこちとよそ見ばかりをしてしまい、道順がさっぱりです。
なんどか右に左にと道を曲がったことは覚えているのですが、ひとりでは迷子になるのが関の山です。
結局のところ、新学期がはじまって二日目にもどってきました。
のちになってわかったのですが、家出をしていたのです。
それからです、父のわたしに対する猫かわいがりがはじまったのは。
そして母との思い出が、ぷっつりとなくなってしまったのは。



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