昭和の恋物語り

小説をメインに、時折よもやま話と旅行報告をしていきます。

スピンオフ作品 ~ 名水館女将、光子! ~  (十八)(光子の言い分:四)

2024-08-16 08:00:33 | 物語り

 ではそこでのわたくし、
「人のこころを失ってしまったわたくしでございます。
まさに、武蔵さまがおっしゃった地獄を見ました」と申し上げた、わたくしのことでございます。
好いた殿方にうらぎられた、それだけでも女にとっては十分に地獄ではございます。
ですが、まだ入り口に立っただけのことでございました。

さきほど申しあげましたが、料理旅館という体をとってはおりますが、その実態は売春やどにほかなりません。
まあ、高級という冠がつくやもしれませんが。
さかのぼりますれば、江戸の世において旅籠には飯盛りおんなという者がおりましたこと、ほとんどの方はお聞きおよびと存じます。
その通りでございます。

ただ、いちおう、仲居の方にも選択権があるとか。
どうしても気に入らぬ客ならば断っても良いとのこと。
ただしその場合には、そのお客さまのひと晩のお遊び代を負担せねばならぬ決まりだそうで。
それがまたとんでもなくお高くて、なん人も断りつづけると一生をついややしても返せぬような額になりますとか。
ですので、皆がみな、泣くなくといったことでございます。

 わたくしですか? 当初こそどなたとでも、と受けいれておりました。
正直のところ、三郎さんに見捨てられたおりには、もうわたくしは死んでおりましたし。
殿方がお使いになるおことば「やけのやんぱち」そのものでございましたから。
ですがみつきほど経ちましたでしょうか、堕ちたわたくしに光がさし込んで参りましたのは。
淡いそしていまにも、ふっと漏らしたため息ひとつで消え入りそうな光ではありましたが、さし込んでまいったのでございます。

「ちっとも不幸な女に感じられない」。
そうでございますね、正直あの時期のわたくしはわたくしではない、そう思っております。
まったくの別人だと、おのれに言いきかせております。
口にするのもはばかられる様のわたくしでございました。
どうぞご了解くださいましな。
勘弁ならぬとおっしゃるのでしたら、わたくしは一旦下がらせていただきます。
あなたさま。どうぞお好きなように、皆さま方のご納得がいかれるように、お話しくださいまし。

(無理からぬことですよ、それも。書き手のわたしですら、想像するだけで薄ら寒さを覚えます。
それに、何とかコードに引っかかるおそれもありますので、サラリといきましょうか。
まあたしかに、ここで大きく泣きくずれるのが女性だと思えますが、たとえそれがうそ泣きであり女性の演技だったとしても、男どもにはとうてい見抜けません。
いえいえ別に、そうした女性ばかりだということではありませんが。
どうにも私見が入りすぎてしまいました。

彼女、光子さんに戻りましょう。
当時は別として、現在はしっかりと女将ぎ業をこなしている、起ちあがった女性です。
これほどに気丈にふるまう女性です、女傑と称してもいいのじゃないでしょうか
――おっと、こういう物言いが、考え方が、女将である光子さんのもっとも忌み嫌うものでしょうがね)。

 それではここからは、光子さんご本人ではなく、書き手のわたしがしん酌することなくお話しましょうか。
「からだは売っても、こころは売らぬ」ならぬ「こころは売っても、からだは売らぬ」とばかりに
ほかの仲居とはまるで正反対の行動をとった光子だった。
当初こそ、三郎がのこした三水閣にたいする借金を減らすべく、どんな相手であろうとも拒否することはなかった。
とにかく早く抜け出したい、そんな思いでいっぱいだった。
他の仲居たちの侮蔑的ことばもすべて受け入れて、がむしゃらに動きつづけた。

明水館で教えられた行儀作法をすべて投げ捨てて、お膳の汁をこぼすこともかまわず廊下を走りまわり、部屋に入るおりも足で開けては、客のひんしゅくを買ったりした。
ゆったりとした時間を過ごしたいとやってきた客にたいしても、なにかと杯を重ねさせて早い酔いをむかえさせた。
「あの女の酌ではおちついて飲むこともできない」と苦情がまいこんでも、まるで意に介さない。
どころか、着物の裾をたくし上げて腰巻きを見せびらかしながら入室することもあった。

 



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