昭和の恋物語り

小説をメインに、時折よもやま話と旅行報告をしていきます。

水たまりの中の青空 ~第三部~ (四百三十六)

2024-08-13 08:00:59 | 物語り

「五平、いままでありがとうな。おまえとの日々は、じつに楽しかったよ。
軍隊時代にであえたことは、天の配剤以外のなにものでもない。
五平に会わなかったら、いまの富士商会はないし、俺も商売なんかしていない。
おれが無鉄砲にいろんな奴とやり合って来れたのも、五平、おまえがいたからこそだ。
でなきゃ、あっというまにあの世行きだったかもな」
 ときどき長めの息つぎをしながら、なんとかことばをつなぐ武蔵だった。

「社長。もうそれくらいで。
社長の気持ちは十分わかっていますし、あたしだって社長がいなけりや、どうなっていたことやら。
女衒の最期ってのは、そりゃもうみじめなもんですから。
世間さまから後ろ指を指されるようなことをしてきたわけですから」
 しんみりと答えながらも、互いを支え合ってきたこの10年の余のことが、走馬灯のように思いだされた。

「いやいや、小夜子のことにしてもだ。五平のおかげだよ、かたじけねえ!」
 無理に体を起こしかける武蔵に、あわてて五平が体をささえた。
それは昨日に小夜子が感じたとおなじ、あまりの痩身さに冷水を浴びせられたようなものだった。
 そういえばいつも部屋がうす暗い。明るくしようとすると、決まって「まぶしいんだ」と止められた。
しかし今朝は灯りを点けてもなにも言わない。
もう隠す必要もないということか、と覚悟を迫られた。

「しっかりしてくださいな。あたしだって、タケさんのおかげで真っ当な人間になれたんだ。
それに、富士商会の専務にまでしてくださった。あたしこそ、世話になりました。
かたじけねえってのは、あたしのことばですよ。
来世でも、またタケさんと出会って、商売をしましょうや」 
 まずい、と思った。つい来世などということばをつかったことを後悔した。
たがいに余命の短さを聞かされているとはいえ、口にしてはならぬことだった、はずだった。

「そうだな。来世でも一緒に商売をしたいな。
こんどは、食べもの屋がいいか? あこぎなまねをしないですむ、まっとうな店がいいな。
…………」
 突然にことばが途絶えて、苦しげに胸が大きく上下し始めた。
異常を告げるモニター音が部屋に鳴りひびいた。
五平があわててナースコールのボタンを押すと、看護婦とともに医師がやってきた。
夜勤明けなのだが武蔵の容態が気になり、詰め所に立ちよったものだった。
すぐに処置を行ったことで、いったんは小康状態に戻った。
そしてすぐに、小夜子への連絡をと命じられた。

「なあ、五平」
 目を閉じたまま、突然に武蔵の口がひらいた。
「タケさん、もうそのへんで」
「みたらいさん、休みましょう」
 五平と医師が同時に、武蔵に口を開かぬようにと声をかけた。
「いや、言わせてくれ。胸んなかに収めたままじゃ、○んでも○にきれねえ」
 武蔵の思いに、ふたりともそれ以上はなかった。

「おれは、嘘吐きだ。はったりもかましてきた。
それで窮地におちいったこともある。
嘘にうそを重ねてごまかしてきたこともあるし、にっちもさっちもいかなくなったこともある。
けどな、小夜子に対してだけは嘘を吐いていない。
すくなくとも、嫁として意識してからは、だ。
小夜子は、いるか? いないか……」

 小夜子、小夜子と、武蔵の手が宙をさぐる。
「五平よ。小夜子につたえてくれ。
武士をたのむ、と。正直者であれ、とは言わん。
正直になれないときは、沈黙だ。
うそつきは、いかん」
 何度もなんども、「うそつきはいかん」とくり返しながら、しだいに声が弱まっていった。
「7時33分、ご臨終です」
昭和27年11月12日、武蔵がこの世を去った。



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