しかしそれは次第に、真の告白的小説になってゆく。
そしてより自然に、作者の姿が現れ始める。異なった形式の中でのそれぞれの完成という方向ではなく、同一の自己の姿の定着という方向を指している。
これは、漱石においても言えると思う。
三部作や、『道草』『行人』『こころ』等のそれのように。
それは、芥川自身が最も高く評価している、『蜃気楼』の如き、静かな深い心境小説であり、晩年の芥川の特色である。
そしてその心境小説を、無意識の内ではあるが、私は漱石の晩年の作品に認めるのである。
これは、全く私だけの独りよがりかもしれないが。
そして又、芥川の場合のそれは、芸術家としての発展、自己の可能性の展開ではなく、一度完成した自己の文学否定への道だった。
これは、芸術家としては極めて逆説的な、人間としては悲劇的な進展であろう。
つまり、とうとう自分の皮肉と冷笑の仮面を脱いだのである。
寒い、凍り付くような冬の朝に、着ているオーバーコートを脱ぐことと同じだったろう。
社会的な冷たさではなく、自己的な冷たさ。
自分の今までの人生の否定なのである。誰が、芥川以前に、誰がそれをしただろうか。
その辛さは、容易に察せるものではあるまい。
晩年の芥川は、『蜃気楼』のような話らしい話のない作品を盛んに唱え始めた。
そして、自分でそれを書き始めたのだ。自分の身を傷つけてでも。
芥川は、次第に精神統一に憧れ始めた。
そしてこの統一は、世捨人的なものであったことは確かだ。
大正時代の震災直後に、菊池寛が芸術の無力さを訴えた時、芥川は「しかし芸術の生まれる土壌である熊さん、八さんは亡びない」と反論した。
芸術を神とした、人間の信仰であると信じると共に、それ程までに、芸術を愛した芥川龍之介に、深く頭を垂れるものである。
ブルジョアは白い手に
プロレタリアは赤い手に
どちらも棍棒を握り給へ。
ではお前はどちらにする?
僕か? 僕は赤い手をしている。
しかし僕はその外にも一本の手を見つめている。
あの遠国に餓ゑ死したドストエフスキーの子どもの手を。
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