久しぶりの南三陸
遠藤さんという方がご自身のことを”語りべ”ではなく、あえて(体験を人に)”繋ぐ者”として、震災後3年半になる南三陸を
回りながらお話をして下さった。
地震発生時刻、止まったままの南三陸町立戸倉中学校の時計。
珍しい閉校記念碑
破壊された校門
残すか?残さないか?現在決めかねているあの防災庁舎
いつも多くのバスと人で混雑していたここも、訪れる人は少なくなったよう・・・。
2012年4月、一階に積もり溜まった生々しい土砂・瓦礫除去選別作業をしたショッピングセンター・サンポートも、その前にあった志津川病院も
今は跡形もなく、平地に。
その隣になる高野会館(結婚式場)が外観を残し、南三陸町の中心地にポツンと建っていた。
今はホテル観洋さん所有ということで、社員の方と一緒に、この云わば危険?な高野会館内に入り
当時の様子をあらためて説明していただいた。
意外に綺麗に残った階段の絨毯。
屋上から見た今の南三陸
仮設商店街・南三陸さんさん商店街
いつの間にか?駐車場の一角にモアイ像が!!
2013年5月16日、支援のためチリから贈られたイースター島のモアイ像。
高さ3m、重量2t
あれ?目が入っている・・・
1991年チリ地震の津波でも被災、友好を深めようとチリから
チリ本土の石で造られたモアイ像が贈られたが
2011年震災で損壊、今度はチリ大統領からイースター島の石で造られた
新しいモアイ像を贈られた。
役場にある木造のモアイ像、町をあげて制作、モアイ像を百体あちこちに設置する予定らしい。
一日目(20日・土曜日)は早朝新幹線でくりこま高原、バスで南三陸。
遠藤さんと戸倉中学校など訪問。
さんさん商店街で各自昼食
午後から初めての傾聴ボランティア?
仮設住宅を訪ね、当時のビデオを見たり
皆さんとお話をした。
主催者JTB側もこうしたボランティアはまだ手探り状態で始めたばかり。
高齢の方が多く、やはり男性陣はお一人も見えなかった。
こちらは26名、被災者の方々は10名にも満たなかったか?
当地では「お茶っこ」といって普通にお茶飲みしましょうということだった。
前向きな皆さんとお話している時は感じなかったが、気を遣っていたのか?
とっても疲れを感じ、夕食後21時前には床に就き、すぐに眠ってしまった。
二日目(21日・日曜日)
一日、農業支援
田んぼを再生するため、地を掘り起し、石ころを取り除く作業
決してノルマや強制はなく、休憩時間以外でも自分のペースで休みながらの作業
ボランティアという言葉は、ちょっと偽善者っぽくて?抵抗が無くもないが
私自身は日ごろの罪滅ぼしのような感あり
温泉に浸かる楽しみあり、決して褒められた考えではない。
凡人の自己満足といえるかも。
ボランティア参加者も随分減少傾向にあり、主催者も苦労しているよう。
リピーターの方々が引き続き参加というのが主流?の中
初めて参加という方々もあり、少しホッとした。
今も「忘れ去られることが一番辛い」と被災者の皆さんの心情は変わらず・・・。
その言葉が強く心に残る。
遠藤さんという方がご自身のことを”語りべ”ではなく、あえて(体験を人に)”繋ぐ者”として、震災後3年半になる南三陸を
回りながらお話をして下さった。
地震発生時刻、止まったままの南三陸町立戸倉中学校の時計。
珍しい閉校記念碑
破壊された校門
残すか?残さないか?現在決めかねているあの防災庁舎
いつも多くのバスと人で混雑していたここも、訪れる人は少なくなったよう・・・。
2012年4月、一階に積もり溜まった生々しい土砂・瓦礫除去選別作業をしたショッピングセンター・サンポートも、その前にあった志津川病院も
今は跡形もなく、平地に。
その隣になる高野会館(結婚式場)が外観を残し、南三陸町の中心地にポツンと建っていた。
今はホテル観洋さん所有ということで、社員の方と一緒に、この云わば危険?な高野会館内に入り
当時の様子をあらためて説明していただいた。
意外に綺麗に残った階段の絨毯。
屋上から見た今の南三陸
仮設商店街・南三陸さんさん商店街
いつの間にか?駐車場の一角にモアイ像が!!
2013年5月16日、支援のためチリから贈られたイースター島のモアイ像。
高さ3m、重量2t
あれ?目が入っている・・・
1991年チリ地震の津波でも被災、友好を深めようとチリから
チリ本土の石で造られたモアイ像が贈られたが
2011年震災で損壊、今度はチリ大統領からイースター島の石で造られた
新しいモアイ像を贈られた。
役場にある木造のモアイ像、町をあげて制作、モアイ像を百体あちこちに設置する予定らしい。
一日目(20日・土曜日)は早朝新幹線でくりこま高原、バスで南三陸。
遠藤さんと戸倉中学校など訪問。
さんさん商店街で各自昼食
午後から初めての傾聴ボランティア?
仮設住宅を訪ね、当時のビデオを見たり
皆さんとお話をした。
主催者JTB側もこうしたボランティアはまだ手探り状態で始めたばかり。
高齢の方が多く、やはり男性陣はお一人も見えなかった。
こちらは26名、被災者の方々は10名にも満たなかったか?
当地では「お茶っこ」といって普通にお茶飲みしましょうということだった。
前向きな皆さんとお話している時は感じなかったが、気を遣っていたのか?
とっても疲れを感じ、夕食後21時前には床に就き、すぐに眠ってしまった。
二日目(21日・日曜日)
一日、農業支援
田んぼを再生するため、地を掘り起し、石ころを取り除く作業
決してノルマや強制はなく、休憩時間以外でも自分のペースで休みながらの作業
ボランティアという言葉は、ちょっと偽善者っぽくて?抵抗が無くもないが
私自身は日ごろの罪滅ぼしのような感あり
温泉に浸かる楽しみあり、決して褒められた考えではない。
凡人の自己満足といえるかも。
ボランティア参加者も随分減少傾向にあり、主催者も苦労しているよう。
リピーターの方々が引き続き参加というのが主流?の中
初めて参加という方々もあり、少しホッとした。
今も「忘れ去られることが一番辛い」と被災者の皆さんの心情は変わらず・・・。
その言葉が強く心に残る。