<川は流れる>

Reiの好きなこと、ここだけの話

吉田建とともに振り返る『ジュリーをめぐる冒険』①(1990年)

2011年04月28日 | ジュリーインタビュー


ーお二人のそもそものなれそめというのは?

吉田「知り合ってから、足かけ10年目ですよね。79年の暮れあたりだから。で、前のバンドが解散するってことで、新しいバッキングのミュージシャンを探していたと。そうでしょう?」

沢田「そう、井上尭之バンドのあとのね。」

吉田「で、そんなつもりじゃなかったんだけど、呼ばれて行ったらオーディションだったの(笑)」

沢田「ほとんど君で決まりだけど、一応形式だから、とか言われて(笑)」

吉田「そうなの。それでいきなり、”勝手にしやがれ”を譜面で、それも初見でやらされちゃって。ストーンズが好きだって聞いてたから、きっと本人も交えて、みんなで“ブラウン・シュガー”とかやるのかな、フェイセスのオーディションもそうだったらしいからなあ、とか思ってたら、とんでもハップン、朝まで9分でした。」

ー沢田さんは建さんのどこが一番気に入られたんですか?

沢田「それはやっぱりテクニックですよ。テクニシャンだったよね、当時から(笑)、みんなも一番いいって言ってたし、あとのことは、一緒にやり出してから、だんだん知っていくという感じだったから。」

吉田「だって分かんないでしょ。沢田研二っていえば、スーパースターで・・・僕が関わる前のプロジェクトが、ちょうど例の“TOKIO”っていうヤツで、渋谷の東急パンテオンに、レコードジャケット複製したでっかい看板がかかっててね。で、パッと書いてあるの、“ジュリー・TOKIO”って。俺も、いいなあ、ロックンロールやるんだったら、いつかあれくらいのプロジェクトに加わりたいなと思ってたら、本当にそうなっちゃって(笑)」

沢田「ただ建が入って一年くらいは、メンバーも重複する人がいて、前の井上バンドの延長戦って感じが強かったんだけど、それから建がリーダーになって、メンバーも全員が新しくなって、状況的にも、ストレイキャッツとか出たり、ロンドン、ロンドンって言いだした頃で、そこから本当に始まったって感じだよね。」

吉田「アルバムでいうと“ストリッパー”ね。それでバンドにエキゾティクスという名前をつけて始動したと。そこから新たな方向に進みだしたわけね。」

沢田「エキゾティクスになるまではバックバンドと沢田研二って感じだったのが、今度は後ろのメンバーも負けず劣らずの衣装を着るっつうね(笑)そういうコンセプトになってきちゃって(笑)」

吉田「それまでは、やっぱりソロシンガーである沢田研二をいかにデコレイトしていくかというのがサウンドや舞台装置含めて、全体のプロジェクトの核になってたんだけど、今度はエキゾティクスという形の中でできる範囲の表現に変わってきた。いわゆるバンド・サウンドの作りですね。実は、ここに今のバンドブームの石器時代があるといってもいいわけですね(笑)。・・・だけど、やっぱりそれまでの世界と違うから、面食らったことも多かったよね。今と違って、ジュリーは1日に2回公演してたもんね。渋谷公会堂なんか、昼の1時からロックンロールしてるんですから(笑)」

沢田「マチネが毎日あるっていう(笑)。ほら、それまでは、どちらかというと興業の世界だから(笑)」

吉田「そう、ロックとかニューミュージックとかとも全然システムが違うんだよね。ツアーに行くと、地元の凄い人が迎えに来たりね(笑)。やり始めた最初の頃は、追っかけのファンの人も一杯いるしさ。でも、いわゆるアゴアシ、マクラって言うんですけど、それはちゃんとしてて、ツアーの移動の電車もグリーン車だし、ホテルもいいとこ泊まらせてくれるし。それまでのミュージシャンの生活じゃ、そんなことまずなかったしさ。結構“へえ~”とか思って、それで逆に距離感じちゃったですよね。ステージの時間は共有するけど、それ以外では全然僕らの世界と違うんだなっていうのはよく思ってたね。」

沢田「環境っていうのは、自分たちがそうしていると、そういうもんだと思いこんじゃうとこがあるからね。グリーン車だわ、一流ホテルだわ、メシもみんなで食うわ、量が足らないっていえば増えるわ、みたいな(笑)、そういうことやってると、それがあたりまえだと思っちゃう。で、みんなで一緒に行動して、ホテルの裏口から入って、従業員エレベーターで上がって、人目に触れずに部屋に入る、とかいう世界でしょ。そりゃ“こりゃ大変だな”って思われたところもいっぱいあると思う。」

吉田「あの頃はバスの中で着替えとか年中でしたね。で、俺もハッと気がついたら芸能人っぽくなっていると(笑)」

ーエキゾティクスが始まってからは、吉田さんはプロデュース指向はもうあったんですか?

吉田「そんなこと、おこがましくて思ったことない(笑)。いまこうなったからアレだけど、当時はそんな大それたことは全然考えたことがなかった、ちゃんと木崎さんというプロデューサーがいたしね。」

沢田「でも、時々、僕が作った曲を、建に“これアレンジして”とか言ってね(笑)」

吉田「“ラ・セゾン”をパッとお当てになったから(笑)。曲の発注が相次いだんですよ、あの頃(笑)。高樹澪さんとか、そういうのをやってて、それは“はいはい”ってやりましたけど。あの頃は正月から12月までジュリーでした。はい(笑)」


②に続く
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