Tomotubby’s Travel Blog

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新湯温泉の歴史(2)

2005-10-11 | 北海道一泊二日旅行と九州温泉三昧

昭和29年、土砂災害で全壊した新湯温泉

【ご主人岩元さんの「男の半世紀」その2】
昭和29年の「新湯災害」。新湯温泉を埋め尽くした土砂は6万m3 に及びました。裏山が谷底に移動したような状態で、温泉のあった場所は沼池と化したそうです。自衛隊出動による二回に亘る遺体収容、災害復旧工事が終わり、ご主人の岩元さんが泉源の再掘に取りかかるまでに三年の歳月が過ぎ去りました。それからは自らスコップとツルハシを手に埋まった土地を掘り起こしたのでした。所有していた山林や宅地を処分して得た資金も尽き果て、絶望的な状況にあったにもかかわらず、岩元さんは不屈の精神で復興を進め、昭和34年のクリスマスに遂に泉源を掘り当てたのでした。

炭焼小屋のような茅葺屋根の浴舎を作り、自炊棟を建て、さらに旅館の建物が復旧し周辺の整備も進むと、マスコミにも温泉の効能が報道され始めます。時は、まさに温泉ブーム。白いお湯を求めて全国からお客さんが押し寄せます。昭和47年には金融機関から資金を得て、木造二階建て160坪、浴舎二棟30坪などの建物を新設、「霧島新燃荘」として、民営国民宿舎の指定を受けます。岩元さんと新生「霧島新燃荘」の前途は洋々、平和な日々が訪れたと思った矢先に、再び痛ましい事故が起こります。

平成元年3月、アトピー性皮膚炎の治療に訪れていた鹿児島の母娘が、治療泉の脱衣場で硫化水素ガス中毒で死亡してしまったのでした。岩元さんは、事故後すぐ浴室の換気装置を改善しました。そのせいで、事故当時最大 3000ppm もあった硫化水素のガス濃度は、3~5ppm に下がりました。平成3年には、遺族が損害賠償を求めて起こした民事訴訟が和解し、法的処罰の対象にはなりませんでした。事故直後、訪問客が減ることもありましたが、その類稀な温泉力は高く評価され、現在は事故前と同様、年間二万人が訪れる秘湯西の大関に見事カムバックしています。


ロビー?からフロントをのぞむ。フロントに見えるのがご主人の岩元さん。
最近、耳が聞こえにくくなったとお嘆きでした

以下、結びに代えて、最近の新聞記事です。
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南日本新聞ニュースピックアップ [2005 08/20 07:02]

新湯温泉土石流災害、遺族ら初の慰霊祭/牧園
再建した新燃荘・岩元さん企画

牧園町高千穂・新湯温泉の旅館で9人が犠牲になった土石流災害から51年目にあたる18日、遺族を招いた初の慰霊祭が現地であった。災害後初めて訪れた遺族もおり、復興を果たした地でしめやかに故人をしのんだ。
災害は1954(昭和29)年、台風5号が襲来した8月18日発生。大量の土砂で施設全体が埋没し、従業員と湯治客合わせて9人が死亡した。現在は国民宿舎霧島新燃荘が再建されている。
これまで遺族が集まる機会はなかったが、当時からの経営者岩元静夫さん(84)が体の元気なうちに一度実施したいと、所在の判明した遺族に参加を呼び掛けた。
県内外から訪れた遺族10人は敷地内の慰霊碑に玉ぐしをささげ、めい福を祈った。岩元さんが災害当日の状況や心境をつづった記録を読み上げると、すすり泣く声がもれた。妹を亡くした70代の女性は発生時に遺体を引き取りに来て以来の訪問。「来たくても、怖くて足が向かなかった。つらい思い出を忘れることはできないが、新たな一歩を踏み出すきっかけになった」と話した。
自身も妹を亡くした岩元さんは「遺族にはさまざまな思いがあるだろうが、集まってもらい感謝している。苦労もあったが復興できたのは9人の加護があったからと思っている」と半世紀を振り返った。 


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