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Tomotubby’s Travel Blog

Tomotubby と Pet の奇妙な旅 Blog。
でもホントに旅 Blog なんだろうか?

村上春樹新作

2013-05-09 | Japan 日常生活の冒険

鎌倉にて

05月08日 05月09日 05月19日

村上春樹「多崎つくる」を「田崎つくる」と間違えて書いている人が多い。「田崎」の方が一般的な姓だと思う。作家の地元の神戸・六甲台に「田崎真珠」があったのを頭が過る。新作の題名を知った私は、「多崎つくる」という名前から「多産」で子を「たくさんつくる」という精力的?なイメージを持った。



【勝手に引用】 (削除要請あり)※検討中※

2013-05-06 | Japan 日常生活の冒険
いなむらしげのぶ氏
2013年3月29日、経産省 命の対話集会にて

福島を忘れないで下さい、でも、福島に来ないで下さい、福島を忘れないで下さい、でも、福島のものを食べないで下さい。皆さんが福島に観光にいらっしゃると、子供が逃げられなくなります。皆さんが福島のものを食べると、福島の子供達が放射性物質を食べることになります。

…という言葉が印象的だった。つまり、外部の人が福島に来ると、それだけ福島は、安全だということになり、避難ができなくなる。福島のものを食べると、それだけ福島のものが安全だということになり、それで福島の子供達が給食で、福島産のものを食べさせられる。だから、来ても食べてもいけない。

あと、テレビなどの批判もあった。

TBSの朝ズバのみのもんた、迎合主義はやめてくれ、毎日新聞の依田、いい加減なことを言うな、頭に来て、どこに新聞社が報じたか記憶に無いんですが、福島県産の消費が落ちているというグラフを示し、「これは完全に風評被害が広がっているからですね」といいました。それに対して「酷いことですね」福島県の県民農家を保護するような言い方をしていましたが、残念ながら消費者の方の感覚、判断の方が正しいんです。

23日の福島の反対集会にこのテント村の方々と、バスに乗せていただき、行って来ました。林業の方の抗議に…淡々と話される言葉に対して、私は胸を打たれ、非常に短いセンテンスですが、そのポイントだけお伝えします。

我々、林業の人間は我慢するしかないんだ。何故ならば山を除染しようとしても、腐葉土に絡まっている放射性物質は除染しようとしても取り除くことが出来ない。その腐葉土を取り除いてしまうと、山本来の保水能力が奪われ、自分たちの首を絞めることになるから、自分たちはただ単に時間を待って、放射性物質が弱まること、消え去ることを願うしかない。我々は我慢するしかないんだ。

そこだけなんです。つまり、福島県は山林が70パーセント、80パーセントと言われています。いくら、畑、農地を除染してOKですよと言われたって、テレビで映す目先のすぐそばに山林があるだけに誰が信用して買います?誰がそれを安心して消費することができます?年間20ミリシーベルトまでの生活圏が安全ですよなんていい加減なことを言うような、それを教育しているような、福島県の農産物を誰が食べます。風評被害ではなく、本当に消費者判断なんですよ。みのもんたさん、そのくらい分かって下さい。新聞の偉い責任者である依田さん、新聞で…新聞をとる、とらない判断をしている人がいますから、すべての人が毎日新聞を読むわけではありませんが、朝の情報番組でいい加減なことを言わないで下さい。

皆さんにここで問いかけたい、私は実名、すべてツイッターや何かで間違ったこと、誤ったことには、誤ります。訂正文を出します。まして、福島県から来て、福島の被災者として、こういうことを言っているという風に思われることで効果が大きいと思われるのも嫌なんです。ですので、30年も東京に住んでいると言っています。その私と、みのもんた、毎日新聞の依田、どちらを信じていただけますか?

みのさん、お願いですから、正しいことを行って下さい、福島は風評被害ではなく、福島で物を作ってはいけません。どうせ売れないんですから、作らずに徹底的に除染して、もしくは徹底的に福島はダメなんだと、危険なんだと、そういうことによって誠実さを示し、それで初めて、世界に対して、福島の信頼性、日本の信頼性というのが勝ちうるんじゃないんですか、そのためのマスコミでしょ。TPPでも同じですよ、正しいことを伝えて下さい!よろしくお願いします。

…聞いていて、そのとおりだと思った。確かに外部の人間が福島県に来たり、食べたりすると、それだけ安全という証明になってしまう。そして、その犠牲になるのが子供達なのだ。

(8bitNews) http://8bitnews.asia/wp/?p=9666#.UYaKUKKpUtG

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風評被害のいま

消費者のネット意識調査
1:「福島県」産品の購入をためらう方は2割弱、「岩手県、宮城県、福島県(東北の被災3県)」の産品の購入をためらう方が1割強、「茨城県、栃木県、群馬県(北関東)」の産品の購入をためらう方は1割弱いること
2:「食品中の放射性物質の基準値上限の食品を生涯食べ続けても十分に安全なレベ ルだということ」の理解が、全体の約3割にとどまっていること
3:「基準値以内であっても、できるだけ低線量の食品を希望する」方が約5割に及 んでいること
4:特に福島県について見ると、消費地に比べ、放射性物質や基準値に対する理解度 はほとんどの項目で高く、情報の入手手段はテレビ・新聞等に加え、地方自治体 が発行する広報等からという方が3割と高い傾向であること

食品と放射能に関する消費者理解増進のための施策の方針(PDFファイル) - 消費者庁(4月26日)

事業者の声
・徐々に震災前と同じ取扱いに戻りつつある品目もあるが、ブランド扱いで高値だったものが、今も価格が平均以下に留まるもの、取引が途絶えたままのものがある。
・被災地への応援ムードは、地域や主体で異なり、全体的に薄れつつある。
・学校給食の食材への要求は厳しく、国の基準よりはるかに厳しい数値を定めたり、被災県で地場産が断られたり、なかなか使ってもらえない。
・福島県内でも県産品への理解が低く、生産者の取組を伝える努力が必要。

生産者を含めた事業者等への聞き取り調査(報告)(PDFファイル) - 消費者庁(4月26日)

福島県から遠く離れた岩手県でも
12年の3月には主要な取引先が仕入れ先を他県の生産地に切り替え、戻って来なかった。関西では、福島第1原発事故による風評被害が追い打ちをかけ、売り上げは震災前の半分近くに激減した。

県内水産加工業、いまだ苦境 宮古・田老町漁協、生産能力生かし切れず「工場再開も取引先減っては…」 /岩手 - 毎日新聞(4月16日)

(Yahoo!みんなの政治)

フランシス・ベーコン~土方巽

2013-05-05 | Japan 日常生活の冒険

国立近代美術館
05月04日

近代美術館でのフランシス・ベーコン展、金曜の夜の夜間開館で、祝日というのに空いていた。





05月05日

アドリアーナ荘の人工の池を覗きこむナルシスは変貌し、老いたハドリアヌスは肉と化す。


ベーコン展で土方巽「疱瘡譚」を観た。彼の死後、目黒油面の「アスベスト館」は取り壊されてアパートになっているが、住民は「暗黒舞踏」のことを何か知っているだろうか。歴史を遡るとアスベスト館の土地には「慰廃園」というハンセン病療養所があったのだが、そんなことは誰も知らないだろう。


元藤あき子「アスベスト館の歴史的存在意義」homepage3.nifty.com/hijikata-tatsu…この一文が書かれた年、アスベスト館は閉館、不動産は競売にかけられた。元藤さんも同年亡くなられた。



国民栄誉賞受賞者リスト

2013-04-22 | Japan 日常生活の冒険
04月21日

国民栄誉賞受賞者リスト:王貞治 古賀政男 長谷川一夫 植村直己 山下泰裕 衣笠祥雄 美空ひばり 千代の富士貢 藤山一郎 長谷川町子 服部良一 渥美清 吉田正 黒澤明 高橋尚子 遠藤実 森光子 森繁久彌 2011FIFA女子ワールドカップ日本女子代表 吉田沙保里 大鵬幸喜


千代の富士がこの賞の品格を下げているように思う。黒い噂ばかりの千代の富士にあげたんだから、ジャイアント馬場やアントニオ猪木にあげてもいい。しかし褒賞の基準がいまいちよくわからない。キーワードは「大衆」か?



((((;゜Д゜))) これは怖い

2013-04-17 | Japan 日常生活の冒険


04月16日

((((;゜Д゜))) これは怖いipss.go.jp/site-ad/TopPag…

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ベビーブーマーとベビーブーマー二世の突出が、年を経るとすーっと消えていくのは悲しいものがあるな。



KITTE

2013-04-06 | Japan 日常生活の冒険
04月01日

お役立ち。元中央郵便局の地下街出店リスト QT:東京新名所、KITTE全店リスト timeout.jp/ja/tokyo/featu…



Message Cherry Blossom at KITTE

04月05日 04月06日

KITTE 屋上庭園、広くて気持ち良かった。東京駅の夜景を見ながらお酒を片手にジャズの演奏でも聞ければいいだろな。



「colo」ライブ@自由学園明日館(豊島区)

2013-04-01 | Japan 日常生活の冒険
Night Concert in Cherry Blossoms Season
フランク・ロイド・ライトの建築、自由学園明日館、
満開の桜をバックにショーロ・デュオ「colo」のミニ・ライブ

03月31日

【池部楽器店】 鍵盤ハーモニカ&ギターデュオ「colo」コロ ショーロLIVE: youtu.be/jL03e411NMM


04月01日

@takekazoo 満開の桜を窓越しに、シャルル・バイィ・ロゼを飲みつつ、素敵なコンサート聴けて幸せなひとときでした。写真どうぞ~ flickr.com/photos/tomotub…

1 件 リツイートされました

04月02日

@takekazoo いいですよ~うちの(さぼり気味の)ブログにルポ載せてもいいですか?



【勝手に引用】 柴田弘武「全国別所地名事典 上」のまえがき

2013-03-31 | Japan 日常生活の冒険
http://ja.scribd.com/doc/50617756/%E5%88%A5%E6%89%80

本書は雑誌「月刊 状況と主体」誌(谷沢書房刊)に、1982年8月号から1996年8月号まで、14年間165回にわたって連載した拙稿「蝦夷〝征伐〟の真相」の第二部にあたるものである。その第一部はすでに『鉄と俘囚の古代史』と題して1987年に彩流社より刊行された(増補版は1989年に刊行)。執筆の目的は同書の「はじめに」の項で述べているのであるが、簡単にいえば「別所」という地名をもとにして、いわゆる「蝦夷〝征伐〟」といわれる古代律令国家の東北侵略の真相を明らかにしようとするものであった。

それは故菊池山哉の「別所と俘囚」という論考(『別所と特殊』東京史談会、1966年刊所載)で、全国215ヵ所の別所を挙げて、そこが蝦夷〝征伐〟によって生まれた俘囚(捕虜)の移配地である、という見解に接したことに始まる。

私はその菊池説を検証すると共に、ではなぜ別所といわれる所に俘囚が移配されたのか、そこはどういう歴史的・地理的環境の土地であるのかを解明することによって、俘囚移配の目的が明らかになり、ひいては律令国家の蝦夷〝征伐〟の真相にも迫ることができるのではないかと考えたのである。その答えは第一部、即ち『鉄と俘囚の古代史』で出したつもりである。

ところで第二部というのは第一部で出した仮説、即ち俘囚移配の目的は、主として彼らを製鉄をはじめとした金属工業生産に従事せしめる為であった、という説を実証するために、全国の別所地名の悉皆調査を試みたものである。菊池が挙げた215ヵ所の地名(主として大字地名である)はもちろん、小字やすでに消滅した別所地名までを含めて、文献資料ばかりでなく出来る限り現地調査を行ってその特徴を捉えようとするものであった(ちなみにその第二部は『鉄と俘囚の古代史』刊行時点ではまだ執筆継続中であった)。

幸いなことに私の執筆とほぼ同時並行的に角川書店から『角川日本地名大辞典』(都道府県別)と、平凡社から『日本歴史地名大系』(都道府県別)が刊行され続けていた。特に『角川日本地名大辞典』の巻末には小字地名が網羅されており、そのお陰で小字地名の発掘は大幅に増大した。結果は菊池の挙げた二一五ヵ所を含めて557ヵ所の別所地名が検出できた(ここでは茨城県千代田町、奈良県御所市鴨神、京都府宮津市成相寺などのように、一大字の中にたくさんの小字別所がある場合は一別所と数えてある)。そのほか別所の可能性のある地名も64ヵ所ばかり検出でき、「存疑」として載せた。すなわち本書で取り上げた別所は存疑を含めて総計621ヵ所である。そのうち5ヵ所は連載以後発見したものである。

これら621ヵ所の別所は、本文で見られるように、別所そのものか、又はその周辺に多くの製鉄・鍛冶をはじめ、銅、水銀などの古代金属産業の痕跡が認められ、私の仮説は実証できたのではないかと考えている。菊池が別所を俘囚移配地と主張する根拠については前著ですでに紹介したが、最近前田速夫氏が『余多歩き 菊池山哉の人と学問』(晶文社 2004年)という、菊池山哉の生涯とその学問の特異性を高く評価する好著を著した。そこには菊池の別所論の要領のいい紹介がなされているので、ここで引用させて戴く。

一 共通の名義と共通の特異性を有する別所村は、共通の成因を有する。
二 延喜式に百万束からの正税が計上せられ、普く各国に散在して居った俘囚村が、消えて無くなる筈がない。
三 延喜式所載の俘囚村(引用者註…俘囚料の誤り)の多寡は、別所村の数と大体に於いて合致する。
四 俘囚は早く編戸の民となったが、課役を科する勿れとか、平民と同うせしむる勿れとかあるので、必ずや差別感のある村を生ずるわけであるが、近畿の別所村は明らかに差別されて居る(1)。
五 俘囚村は、其出入り制禁されたやうであるが、別所村に其名残りが残る。
六 近江以東の諸国に於て白山神を祀るものは、エタ族の村か、奥州の俘囚長かに限られて居るのに(2)、別所村には白山神を鎮守とするものが往々にしてある。東光寺なる薬師本尊の寺院ある事、また同様である。
七 別所に慈覚大師建立の薬師堂が現存するが、夫れは俘囚静謐の宿祷によるもので、右寺院に対し源頼朝の所謂源家累代の祈願とは、源頼義義家の奥州俘囚征伐を指すものである。
八 俘囚で度し難いものは、愈々山奥へ追い込まれた様であるが、別所には農耕の民の住み得られない土地がある。
九 俘囚として当然陥るべき業体、諸芸人に近畿の別所村が従事して居った。
十 俘囚は其の管理上、各郷へ一ヵ所位づゝ配置されたかと推定さるゝに対し、別所村も古郷に一ヵ所づゝ存在する。

引用者註
(1)この点は私の調査によれば正確とはいえない。多くの別所は差別されていない。
(2)この点も正確ではない。白山神社はもっと広範囲に分布している。

以上である。(なお文中、現在では不適切な表現があるが、歴史的文献の紹介なので許容して戴きたい。)

もっともすべての別所が俘囚移配地である訳ではなく、菊池も前記論考で認めているように、寺院の別院としての別所があったことも事実である。本稿連載中の一九九一年、吉川弘文館から『国史大辞典』全12巻が発刊された。その中で高木豊氏が別所の項で「寺域内の空閑地、領主のいない空閑地など未開発の地を占定し、そこに造成された宗教施設。占定した土地も開発され、それには地子・地利・官物・雑役・公事などの免除の特権が与えられ、それが別所在住者やその活動の経済基盤にもなった。その初見は十一世紀前半にさかのぼるが、中世後期になるとその造成もみられなくなるばかりでなく、別所の名も消えていく例が多く、末寺化していったと考えられる。したがって、別所の形成とその活動は中世前期の特徴の一つであった。比叡山延暦寺の黒谷別所や、高野山金剛峰寺の東別所などの大寺院の大別所ばかりでなく、地方諸地にも別所がみられる。別所には、特定寺院を離去した僧や、寺院の中心的事業から離れた僧が在住して、遁世・隠栖の場とした一方、聖も在住・寄住して、自行・化地の生活をしている。別所のなかに往生院を含むもの、あるいは別所と同様に考えられる往生院の呼称をもつものもあり、ともに僧俗の終焉の場でもあった。別所の宗教活動としては、迎講・不断念仏・法華八講・涅槃講、仁王講などがあり、別所周辺の人々はこの講会に結縁したり、忌日仏事を委託したりしていて、別所は在地の人々の教化・結縁の場であった。」と記した上で、さらに文献上から検出した89ヵ所の別所を挙げている。

これは現在の歴史学会の定説であろう。そしてこの89ヵ所の別所(比定地未詳のものもある)は同説によく合うことは確かである。しかし菊池及び私が検出した600ヵ所以上におよぶ別所をすべてこの説で解釈することは到底不可能である。例えば菊池も述べるように多くの別所に共通する白山神社と薬師堂の存在、また東国の別所に多い東光寺の寺号、さらに慈覚大師円仁の伝承、またいくつかの別所にある坂上田村麻呂や報恩大師、あるいは僧延鎮の伝承などの共通性なども高木説では説明しきれない。さらに、多くの別所およびその周辺に存在する製鉄遺跡などの金工遺跡の存在、金属関連の地名や神社、伝説の存在などもとても偶然のものとは思われないのである。

私は全国別所地名の存在、すなわち蝦夷の現住地である北東北には極端に少なく(岩手県には一ヵ所もない)、また平安時代初期にはまだ充分内国化していなかった九州南部の宮崎・鹿児島の両県にも全く存在しないという分布の特異性(日向国に俘囚が移配されたのは確かであるが、承和14年〈847〉には俘囚料を減省した理由として「俘囚死に尽くし、存員少なきを以てなり」〈『類聚国史』〉とある。)等からみても菊池説はやはり妥当性をもつと考える。

別所地名について多くの市町村史は、柳田国男説(荘園内に本所の承認を得て成立した新開墾地説)や本寺とは別に修行僧(聖)が移り住んだ所という、高木説的な説明を採用しているが、なかには菊池説を採用している郷土史もわずかながら存在する。すなわち東京都『町田市史』、千葉県『小見川の歴史』、富山県『氷見地名考』、京都府『天田郡の地名(序説)』、鳥取県『東伯町誌』、山口県『ふるさと小野田』、香川県『おおち夜話』、同『財田町誌』などである。

「別所」の初出について一言述べておきたい。高木説によると別所の初見は11世紀前半とされているが、『令義解』によると、701年の大宝令「医疾令」に「女医取婢十五以上。廿五以下。性識慧了者三十人。別所安置。〝謂。内薬司側。造別院安置也〟」云々とある。すなわち律令体制下の女医の養成は婢の中から、十五歳以上二十五歳以下の、性識慧了者の者三十人を選んで別所で養成せよというのである。

ここで問題は女医を別所で養成するということであるが、「令義解」は注釈を行い、「内薬司」の項では、「別所」ではなく「別院」と書かれているとする。その「内薬司」の部分は散逸して見当たらないのであるが、おそらくここは「別所」ではなく「別院」の間違いであろう。仮に「別所」であったとしても、医師の養成機関が官営の寺院で行われたところから見て、女医のそれは寺院の別院という意味での「別所」であることは間違いなく、地名としての「別所」の初出とはいえないようだ。

また承和9年(842)に、いわゆる承和の変(応天門事件)に連座して大納言藤原愛発が京外に放逐されるが、愛発は「山城国久勢郡別墅」において翌承和10年(843)に薨じたと『続日本後紀』にある。吉田東伍の『大日本地名辞書』(以下『地名辞書』と略す)は「河田氏曰 藤原愛発別業址 御牧村旧藤和田若宮八幡宮社域其地なりと云」と紹介している。即ち現在の久御山町御牧の地がそれだという。もしこの「別墅」を「別所」とすれば、これが最も早い時期のものといえるだろう。しかし文意から推してこれは地名ではなく、いわゆる別荘(別宅)の意と思われるので、やはり「別所」地名の初出とはいえないようだ。 同じ『地名辞書』には、承和元年(834)に死亡した桓武天皇の第七皇子明日香親王の墓が久世郡大久保村大久保(現宇治市大久保町)の東、旧旦椋社地後にあるとされ、その墓を「別所墓」というと書かれている。これが当時からそう呼ばれていたとすれば、別所の初出になるが、どうもそのような感じはしない。なぜその墓を「別所墓」というのかも不明である。

また本文大和国の項(奈良県山辺郡都祁村針ヶ別所)でも触れるが、『日本の神々─神社と聖地」4によると、都祁村の甲岡神社は天延3年(975)に甲岡に寺が建てられ、「甲岡別所の観音寺」と称したことに始まるとされる。これを当初からの呼び名とすれば、別所の称号は10世紀後半にさかのぼるといえる。ちなみに菊池は『古写経綜鑒』にある康和四年(1102)の奧跋「丹後国普甲山別所御房」の記録が「今のところ別所の初見です」としている。

本書の章別編成は菊池山哉の「別所と俘囚」に敬意を表して同じ形態をとらせて戴いた。そのため東国や近畿の章は一般に用いられている国別編成とはやや異なっていることをあらかじめ申し上げておきたい。今回原稿を纏めるに当たって、雑誌連載原稿にあった誤りは可能な限り訂正し、また連載後に知り得た事項は書き加えるなり、追記の形で補わせて戴いた。なお本書は月刊雑誌の長い連載が元になっているため、引用資料等に重複がかなりある。また前半部分と後半部分ではその構成にやや一貫性が欠けた憾みがある。これも連載途中から上記『角川日本地名大辞典』や『日本歴史地名大系』などの資料が得られ、より詳細に記述することができるようになったゆえのことであるのでご容赦願いたい。また本書は前記『鉄と俘囚の古代史』と重複する部分(特に奥羽の別所)があるが、これは全国「別所」地名事典という性質上やむを得ないことなので、これもご許容戴きたいと思う。本文中掲載の写真には日付の入っているものがあるが、それは撮影時点の年月日を示すものである。また行政地名は執筆時点のものをそのまま使用している。2005~06年度にいわゆる平成の大合併が行われ、行政地名がかなり変化した。そのため旧地名と現地名の対照一覧をつけたのでご利用願いたい。

2006年8月