木曜日、なんとか、職場を抜け、行くことができました!
法要、実は、母方の伯母のお通夜だったのです。
私の母は四人姉妹の末っ子
その、一番上の姉である伯母が天に召されました。
母と13歳はなれた伯母は、空襲のとき、まだ4つだった母をおぶって逃げてくれたのだそうです。
その私の母は、昭和16年生まれ、50半ばで、早くに病死してしまいましたが。
ちょうど、この子らの年回りです。絵的には、まさにこれだったんじゃないか?
幸いにも、孤児にはならず、
(おじいちゃんは早くに病死)戦後、おばあちゃん(20年ほど前他界)の女手ひとつと、
四人姉妹で、力を合わせ、高度成長を生き、我々を育ててくれた世代の長であった伯母なのです。
これも伯母からの話ですが、おじいちゃんの病死後、おばあちゃんは、四人の子どもを連れ、
近くの橋から飛び降りようとしたこともあるそうで、
きっと、かなり、貧しかった。
そんな家庭を支えるために、長女であった伯母は、中学(高等小学校?)をでてすぐ、お役所に勤めに出、片親家庭の家計を助けたようです。
そして、職場結婚した伯父(伯母の夫、十数年前他界)は、なかなかの人で、
伯母と結婚後、家をたて、そこに、おばあちゃんと学生だった母もいっしょに住まわせてくれていたのです。
それが、「練馬のお家」
古い家と畑と、おそらくは焼け野原だった練馬の某所に、戦後どんどん新しい家が建ち、その中のひとつであった伯母たちの家は、
実質、私の母の実家機能もあり、私も幼い頃しばしば、遊びに連れ帰られていました。
今は新しく立て替えられていますが、昭和30~40年代の当時、伯父の力なのか、伯母の趣味なのか、立派風なしつらえのリビングに、大きなソファー、
(もちろん、子どもはトランポリンとして楽しみ)壁には某の油絵、庭の芝生はいつも手入れされ、松が植えられ、
小さくも、戦後豊かになった日本経済を象徴するように、その家は、いつもリッチな態を現していて、
母の実家訪問は、子どもの心にも、明るく、ワクワクと楽しいものなのでした。
心臓に持病のあったこの伯母は5度も、生死をさまよう手術からも生還し、
本人も言っていたことですが、どこか、達観しているような、動じなさを持った人でありました。
若い頃は大変な思いをし、だからといって、晩年が安泰だったのかどうかは、本人に聞いてみないことには、わかりませんが、
それでも、子どもや孫、ひ孫に看取られて逝った伯母。
どんな人生だったのか、こと細かに知ることはもうできませんが、きっと大往生です。
法要、実は、母方の伯母のお通夜だったのです。
私の母は四人姉妹の末っ子
その、一番上の姉である伯母が天に召されました。
母と13歳はなれた伯母は、空襲のとき、まだ4つだった母をおぶって逃げてくれたのだそうです。
その私の母は、昭和16年生まれ、50半ばで、早くに病死してしまいましたが。
ちょうど、この子らの年回りです。絵的には、まさにこれだったんじゃないか?
幸いにも、孤児にはならず、
(おじいちゃんは早くに病死)戦後、おばあちゃん(20年ほど前他界)の女手ひとつと、
四人姉妹で、力を合わせ、高度成長を生き、我々を育ててくれた世代の長であった伯母なのです。
これも伯母からの話ですが、おじいちゃんの病死後、おばあちゃんは、四人の子どもを連れ、
近くの橋から飛び降りようとしたこともあるそうで、
きっと、かなり、貧しかった。
そんな家庭を支えるために、長女であった伯母は、中学(高等小学校?)をでてすぐ、お役所に勤めに出、片親家庭の家計を助けたようです。
そして、職場結婚した伯父(伯母の夫、十数年前他界)は、なかなかの人で、
伯母と結婚後、家をたて、そこに、おばあちゃんと学生だった母もいっしょに住まわせてくれていたのです。
それが、「練馬のお家」
古い家と畑と、おそらくは焼け野原だった練馬の某所に、戦後どんどん新しい家が建ち、その中のひとつであった伯母たちの家は、
実質、私の母の実家機能もあり、私も幼い頃しばしば、遊びに連れ帰られていました。
今は新しく立て替えられていますが、昭和30~40年代の当時、伯父の力なのか、伯母の趣味なのか、立派風なしつらえのリビングに、大きなソファー、
(もちろん、子どもはトランポリンとして楽しみ)壁には某の油絵、庭の芝生はいつも手入れされ、松が植えられ、
小さくも、戦後豊かになった日本経済を象徴するように、その家は、いつもリッチな態を現していて、
母の実家訪問は、子どもの心にも、明るく、ワクワクと楽しいものなのでした。
心臓に持病のあったこの伯母は5度も、生死をさまよう手術からも生還し、
本人も言っていたことですが、どこか、達観しているような、動じなさを持った人でありました。
若い頃は大変な思いをし、だからといって、晩年が安泰だったのかどうかは、本人に聞いてみないことには、わかりませんが、
それでも、子どもや孫、ひ孫に看取られて逝った伯母。
どんな人生だったのか、こと細かに知ることはもうできませんが、きっと大往生です。