深夜プリン

深夜のプリンは至福のお味❤︎
♪うしなあっても〜うしなあっても〜人生は死ぬまで続く。

オーガストレイモンドの懐中時計

2018-08-22 | むかしのこと


『オーガストレイモンド』の懐中時計

元々の持ち主は、遠縁の伯父。

伯父が亡くなった時、父が形見分けでいただき、

今は私の手元に。

いつだったか、
なんでか、気前よく上機嫌に、
ほいっ!とくれた。




手巻きです。

文字盤も針も、とっても綺麗・・・

蓋にレリーフがあるので、女性物のようだけど。

もらってしばらく使ってるうちに

リングを無くして

チェーンはとれたまま。


銀製で、しばらくしまいこんでると、

ドス黒く錆びてしまいます。

さっき、何気に磨いてみたら、

キラッキラに復活。

(でもすぐ錆びるんだけどね)


ネジ巻いてみると、


チッチッチッチッチッチッチッ・・・


ムーブメントは、錆びてない!!!




一応ヤフオクで、落札相場をチェック・・・

まあ、伏せるほどじゃないけど
値段は伏せます。

まあ、普通です。

もちろん売ったりしません。



昔の人は、毎朝ネジ巻いてたんだろうなあ。

うっかり忘れると、止まってしまうネジ巻き式。

手で巻くなんて、ゆったりしてますね、昔は。

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ほしくびを見せられた日

2017-07-23 | むかしのこと

はじめに

本日のテーマは、タイトルの通り、ほしくび(干し首)でございます。

飲食されながらの閲覧は、お控えくださいますよう、お願い申し上げます。

なので、画像は、載せませんが、ご興味の方は、「干し首」で画像検索!
【注意】後悔しても知りませんよ。



ほしくび(干し首)

打首、ギロチン、

罪人や、敵の首をとって晒し者にする、
という行為は、洋の東西を問わず、どこでも行なわれておりましたが、南米のある地域の昔の風習で、罪人などを斬首したのち、頭部の中身を取り除き、干して、魔除けとして、吊るす、という、
宗教的な行いがあったようで。植民地時代に、それを見た外国の好事家たちに、妙な人気を得たりして、動物などで作ったレプリカが、流通したこともあったらしいが、昔のことですし、そんな人々が買い求めたものの中には、やはり「ヴィンテージ」物も・・・あったんではないか?とわたしは思う。



そんな「干し首」

小学生の時、同じ団地の友人宅で、
なんと、見せてくれた人がいた。

友人の母親だ。

遊んでいると、ふいに、私だけを別室に呼び
見せてくれたのだ。

白い箱に入ってきたそれは、
脱脂綿に包まれて、
子どもの拳くらいの大きさで、
それは、小さいながらも、人の頭部だった。

脱脂綿には、鮮血・・・

鮮血?を見た時点で、作り物と分かりそうだが、
小学生のわたしに、分かるわけがなかった。

あろうことか、その母親は、
「おばさん、これ気持ち悪くて。良かったらこれ、持っていかない?」

くれるって言うのか?😱

「脱脂綿は、毎日取り替えてあげてね」
世話の仕方まで言い始めた。

いらん。首を横に振る。
これ平気な人間なんているのか?

そのお家のお父さんは、海外取材なんかもやる
カメラマンだったので、
そんな趣味の悪い土産品が家にあっても、まあ不思議ではないのです。今思えば。

でも、小学生のわたしには、


それは、


まごうかたなき、


リアル生首。

果たして、ショックを受けた私は、
家に帰ってからも、しばらく固まっていた。
どえらい秘密を打ち明けられた。
「お父さんやお母さんには、言わないでね」たしか口止めもされた。

小学生の私は、ショックで、混乱した。
あの家には、今だ鮮血を流し続ける、謎の生首があって、しかも秘密だと言う。

もう少しで受け取らされそうになったけど、
どうしよう?

秘密と言われて、なんか、重い罪を背負わされた気がして、なんとも恐ろしく、心細くなった。

夜、父の帰宅をみて、耐えきれなくなった私は、

両親に泣きながら、顛末を報告した。

「そんなの、おもちゃよ」母は笑った。

「子供になんてもの見せるんだ!!」父は怒った。

そう、それだよ!

私は、その父の怒りにふれ、やっと、「生首」の呪縛から解放されたのだ。

生首よりも、怒ると怖い父。うちには、父がいる。

首が本物であるか否かは、取り敢えず問題じゃない。(作り物であることは、後々理解できる。)

常識を超えた行いに、鉄拳を振るうことができる、良識ある、大人(父)の怖さ。

私は、この父の怒りに、どれだけの安堵をえたか。

 

心の琴線ギリギリのキワモノ。子どもの理解力を超えるものは、やはり、見せてはいけないのだ。映画でいったら、R14指定だ。

この事件?結局、悪いのは、友人の母親ってことですね。少し、度を超えてしまった。ま、悪い人じゃ、ないんですけど。

考えて見れば、夫の海外出張の妙な土産物に閉口していただけ、と思われます。

 

 

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テクマクマヤコン

2017-06-03 | むかしのこと


 

ピンタレストで見つけました画像です

https://jp.pinterest.com/pin/558376053789837524/ 

『ひみつのアッコちゃん』魔法のコンパクト❤の雑誌広告 買ってもらってましたよ^^なつかしーー

ピンタレストの画像検索にはまってまして、

いろいろ、好きなもの検索して、

いーい目の保養^^してます(買い物目的じゃ、ぜんぜんない。高いモンばっかです!)

某日、私の“ビンテージコンパクト”の検索画面。

見てたら、おお、これ、

テクマクマヤコン 魔法の鏡だぞ?って思ったもの、貼りました。

とか、

とか、

とか、

とか、

とか、

とか、

 

とか、

ぽくない?^^

 

http://www.toei-anim.co.jp/lineup/tv/akko/


平成版 アッコちゃん!

http://comip.jp/spinel/works/akkochan/

 

 

 

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ストリートビューで探訪する、誰も知らないMy昭和の街 「橘湯」を探して

2017-05-02 | むかしのこと

さて、超マニアック!ストリートビューで探訪する、

誰も知らない、My昭和の街 板橋区志村坂下シリーズ。

興がのってるうちに、続きです。

 

件の都営団地(私の古巣)の近隣を見ていきましょう。

右側が更地になった、都営団地跡。

ビューですすむと・・・・はい!

右側に団地の姿が残ってますね!

左側にはファミマができてますが、手前の駐車場ふくめて、この敷地には、

かなり後まで、木造長屋式、平屋の都営団地が建っていました。

世帯ごとに垣根でしきられ、通路は舗装されてませんでしたね!

さらにまっすぐすすむ。左の建物も、都営団地。新しいタイプで、私の居た建物よりも、広い間取り。

昭和50年代半ば頃に、建てられたものです。その前にはこの敷地、

「橘湯」という、大きな銭湯が建っていたのです。煙突に瓦屋根、番台さんが居る、昔ながらの銭湯。

この周囲がまだ一帯、木造団地だったころも、内風呂を持っている家庭もあったようでしたが、

うちには、なかった。通ってました。楽しかったですよ。^^

当時はまだ(昭和30〜40年初頭)薪を使っていたようで、建物の横に、けっこう大きな材木置き場がありました。

自分の背丈より高く積まれた材木置き場。昼間でも少し薄暗く、これがまた子どもにとっては、ワクワクゾーンなのでした。

今考えると、焼却炉にしろ、電気室にしろ、この材木置き場にしろ、危険な遊び場がいっぱいでしたね。

橘湯自体は、その後、この裏手の商店街に引っ越して、営業されてました。今はどうなってるか? あとで行ってみましょう・・・

 

さらに、マニアックにすすんでみましょう。

例の電気室の前の小道、ビューで入っていけます!

振り返って見ます。北のデンワ将軍が立ってますが、ムシします。

正面を向くと、

左は11階建ての、同じく都営団地。これも相当古いものです。

右の空き地は、以前ですと、児童公園。当時は子どもたちがたくさん遊んでました。

 

元児童公園を正面から見る。奥中央のアパートは、当時のもののまま。

ここを左にいって、

この通りは、一応商店街。右の建物は「坂下診療所」となってます。昔は大きな産院でした。

たくさん、子どもが生まれたんでしょう。(私もその一人) 

真ん中の建物は薬局ですが、昔は八百屋さんでした。

八百屋さんの隣は小さなアーケード状のマーケット。

左は、お菓子屋さん、中央はお肉屋さん、奥には小島屋さんという、お惣菜屋さんがありましたが、

この小島屋さん、2代目の方が営業して(同級生だったかもです)

現在このアーケード手前に移動(元はお肉屋さん)地元ではけっこう、人気の名店なようです。

「結び昆布」が板橋のいっぴんに選ばれましたそうで・・・・

https://tabelog.com/tokyo/A1322/A132205/13097292/

先代のおばさんが作っていた、栗金団は、お正月、我が家にかかせないものでした。(とっても美味しかった!) 

 

さて、この商店街を北側から見たところ。この高層都営団地の下にも、お店がいろいろ入ってるんですが、

もちろん、私のいたころとは、お店もだいぶ変わっています。

手前の塾は、昔、お豆腐屋さんでした。

昔は皆このあたりで、日量品も日々の食材も調達していたわけです。

今は周りに、大型スーパーも数多くありますので、まさに、忘れられた、商店街。

さて、回れ右して北進。

右の薬屋さんは、変わりありません。

左のオレンジのビルは、三光堂という、古くからあるパン屋さん。

ここの調理パンも、よく食べました。カレーパンも、板橋のいっぴんに選ばれてます!

https://tabelog.com/tokyo/A1322/A132205/13045617/

 

この交差点の右奥には、ガソリンスタンドがありました。

さて、橘湯はこの奥。 にあるはず。

右側の白いアパートの下に・・・・

左は教会。さて、橘湯は・・・・・

 

あ・・・なくなってました・・・・

その名残のように、コインランドリーがあるだけ・・・・・

 

 

 

 

 

 

 

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子どもにとって、目にした最初のものが、最高の・・・・

2017-05-02 | むかしのこと

ゴールデンウィーク中日の平日。

ちゃっかりと休ませていただいてます。

夫と娘は通常とおり、出社&登校。

一人、地味に過ごしてますが、

まったく暇ってわけではないんですが、

私、GoogleMapのストリートビューが大好きで、

おもに、自分の生まれ育った場所(板橋区志村坂下、坂上界隈)の変遷を、ときたま

偵察しているのですが、

 

 

SHOCK! 

 

あの都営団地、なくなってるじゃあないの!!!

環八沿いに建つ、都営住宅群の一角(私の古巣)

反対側からの画像には、まだその姿が写っていた。↓↓↓↓↓

中央のグリーンの建物3棟。

昭和45年頃の築なので、そうとう古くはなっていたので、まあ・・・・

仕方ないけど・・・・SHOCKです・・・・

 

昭和30〜40年代 、

団地というものは、

http://suumo.jp/journal/2013/06/11/45643/

昭和30~40年代、高度経済成長期まっただ中の日本を象徴するもののひとつに「団地」がある。地方から都市部に多くの労働者が移り住むことに合わせて、各地に建設された団地。当時の先進的な住宅設備を備えていたこともあって、モダンな生活を夢見る家族にとっては憧れの住まいだった

↑ まあこれは、公団住宅の話ですが、

今、また新しくリノベーションされているものもあったり、

昭和レトロな味わいに、平成の若者にも再注目?されてる団地。

取り壊されてしまった私の古巣も、今後どのような姿で生まれ変わるかは、わかりませんが、

消えていく昭和の団地の姿を、ここに、残しておこうと思います。

 

当時の間取り

 

こぎれいに描き起こしてみましたが、狭っ!!

おそらく33平米くらい。

ここに、一家5人。子どもたちがまだ、小さかった頃はよかったんですが、

私が居たのは、団地といっても都営住宅なので、所得上限があり、(つまり、本当は困窮世帯に提供される住宅なので)ある程度の所得のある世帯は、引っ越してください、と、

都の方からいわれ、やっと重い腰をあげて引っ越したのが、私が大学の時だが、

まあ、狭かった・・・・下にガタイのいい弟が二人。限界だった。

昔の都営は狭かった。この少し後に建てられたものは、もう少し広く、

今は60平米はあるところもあるようですが、

いま、埼玉に住んで思うのは、都営団地でなくても、昔でなくても、東京の住宅は本当に、狭いですね(高いし)・・・・便利さと引き換えで、仕方ないけれど。

 

 

さて、

40数年前の、私の世界のすべて。

駆け回って遊んだあたり。

小さな子どもにとっては、目にした最初のものが、最高の遊び場となります。

写真中央にある建物は集会所。この団地の自治会で使用されます。

月イチで、草ムシリもありました。(大変)

この反対側。

この四角い敷地には、送電線の鉄塔が建ってました。いつからか、取り払われてます。

 

 

↑  赤いおばさんのいるところに、焼却炉がありました。通学路でもありました。

植木の位置なんかはかわってませんが、もっとこんもりしてて、かくれんぼにぴったりでした。

昔はゴミ、こんなとこで燃やしてたんですね。

通路をはさんで建っている小屋は電気室かなにかだと思います。

写真からは、想像もつきませんが、焼却炉も電気室の小屋も、わくわくする遊び場だったんです。

写真右下、集合ゴミ収集所。

当時は団地内の小学生の、集団登校の集合場所でした。

中央、4ほんのイチョウの木。大きくなったなあ。

ま、今はすべて、更地になってしまった訳だけど。 

 

さらに昔。

ここら一帯の都営住宅は、鉄筋化されるまでは、木造平屋!でした。

新婚の両親も、木造のころ、入居。

二世帯長屋式で、一応庭があって、垣根でしきられてました。

庭にヤマブキやツツジが咲いてたのを、覚えてます。

木造団地、↓

 ← 写真は、これ、足立区のものですが、こんな感じ。

https://www.city.adachi.tokyo.jp/hakubutsukan/chiikibunka/hakubutsukan/manabu-toejutaku.html

 

 

My昭和シリーズ。

写真あげて、思いつくまま、気ままに、綴ってこうと思います。

まあ、人様からは、なんのこっちゃ?な内容でしょうが、



ブログは人のためにのみあらず・・・・^^

 

 

 

 

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フランケンといえば・・・

2017-04-29 | むかしのこと

小さかったとき、親戚に、

とってもフランケン顔の伯父さんがいたのですが、

でも、残念なことにハンサムではない(伯父さんスミマセン)

ほぼリアルフランケンだったので、

小さかったわたくしは、会うたび恐怖で爆泣きしたっけなあ・・・

失礼なチビだったなあ・・・

 

  イヤ、ホント、マジで似てたのよね・・・

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ミートソースを食べたくなるとき

2017-01-31 | むかしのこと

今もあるんだろうが、

粉末インスタントのミートソース。

子どものとき、母が作ってくれた、

玉ねぎと挽き肉を炒めて、そこに粉末のソースを入れて、作っていた、あれは、多分

『ルーミック ミートソース』だったはずだ。


昭和40年代、ほかに類似品が無ければ、
それにちがいないと思う。

あのミートソースの味。
いま食べたら、どうなんだろう?
多分、大きな声では言えないが、
チャチイ味にちがいないと思う。

でも、ミートソーススパゲティを食べたいな、
と思う時、どこかであの味を求めてしまっている。
もっと美味しいモノも食べているのに。
きっと今食べたら、がっかりするかもしれない味なのに。
それでも、子どもの時の私にとっては
まぎれもない、ご馳走の味だったのだ。

よく、土曜日の夕食は、このミートソース、
が、お約束だった気がする。
テレビで、ディズニーパレードを見ながら、
これを食べ、子どもなりに、外国気分🇺🇸を味わっていたのだ。

パスタなら、イタリアンだが、当時の私の知識で外国っていったら、

ミッキーマウスとサマンサの国、アメリカ。

マクドナルドが日本上陸する前のおはなし。

 


あのミートソースの味、
もう一度確かめたい気もする。
いや、やめといたほうが、いいのかな?



昨日のお昼。デニーズで。
美味しかったけどね。

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10時のおじさん

2017-01-28 | むかしのこと
お正月に、弟達家族と新年会をした時のこと。

ふいに上の弟が、

「姉ちゃん、10時のおじさんって、どんなイメージだった?」と聞かれた。

10時のおじさん

それは、亡き父が作り出した、

子どもが、夜の10時近くまで、騒いで寝床につかないときに使われる、恐怖の空想キャラクター。

「寝ないと、10時のおじさんが来るぞ〜」

なんだ、10時のおじさんて?
どんな人なのか、どんなルックスかは
わからないんだけれども、
父の口からこれが出ると、子どもなりに
なんか、ヤバいと感じて、大人しくなっていた。

まあ、なまはげ的👹なものです。

で、その10時のおじさん、

私たち子世代の子育てにも伝承されていた。

弟宅でも、使っていたようなのだ。

うちの娘にも使った。効果のほどはわすれてしまつたが、なにしろ、「口裂け女」みたいな
はっきりしたビジュアルがないためか、今の子には、説得力が足りないのかもしれない。だって、父の出まかせだもの。ただ、あんまりはっきりとしたイメージがないのも、逆に想像が膨らんで怖い気もする。

で、私は三兄弟なんですが、
10時のおじさんのイメージは、
当然、三兄弟バラバラ。

昭和40年代初頭の頃です。

私のイメージは、
黒いマントにシルクハット🎩
怪人二十面相とか、黄金バットのイメージ。

上の弟
胸に10と書いた、囚人服を着たおじさんのイメージだったそうだ。あんま、怖くないぞ?

下の弟
明星チャルメラ(ラーメン)の袋に描かれた
あの、チャルメラのおじさんのイメージ。
ほのぼの💧全然怖くなくない?

そおいえば、子どもの時怖かったもの。

うちの近所に来る
夜鳴き蕎麦のチャルメラ

けっこう怖かった。

色々な鳴らし方があるんでしようが、

うちの近所に来るのは、

みよーーに陰鬱な、メロディーで、

これ、鳴らしてるのは、絶対人間じゃない!
と子どもの頃、思ってたんでした。

一緒に寝ていた母親に、コレはなんだと聞くと
「お蕎麦屋さんよ」と教えられたけど、
どうにも、お蕎麦屋には聞こえなかった。

恐怖のチャルメラ。


夜の鳴り物ってなんか怖い・・・












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死後の世界はやっぱり 最終回

2016-08-14 | むかしのこと

死後の世界はやっぱりあるんじゃないかと思う 最終回

 

前回から、だいぶ間があいてしまいました。

なにしろ風邪をひき、モーローとしたまま、繁忙期突入。喉と節々が痛くて、業務こなす以外、グッタリ何もする気になれず・・・・

床に伏しながら、体操の内村選手、ダブル金メダル!!!!に拍手したり してました。

まだまだ終わらないリオ。女子バレー、どうなるかなあ? 錦織も気になります

 

さて、死後の世界って、やっぱりあるんじゃないか?と思わせる所以、

 人の意識の所在、まあ、「心はどこにあるのか?」みたいな疑問なんですが・・・

そおいう分野って、科学で研究してもあんまり意味がない・・・・

「生きてる間が大事」な訳で。死んだ先のことなんて、

宇宙の果てがどこにあるかを考えるくらい、ムダなことですから。

未研究の分野。でもあきらかに、やっぱりあるんじゃないか?と思わせられた体験を書きます。

 

父に続き母も不治の病でした。脳の病気(脳腫瘍)でした。

本当は自分の胸にしまっておけばいいようなことかもしれないんだけど。

もう四半世紀も昔のことです。 まるで鉛を流し込まれたかのような辛い一年間でしたが、

辛かった思い出は、すっかり過去のものとなったから、こんなこと書いてみてもいいかなと。

 

亡くなる、数ヶ月前の母の意識、というか、認識力がいちじるしく損なわれ始めた頃、

いろいろな幻聴や幻視のようなものが、始まったのです。

よそに住む下の弟が今そこに来ていて、そこにいるじゃないか!と何度も訴えてきたり、

壁に一面文字が書いてあって、ひとりぶつぶつとそれを読んでいたり・・・・

当時は私も戸惑いました。闘病が辛すぎて、とうとう精神にきてしまったのか?と思ったりしたのですが、

お医者さんによると、それもこの病気の進行による症状のひとつではあったのです。

しかし、

そうはいっても、

これあきらかに、お迎え来てる!?と思わせるような発言が、そのなかにあったのです。

もう何年か前に亡くなった、母の姉の旦那さんの、Pちゃん(仮名)が、さっき来ていたんだ!と。

母からこれを聞いた時、さすがに少し、気持ち悪かったのです・・・!!

しかも、お迎えならば、一昨年先立った父だろう?なんでPちゃん(仮名)?

亡くなった人たちに対して不謹慎ですが、Pちゃん(仮名)もしかして、母のこと好きだった?とか・・・

今思うと、そんなことを考えてしまいます。まあ昔のことですから、もうどうでもいいことなんですけどね。

 

一時退院してすぐに、そんな状態になったもんですから、すぐさま再入院。

病室でも一週間ほど、そんな様子だったでしょうか・・・

そんな頃、私が見舞いにいくと、また誰かと話している様子・・・・

母にしか見えない誰だかに、「いやーーーえらい目に会いましたよおおお」とか言ってたのです。

え?大変なのはむしろこれから、まだ闘病は終わってないのに・・・

まるで、まるで、天国にいって、天国に先にいっていた知り合いにでも会って話しているかのような、そんな風に私には聞こえたのです。

これ、意識だけはもう、アッチへ逝っちゃってるな・・・と。そう感じたのです。

そして、それから母の意識はだんだん遠くなっていき、再入院から二ヶ月ほどして、静かに息をひきとりました。

長く辛い旅を終えて、ようやくゴール!!したかのような、安らかな、晴れやかな表情をしていました。

病気が発覚する少し前に私が見た夢。

光さす高い雲間に母が昇っていく夢。まさにその光の世界にようやく母は昇り詰めたのだ、と思えたのでした。

 

結局本人には詳しい告知をせず、それでも自身の身体のこと、母はなんとなく、先の長くないことを予感はしていたかもしれません。

でも、死を本当に覚悟できる人間なんて、いないんだなあ、と。 

ただ、命ある者の性というか、絶望に追われれば、追われるほど、わずかでも、光を感じたところにすがりついていく。

マヒが残って歩けなくなった時も、立って歩いて、生活していく事しか考えていなかった母。

「前向き」といえば、いい言葉かもしれないけど、前向きに考えるしかないんですね。絶望すればするほど。

生きようとする本能って、ただただ、超前向きなんですね。

 

前向きなまま亡くなった母。

ごくたまにですが、夢にでてくる母は、すごく元気。

自分は治る、何年かでも、生きてみせる!っていう意識の強かった母だから、

夢の中では、どうも、治ったことになってるんです。 アレ?

なんか疲れる夢なんですが・・・

 

 

 

 

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死後の世界はやっぱり その四

2016-07-28 | むかしのこと

父が逝って、二年後に母も他界。

父よりも大変なことになった、まる一年間の母の闘病は、本当にキツイことの連続でした・・・

そして、この闘病がはじまる少し前に、こんな夢をみたのです。

 

昼間ですが、少しうたた寝をしてたんです。すると、

よく、教会とかの宗教画であるような、光景。

高い空の雲間から、まぶしい光がさしこんでいて

その光に向かって、母がぐーーーーーんっと、空高く昇っていくイメージを見たのです。

なんだろう?と思いましたが、頭の中には、あるメッセージが残されていました。

それは、「母が遠くにいってしまう」

不吉さとか、嫌な感じはありませんでした。ただ、そのことを知らされた、という感じ。

 

その夢を見て、数週間かしたころ、母から「大変なことになったから、今度病院に付き添ってほしい」と電話がありました。

脳外科の精密検査。そして結果は、かなり悪いものだったのです。

もうその時は、夢のことなど忘れ去ってましたが、今思うとあれはまさに、

天からの「お知らせ」だったのでしょうね・・・・

 

最近、夫にこのことを話したら、夫の知り合いにも、同じような夢、というかイメージを見た!という人がいたのです!

そして、ごくごく近いお身内の方が亡くなられたそう・・・・昔のことですが。

うーん  三途の川とかお花畑とか、雲間に昇ってくとか、みんな見るイメージが共通してるってことが、なんだか興味深いです。 

 

さて次回、最終回

極めつけ!お迎えってあるんだ! 編  

乞うご期待!  (誰が期待するんだ?)

 

 

 

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死後の世界はやっぱり その参

2016-07-27 | むかしのこと

ポケモンのせいで、すっかり先送り・・・・ 

 

 シンクロニシティっていうのでしょうか?

日曜日、母のこと書こうとしてたら、夫が急に、母のこと言い出す!

「昔、お義母さんが作ってくれた、カボチャサラダ作ろうと思って。」と 

カボチャ? 買ってたわね? そういえば・・・・・・・・・

 

想えば、蘇るもんなんでしょうかね? 人の魂って・・・

母の生きていた頃のあれこれを思い出す、というよりも、

「母と過ごしていた頃の感じ」を思い出します。

もしかして、遊びにきてくれた?お盆だし・・・

 

甘やかな、華やいだ感じ。少し娘気分に戻れたような・・・そんな感じがします♪

「お母さん」というのは、子どもの心にうるおいと安らぎを与えてくれる存在なんですね。

やっぱり娘として、いろいろ甘えていたんだなあと感じます^^

母娘ケンカもしましたし、普通の母でしたが、その存在が大切。偉大なる「普通」なのです!

 

さて、母にまつわる、今思い出すとちょっと不思議なハナシ。

なにしろ、闘病生活がからむことなので、なかなか筆(キーボード)が進みません・・・・・

なんか、闘病記になってしまって。実際そうだからなんだけど・・・・

少々お待ちください・・・・・・って、誰も待ってないって。

 
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死後の世界はやっぱり その弐

2016-07-22 | むかしのこと
今日は、涼しくて助かります
寒いくらい
だからか、久しぶりに食べたくなった!

今日の晩御飯


閑話休題


いまから四半世紀ほど前のこと

父は、癌でした。
二年ほど闘病して、自宅で療養中に亡くなりました。


術後一年経った時は、とても元気になり、定年後のアルバイトを始めたり、一人でバイクで出かけたり、
そんな頃私も結婚し家を出ましたが、
その後一年、やはり他臓器への転移が疑われ始め、心配して過ごしていたある日のこと。
私の新居に、明け方電話がきたのです。

明け方に2度。

1度目は、眠っていて気がつかず、
しかし、2度目の電話が鳴る直前、
実家にいるはずの父が、
私のもとに現れたのです!


夢?かもしれませんが。

来た、としか思えない。


父が、私の寝室の入り口に立って、
多分私を見ていた?

電話に気がつかない私の寝ている様子を、しばらくみていたんでしようか、
私が意識を戻すと同時くらいに、「・・・・(もう)何も言うことはないか・・・」とうつむいて、出て行ったのです。

目をさますと同時に、2度目の電話がなり、弟と母から、父が亡くなったことを知らされました。


その後は、お葬式やらなんやらで、その夢の事は、忘れてしまっていた・・・


父は、心臓にも少し疾患がありましたので、癌の治療が、心臓にも何かしらの負担をかけていたかもしれません。
あっという間の心臓発作でした。

明け方、目を覚ました母が、息を引き取っていた父を見つけ、連絡してきたわけです。1度目は出なかったので、2度かけたそう。

検死の先生によると
亡くなった時刻は、夜中の2時から3時くらいの間。

そして明け方うちにやって来た・・・

つまり、息を引き取ってからしばし、父の意識は、現世とあの世の間を、彷徨っていた、としか思えないのです。
自分が、死んだ、と認識もして。

ひとの意識と言うものは、なんとも不思議なものです・・・

夢とか、人の意識って、どこにあるもんなんでしょうね?


次回、母の死編。つづきます!


あ、ラーメン食べました



美味しかった(^_^)
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死後の世界はやっぱりあるんじゃないかと思う その壱

2016-07-22 | むかしのこと
7月のお盆は終わりましたね。
やっぱり地獄の釜が開くのは、8月のお盆ってイメージです。

霊感など、とんとない私。
なんか見た、とかの体験もありません。

ふたつのお盆に挟まれたこの時期だからか、もう20年以上も前に亡くなった両親との、今考えると、ちょっと不思議な体験を思い出します。
あまり人に話したことはなく、
何となく胸にしまっていた、いくつかの体験を、記しておこうかな、と。

体験というか・・・まぁ、夢です。
半分眠っている状態。
この時の人の意識は、必ずしも
本人の脳内に留まっているのか?どうか?
思う相手の脳内に、自分の意識を飛ばして、何かを伝えるということが、どうもできるんじゃないか、と私は思うのです。
意識的でなく無意識に。


つづきます
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The Beatles arrive in Japan - 29 June, 1966

2016-06-26 | むかしのこと

50年前のNEWSです。↓↓↓↓↓↓

50年って、もう歴史的数字よね。

https://www.youtube.com/watch?v=JgehLBGkbJE

50年前、私の母は産院ででも、このNEWSを見たんだろうか?

このニュースでは、台風がいったあとこの、ビートルズ台風が・・・と言ってます。ふうん、台風もきてたのね。

Happy Birtyday !自分 (生まれたのは29日じゃないけど)

祝ってくれる家族がいることに感謝 

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私を支える「たらこ弁当」の思い出

2016-04-16 | むかしのこと

高校って、お弁当なのよね。

今までの弁当づくり、部活とか、学童の夏休みとか、期間限定だから、頑張れた。

でもこれからは、毎日だから!

毎晩、夕食をつくってれば、おかずの残りで、できるんでしょうが。ままならないのよね。

ハンバーグとか、作り置きすればいいんでしょうが・・・

毎日のこと、慣れてしまえば、どってことないのかもですが・・・・

で、ひとつ気持ちの拠り所にしている、過去の記憶があります。それは、

私が高校のとき、母がもたせたある日のお弁当。

ごはんと、おかずスペースに、焼きたらこが、ころん、とひとつだけ「たらこ弁当」

母も共稼ぎで、私の他に弟の弁当もあったわけで、

ああ、なんか、お母さん、いろいろ無理があったんだろうな・・・追いつめられて、やっちゃったんだな・・・

でも、ハズカシイから、無理な時は無理して、作ってくれなくてもいいのにな・・・と当時は思ってたんですが、

文句あるなら、自分で作れ!よね?

そう、いっつも素敵なお弁当を用意してあげれなくたって、構わないのよ。

焼きたらこひとつのお弁当だって、堂々と持たせりゃ、いいんです! やなら、自分で作りな。

うん、先週のお弁当の出来は、あの「たらこ弁当」より数段マシ。

母、底辺で支えてくれてます。

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