待つ、その瞬間も傍に
第51話 風待act.5―side story「陽はまた昇る」
山の浄闇が密やかに、言葉を樹幹へ吸いこんだ。
ミニパトカーに寄りかかりながら佇んで、光一がこちらを見ている。
闇透かす眼差しを見つめ返しながら英二は言葉を続けた。
「華道部の後輩から告白されていたんだ、周太。それを見て思ったんだ、俺、捨てられても仕方ないなって、」
「周太が、捨てるって言ったワケ?」
透明なテノールが隣から訊いてくれる。
その声に英二は軽く首を振った。
「いや、言ってない。彼女いるか訊かれて、好きな人がいるって俺のこと、言ってくれたらしい。それ聴いた時、嬉しかったよ。
だけど電車に乗ってるとき、考えていたんだ。ほんとうは周太、女の人と結婚した方が幸せになれるのかな、って…子供も出来るし、」
子供。
このことはずっと考えてきた、周太は一人っ子長男だから。
周太の母にしても本当は、孫の顔が見たいのではないだろうか?
あの3月に英二の父が言ったように、自分は本当は湯原の家にとって、邪魔なのではないだろうか?
そんな疑問を素直に英二は口にした。
「それで、俺は保護者でいるべきかなって思って。だから、周太が無事に退職したら俺は、湯原の家から出る方が良いかな、って思っ」
「馬鹿言ってんじゃないよ、」
透明なテノールが鋭く遮って、英二は言葉を呑んだ。
見つめた先で無垢の瞳が真直ぐ見つめてくれる、そして光一は口を開いた。
「周太の立場は普通じゃない。もし周太が普通に女と恋愛して、結婚して、幸せになれるって、本気で思うワケ?
女じゃ、周太のことを護れないのは当然だ、周太も自分自身を護れるか解らないよ。そんなこと、とっくに解っているだろ?
この危険はね、警察官を辞めたからって終わるのか、本当は解からない。そんなこと、おまえ、一番わかっているはずだよね?」
真直ぐな視線で英二を貫きながら、言葉が容赦なく引っ叩く。
言葉に刺されながら英二は、光一の言葉を聴いた。
「おまえ、自分でも言ってたよな、あの家のワケ解からない連鎖。なぜか全員が銃に関わって、必ず銃で殺されて死んでいる。
周太のじいさんは、学者になったのに銃で殺されたんだ。曾じいさんだってそうだ、エンジニアになったのに銃で死んでるんだよ。
ふたりとも軍人を辞めて民間人になったのに、銃で殺されたんだ。オヤジさんなんて退職していなくても、やっぱり銃で死んだよなあ?」
周太の祖父、晉は太平洋戦争当時に学徒出陣し、コードネームを与えられ狙撃手を務めた。
曾祖父の敦も年代から考えて日露戦争に出征している、それも家柄から士官だと考える方が自然だろう。
けれど光一の言い方は敦の件にも確定的な気配がある、気になって英二は口を開いた。
「光一、曾おじいさんについて、何か調べたのか?」
「ああ、調べたんだよ。まだ裏付けはとれちゃいないけどね、曾じいさんも狙撃手か砲兵だ、それも士官としてね。で、たぶん代々だ、」
テノールの声に怒りが籠る。この怒りは湯原家の連鎖と、英二の動揺と、両方に対してだろう。
それならば、自分が両方の怒りを受けるべきだ。あの家を護る立場を選んだのは、自分なのだから。
あの家の跡取りと婚約して、妻にする約束をしたのは自分。そうやって家を護ると決めたのは自分の意志。
それなら自分が「家の連鎖」に向けられる全てをも負うべきだ、そんな覚悟が肚に座って腰が据えられる。
いま鎮まりだした心を見つめて、英二は山っ子の声を聴いた。
「はっきり言ってやんよ、周太はね、道を間違えば殺される。この連鎖から逃れるのは、難しいね、」
言葉に、心が撃ちぬかれる。
「…やっぱり、そうなのか?…周太は、このままだったら…あの任務に就いたら、そうなるのか」
ずっと、恐れていた。
恐れていたのは、気づき始めていたから。
気付いていても見たくなかった、けれど、言葉にされてしまえば現実を帯びて迫る。
「そうだよ、ナンの因果かねえ?銃で殺せば銃で殺される、それがアノ家のメビウスリンクだよなあ?とっくに解かってんだろ、おまえなら、」
低く響くテノールが今までの事実を「メビウスリンク」と言って、突きつける。
あの「50年の連鎖」以上の負の連鎖反応を、光一は見た?
そんな問いも封じられたまま、テノールの声は続けた。
「いいか、これは警察官を辞めたから逃れらるかナンて解んないことだ。辞めなくたって逃れられやしない、ドッチも手詰まりだ。
だから。本気で周太と連れ添うなら、普通じゃ無理だ。同じ男で同じ警察官でなきゃ難しい、なにより、本気で愛してなきゃ無理だね。
全部を投げ出しても、自分自身を盾にしてでも護って、周太を愛そうってくらいでなきゃ無理だ。だから俺は、おまえに負けたんだよっ、」
真直ぐな声が、光一自身も刺すよう吐かれた。
真直ぐ見つめてくる透明な目が英二を射抜く、そして透明なテノールが告げた。
「さっき、おまえが言った通りだよ、俺は家を捨てられない。親が死んじまった後、育ててくれたジイさんとばあちゃんを捨てられない。
オヤジとおふくろを馬鹿にしたヤツラへの怒りも捨てられない、俺は、最高のクライマーになることも山も捨てられないんだよっ、
こんな俺はね、所詮、現実では周太と結ばれっこないんだ。それに元からソンナ繋がりじゃない、人間としての道とは別モンだ、だからさあ、」
深い山の浄闇に、山っ子の聲が透明にとけていく。
融けながら低くテノールは、透明な涙と一緒に目の前でこぼれた。
「だから、俺は周太のこと、おまえから奪えなかったんだよ。俺には出来ないんだよ、一生連れ添って護ることが許されないんだよ。
はっきり言ってやる、おまえしか周太のこと護れないんだよ。だから俺は、おまえを周太から奪うことも、出来ないんじゃないか…っ」
痛切な聲に、英二は寄りかかったミニパトカーから背中を離した。
泣いている山っ子の前に立って、真直ぐ向かい合う。同じ高さの眼差しで見つめ合って、光一は唇をひらいた。
「いいか、俺はなあ、おまえも周太も、大切なんだ。だから邪魔したくないんだよ、だから俺、結局は独りになるって覚悟もしてんだ。
おまえらは結婚するだろ?俺は誰か別のヤツと、女と結婚するんだよ、結局、俺は、本気で好きなヤツとは、むすばれないんだ、
どっちとも連れ添うことは出来ないんだよ。だから俺はおまえと『血の契』が出来たの嬉しかったんだ、なのにさあ、ばかやろうっ、」
押し殺した聲が英二を叩いて、透明な目が涙に怒る。
零れた涙を唇に呑みこんで、そして光一は微笑んだ。
「マジ、おまえ馬鹿。ちょっと女から周太が告白されたくらいで、揺れてんじゃないよ。こんな馬鹿に惚れて、俺も馬鹿だね、」
端麗な唇を笑ませて光一は『MANASULU』を見、そして涙の眼差しのまま英二に微笑んだ。
「1分前だね、スタンバイするよ?」
そう言ったテノールはもう、普段の飄々としたトーンになっている。
けれど英二は長い腕を伸ばして大切なパートナーを抱きしめた。
「ごめん、光一、ごめん。俺を赦してくれ、」
赦されるなんて、本当は思えない。
本当は光一は、こんなことに引き摺りこんで良い存在じゃない。
遠い時の向こうから周太に絡まるメビウスリンク、叶わない想い、立場との狭間。
こんなことに光一は泣かせて良い存在じゃない、それなのに、逃げることなく向き合ってくれる。
―こんなことになるなんて、思わなかった、俺は
こんなことに光一を巻き込んだのは、自分。それなのに、一番の望みを叶えてやることすらできない。
この哀しみと、愛しさと抱きしめた腕のなか、鍛えられても細い肩が震えた。
「なにを赦せって言うのさ?…今さら何のことだよ?」
「北鎌尾根だ、」
あの場所が、光一との今の原点。
あのとき蒼穹の点に見た瞬間を抱いて、英二は口を開いた。
「あのとき俺が、もっと考えていたら。おまえは俺に恋愛感情は持たなかったはずだ、そうしたら、こんなに苦しませなかった。
ごめん、光一。俺がいつも自分勝手だから、馬鹿だから、おまえのこと追詰めてる。今だってそうだ、なのにどうして、嫌わないんだ?」
抱きしめて頬よせて、そっと離れて瞳見つめ合う。
見つめた先の透明な目は水鏡になって、梢の月が映りこむ。この美しい目の持主を、どうしたら自分は幸せに出来るのだろう?
祈るよう白い頬の涙をキスで拭うと、水鏡の目は温かに笑んでくれた。
「だから言ってるよね?もう惚れちゃったんだ、仕方ないだろ?だから、赦すも赦さないも、無いね、」
透明なテノールが真直ぐ言って、笑ってくれる。
どうしてこんなに潔い?この真直ぐな無垢に心響くのを見つめて、英二は正直に告げた。
「こんなこと言うのは、間違っているかもしれないけれど。光一が結婚しても、俺は光一のこと愛してるよ。きっと、今よりも、」
きっとこの1分後も、今より想いは深くなる。
そんなふうに時を重ねて9か月、並んで共に笑って泣いて過ごしてきた。だから何年か先は今より深い絆があるだろう。
この今と先の想いを抱きしめて、英二は大切な唯一人に約束をした。
「俺と光一は、結婚っていう形では結ばれない。でも、誓うよ?俺は一生ずっと、アンザイレンパートナーとして光一と連れ添うから。
光一だけだ、俺と『血の契』で結ばれて繋がれているのは。これは事実だ、周太にも言えない秘密で、俺と光一は結ばれてる、ずっと、永遠にな」
これも、永遠。
山っ子との『血の契』を自分は永遠に抱いている。
その想いを透明な目に見つめて、英二は永遠のパートナーに笑いかけた。
「光一、約束のキスさせて?ずっと俺といてくれるなら、」
透明な目が見つめて、眼差しがふれあう。
ふれあう眼差しに無垢の瞳は微笑んで、透明なテノールが笑った。
「今はダメだね?見ろよ、20時だ。入山するよ、」
からり笑って『MANASULU』の文字盤を見せると、するり腕から光一は脱け出した。
ミニパトカーの後部座席からザックを出し、英二にも渡してくれながら雪白の貌は嫣然と微笑んだ。
「お仕事モードになってね、ア・ダ・ム?可愛いイヴと連れ添いたかったら、言うコト聴いて?」
ふざけたような話し方、けれど光一はメッセージを籠めてくれている。
渡されたザックを背負いあげると、英二は光一の顔をのぞきこんだ。
「言うこと聴くよ、イヴ。3秒後にね、」
笑いかけ、唇に唇を重ねてキスをする。
ふれる唇の吐息に花の香を感じて、すぐ3秒で離れると英二は微笑んだ。
「続きは寮に戻ってからな、光一、」
微笑んだ至近距離、月明かりに雪白の貌が羞むのが見える。
たぶん今、頬は桜色なんだろうな?そう見つめた先で、透明なテノールが微笑んだ。
「マジ、エロ別嬪だね、おまえってさ、ほんと悪い男だね、」
「もう解ってるだろ?」
笑って答えながらヘッドライトを点けると、樹幹の影が浮びあがった。
見上げた梢の向こう、欠け始めの月は雲に明滅していく。
「うん、雲に隠れた瞬間に紛れたら、ばれ難いかもね、」
救助隊服にウィンドブレーカーを羽織って、からり光一が笑った。
いま雲間から射す月光に雪白の貌がまばゆい、秀麗な笑顔に英二は笑いかけた。
「そうだな、今日の天気はついているかもな?」
「だね、」
ザックを背負いながら頷いた顔は楽しげで、けれど現場に入る緊張が透り始めている。
これから山での捜索に入る、ひとつ呼吸して山の夜を胸に納めると、英二は微笑んだ。
「今日もよろしくな、国村、」
「うん、よろしくね、宮田、」
ふたり山岳救助隊員の顔になって、登山靴の足を踏み出した。
担当コースは天祖山から長沢背稜に入り、雲取山頂から小雲取山、そして山頂の避難小屋へと折り返す。
このコースは無人の家屋が3つ、水場もある。急な九十九折を登りあげながら、低い声で光一が言った。
「…ここ登ってさ、すぐ水場だろ?ちょっと足跡が無いかチェックしない?」
「うん…小雲取のと同じのがあったら、ビンゴかもな、」
お互い低めた声で話し合う。
もう最初の無人家屋の大日神社も近い、もし犯人がいたら声で気づかれたくない。
ヘッドライトの向きを注意しながら歩いて、水場に辿り着いた。
「足跡、薄いけど…あるね、あのときのと似てる、」
細い目が地面を見つめて、頷いた。
見つめる先の足跡は風化しかけているけれど、水場の湿り気のお蔭で形状は残っている。
「…この感じだと、今日ではないかもな?」
「だね、」
シャッター音を消しながら足音を撮影し、立ち上がる。
また歩き出して暫くすると、月明りに大日神社の社殿が浮かんだ。
ここは建物の傷みが見られるけれど、風雨を凌ぐ程度は出来る。
「…じゃ、行こうかね、」
同じ齢でも階級も年次も上の光一が、静かに指示を出す。
救助隊服の腰に装着したホルスターから拳銃を抜いて、ふと隣を見ると特殊警棒を持っている。
嫌な予感に英二は、そっと尋ねた。
「…光一、拳銃は?」
「いちお、持ってるケド…」
言いながら見せる右腰には、ホルスターが提げられている。
それでも疑わしくて英二はホルスターにふれた。
「…あ、中身、入ってるな?」
「当たり前だね…ケツ触られるかと思ったよ、」
細い目を悪戯っ子に笑ませてると、白い顎を傾けて社殿を指した。
「人の気配は、無いケドね…」
そっと囁いて、足音と気配を消しながら社殿へと歩み寄る。
ライトで照らす床下には何もいない、注意しながら朽ちそうな階を登り社殿の戸口に立った。
耳を澄ませ物音を聴きとると、人の気配はやはりない。それでも周囲に注意を向けながら、古びた木戸を押し開いた。
ぎぃっ…
経年の軋みが響いた空間は、塵埃がライトに照らされる。
降積もった埃の上には登山靴の踏み跡と、人間が横になったような痕跡が残されていた。
およそ人間1人分くらいの広さを埃がどかされている、その上に積もった埃は薄い。
「…うん、ちょっと前に寄ったって感じだね…」
「そうだな…でも、気配が無い、」
囁き合いながら社殿内をライトに照らし、確かめる。
外の音にも注意しながら内部を探索し、それから外へと戻った。
「ここじゃなかったね、でも来た跡は新しそうだよね?ってことは、こっからそう遠くないトコにいるね、」
テノールの声が捜査結果を切り取るよう話す。
それに頷いて英二は、無線を後藤副隊長に繋いで短い報告を済ませた。
ここを出ると、落葉松林からブナ林へと続く急登になる。
「さっさと行こう。他のポイントにヤツがいるんなら、急行しやすい場所にいたいよ、」
光一のいう通りだろう。
無線を仕舞いながら歩きだし、英二は答えた。
「まずは水松山まで、急いで出たいよな、」
「だね、藤岡が言っていた酉谷の避難小屋とかも、怪しいだろ?」
「うん、水場があって無人で、駐在所が遠いから居やすいと思う、」
話しながら早いピッチで登りあげていく。
梢から見える月はときおり雲隠れに明滅しては、歩く道を暗く明るく見せている。
足元も適度の乾き具合で歩きやすい、この恵まれた状況に英二は微笑んだ。
「昨日から晴れで良かったよな、もし足場が悪かったら夜間捜索は、危険すぎる、」
「そうなんだよね、だから昨日、副隊長も今夜の決行に決めたんだよ、」
山では天候が命運を左右する、それは低山でも変わらない。
もし雨天であれば柔らかな山の土は水分を含み、足場は脆くなり滑落事故も起きやすい。
そして朝方には濃霧となる、山での霧は視界を奪われて道迷いや転落を誘発する。
こんなふうに夜間の捜索は天候次第の面も大きい、だからこそ今夜中にケリを付けたい。
そうした緊迫感もある今夜の山行だけれど、光一はブナの梢を見上げて愉しく笑った。
「ブナが、夜の呼吸してるね、」
言われて辺りを見回すと、ふっと清々しい夜気が香たつ。
この香はどこか懐かしくて慕わしい、歩きながら英二は微笑んだ。
「7月に周太と美代さん、大学でブナ林に行くらしいな、」
「らしいね?美代、はりきってるよ。どこのブナ林かは、まだ決まっていないらしいけどさ、」
「周太も楽しみにしてるよ、すごく、」
答えて、きりりと心が締められる。
なぜ周太が楽しみにしているのか?それが切ない想いを呼んでしまう。思わず溜息吐いた英二に、光一が笑ってくれた。
「ほら、また先のコト考えて、暗くなってるね?おまえって、ちょっと根暗なトコあるよな?」
「あ、やっぱりそう思う?」
図星を指されて英二は微笑んだ。
それは自分でも自覚がある、素直に認めて英二は思うままを言った。
「俺、つい考えすぎるんだよな?堅物すぎて、慎重になり過ぎるから、つい防御線引くために暗い方に考えるんだよ。
だから光一の明るいとこに救われてるし、美代さんと話すのも楽しいよ。周太も根が明るいんだよな、そういうとこに俺、いつも癒されてる、」
出会った頃の周太は暗い雰囲気だった、でもそれは父親の事情ゆえに孤独を選んだ為でいる。
もう今の周太はおっとりと穏やかに明るくて、1年前とは別人のように美しい。そんな息子を周太の母は「元に戻ってきた」と喜んでいる。
あの13年間を経ても周太の本質的な明るさは消えなかった、きっと普通に育ったら相当のんびりと明るい性格だったろう。
苦労をする前の小さい頃は、さそ和やかで可愛かったろうな?ふっと微笑んだ英二に光一が笑いかけた。
「小さい頃の周太ってね、ノンビリしてて、大人しいけど明るかったよ。楽天的でさ、純粋で可愛くて、きれいだった、」
「あ、やっぱりそうなんだ?」
想ったとおりだったな?
それがなんだか嬉しい、そして願いの想いを英二は口にした。
「その素顔に俺、周太を戻したいんだ。幸せしか知らなかった頃の、のんびりと明るい周太の笑顔を見たいよ、」
いつかこの願いは、叶うのだろうか?
この祈り穏やかに微笑んだ英二に、透明なテノールが予祝に笑ってくれた。
「きっとね、おまえになら出来るよ?周太のこと本当に幸せに出来るの、…英二だけだから、」
「ありがとう、」
呼んでくれた名前の想いに、英二は綺麗に笑った。
笑いかけられて、羞んだ色が雪白の貌にゆらぐ。そんな様子が愛しいと想うのは、もう何度めだろう?
こんな想いと登っていく山の闇に、月光が照らす木造の建物が現われた。
「…さて、次のポイントだね」
声を潜めて先ほどと同様に中を捜索する。
ここは山頂にある天祖神社の会所であり、中は掃除され綺麗だった。
「踏み跡も無さそうだな、」
「うん、きれい過ぎて寄り難かったのかもね?いかにも人が来そうだし、」
話しながら少し登っていく。
そして天祖山の頂に辿り着いたのは、21時すこし過ぎていた。
標高1723,2m天祖山。
八丁橋から山頂まで標高差約1,000mになる急登の先、山頂に天祖神社が佇む。
ここで山開きを行う時は、青梅署山岳救助隊からも代表者が参列する。
そのためもあって社殿は立派で整えられているが、中を確認すると踏み跡が幾らか見られる。
「…寄ったのかな?」
「うん…ここって急登続きだろ?たぶん、疲れたんだろうな、」
こんな推理をすると、犯人も生身の人間だと実感する。
そんな生身の人間が、同じ人間に凶器を振り上げてしまう。どうして、そんな事になるのだろう?
こんなふうに犯罪が巣食ってしまう人間の哀しみに、英二は溜息を吐いた。
「おまえ、また暗くなってるね?今度は何?」
外へ出て歩き出すと、明るいテノールが尋ねてくれる。
今度は下りになる道を歩きながら、英二は素直に口を開いた。
「さっき俺、疲れたんだろうなって言っただろ?あのとき、犯人も生身の人間なんだなって思ってさ。そういう生身の人間が、
物を盗るため同じ人間を傷つける。それが哀しいよ、そういう人間は自分さえ良ければいいって、考えているのだろうなって、」
これが人間の醜悪な側面だろう。
けれどこれも他人事では無い、だって自分は周太の命を奪おうとしたのだから。
こんなふうに罪はいつも、生身だからこそ起こしてしまう。そんな人間の哀切は、大学時代に学んだ法曹の世界にもよく思った。
「おまえの言う通りだろうね?自分さえ、って考えが犯罪を創るんだろうな、」
透明なテノールが答えてくれた言葉が、自分事に刺さって痛い。
けれどこれでいい、この傷みを思い知るほどに自分は、きっと周太も光一も、出会う誰かも大切に出来るから。
そんな想いを抱いた時、光一の無線が受信になった。
「はい、国村です…はい、……うん、それなら水松山で待機します、…はい、」
もしかして、そうだろうか?
無線内容に予兆を抱いて見つめる隣、光一は無線を切ると言った。
「藤岡がビンゴだ、酉谷避難小屋で似顔絵そっくりの男を発見だよ。で、コッチ方面に逃げたらしいね、」
無線内容をコンパクトにまとめてくれる。
そして光一は唇の端を挙げて、悪戯っ子に哂った。
「長沢背稜は、酉谷からココまでの枝道なんて、タワ尾根くらいのモンだ。あっち行ったらハズレだけど、真直ぐ来ちゃう可能性大だよね?」
「そうだな、白岩小屋を目指すんじゃないかな?」
昨夜、登山図と睨めっこした逃走ルートを英二は脳に再現した。
水曜日に遠野教官も言っていた「戻る可能性」も考えると、犯人の目的地と想定しやすい。
「あそこは水場があるし、秩父方面へ逃げられる。たぶん元いた場所だから、逃走先に考えやすいかな、って思う、」
「だね、で、あそこへ逃げられると厄介だね、埼玉県警の管轄になっちゃうだろ?管轄外だ、」
これが一番、困ったことになる。
昨夜も考えたことを英二は、駈けるよう登りながらパートナーに言った。
「そのこと、後藤副隊長にも上申してある。だから埼玉県警から人が詰めているとはと思うけど、」
「だったら尚更、ここで食い止めたいね?山狩りの言いだしっぺは俺たち、青梅署なんだからさ、」
話しながら足を速め、梯子坂ノクビレを一挙に登りあげる。
そして水松山頂を踏んだ時、かすかな足音が聞えてきた。
「…来るね、」
低いテノールが囁いて、ヘッドライトを消す。
月明かりの翳に沈みながら尾根に佇んで、足音の時を待つ。
微かに息を乱す揺らぎが交りだす、もう近くまで来ているだろう。
―こういうの、初めてだな
実際に犯人と現場で対峙することは、初だ。
それも連続強盗犯で狂気に陥っている可能性が高い、予測がつかない相手だろう。
「…近い、」
低いテノールの囁きに、英二は拳銃をホルスターから抜いた。
光一も特殊警棒を右手に携えている、あくまで拳銃を使いたくないのだろう。
そんな光一は剣道でも段位以上の実力があると、御岳神社の奉納試合で英二も見た。
そして今回は飛び道具は無い相手だから、まず光一なら警棒で充分に制圧できるだろう。
敢えて拳銃を使えと言う必要もないな?
そう判断しながら、ヘッドライトのスイッチに左手をスタンバイさせる。
そして足音が大きく近づき人影が浮んだ瞬間、低くテノールが命じた。
「行くよ、」
ヘッドライトが点灯し、人影が白光のもと照らされた。
光線に目眩んでいるその顔は、瀬尾の描いた似顔絵にそっくりだった。
(to be continued)
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第51話 風待act.5―side story「陽はまた昇る」
山の浄闇が密やかに、言葉を樹幹へ吸いこんだ。
ミニパトカーに寄りかかりながら佇んで、光一がこちらを見ている。
闇透かす眼差しを見つめ返しながら英二は言葉を続けた。
「華道部の後輩から告白されていたんだ、周太。それを見て思ったんだ、俺、捨てられても仕方ないなって、」
「周太が、捨てるって言ったワケ?」
透明なテノールが隣から訊いてくれる。
その声に英二は軽く首を振った。
「いや、言ってない。彼女いるか訊かれて、好きな人がいるって俺のこと、言ってくれたらしい。それ聴いた時、嬉しかったよ。
だけど電車に乗ってるとき、考えていたんだ。ほんとうは周太、女の人と結婚した方が幸せになれるのかな、って…子供も出来るし、」
子供。
このことはずっと考えてきた、周太は一人っ子長男だから。
周太の母にしても本当は、孫の顔が見たいのではないだろうか?
あの3月に英二の父が言ったように、自分は本当は湯原の家にとって、邪魔なのではないだろうか?
そんな疑問を素直に英二は口にした。
「それで、俺は保護者でいるべきかなって思って。だから、周太が無事に退職したら俺は、湯原の家から出る方が良いかな、って思っ」
「馬鹿言ってんじゃないよ、」
透明なテノールが鋭く遮って、英二は言葉を呑んだ。
見つめた先で無垢の瞳が真直ぐ見つめてくれる、そして光一は口を開いた。
「周太の立場は普通じゃない。もし周太が普通に女と恋愛して、結婚して、幸せになれるって、本気で思うワケ?
女じゃ、周太のことを護れないのは当然だ、周太も自分自身を護れるか解らないよ。そんなこと、とっくに解っているだろ?
この危険はね、警察官を辞めたからって終わるのか、本当は解からない。そんなこと、おまえ、一番わかっているはずだよね?」
真直ぐな視線で英二を貫きながら、言葉が容赦なく引っ叩く。
言葉に刺されながら英二は、光一の言葉を聴いた。
「おまえ、自分でも言ってたよな、あの家のワケ解からない連鎖。なぜか全員が銃に関わって、必ず銃で殺されて死んでいる。
周太のじいさんは、学者になったのに銃で殺されたんだ。曾じいさんだってそうだ、エンジニアになったのに銃で死んでるんだよ。
ふたりとも軍人を辞めて民間人になったのに、銃で殺されたんだ。オヤジさんなんて退職していなくても、やっぱり銃で死んだよなあ?」
周太の祖父、晉は太平洋戦争当時に学徒出陣し、コードネームを与えられ狙撃手を務めた。
曾祖父の敦も年代から考えて日露戦争に出征している、それも家柄から士官だと考える方が自然だろう。
けれど光一の言い方は敦の件にも確定的な気配がある、気になって英二は口を開いた。
「光一、曾おじいさんについて、何か調べたのか?」
「ああ、調べたんだよ。まだ裏付けはとれちゃいないけどね、曾じいさんも狙撃手か砲兵だ、それも士官としてね。で、たぶん代々だ、」
テノールの声に怒りが籠る。この怒りは湯原家の連鎖と、英二の動揺と、両方に対してだろう。
それならば、自分が両方の怒りを受けるべきだ。あの家を護る立場を選んだのは、自分なのだから。
あの家の跡取りと婚約して、妻にする約束をしたのは自分。そうやって家を護ると決めたのは自分の意志。
それなら自分が「家の連鎖」に向けられる全てをも負うべきだ、そんな覚悟が肚に座って腰が据えられる。
いま鎮まりだした心を見つめて、英二は山っ子の声を聴いた。
「はっきり言ってやんよ、周太はね、道を間違えば殺される。この連鎖から逃れるのは、難しいね、」
言葉に、心が撃ちぬかれる。
「…やっぱり、そうなのか?…周太は、このままだったら…あの任務に就いたら、そうなるのか」
ずっと、恐れていた。
恐れていたのは、気づき始めていたから。
気付いていても見たくなかった、けれど、言葉にされてしまえば現実を帯びて迫る。
「そうだよ、ナンの因果かねえ?銃で殺せば銃で殺される、それがアノ家のメビウスリンクだよなあ?とっくに解かってんだろ、おまえなら、」
低く響くテノールが今までの事実を「メビウスリンク」と言って、突きつける。
あの「50年の連鎖」以上の負の連鎖反応を、光一は見た?
そんな問いも封じられたまま、テノールの声は続けた。
「いいか、これは警察官を辞めたから逃れらるかナンて解んないことだ。辞めなくたって逃れられやしない、ドッチも手詰まりだ。
だから。本気で周太と連れ添うなら、普通じゃ無理だ。同じ男で同じ警察官でなきゃ難しい、なにより、本気で愛してなきゃ無理だね。
全部を投げ出しても、自分自身を盾にしてでも護って、周太を愛そうってくらいでなきゃ無理だ。だから俺は、おまえに負けたんだよっ、」
真直ぐな声が、光一自身も刺すよう吐かれた。
真直ぐ見つめてくる透明な目が英二を射抜く、そして透明なテノールが告げた。
「さっき、おまえが言った通りだよ、俺は家を捨てられない。親が死んじまった後、育ててくれたジイさんとばあちゃんを捨てられない。
オヤジとおふくろを馬鹿にしたヤツラへの怒りも捨てられない、俺は、最高のクライマーになることも山も捨てられないんだよっ、
こんな俺はね、所詮、現実では周太と結ばれっこないんだ。それに元からソンナ繋がりじゃない、人間としての道とは別モンだ、だからさあ、」
深い山の浄闇に、山っ子の聲が透明にとけていく。
融けながら低くテノールは、透明な涙と一緒に目の前でこぼれた。
「だから、俺は周太のこと、おまえから奪えなかったんだよ。俺には出来ないんだよ、一生連れ添って護ることが許されないんだよ。
はっきり言ってやる、おまえしか周太のこと護れないんだよ。だから俺は、おまえを周太から奪うことも、出来ないんじゃないか…っ」
痛切な聲に、英二は寄りかかったミニパトカーから背中を離した。
泣いている山っ子の前に立って、真直ぐ向かい合う。同じ高さの眼差しで見つめ合って、光一は唇をひらいた。
「いいか、俺はなあ、おまえも周太も、大切なんだ。だから邪魔したくないんだよ、だから俺、結局は独りになるって覚悟もしてんだ。
おまえらは結婚するだろ?俺は誰か別のヤツと、女と結婚するんだよ、結局、俺は、本気で好きなヤツとは、むすばれないんだ、
どっちとも連れ添うことは出来ないんだよ。だから俺はおまえと『血の契』が出来たの嬉しかったんだ、なのにさあ、ばかやろうっ、」
押し殺した聲が英二を叩いて、透明な目が涙に怒る。
零れた涙を唇に呑みこんで、そして光一は微笑んだ。
「マジ、おまえ馬鹿。ちょっと女から周太が告白されたくらいで、揺れてんじゃないよ。こんな馬鹿に惚れて、俺も馬鹿だね、」
端麗な唇を笑ませて光一は『MANASULU』を見、そして涙の眼差しのまま英二に微笑んだ。
「1分前だね、スタンバイするよ?」
そう言ったテノールはもう、普段の飄々としたトーンになっている。
けれど英二は長い腕を伸ばして大切なパートナーを抱きしめた。
「ごめん、光一、ごめん。俺を赦してくれ、」
赦されるなんて、本当は思えない。
本当は光一は、こんなことに引き摺りこんで良い存在じゃない。
遠い時の向こうから周太に絡まるメビウスリンク、叶わない想い、立場との狭間。
こんなことに光一は泣かせて良い存在じゃない、それなのに、逃げることなく向き合ってくれる。
―こんなことになるなんて、思わなかった、俺は
こんなことに光一を巻き込んだのは、自分。それなのに、一番の望みを叶えてやることすらできない。
この哀しみと、愛しさと抱きしめた腕のなか、鍛えられても細い肩が震えた。
「なにを赦せって言うのさ?…今さら何のことだよ?」
「北鎌尾根だ、」
あの場所が、光一との今の原点。
あのとき蒼穹の点に見た瞬間を抱いて、英二は口を開いた。
「あのとき俺が、もっと考えていたら。おまえは俺に恋愛感情は持たなかったはずだ、そうしたら、こんなに苦しませなかった。
ごめん、光一。俺がいつも自分勝手だから、馬鹿だから、おまえのこと追詰めてる。今だってそうだ、なのにどうして、嫌わないんだ?」
抱きしめて頬よせて、そっと離れて瞳見つめ合う。
見つめた先の透明な目は水鏡になって、梢の月が映りこむ。この美しい目の持主を、どうしたら自分は幸せに出来るのだろう?
祈るよう白い頬の涙をキスで拭うと、水鏡の目は温かに笑んでくれた。
「だから言ってるよね?もう惚れちゃったんだ、仕方ないだろ?だから、赦すも赦さないも、無いね、」
透明なテノールが真直ぐ言って、笑ってくれる。
どうしてこんなに潔い?この真直ぐな無垢に心響くのを見つめて、英二は正直に告げた。
「こんなこと言うのは、間違っているかもしれないけれど。光一が結婚しても、俺は光一のこと愛してるよ。きっと、今よりも、」
きっとこの1分後も、今より想いは深くなる。
そんなふうに時を重ねて9か月、並んで共に笑って泣いて過ごしてきた。だから何年か先は今より深い絆があるだろう。
この今と先の想いを抱きしめて、英二は大切な唯一人に約束をした。
「俺と光一は、結婚っていう形では結ばれない。でも、誓うよ?俺は一生ずっと、アンザイレンパートナーとして光一と連れ添うから。
光一だけだ、俺と『血の契』で結ばれて繋がれているのは。これは事実だ、周太にも言えない秘密で、俺と光一は結ばれてる、ずっと、永遠にな」
これも、永遠。
山っ子との『血の契』を自分は永遠に抱いている。
その想いを透明な目に見つめて、英二は永遠のパートナーに笑いかけた。
「光一、約束のキスさせて?ずっと俺といてくれるなら、」
透明な目が見つめて、眼差しがふれあう。
ふれあう眼差しに無垢の瞳は微笑んで、透明なテノールが笑った。
「今はダメだね?見ろよ、20時だ。入山するよ、」
からり笑って『MANASULU』の文字盤を見せると、するり腕から光一は脱け出した。
ミニパトカーの後部座席からザックを出し、英二にも渡してくれながら雪白の貌は嫣然と微笑んだ。
「お仕事モードになってね、ア・ダ・ム?可愛いイヴと連れ添いたかったら、言うコト聴いて?」
ふざけたような話し方、けれど光一はメッセージを籠めてくれている。
渡されたザックを背負いあげると、英二は光一の顔をのぞきこんだ。
「言うこと聴くよ、イヴ。3秒後にね、」
笑いかけ、唇に唇を重ねてキスをする。
ふれる唇の吐息に花の香を感じて、すぐ3秒で離れると英二は微笑んだ。
「続きは寮に戻ってからな、光一、」
微笑んだ至近距離、月明かりに雪白の貌が羞むのが見える。
たぶん今、頬は桜色なんだろうな?そう見つめた先で、透明なテノールが微笑んだ。
「マジ、エロ別嬪だね、おまえってさ、ほんと悪い男だね、」
「もう解ってるだろ?」
笑って答えながらヘッドライトを点けると、樹幹の影が浮びあがった。
見上げた梢の向こう、欠け始めの月は雲に明滅していく。
「うん、雲に隠れた瞬間に紛れたら、ばれ難いかもね、」
救助隊服にウィンドブレーカーを羽織って、からり光一が笑った。
いま雲間から射す月光に雪白の貌がまばゆい、秀麗な笑顔に英二は笑いかけた。
「そうだな、今日の天気はついているかもな?」
「だね、」
ザックを背負いながら頷いた顔は楽しげで、けれど現場に入る緊張が透り始めている。
これから山での捜索に入る、ひとつ呼吸して山の夜を胸に納めると、英二は微笑んだ。
「今日もよろしくな、国村、」
「うん、よろしくね、宮田、」
ふたり山岳救助隊員の顔になって、登山靴の足を踏み出した。
担当コースは天祖山から長沢背稜に入り、雲取山頂から小雲取山、そして山頂の避難小屋へと折り返す。
このコースは無人の家屋が3つ、水場もある。急な九十九折を登りあげながら、低い声で光一が言った。
「…ここ登ってさ、すぐ水場だろ?ちょっと足跡が無いかチェックしない?」
「うん…小雲取のと同じのがあったら、ビンゴかもな、」
お互い低めた声で話し合う。
もう最初の無人家屋の大日神社も近い、もし犯人がいたら声で気づかれたくない。
ヘッドライトの向きを注意しながら歩いて、水場に辿り着いた。
「足跡、薄いけど…あるね、あのときのと似てる、」
細い目が地面を見つめて、頷いた。
見つめる先の足跡は風化しかけているけれど、水場の湿り気のお蔭で形状は残っている。
「…この感じだと、今日ではないかもな?」
「だね、」
シャッター音を消しながら足音を撮影し、立ち上がる。
また歩き出して暫くすると、月明りに大日神社の社殿が浮かんだ。
ここは建物の傷みが見られるけれど、風雨を凌ぐ程度は出来る。
「…じゃ、行こうかね、」
同じ齢でも階級も年次も上の光一が、静かに指示を出す。
救助隊服の腰に装着したホルスターから拳銃を抜いて、ふと隣を見ると特殊警棒を持っている。
嫌な予感に英二は、そっと尋ねた。
「…光一、拳銃は?」
「いちお、持ってるケド…」
言いながら見せる右腰には、ホルスターが提げられている。
それでも疑わしくて英二はホルスターにふれた。
「…あ、中身、入ってるな?」
「当たり前だね…ケツ触られるかと思ったよ、」
細い目を悪戯っ子に笑ませてると、白い顎を傾けて社殿を指した。
「人の気配は、無いケドね…」
そっと囁いて、足音と気配を消しながら社殿へと歩み寄る。
ライトで照らす床下には何もいない、注意しながら朽ちそうな階を登り社殿の戸口に立った。
耳を澄ませ物音を聴きとると、人の気配はやはりない。それでも周囲に注意を向けながら、古びた木戸を押し開いた。
ぎぃっ…
経年の軋みが響いた空間は、塵埃がライトに照らされる。
降積もった埃の上には登山靴の踏み跡と、人間が横になったような痕跡が残されていた。
およそ人間1人分くらいの広さを埃がどかされている、その上に積もった埃は薄い。
「…うん、ちょっと前に寄ったって感じだね…」
「そうだな…でも、気配が無い、」
囁き合いながら社殿内をライトに照らし、確かめる。
外の音にも注意しながら内部を探索し、それから外へと戻った。
「ここじゃなかったね、でも来た跡は新しそうだよね?ってことは、こっからそう遠くないトコにいるね、」
テノールの声が捜査結果を切り取るよう話す。
それに頷いて英二は、無線を後藤副隊長に繋いで短い報告を済ませた。
ここを出ると、落葉松林からブナ林へと続く急登になる。
「さっさと行こう。他のポイントにヤツがいるんなら、急行しやすい場所にいたいよ、」
光一のいう通りだろう。
無線を仕舞いながら歩きだし、英二は答えた。
「まずは水松山まで、急いで出たいよな、」
「だね、藤岡が言っていた酉谷の避難小屋とかも、怪しいだろ?」
「うん、水場があって無人で、駐在所が遠いから居やすいと思う、」
話しながら早いピッチで登りあげていく。
梢から見える月はときおり雲隠れに明滅しては、歩く道を暗く明るく見せている。
足元も適度の乾き具合で歩きやすい、この恵まれた状況に英二は微笑んだ。
「昨日から晴れで良かったよな、もし足場が悪かったら夜間捜索は、危険すぎる、」
「そうなんだよね、だから昨日、副隊長も今夜の決行に決めたんだよ、」
山では天候が命運を左右する、それは低山でも変わらない。
もし雨天であれば柔らかな山の土は水分を含み、足場は脆くなり滑落事故も起きやすい。
そして朝方には濃霧となる、山での霧は視界を奪われて道迷いや転落を誘発する。
こんなふうに夜間の捜索は天候次第の面も大きい、だからこそ今夜中にケリを付けたい。
そうした緊迫感もある今夜の山行だけれど、光一はブナの梢を見上げて愉しく笑った。
「ブナが、夜の呼吸してるね、」
言われて辺りを見回すと、ふっと清々しい夜気が香たつ。
この香はどこか懐かしくて慕わしい、歩きながら英二は微笑んだ。
「7月に周太と美代さん、大学でブナ林に行くらしいな、」
「らしいね?美代、はりきってるよ。どこのブナ林かは、まだ決まっていないらしいけどさ、」
「周太も楽しみにしてるよ、すごく、」
答えて、きりりと心が締められる。
なぜ周太が楽しみにしているのか?それが切ない想いを呼んでしまう。思わず溜息吐いた英二に、光一が笑ってくれた。
「ほら、また先のコト考えて、暗くなってるね?おまえって、ちょっと根暗なトコあるよな?」
「あ、やっぱりそう思う?」
図星を指されて英二は微笑んだ。
それは自分でも自覚がある、素直に認めて英二は思うままを言った。
「俺、つい考えすぎるんだよな?堅物すぎて、慎重になり過ぎるから、つい防御線引くために暗い方に考えるんだよ。
だから光一の明るいとこに救われてるし、美代さんと話すのも楽しいよ。周太も根が明るいんだよな、そういうとこに俺、いつも癒されてる、」
出会った頃の周太は暗い雰囲気だった、でもそれは父親の事情ゆえに孤独を選んだ為でいる。
もう今の周太はおっとりと穏やかに明るくて、1年前とは別人のように美しい。そんな息子を周太の母は「元に戻ってきた」と喜んでいる。
あの13年間を経ても周太の本質的な明るさは消えなかった、きっと普通に育ったら相当のんびりと明るい性格だったろう。
苦労をする前の小さい頃は、さそ和やかで可愛かったろうな?ふっと微笑んだ英二に光一が笑いかけた。
「小さい頃の周太ってね、ノンビリしてて、大人しいけど明るかったよ。楽天的でさ、純粋で可愛くて、きれいだった、」
「あ、やっぱりそうなんだ?」
想ったとおりだったな?
それがなんだか嬉しい、そして願いの想いを英二は口にした。
「その素顔に俺、周太を戻したいんだ。幸せしか知らなかった頃の、のんびりと明るい周太の笑顔を見たいよ、」
いつかこの願いは、叶うのだろうか?
この祈り穏やかに微笑んだ英二に、透明なテノールが予祝に笑ってくれた。
「きっとね、おまえになら出来るよ?周太のこと本当に幸せに出来るの、…英二だけだから、」
「ありがとう、」
呼んでくれた名前の想いに、英二は綺麗に笑った。
笑いかけられて、羞んだ色が雪白の貌にゆらぐ。そんな様子が愛しいと想うのは、もう何度めだろう?
こんな想いと登っていく山の闇に、月光が照らす木造の建物が現われた。
「…さて、次のポイントだね」
声を潜めて先ほどと同様に中を捜索する。
ここは山頂にある天祖神社の会所であり、中は掃除され綺麗だった。
「踏み跡も無さそうだな、」
「うん、きれい過ぎて寄り難かったのかもね?いかにも人が来そうだし、」
話しながら少し登っていく。
そして天祖山の頂に辿り着いたのは、21時すこし過ぎていた。
標高1723,2m天祖山。
八丁橋から山頂まで標高差約1,000mになる急登の先、山頂に天祖神社が佇む。
ここで山開きを行う時は、青梅署山岳救助隊からも代表者が参列する。
そのためもあって社殿は立派で整えられているが、中を確認すると踏み跡が幾らか見られる。
「…寄ったのかな?」
「うん…ここって急登続きだろ?たぶん、疲れたんだろうな、」
こんな推理をすると、犯人も生身の人間だと実感する。
そんな生身の人間が、同じ人間に凶器を振り上げてしまう。どうして、そんな事になるのだろう?
こんなふうに犯罪が巣食ってしまう人間の哀しみに、英二は溜息を吐いた。
「おまえ、また暗くなってるね?今度は何?」
外へ出て歩き出すと、明るいテノールが尋ねてくれる。
今度は下りになる道を歩きながら、英二は素直に口を開いた。
「さっき俺、疲れたんだろうなって言っただろ?あのとき、犯人も生身の人間なんだなって思ってさ。そういう生身の人間が、
物を盗るため同じ人間を傷つける。それが哀しいよ、そういう人間は自分さえ良ければいいって、考えているのだろうなって、」
これが人間の醜悪な側面だろう。
けれどこれも他人事では無い、だって自分は周太の命を奪おうとしたのだから。
こんなふうに罪はいつも、生身だからこそ起こしてしまう。そんな人間の哀切は、大学時代に学んだ法曹の世界にもよく思った。
「おまえの言う通りだろうね?自分さえ、って考えが犯罪を創るんだろうな、」
透明なテノールが答えてくれた言葉が、自分事に刺さって痛い。
けれどこれでいい、この傷みを思い知るほどに自分は、きっと周太も光一も、出会う誰かも大切に出来るから。
そんな想いを抱いた時、光一の無線が受信になった。
「はい、国村です…はい、……うん、それなら水松山で待機します、…はい、」
もしかして、そうだろうか?
無線内容に予兆を抱いて見つめる隣、光一は無線を切ると言った。
「藤岡がビンゴだ、酉谷避難小屋で似顔絵そっくりの男を発見だよ。で、コッチ方面に逃げたらしいね、」
無線内容をコンパクトにまとめてくれる。
そして光一は唇の端を挙げて、悪戯っ子に哂った。
「長沢背稜は、酉谷からココまでの枝道なんて、タワ尾根くらいのモンだ。あっち行ったらハズレだけど、真直ぐ来ちゃう可能性大だよね?」
「そうだな、白岩小屋を目指すんじゃないかな?」
昨夜、登山図と睨めっこした逃走ルートを英二は脳に再現した。
水曜日に遠野教官も言っていた「戻る可能性」も考えると、犯人の目的地と想定しやすい。
「あそこは水場があるし、秩父方面へ逃げられる。たぶん元いた場所だから、逃走先に考えやすいかな、って思う、」
「だね、で、あそこへ逃げられると厄介だね、埼玉県警の管轄になっちゃうだろ?管轄外だ、」
これが一番、困ったことになる。
昨夜も考えたことを英二は、駈けるよう登りながらパートナーに言った。
「そのこと、後藤副隊長にも上申してある。だから埼玉県警から人が詰めているとはと思うけど、」
「だったら尚更、ここで食い止めたいね?山狩りの言いだしっぺは俺たち、青梅署なんだからさ、」
話しながら足を速め、梯子坂ノクビレを一挙に登りあげる。
そして水松山頂を踏んだ時、かすかな足音が聞えてきた。
「…来るね、」
低いテノールが囁いて、ヘッドライトを消す。
月明かりの翳に沈みながら尾根に佇んで、足音の時を待つ。
微かに息を乱す揺らぎが交りだす、もう近くまで来ているだろう。
―こういうの、初めてだな
実際に犯人と現場で対峙することは、初だ。
それも連続強盗犯で狂気に陥っている可能性が高い、予測がつかない相手だろう。
「…近い、」
低いテノールの囁きに、英二は拳銃をホルスターから抜いた。
光一も特殊警棒を右手に携えている、あくまで拳銃を使いたくないのだろう。
そんな光一は剣道でも段位以上の実力があると、御岳神社の奉納試合で英二も見た。
そして今回は飛び道具は無い相手だから、まず光一なら警棒で充分に制圧できるだろう。
敢えて拳銃を使えと言う必要もないな?
そう判断しながら、ヘッドライトのスイッチに左手をスタンバイさせる。
そして足音が大きく近づき人影が浮んだ瞬間、低くテノールが命じた。
「行くよ、」
ヘッドライトが点灯し、人影が白光のもと照らされた。
光線に目眩んでいるその顔は、瀬尾の描いた似顔絵にそっくりだった。
(to be continued)
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