萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

第48話 薫衣act.6―side story「陽はまた昇る」

2012-07-04 22:18:27 | 陽はまた昇るside story
馨、めぐらす記憶と明日



第48話 薫衣act.6―side story「陽はまた昇る」

ふわり、吹きぬける穏やかな風が梢をゆらす。
ゆらめく木洩陽に黒髪が艶めいて、その陽射し透かすよう無垢の瞳は見つめてくれる。
やさしい朝の光ふる緑陰、光一の瞳を視線に結んで英二は言葉を続けた。

「昨夜はすぐ寝ちゃって、ちゃんと話せなかったけど。月曜日から俺、ずっと謝りたかったんだ、」
「…月曜から、ずっと?」

なにを謝るんだろう?
訊くよう無垢の瞳が見つめてくれる。
見つめる視線をそのままに、綺麗に英二は笑いかけた。

「今まで不安にさせて、ごめん。俺は光一のこと、大切だよ?おまえの心にも体にも見惚れて、愛してる。欲しいから大切にしたい、」

告げた言葉に細い目が大きくなって、英二を見つめている。
すこし躊躇うよう、けれど笑って光一は訊いてくれた。

「そんなに俺のこと、愛しちゃってるワケ?欲しいワケ?…周太を婚約者にしてる癖に、ね?」
「欲しいよ、」

さらり即答して英二は微笑んだ。

「周太への気持ちと違うんだ、でも、愛してる。どんな時も、どんな場所でも、一緒に居られるのは光一だけだよ。
上手く言えないけど…対になってるみたいで、俺のパートナーは光一だけって思う。だからかな、体を繋げることも自然に想えてる、」

こんな本音は狡い、そう言われても仕方ない。
けれど自分にとってはこれが真実、誤魔化すことが出来ない自分がいる。
こんな自分こそが「謝る」理由だから?そんな諦観に英二は潔く笑いかけた。

「ごめん、光一。俺は周太に全部を捧げてるよ、それなのに俺は『血の契』で光一と繋がった、秘密で光一を繋ぎとめたんだ。
こんなの俺の勝手で、自分でも狡いと思う。けれど、愛してるのは本当で、抱きたいのも本音だよ。大切にしたい、光一のこと、」

言葉のはざま、山の緑ふくんだ風がそよぐ。
風にゆらめく黒髪が朝陽に光る、揺れる黒髪透かす瞳が見つめてくれる。
この透明な明るい眼差しが好きだ。そんな素直な想い微笑んだ向こう、透明なテノールが笑った。

「おまえ、ホント悪い男だよね?こんな別嬪に言われて、赦せないワケ、ないよね?」

底抜けに明るい目が優しい。
優しい眼差しと透明な声は、可笑しそうに笑ってくれた。

「昨夜、ちゃんと約束通り、俺のこと大切にしてくれたよね?ただ抱きしめるだけで、服も捲らなかった。だから、信じてるよ、」

昨夜も光一は、今まで通りに英二の部屋に来てくれた。
いつものように少し悪ふざけをして、素直に抱きついて眠ってくれた。
現場の救助活動でも、今まで通りに笑いながらパートナーを組んで捜索をして、遭難者を叱りつけていた。
そんな「今まで通り」が嬉しくて。寮のベッドは長身2人には狭いけれど、抱きしめた温もりが幸せだった。
そして今、笑いかけてくれた笑顔が嬉しい。嬉しさに笑いかけて、英二は大切なパートナーに誓った。

「本当に好きだよ、光一。おまえの全部を大切にする、だから俺のこと、もう怖がらないでよ?信じてほしい、」

唯一人のアンザイレンパートナーで『血の契』そして周太を守る唯一のパートナー。
愛する婚約者を守る。そのパートナーが自分に恋をしてくれる、そんな交錯が不思議にも思う。
なにより自分自身がもう、この相手に見惚れている自覚がある。与えられたものならば受けとめていれば良い?
そんな想い微笑んだ隣から、透明なテノールが楽しげに笑ってくれた。

「うん、信じてる。でさ?昨夜、風呂で俺の体、しょっちゅう見てたよね?やっぱ欲情してたワケ?」

きれいな無垢の瞳で見つめながら、訊くことはコレなんだ?
可笑しくて笑ってしまう、そして起きあがった悪戯心にも押される様に掌で雪白の頬にふれた。

「欲情したよ?でさ、こんな人けの無いとこで、そんな質問するなんてさ?襲ってください、って意味だと思っても仕方ないよな?」

半分本気で半分冗談、こんな自分は今までにいなかった。
いつも周太には本気でしかなくて、こういう余裕はあまり無いから。
この余裕は何だろう?ふと不思議に思いかけたとき、目の前で透明な目は笑ってくれた。

「信じてるからね、…英二?」

呼んでくれた名前が、前より少しふるえていない。
そんな変化にも信頼が想われて嬉しい、嬉しくて英二は微笑んだ。

「ありがとう、光一、」

微笑んで見つめた先、雪白の貌がすこし赤らんでくる。
気恥ずかしげな貌、けれど細い目は膝の上の本に視線を落とした。

「でね、さっきのラストと退役軍人のとこにさ、曾じいさんについてのヒントがあるんだよ、」

視線とテノールの声に白い頬から掌をおろした。
そして長い指でまたページをめくると『Chapitre4』を開き、光一を見た。

「まず、退役軍人が援けられて就職をした会社だ、ってことだよな?それも、技術系の、」
「そ。軍人がコネで就職したワケだからさ、なにかしら繋がりがあった、ってコトだよね、」

軍人がコネクションを持っている、技術系企業。
シンプルに考えたらどんな業種になる?その答えを英二は口にした。

「普通に考えたら戦時中は軍需産業だった会社だよな?そして戦後も技術を活かしているのなら、造船、航空、鉄鋼のあたりか、」
「だね、ソッチ系だろね、」

有名な社名だと三菱重工、立川飛行機などが最初に浮ぶ。
そのほかにも大小様々な企業は数多くあった、そのどれになるだろうか?
そんな思考にテノールの声がヒントをくれた。

「でさ、曾じいさんって、大正時代に川崎に家を建てたわけだよね?ようするに移住してきた、って事だよね、」
「就職の為に川崎に来た、ってことか、」

答えた英二に、底抜けに明るい目が「正解」と笑った。
その目に笑いかけて、英二は解答を口にした。

「家が建てられたのは1914年、これより前に出来て戦時中は軍需産業。そして川崎が通勤圏内。この3つで特定できるよな?」
「うん、出来ると思う。3つあったら、特定はしやすいよね、」

1914年、大正3年に川崎近辺に設立、戦時中は軍需産業、戦後は造船や航空などの技術系企業。
この条件に当てはまる企業を探せば、曾祖父・敦の経歴が解かってくるだろう。
この考えに色んな納得ができる、ほっと英二は笑って口を開いた。

「あの当時、軍需産業の技術者ってさ、地位も名誉もある特別な人だったよな?それも、移住してまで呼ばれてきたんだ。
これって、レベルの高い技術者だった、ってことだろ?そういう人の息子だから、お祖父さんは戦後の混乱期でも留学出来たんだな、」

終戦直後に晉はパリ大学ソルボンヌに留学している。
あの当時、敗戦国だった日本から欧米に留学するのは経済的事情はもちろん、バックボーンが無かったら難しい。
そんな事情への納得に、光一も口を開いた。

「だね。そういう技術者になれた、ってコトはさ?曾じいさんはハイレベルの教育を受けていた、ってことだよ。
それ相応の良い家柄のはずだね、だから茶道具とか家具もイイもん揃っているワケだよ。あのコーヒーセットも絵皿も、納得だね。
屋敷も相応の広さにしてさ、良い素材を使って永く大切にしてる。そういう腰の据わった質実なトコ、付焼刃じゃない育ちの良さがあるね、」

落着いた家、美しい庭。古萩の茶碗、磨き抜かれた漆器、何げなく使われる趣味の良い食器たち。
北欧の王室窯で作られたコーヒーセットとイヤー・プレート。奥ゆかしい雰囲気の雛人形、花活、数々の家具。
それから青い表紙のアルバム達、晉の学歴と経歴。どれもが、あの「家」がどういう家なのか物語る。
自分が愛する家の記憶に微笑んで、英二は口を開いた。

「あの家にはね、どの部屋にも本棚があるんだ、」

あの家にはダイニングにまで、小さいけれど綺麗な本棚がある。
そこには周太が買ったという料理の本も並んでいた、それを見るたびに、本の経年に幼い日の周太の想いが愛しい。
きっと母のため一生懸命に読んで作ったのだろうな?想い佇んだ英二にテノールの声が相槌を打った。

「うん、リビングにも大きい本棚があったね?あと2階の廊下にもあったな、椅子があるところ」
「窓の所だろ?あそこは読書スペースなんだ、お茶も飲んだりするけどね、」

懐かしい家の記憶に、今度の週末に帰る予定が嬉しい。
ふるくて優しい家の景色を想いながら、英二は言葉を続けた。

「特に書斎とホールの本棚は専門書が多いんだけどさ。どの本棚もね、置いてある本は古くても綺麗で、読みこんだ跡があるんだ。
家の人が皆、優秀で丁寧な性格だったのが解かる。良い家柄で良い教育を受けていた、そんな血筋の良さみたいなの、あの家にはあるよ。
それが周太を見ているとよく解かる。勉強も運動も出来てさ、おっとりして上品で。リラックスしてる時の周太、本当にお姫さまみたいでさ、」

あの家の跡取りである周太の姿が、あの家を物語る一番の証拠。
今夜には逢える俤に微笑んだ英二に、光一が笑った。

「周太はね、マジでお姫さまなんだよ?おまえが思ってるのとは、ちょっと違うけどね、」

テノールの声が告げる言葉が、すこし不思議だ。
どういう意味なのだろう?そう見た英二に透明な目が笑って質問を投げた。

「曾じいさんのヒント、もう1つあるよね?」

もう話は移るよ?そんな眼差しが英二の疑問を封じ込める。
周太の「ちょっと違う」意味は教えない、そんな意志が言葉は無いまま伝わってしまう。

―きっと『山の秘密』に関わる事なのかな?

たぶんそうだろうと、考えながら長い指でページをめくっていく。
そして1つの単語を英二は指さした。

「それから『Lignee』血統、って意味だったよな?これも、曾おじいさんのヒントだ、そうだろ?」

“その存在こそをSomnusの許へ送ってしまえたら?そんな願いに罪を重ねそうな自分がいる、これが私の本性なのか、血統なのか?”

「だね。じいさんより以前、って意味で使ってると思うね。だから、ね…」

寂しげな微笑に、透明なテノールが途絶える。
もう、途絶えた先の意味が垣間見えていく、それが苦しい。

『Lignee』血統

これがヒントだとしたら「晉の原罪」より向うが見えてくる。
本当はそんな事は否定したい、けれど晉が綴った想いが真実を告げてしまう。

“これが私の本性なのか、血統なのか?…硝煙と血に纏わりつかれる香、死の眠りに誘う名前。この束縛を私は、断ち切ることが出来るだろうか?”

「50年の束縛」その本当の原点は『血統』?
この問いかけに『Lignee』の意味が山桜の花を甦らす。
山桜の花の下に見た涙が重なって、雲取山に聴いたテノール叫びが甦る。

―…俺と血が繋がっているなんて、嫌だ、嘘だっ

あの叫びが悲痛で、涙を止めたくて。
涙の原因は「血脈」への嫌忌、だから『血の契』を交わし共に「血」を背負うことを選んだ。
そうすれば光一は自分と「一緒」なことを歓び嫌忌は消える、そう思ったから。
そして今『血の契』の絆に愛する想いすら生まれている。

けれど、周太とは『血の契』が出来ない。
もとから血液型も違う、なにより『血の契』は苛烈な男倫理が強すぎて周太にそぐわない。
それでも自分は周太の婚約者という立場を手に入れた、入籍すれば法律でも永遠に繋がることが出来る。
血では繋がれない、けれど立場で繋がって湯原家の血統『Lignee』を背負えばいい。この想いと微笑んで英二は光一に告げた。

「湯原の血統、この意味は俺が背負うよ。絶対に周太だけには背負わせない、名字も血も俺は違うけど、家を護るのは俺だから。
婚約者として、あの家の人間として、俺は護りたい。その為に俺は全てを懸けてる、周太を抱いた瞬間からずっと…もう決めてるんだ、」

“どんなに美しい理由だとしても、殺人を犯すことが人に赦されるのか?”

この問いかけを遺した晉を『Fantome』に誘いこんだルーツ。
その原点を晉が『Lignee』と記した真相が、曾祖父・敦のルーツにある。
これが馨を『F.K』に繋ぎとめ、周太をも『Fantome』ファイルに繋いだ原点。
それは一体、どれだけの歳月を経て綯われた連鎖だと言うのだろう?

生命と共に続く血統『Lignee』血の繋がりは切れない。

それでも、あの家の哀しい連鎖を絶ち切りたい。
こんな自分が本当に絶ち切ることが出来るのか?本当は不安で、怖いとも思う。
それでも自分はもう選んでしまった、あの家を護ることを約束して、墓前にも祈りを捧げた。
だから偽ることも出来ない、もう決めたのだから頑固でも護りぬく。この「決めた」に英二は正直なまま口を開いた。

「周太を護ることは、あの家を護ることは、きっと危険が多い。ここまでに解かったことだけでも、知るだけで危険な秘密ばかりだ。
最初から、周太を護ることは危険だと思っていたよ?でも、こんなに根が深いとは考えていなかった、あの日記帳を見つけるまでは。
それでも俺は、さっきも言った通りだよ。俺は周太に全部を捧げている、約束している。だから、逃げられない時があるかもしれない、」

逃げられない時。

それは命を懸ける時かもしれない。
去年の秋に一度、周太の身代わりになる覚悟をした時のように。
あんなふうに逃げられない選択の瞬間が増えていく、この予兆に微笑んで言葉を続けた。

「本当に周太も光一も大切で、狡いけど俺は選べない。それでも選択から逃げられない時があるかもしれない、周太を護る為に。
周太を護り続ける約束と、光一と最高峰に登り続ける約束と、どちらかを選ばないといけない。そんな選択の時が来たら、選ぶのなら…」

言いかけて、見つめてくれる無垢の瞳に言葉が出てこない。
こんなことを言うのは残酷と解っている、けれど背負った責任に今から告げておきたい。
こんなことは残酷で狡い、こんな自分に山っ子のアンザイレンパートナーになる資格なんてあったのだろうか?
この自責に透明な瞳を見つめながら、英二は再び口を開いた。

「俺は、周太を選ぶ、」

告げた言葉の先で透明な瞳が微かに笑んでくれる。
その笑みが綺麗で、傷みに心が軋んでいくのを見つめながら英二は言葉を続けた。

「ふたりとも大切で、愛してる。選ぶことなんか出来ない。でも、周太は俺の妻になる人だから、ずっと護りたいんだ。
それなのに光一を『血の契』で繋ぎとめたよ、生涯のアンザイレンパートナーになって、キスまで…こんなの身勝手だって思いながら。
こんなに狡いことしても欲しいほど、光一が大切だよ?だから約束してほしい、俺より好きな相手が出来たら遠慮しないで、俺を捨ててくれ」

どうか幸せでいて欲しい、だから自分を選ばなくて良い、捨ててほしい。

「俺より大切な相手が出来たら、その人のところに行って?いつか俺は周太を選んで、光一との約束を壊すかもしれないから。
だから、俺よりも相応しいアンザイレンパートナーと逢えたら、その人と夢を叶えてよ?光一だけ見てる相手と幸せになってほしい、」

自分の言葉に本音がもう軋んで痛い、こんなに痛がる自分は狡いと自責が苦みを増していく。
約束をしても守れるのか解らない、そんな狡い約束と愛情を示している自分が、本当は赦せない。
それでも他にどうしたら良いか解からない。そんな想いに見つめたアンザイレンパートナーは、大らかに笑ってくれた。

「言ったよね?おまえは俺の唯ひとりだよ、それは変わらない。おまえが周太を選んでも、ずっと。だって運命の相手だからね、」

応えてくれる底抜けに明るい目が温かい。
大らかな優しい温もりが微笑んで、透明な声が言ってくれた。

「俺も跡取りだから、俺ん家を守らなくちゃいけない。そんな義務と責任が俺にもあるよ、だから結婚もしなくちゃいけないかもね?
それでもね、あのひとを護りたい、おまえを護りたい。そのために俺も、全部を懸けても後悔しないよ?ずっと一緒にいたいからね、」

告げてくれる笑顔は、どこまでも無垢で明るい。
この明るさに今まで何度も救われて、だから今も思い知らされて、心に本音がこぼれだす。
離れないでほしい、ずっと一緒に立って、支え合って、傍にいて?そんな本音を英二は短く言葉にして、隣に笑いかけた。

「こんな俺に、本当についてくる?」

この本音が美しい山っ子を危険に惹きこんでしまう、その自責が心を刺す。
この傷みと見つめる真中で、明るい笑顔がほころんだ。

「ずっと一緒にいるよ、なにがあっても変わらない。アンザイレンパートナーで『血の契』で、恋した人間は英二だけだから、」

どこか切ない話、それなのに光一の笑顔は底抜けに明るい。
こんな顔をしてくれるパートナーが愛しい、この愛する信頼に英二は微笑んだ。

「ずっと一緒にいよう?光一のことは俺が護るから、一緒にいてよ、」
「ありがとね。一緒にいたいから護ってね、ア・ダ・ム、」

素直に笑って、優しい明るさを贈ってくれる。
そんな笑顔にまた救われている自分がいる、こんな自分は弱いと甘い自覚が微笑んでしまう。
この弱さを少しでも償える自分になりたい、そっと心裡に誓いながら大切なパートナーに綺麗に笑った。

「光一、ずっと一緒にいて護るよ。最高峰でも、警察組織でも、ずっと、」

山の世界でも、人間の世界でも、護りたい。
いつか選択の瞬間が来るまでは、ずっと護りたい。そんな想いに底抜けに明るい目は笑ってくれた。

「うん、俺も英二を護るよ。この笑顔が大好きだからね、」

名前を呼んでくれた、きれいな笑顔がまばゆい。
どこまでも透明で無垢の山っ子、この愛情を受けとっていたい。
そんな今の自分と2カ月前の差が可笑しい、ふっと記憶へと英二は微笑んだ。

「槍ヶ岳の前もさ、おまえのこと親友でアンザイレンパートナーだった。あの時までは、おまえがキスしてくるの少し困ってた。
でも今は、俺からキスしたくなる。光一のこと抱きたくて、誘いたくなる。こんなふうになるなんて思ってなかった、自分で不思議だよ、」

言われた言葉にすこし困ったよう笑って、雪白の貌が首傾げこむ。
そして透明なテノールは楽しげに言ってくれた。

「俺はね、最初から少し想ってた。雅樹さんと似ていて、でも違うから…本気になっちゃうかもね、って予感はしてた、」

告げて、秀麗な貌に桜いろ翳しだす。
文学青年のような繊細な風貌は、最初に逢った時から変わらない。
けれど艶が深い陰影を魅せてしまう今、臈たけた美貌がまばゆくて、感情が起きあがる。
こんな変貌に見惚れている自分がいる、ひとは心で、こんなにも変わるのだろうか?

「光一、キスしていい?」

想い素直に笑いかけて、透明な瞳をのぞきこむ。
見つめられた瞳は幸せに微笑んで、そっと長い睫を閉じてくれた。

「素直で可愛いね、光一」

笑いかけた言葉に、雪白の頬がすこし桜いろにそまる。
その頬に掌を添える、なめらかな温もりに掌が受けとめられる。
かすかな吐息の香を見つめて、薄紅の唇に唇を重ねながら英二は微笑んだ。

「愛してる、」

ふれるキスやわらかな熱に、花の香がふれてくる。
いつも光一から昇らす香、この香も最初から変わらないようで、すこし違う。
前よりも華やいだような高雅な香、どこか幻か花を抱いているような美しい香。
この香を全身の肌に抱いて、溺れこむ夜がいつか訪れるのだろうか?

「…キス、巧いよね、おまえって…ほんとエロ別嬪」

そっと離れて薄紅の唇が、気恥ずかしげに微笑んだ。
こんな綺麗な笑顔で言うことが、どうしても「エロ」に傾いてしまうのが可笑しい。
これだけ美人な癖に真性のエロオヤジだな?可笑しくて笑いながら英二は答えた。

「気に入ってもらえたなら嬉しいよ?俺、セックスも巧いみたいだから、楽しみにしてて、」
「ろこつなこと言ってんじゃないよ、馬鹿、」

文句を言うテノールが恥ずかしげに、幸せに笑ってくれる。
こんな自分を選んで本当は悩むことも多いだろう、それでも幸せに光一は笑ってくれる。
この明るい無垢な笑顔に、吉村医師の言葉が静かに甦って心ふれてしまう。

『無欲で無垢な彼は、今、掌に与えられたものを大切にして、満足することを知っています』

今、自分の存在が光一にとって「掌に与えられたもの」でいる。
それなら少しでも多く掌に載せてあげたい、こんな自分で良いのなら与えられる時の限りまで、ずっと。
この運命の相手『血の契』の笑顔が愛しい、想い微笑んで英二は月曜の朝のことに口を開いた。

「捜査一課の経験者って、調べられるかな?特にSITなんだけど、」

遠野教官に警告を発した人間。
この人間についても知っておく必要があるだろう、考えながら笑いかけた隣はすぐに頷いてくれた。

「昨日も話してくれた件だね?今日は昼休み、多分パソコン使えるんじゃない、」

直ぐに理解して、いつも呼応してくれる。こんな相手は本当に「運命の相手」だろう。
この相手がいるならば50年の束縛も、それより古い連鎖も、自分は断ち切ることが出来る?
そんな希望に微笑んで英二は笑いかけた。

「昨日は人の出入りが多くて、時間無かったもんな?やっぱりシーズンの土曜だな、」
「だね?今日はあんまり誰も来ないとイイね、」

笑い合いながら立ち上がる、その頭上から木洩陽がまばゆい。
救助隊制帽の鍔を翳し見あげた空は、朝霧が晴れはじめていた。
やわらかな青色の朝陽に、ふっと馴染んだ詩の一節が祈るよう明るんだ。

The innocent brightness of a new-born Day  Is lovely yet;
The Clouds that gather round the setting sun
Do take a sober colouring from an eye That hath kept watch o’er man’s mortality;
Another race hath been,and other palms are won.
Thanks to the human heart by which we live. Thanks to its tenderness,its joys,and fears,
To me the meanest flower that blows can give Thoughts that do often lie too deep for tears.

  生まれた新たな陽の純粋な輝きは、いまも瑞々しい
  沈みゆく陽をかこむ雲達に、謹厳な色彩を読みとる瞳は、人の死すべき運命を見つめた瞳
  時の歩みを経、もうひとつの掌に勝ちとれた
  生きるにおける、人の想いへの感謝 やさしき温もり、歓び、そして恐怖への感謝
  慎ましやかに綻ぶ花すらも、私には涙より深く心響かせる

この詩のように自分も、いつか時の歩みを経た時には勝ち取れるだろうか?
最愛のひとの自由を、愛する家の解放を、自分は勝ち取れる?
本当の自由な幸せに周太を、永遠に浚うことが出来るだろうか。

―周太?いつか話してあげたいよ、家の幸せな記憶は…約束を叶えたい

祈りの願い微笑んで、あわく青い空にひとつ呼吸する。
その口許へ静かに漂いこんだ、深いブナの香と花の香が、ただ優しい。



【引用詩文:William Wordsworth『ワーズワス詩集』「Intimations of Immortality from Recollections of Early Childhood」XI】

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