萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

第50話 青葉act.4―another,side story「陽はまた昇る」

2012-07-21 23:53:33 | 陽はまた昇るanother,side story
悲喜、それでも優しい場所



第50話 青葉act.4―another,side story「陽はまた昇る」

雲取山避難小屋前で救助された男性は、やはり埼玉県警で手配されている強盗犯の被害者だった。
そのため今日は奥多摩全域で終日入山が規制され、青梅署による山狩りが行われている。
そして吉村医師のレスキュー講習会場も、青梅署会議室に変更された。

「ぼく、宮田のお兄さんと山に登れるな、って、楽しみにしてたのに、」

がっかり顔の秀介が周太の隣でシャーペンを回している。
山岳救助隊員の3人は下山後の風呂を済ませて署に戻ると、すぐ山狩りに加わり講習も欠席になった。
いま初任総合でなかなか会えない英二は不在、楽しみにしていた登山も無くなっては、さすがの秀介も「がっかり」だろうな?
そんな様子が可哀想で周太は、秀介に笑いかけた。

「秀介、俺で良かったら後で、一緒に勉強する?」
「え、いいの?やったあ、」

ぱっと可愛い笑顔を咲かせてくれる。
嬉しそうな声弾ませて、秀介はねだってくれた。

「ぼくね、今日は周太さんも来るよ、って美代ちゃんに聴いて楽しみにしてたんだ。それでドリルも持ってきてるの、」
「ん、俺もね、美代さんから秀介も参加する、って聴いて楽しみにしてたよ?」

秀介の言葉が嬉しくて、周太も微笑んで答えた。
ひとりっこで親戚もいない自分にとって、秀介は弟か従弟がいたらこんなふうかなと思わせてくれる。
そんな嬉しい気持ちでいる隣から、楽しそうに美代が訊いてくれた。

「ね、湯原くん、私の勉強もみてくれる?」

美代の勉強はもちろん、大学受験の勉強のこと。
この大切な友達の夢は周太の夢でもある、協力できるのが嬉しくて周太は微笑んだ

「ん、いいよ、」
「よかった、質問がちょっとあるの。ね、お昼ごはんとか皆、どうするの?」

関根と瀬尾にも美代は訊いてくれる。
訊かれて関根が笑って答えた。

「特に決めてないんだ、俺たち。宮田任せだったからさ、」
「じゃあ、吉村先生もお誘いして皆で、ってどうかな?私、車で来ているし、」

美代の提案は楽しそうだな?
そう思った周太の向かいから瀬尾が嬉しそうに微笑んだ。

「そうしたいな、俺。吉村先生のお話、いろいろ訊いてみたかったんだ、」
「瀬尾くん、吉村先生のこと知ってるの?」
「うん、宮田くんが事例研究で先生の話をしてくれてね。それで俺、先生のご本を読んで、」

話しながら鞄を開くと、瀬尾は一冊のハードカバーを取りだした。
その著者名が「吉村雅也」となっている、驚いて周太は尋ねた。

「それ、先生が書いた本なの?」
「うん、実家に帰ったとき、ネットで調べたら見つかったんだ。それで取り寄せてね、」

嬉しそうに本を見せて瀬尾は笑っている。
瀬尾は警察関係のことなら何でも好きで、よく本も読むと聞いていた。だから警察医のことも興味を持って当然かもしれない。
吉村医師が本を書いていたなんて初耳だ、自分も読んでみたい。周太は博学な友達に訊いてみた。

「その本、もう読み終わった?」
「うん、2回読んだよ。学校に戻ったら貸そっか?」

優しいバリトンボイスが提案してくれる。
自分から頼みたかった事を言って貰えて嬉しい、嬉しくて周太は頷いた。

「ありがとう。その本、俺も読んでみたい」
「おや、何の本の話ですか、」

穏やかな声に話しかけられて振向くと、吉村医師が傍に立っている。
ちょうど会議室に入ってきてくれた所らしい、驚いて赤くなりそうな首筋を気にしながらも、周太は微笑んだ。

「あの、先生が書かれた本のことです、」
「私の?…あ、」

訊き返しながら吉村医師は瀬尾の手元を見た。
すぐ困ったよう気恥ずかしげに微笑んで、吉村は抱えた資料と一緒に席に着いた。

「その本、よく見つけましたね?もう5年ほど前なのに、」

資料の支度をしながら吉村医師は、照れくさげに瀬尾に笑いかけてくれる。
すこし緊張しながらも瀬尾は嬉しそうに答えた。

「ネットで探したんです。宮田くんから先生のお話を聴いて、ご本を書かれているかも、って思って、」
「おや。どうして、そう思われたんですか?」

楽しげに切長の目が笑んで、興味深そうに吉村医師が尋ねた。
訊かれて瀬尾は微笑むと、明快に答えた。

「はい、ERの権威で、警察医の改善に務められていると伺って。そういう方なら、著作の依頼も多いだろうって考えました」

…なるほどな?

素直に感心して周太は、あらためて瀬尾の洞察力を思った。
こういうとき瀬尾は本質的に聡明だと窺わせる、きっと本気になれば相当出来るタイプだろう。
そんなことを考えている前で瀬尾は立ち上がって、吉村医師の傍に行くと本を差し出した。

「吉村先生、図々しいですが、サインいただけませんか?」

やっぱり、その目的なんだ?

昨日も瀬尾は後藤副隊長にサインを願い出ていた。
今回の訓練と講習会の参加は瀬尾にとったら「ファンの会」みたいな面もあるのかな?
そう思うと何だか可笑しい、つい笑いそうになりながら見たロマンスグレーの白衣姿は、穏やかに微笑んだ。

「おや、私のサインですか?そうか、君が後藤さんにサインを書いてもらった、瀬尾くんですね?」
「はい、後藤副隊長に聴かれたんですか?」
「ええ、昨夜一緒に呑んだ時にね?湯原くんにも言われたからなあ、って、照れながら喜んでいましたよ、」

楽しげに笑いながら吉村医師は、白衣の胸ポケットから万年筆を出してくれた。
長い指の手は本を受けとると裏表紙を開き、さらりペン先を走らせた。

「乱筆で、お恥ずかしいですけれど、」

穏やかな笑顔に本を返されて、瀬尾は嬉しげに微笑んだ。
そして裏表紙の見開きを見、優しい目は賞賛に大きくなった。

「すごい達筆です、ありがとうございます、」
「いや、恥ずかしいですね?」

ほんとうに恥ずかしそうに吉村医師は困り顔で微笑んだ。
その傍らで瀬尾はサインを眺めて、ふと医師に質問をした。

「先生、ここ『迷医』って書かれていますけど、どういう意味ですか?」
「訊かれると恥ずかしいんですが、それは、宮田くんとの会話からなんです、」

照れくさげなロマンスグレーの笑顔に、ふと周太は記憶を思い出した。
この『迷医』については英二から聴いたことがある、その記憶をなぞるよう吉村医師は口を開いた。

「宮田くんが私を『名医』と言ってくれたんです。それで私は、“迷う” 医者という意味では迷医だな、って答えてね。
それから座右の銘みたいに、肩書きに代わりにさせてもらっています。迷いこそが自分を成長させてくれると、忘れないようにね」

吉村医師の「迷い」
その意味を周太は英二に訊いて、知っている。
それは吉村医師にとって最も哀しい経験が生み出した、その事への想いが心響いてしまう。
このことを瀬尾ならきっと質問するだろうな?そう見ている先で瀬尾が、提案をした。

「先生の『迷い』について、お話を伺ってみたいです。講習会の後は、お時間がありますか?」
「はい、今日は夕方まで空けてあります。本当は山の現場で講習の予定でしたし、湯原くんにお願いしたいことがあったので、」

答えながら穏やかな笑顔を周太に向けてくれる。
この医師の「お願いしたいこと」はこれだろうな?嬉しい気持ちで周太は頷いた。

「先生。俺、コーヒー買ってきたんです。このあと、診察室にお邪魔しても良いですか?」
「もちろんです、こちらからお願いするつもりでしたから、」

嬉しそうに吉村医師が頷いてくれる。
そのとき周太の隣から、すこしデスクに身を乗り出すよう秀介が手を挙げた。

「吉村先生。ぼくも診察室におじゃまして、いいですか?ぼく、警察医の診察室に入ってみたいんです、」

秀介の夢は医師、それも吉村医師のような警察医と山岳医療を目指している。
この夢の発端は秀介の祖父、アマチュアカメラマンで山ヤだった田中の遭難死だった。
あの葬儀の日に見つめた秀介の想いと、田中の絶筆になった竜胆の写真は、今も周太の心に響く。
この夢のために今日も秀介は講習会の参加を願い出たろうな?そんな想いの向こうで吉村医師は嬉しそうに頷いた。

「はい、もちろん良いですよ。どうぞ見学して行ってくださいね、」
「やった、ありがとうございます、」

小学生らしい喜びの表現をして、秀介はきちんと座り直した。



フィルターを通った湯はダークブラウンに変わり、芳香の湯気が昇りだす。
やわらかな陽射しふる診察室の午後は、相変わらず穏やかで温かい。
6つのマグカップにコーヒーを淹れながら、周太は一緒に手を動かす美代に口を開いた。

「あのね、本当は俺、昨日は同期と昼ご飯を一緒にする約束だったんだ、」
「あ、そうだったの?私、その人に悪いことしちゃったのね?でも、こっちに来てくれて嬉しいけど、」

詫びと喜びを素直に言って美代が笑ってくれる。
その笑顔を嬉しく見ながら周太は、尋ねてみた。

「ん、その同期が言ってくれたんだ、こっちに行って良いよ、って。自分の方は、いつでも良いから、って言って。
でも俺、この後って毎週土曜は大学があるでしょ?だから同期との約束が出来そうになくて。こういう時、美代さんならどうする?」

この友達なら良い答えを教えてくれるかな?
そんな期待と見た美代は、きれいな明るい目を笑ませて言ってくれた。

「ね、だったら講義の後で、学食に来てもらうとかダメかな?あとは勉強するブックカフェに来てもらうとか、」
「いいの?美代さん、」

そうさせて貰えると良いかもしれないな?
首傾げた隣で美代は、気さくに頷いてくれた。

「私は大丈夫よ。もしブックカフェなら私が問題解く間とかに、お話し出来るかな?って。それとも私、その日は遠慮しようか?」
「それはダメだよ、美代さんの勉強の方が先の約束なんだし、大切だよ?」

即答しながら周太はコーヒーのフィルターをカップから外した。
美代も一緒にしてくれながら、嬉しそうに微笑んだ。

「ありがとう、湯原くん。そう言ってくれるの、ちょっと期待していました、」
「ん、期待してくれて、うれしいよ?」

笑いながらマグカップをサイドテーブルに運んでいく。
最後のカップには砂糖とミルクをたっぷり注いで、秀介用に甘いコーヒーミルクに作った。
ふたり並んで支度を整えながら、思い出したよう美代が訊いてくれた。

「ね?そういえば、女の子たちはどうなったの?」
「あ、華道部の人たち?」

訊き返した周太に、美代は頷いてくれる。
椅子を並べていた関根が気がついて、首を傾げた。

「湯原、華道部の女子が、どうかした?」
「ん…ちょっと困っていたんだ。でも、大丈夫になったよ?」

すこしぼかした答えに周太は微笑んだ。
なんとなく気恥ずかしくて自分では答えにくいな?そう思った隣から美代は笑って、さらり答えてくれた。

「湯原くんね、宮田くんのこと質問攻めされて、困っていたの。だから『訊いて回られるの嫌いみたい』って言ったら良いよ?
って、このあいだ話していたの。そうしたら嫌われたくないから、女の子たちも二度と訊いて来なくなるから。その効果はあったのね?」

関根に答えながら美代は、周太に訊いてくれた。
こうして覚えていて心配してくれていた、それがなんだか嬉しくて周太は微笑んだ。

「ん、もう訊いて来なくなったよ?でもね、手を振ってきたりはするけど、」
「そういえば湯原、最近よく女子たちに手振ったりされてるよな?それのことか?」

快活に笑って関根が訊いてくれる。
そういうところ見られていたんだ?なんだか恥ずかしくて周太の首筋は熱くなりだした。

「ん、そうかな?…先生、コーヒー熱いうちにどうぞ?」
「はい、ありがとうございます、」

茶菓子を並べてくれた吉村医師が、笑って席に着いてくれた。
その向こう、診察室を見て回っていた秀介が、吉村医師のデスクの前で首を傾げこんだ。

「先生、この写真、宮田のお兄さん?」

医師をふり向いて秀介が尋ねてくる。
その隣から瀬尾も覗きこんで、不思議そうにデスクの写真立てを見つめた。

「宮田くんに似てる、でも…別のひとですよね?」

写真立てから瀬尾も吉村医師へと視線を移す。
ふたりの視線を受けとめて、吉村は穏かに微笑んだ。

「はい、息子の雅樹です。医学部5回生の秋に、山で亡くなりました、」

答えに秀介と瀬尾と、関根の目が息を呑んだ。
そっと隣を見ると美代は哀しげに俯いている、きっと当時の哀しみを思っているのだろう。
それぞれの想いが交錯する中心で吉村医師は微笑んで、皆に茶菓子を進めると口を開いた。

「瀬尾くん、さっき講習の前に話した『迷医』の原点はね、この息子なんです。雅樹は私には勿体ない、自慢の息子でね。
中学生の時に救急法を満点合格して、医大に進学しました。大好きな山で人助けをするのだと、山岳医療の医者を目指していてね。
いつでも命を救えるようにと、普段から救急用具を持ち歩いていました。けれど、あの日に限って息子は忘れて。それが命取りでした」

ほっと息吐いて、ひとくちコーヒーを啜りこんでくれる。
穏やかな眼差しで「美味しいです」と周太に微笑んで、吉村医師は話しを続けた。

「当時の私は大学病院の教授として自信に溢れて、傲慢になっていました。ですが、今の私から見たら何も解ってはいなかった。
けれど息子が山で死んで。なぜ息子に一言『救急用具を持ったか?』と訊けなかった?そう自分を責めて私は、迷うようになりました。
息子は死にました、けれど息子の人生をもっと見つめたいと諦められなくて、迷ってね。だから私は、地元の奥多摩に戻りました。
息子が愛した山で廻っていく人生を、私は見つめることにしたんです。そうする事で、息子の人生を垣間見れるように思ったからです、」

明るい部屋に穏かなトーンが静かに響く。
ゆるやかな芳香くゆらす湯気の向こう、吉村医師は微笑んだ。

「大切な存在の死を諦めきることは、とても難しいです。だから私はまだ、これからも迷うでしょうね。
けれど、この迷いこそが目の前の患者や遭難者、そして、ご遺体を見つめる時、真剣な目となっています。
息子を求める迷いが、相手を真直ぐ見つめさせてくれるんです。迷いこそが私を成長させています、だから私は『迷医』なのです」

くすん、

かわいい鼻を啜る声が隣で鳴って、周太は小さな友達をのぞきこんだ。
思った通り秀介が涙をこぼしている、その目許をハンカチで拭ってやると、秀介は微笑んだ。

「ありがとう、周太さん、」
「ん、どういたしまして…秀介、先生に話したいこと、あるんでしょう?」

きっと秀介は言いたいことがある。
そう思って笑いかけた先、可愛い笑顔は嬉しそうに頷いてくれた。

「うん、当たり。ありがとう、周太さん、」

微笑んで秀介は、吉村医師に向き直った。

「吉村先生。先生の気持ちはね、ぼく、解かるかも?ぼくもね、じいちゃんが山で死んで、医者になりたいってなったから、」

秀介の言葉を、関根と瀬尾が見つめている。
そして今度は美代が涙を呑んだ気配に、周太はポケットティッシュを差し出した。
そんな皆の視線を受けて、すこし羞みながらも秀介は微笑んだ。

「じいちゃん、山が大好きだったでしょ?だから、ぼくも山に行ってみたい。じいちゃんが撮った写真の場所に行きたいです。
それでね、じいちゃんみたいに山で具合が悪くなった人を、助けたい。山で亡くなった人と家族を、先生みたいに受けとめたい、」

真直ぐな言葉が吉村医師へと向かっていく。
穏やかな目はすこし大きくなって、小さな少年を見つめている。その目に微笑んで秀介は言った。

「先生、ぼく、先生の後を継いでね、ここで警察医になりたいです。それでね、先生みたいに山の病院もしたいんです。
だから今日も光ちゃんに聴いて、講習会に出たいってお願いしたんです。先生、ぼくにも山とお医者のこと、教えてくれますか?」

これが秀介が今日、ここに来た理由。
きっとそうだろうなと思っていた、けれど本人の言葉が述べる決意表明は、まぶしい。
この小さな後輩に吉村医師は、心から嬉しそうに笑いかけた。

「はい、どうぞ勉強に来て下さい。土日は病院の方にいますから、そちらでも良いですよ?お父さんにも許可を貰って、来て下さいね、」

秀介の顔が、ぱっと明るんだ。
笑顔のまま弾んだ声が明るく笑って、秀介は可愛い頭を下げた。

「ありがとうございます、ぼく、頑張ります。よろしくお願いします、」

いま夢がひとつ、前に一歩踏み出した。

きっと吉村医師にとっても秀介の夢は「希望」だろう。
吉村医師が秀介に山と医療を教えていくことは、雅樹との記憶をトレースすることになる。
これから秀介は大人になり、雅樹の年齢を越えて、いつか一人前の医師になっていく。
その姿を見守ることは、吉村医師が望んだ「雅樹の人生を見つめる」ことになるだろう。
それは吉村医師にとって、きっと大きな救いになっていく。

…すごいね、秀介。たった今ね、きっと1人助けられたよ?

この小さな友人の頼もしい横顔に、周太は心からの賞賛を贈った。





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P.S 斑雪、希望は消せない ―ext,side story「陽はまた昇る」

2012-07-21 04:33:23 | 陽はまた昇るP.S
時に、永遠を抱けることもある



P.S 斑雪、希望は消せない―ext,side story「陽はまた昇る」

叔父が死んだ。

まだ35歳、結婚も控えていたのに、叔父は亡くなった。
路面凍結によるスリップ事故、歩道に突っ込んだ車体に叔父は巻き込まれた。
集中治療室の扉の向こう側、心拍停止の音が響き渡って、叔父の命は消えた。

「…うそだ、」

ぽつり、父の唇こぼれた言葉が、心刺す。

本当に、これが嘘だったら良いのに?
だって叔父は死ぬべき人じゃない、まだ生きるべき人だから。

働き盛りの35歳、今春4月には結婚式を控える、多忙でも幸せな時だった。
名門大学に留学して、ビジネススクールを修了して、外資系企業に3年勤務した後、実家に入社して。
瀬尾家の跡取り、次期代表取締役、輝かしい後継者として将来を嘱望されていた。

そして、父が誰より愛する末弟。
たぶん息子の自分よりも、父は弟を愛している。



カーン…カーン…

礼拝堂の鐘が鳴る。
あわい雪が時おりふるグレーの空は、春とは名ばかりだと思い知らされる。
冷たい雪風が吹きつける墓地への道、あわい雪は消えながらも静かに積もりだす。
降りそそぐ雪のなか、警察官の礼服に抱いた骨壺が温かい。

まだ名残る火葬の熱はまるで、逝ったひとの体温のようで。
幼い日に何度も抱きあげて貰った、あの日の温もりが懐かしい。
いつも励ましてくれるとき、肩に置いてくれた大きな掌の温もりが懐かしい。
懐かしさに込み上げる涙を密やかに呑み下す、その背中に様々な声が聴こえてくる。

「…まだ35歳だなんて、ご結婚も控えて…」
「MITでMBAを取ったって伺いましたが、亡くなってしまっては…」
「後継者は……だけど、不登校で……警察官…」
「ああ、それではね……どうするか…」

参列者の密やかな会話が全て聞えてしまう。
彼らは聞えないと思って話しているのだろうか?それとも、わざとだろうか?

―僕のこと話してるんだね…不出来だ、って

心裡の声が自分で、苦い。
言われなくても解かり過ぎている、自分が「不出来」だということくらい。
そんな自分だからこそ、優秀な叔父に憧れて尊敬して、大好きだった。

だから、想ってしまう自分がいる。
参列者が呟く泰正への批評も、叔父を惜しむ声ならば、それすら嬉しい。
そんな想いと眺める黒い喪服の群れは、斑に積もった雪の芝生を静かなざわめきと進んでいく。
自分より少し前、支えられて歩く女性の後ろ姿に心が痛い。
彼女は、叔父の婚約者だった。

喪服に包んだ背中にやつれが見える、彼女の深い悲しみが滲んでしまう。
彼女はこの先どうするのだろう?どうか幸せになってほしい、そんな祈りと雪を歩く。
そして真白い墓標の前に着いて、泰正は胸に捧げた骨壺を抱きしめた。

「泰正、」

父の声に、泰正は顔を上げた。
その視線の先には憔悴しきった父の顔が、それでも静かに微笑んでいた。

「聡嗣に、最後の別れをしなさい、」
「はい、」

静かに純白のカバーをほどき、白い骨壺を取りだす。
自分の手から墓守が受けとって、まだ温かい骨壺が掌から離れてしまう。
白い墓石の元へ納められていく姿を見つめて、クロスを切ると泰正は最後の合掌を捧げた。
見つめる骨壺が小さく見えて、大柄だった叔父との比較に呆然とさせられる。
身長180cmも、今は20cm程度の壺に納められてしまった。

「…聡嗣にいさん、」

ぽつり、大好きな人の名前がこぼれて、涙がひとつ落ちた。

泰正が不登校になったとき、聡嗣は仕事の合間に勉強を見てくれた。
けれど三流大学しか合格出来なくて、それでも聡嗣は一緒に喜んで褒めてくれた。
そして、警視庁に合格した時は、本当に喜んでくれた。

「よくやったなあ、泰正!すごいな、子供の頃からの夢だったもんな、」

快活な笑顔が心から笑って、合格通知を見つめて喜んで。
褒められて嬉しかった、けれどコンプレックスが痛くて自分は言ってしまった。

「ありがとう、聡嗣にいさん。でも…僕、やっぱり落ちこぼれだよね?」

『落ちこぼれ』

ずきり、言ってしまった言葉が古傷を抉る。
名門の中高一貫校に自分は入学した、けれど高校2年から不登校に陥り、ドロップアウトした。
その発端は、声変わりを殆どしなかったことだった。この記憶の現実が心締め上げるまま、泰正は続けた。

「聡嗣にいさん、正直に教えてほしいんだけど。こんな声で警察官になって、やっていけるって思う?」

この声に纏わる記憶が、痛い。
この痛みのまま正直に、自分は聡嗣へと話した。

「僕、女の子みたいな声でしょう?背も高くないし、女顔だし…高校のときの不登校は、本当は、これが原因なんだ、」
「…泰正、ドライブに行こうか、」

優しく微笑んで聡嗣は、泰正を家から連れ出してくれた。
夏7月の終わり、土曜日の午後。静かな車窓を眺めながら着いたのは、海だった。
真青な海に太陽は傾きかけて、すこしずつ人が減っていく浜辺を並んで歩いた。

ざあん、ざあ…

単調な音がやさしい、潮の香がいつもの生活から離してくれる。
ずっと車内では黙ってしまっていた緊張が、潮騒に凪がされていく。
ほっと吐息に心ほぐして、泰正は口を開いた。

「聡嗣にいさん。僕、イジメられたから学校行かないって、あのとき言ったよね?でも、本当は違うんだ…」

言いかけて、ひとつ呼吸する。
このことを話すのは勇気がいる、知られることが怖くて秘密にしてきたから。
それでも自分の理解者には話したくて、泰正は口を開いた。

「僕、告白されたんだ。クラスの人と、部活の先輩に、ね」

聡嗣の足が止まった。
泰正も足を止めると、軽く首を傾げて聡嗣が尋ねた。

「泰正、あの学校は、今も男子校だよな?」
「うん。聡嗣にいさんが卒業した時と、変わらないよ?ずっと男子校…」

ため息がこぼれてしまう、それでも泰正は微笑んだ。

「男ばっかりだからかな?ちょっと可愛いタイプの子はね、なんか大事にされるんだ。告白したとかの噂も聞いてたよ。
でも、僕まで言われると思っていなかった。だけど、高1くらいまでに皆は声変わりしたのに、僕はこんな声のままでしょ?
身長も伸びなくなって。周りはどんどん大きくなるのに、僕は中学の時とあまり変わらない。でも僕、気にしていなかった、」

周りは体つきから大人びて、男らしくなっていく。
けれど自分は大して変わらない、この現実が刻んだ傷みが、苦い。苦い古傷を見つめて泰正は続けた。

「けど、高2になったころから、なんとなく周りが変わってね。それでも自分は子供っぽいだけって思って、気にしなかったよ。
でも、クラスの友達に告白された、好きだって…男なのにって驚いた。僕には真紀ちゃんがいるし、断ったよ。それで気まずくなって。
その友達、委員会でも一緒だったんだ、それで委員会の時間が辛くなって。そうしたら今度は、部活の先輩に告白されて…また断って、」

ぽつん、

涙が頬つたって、砂浜に吸いこまれる。
消えていく涙を見つめて、また顔を上げると聡嗣の目を見つめて、泰正は微笑んだ。

「クラスでも委員会でも、部活でも気まずくなっちゃったんだ。それで居場所が無くなって、学校に行けなくなったよ、」

こんな理由は恥ずかしい、それでドロップアウトしたなんて?
こんな理由は誰にも言いたくなくて、いじめに遭ったからと家族に嘘を吐いていた。
けれど大好きな叔父には、もう、嘘を吐きたくない。泰正は正直に口を開いた。

「ふたりから、同じことを言われたよ。僕のこと女の子みたいに可愛い、つきあいたいって言うんだ。でも、僕は男だよ。
ふたりとも悪気はないんだって解ってる、でも、そういうふうに見られていると思うと気まずくて、話せなくなったんだ、」

微笑んで見つめる聡嗣の目は、真直ぐ見つめてくれている。
きちんと受けとめ聴いてくれている、そんな眼差しが嬉しい。この信頼に泰正は言葉を続けた。

「こんなふうに僕は、男の癖に女扱いされるような人間なんだよ。こんな僕だけど、本当に警察官になれると本気で思う?
運動も得意じゃない、そんなに頭が良いわけでもない、自信なんて無い。だから本当は、記念受験のつもりで受けたんだ、
ずっと警察官に憧れていたから、だから、受験して落ちて、諦めよう。そう思って僕、本当は諦めるために受験したんだ、」

ぽつん、ほとり、

本音の言葉に涙あふれて落ちる。
これが弱虫な自分の本音、諦めるために落ちるために受験だなんて、馬鹿だ。
こんな馬鹿な自分をもう、聡嗣は呆れてしまったかもしれない。そんな想い見つめる真中で、年若い叔父は口を開いた。

「泰正は、優しいな、」
「え…、」

どういう意味だろう?
そう見上げた先で叔父は、快活な目を温かに笑ませた。

「その友達や先輩のこと、傷つけるかも、って気を遣い過ぎて、学校に行けなくなったんだろ?違うか?」

どうして?
どうして叔父には解るのだろう?

「うん…僕の顔見たら、傷つくかなって…でも、断った罪悪感が、嫌なだけかもしれない、」
「どうして泰正は、そんなに罪悪感を感じるんだ?」

海風のなか、快活な笑顔が率直に訊いてくれる。
黄昏が長身を照らすのを見上げて、泰正は思うままを言った。

「男同士で告白するのはね、きっと勇気が必要だって思うんだ。だって、普通じゃない、って思われるの怖いでしょう?
ふたりとも一生懸命に言ってくれたと思う、でも僕は話すことすら避けて、逃げるようになって…卑怯だから罪悪感、感じるよ、」

ようするに自分は無視をした。こんな自分こそイジメの加害者だ、せめて友達として普通に話せたら良かったのに?
けれど、そんな解決も出来なかった自分を、時が経つほど赦せなくなってしまう。こんなふうに自分は弱い。
こんな自分が警察官になって、やっていけるのだろうか?後悔と疑問に佇む泰正に聡嗣は快活に微笑んだ。

「そんなに罪悪感を感じるほど、泰正は相手を思い遣っている、ってことだよ、」

闊達な声が笑って、ぽん、と肩に掌を置いてくれる。
大きな掌は温かい、ほっと肩から力ぬけて微笑んだとき、聡嗣は言ってくれた。

「警察官ってな、相手を思い遣れることが必要だ、って俺は思うよ。加害者でも被害者でも、どちらも心に怪我した人間だろ?
どっちも心が弱っているんだ、そういう人間を思い遣れる優しさが心を開かせて、弱った心も癒す切欠に出来ると俺は思うよ。
そうやって心を癒せたら、たぶん、犯罪は世の中から減っていくんじゃないかな?だから泰正、おまえは有利だってことだよ、」

なにが有利なのだろう?
そう見上げた泰正を、聡嗣は温かな眼差しで受け留めてくれた。

「泰正は、人の顔と名前を一度で憶えるだろう?これは帝王学の初歩として必要だって、兄さんにも言われたと思うけど、
これは経営だけじゃなくて、人間関係全てに共通だ。人ってな、自分のことを憶えられて、気遣ってもらえると嬉しいものなんだ。
しかも泰正は優しいから、相手のことを忘れないで気遣えるだろう?きっとな、警察官として出会った人にもそう出来たら、喜ばれるよ」

大きな掌が、ぽん、と優しく肩を叩いた。
そして快活な笑顔で聡嗣は、泰正に約束してくれた。

「泰正は良い警察官になれるよ。出会った人を癒せるような、優しい警察官になれる。そうやって犯罪が減る手伝いが出来る」

自分が良い警察官になれる?
そんなふうに敬愛する叔父に言われたら嬉しい、嬉しくて素直に泰正は笑った。

「ほんと?僕でも良い警察官になれるかな?でも、能力的な適性っていうと、困るよね?」
「そんなこともないぞ、泰正は絵が得意だろ?」

浜辺を歩きだしながら、聡嗣は教えてくれた。

「似顔絵捜査官、っているんだよ。俺もアメリカにいた時に知ったんだけどな、1,200件以上の事件を解決に導いた人もいるらしい」
「1,200件?すごい、」

さくりさくり、砂の踏む音が足元を温める。
ゆっくり潮風を歩きながら聡嗣は、快活に笑って言葉を続けてくれた。

「泰正は肖像画を描くのが巧いだろ?それに人の話を聴くのも上手い。おまえなら、目撃者や被害者の話をよく聴いて描ける。
だから俺は、泰正が警視庁を受けるって聴いた時から、似顔絵捜査官を目指したら良いかもしれない、って思っていたんだ。
似顔絵捜査官になって色んな人に出会ったら、泰正は大きい男なれると思うぞ。人の話を聴くことは、心の器を大きく出来るから、」

似顔絵捜査官。
人の話を聴いて、似顔絵を描く仕事。それなら自分の個性が活かせるかもしれない?
そうして自分が大きい男に成れたら嬉しい、そう素直に想えて泰正は叔父にねだった。

「聡嗣にいさん、本屋に連れて行ってくれる?僕、似顔絵捜査官の本が欲しいんだ、」

そして海からの帰り道、聡嗣は似顔絵捜査官の本を数冊買ってくれた。
合格祝いだと言って笑って「楽しみだな」と言祝いでくれた。
あのときが、似顔絵捜査官という夢との出会いだった。

カーン…カーン…

礼拝堂の鐘が鳴り、雪の粒が小さく冷たくなっていく。
いまは冬1月、あの夢と出会った夏の海から1年半が過ぎ去った。
あのとき隣を歩いていた快活な笑顔は今、冷たい純白の墓標の下で永遠の眠りについた。

「…っぐ、」

込み上げた涙を飲み下す。
ここで今、泣きたくない。だって今、自分は警察官の礼服を着ている。
今日の葬儀の為に礼装許可を申請して、警察官として今、自分はここに立っている。
今、見送られる人も一緒に望んでくれた警察官の夢、その夢を叶えた姿で見送っていたい。
きっと叔父の死によって自分は、この制服を脱がなくてはいけないから。

瀬尾の家で後継者になれる男は、もう自分しかいない。
いまは女性経営者も多い時代だろう、けれど従姉妹たちも妹も経営は何も知らない。
いくら不出来だろうが何だろうが、唯一の男子である泰正が背負うしかない、相応しくなるまで努力するだけ。
それが出来なければ瀬尾の家も会社も離散してしまう、そうすれば一体どれだけの人が職を失うことになる?
こんな世襲制は今時珍しい、けれど世襲によって信頼を積んできた以上は自分が継ぐしかない。

そういう意味でも聡嗣の存在は、泰正の庇護者だった。
聡嗣という若く優秀な叔父がいてくれたから、泰正は長男の息子でありながら自由に進路を選ぶことが許されていた。
家族のなかで泰正の進路と夢を最も理解して応援してくれたのも、聡嗣だった。兄のように父のように見守り支えてくれた。
だからこそ今日は、聡嗣と見た夢の姿で立つことを選んだ。微笑んで立ち上がると泰正は、背中を真直ぐ伸ばした。

「聡嗣にいさん、ありがとうございました、」

23年間の想いに微笑んで、泰正は愛する墓標へと敬礼を送った。



海は、白かった。

雪染まる海岸は波打ち際、凍れる潮の波紋が残され、波にまた消え、形を変えていく。
葬儀の後、夜をこめて降り続いた雪は今朝も残り、ときおり小雪が海風に舞う。

ざくり、

踏みしめる砂も凍って、雪と砂がブーツの下を砕けていく。
髪なぶる潮風も雪まじり、冷たい頬が風に痛い。コートを透かし冷気が沁みこんでくる。
こんな場所でも手を繋いで歩いてくれる隣へと、泰正は笑いかけた。

「真紀ちゃん、寒いよね?車で待っていてもいいよ、」
「ううん、平気。一緒に歩きたいの、」

隣で薔薇色の頬が明るく笑ってくれる。
この笑顔に自分は今まで、なんど心を照らしてもらっているだろう?
幼い頃から見慣れた愛しい笑顔に、泰正は微笑んだ。

「真紀ちゃん、ごめんね。俺、5年経ったら警察官を辞めるんだ、」

自分の言葉を、笑顔が受けとめてくれる。
この女の子と幼い日に結んだ約束に、泰正は謝った。

「お巡りさんの奥さんになるって、真紀ちゃんが言ってくれた時ね、嬉しかった。だから俺、ずっと頑張れたよ?
本当は俺、ダメもとで採用試験を受けたんだ。でも受かった時は、真紀ちゃんとの約束が果たせる、って嬉しかった。
だから、警察学校とか辛かったけど、頑張れたんだ。でもね、5年後に俺、家の会社に入ることになったんだ。約束、ごめんね、」

長い髪を雪風にひるがえし、優しい目が見つめてくれる。
そっとマフラーを掻きよせながら、可愛い声が尋ねてくれた。

「やっぱり、泰くんが叔父さまの代わりをするの?」
「うん、」

短い返事と頷いて、泰正は微笑んだ。

「聡嗣にいさんみたいには、俺は優秀じゃないよ。でもね、俺は警察官になったよ。だから夢を叶える自信なら、少しあるんだ、」

こんな自分に優秀な叔父の代わりが務まるはずがない、そう解っている。
けれど自分はもう決めた、この想いを泰正は言葉に変えた。

「警察官になって俺、たくさん泣いたし悔しい事もあった。それ以上に嬉しい事もあって、すごく良い友達も出来たんだ。
この9カ月間は俺にとって、23年間の全部を足した以上の意味がある。だからね、あと5年の間に俺は、もっと成長できる。
警察官の5年間で俺は、家も会社も護れる大きい男になってみせるよ。だから父さんから5年貰ったんだ、それに、約束だから、」

雪風に真紀のマフラーがひるがえって、泰正は手を伸ばした。
そっと衿元に戻してあげると、優しい瞳が泰正に微笑んだ。

「ありがとう。約束って、叔父さまと?」
「うん。聡嗣にいさん、似顔絵捜査官になって大勢の人と出会って、大きい男になれ、って言ってくれたんだ、」

きちんとマフラーを巻きなおして、また手を繋ぎ直す。
ゆっくり歩きだしながら泰正は、自分の許嫁に尋ねた。

「この5年の間に俺は、似顔絵捜査官になるよ。聡嗣にいさんに言われたように、俺は大きい男になる努力をする。
でも5年経ったら俺は辞職する、そして家の会社で平社員からスタートし直すんだ。だから給料も安いし、贅沢は出来ない。
社長になっても気苦労が多いよ。それでも真紀ちゃん、俺のお嫁さんになってくれる?大学卒業したら、本当に結婚して良いの?」

もちろん警察官も簡単な道ではない、けれど企業経営者は社員と家族の人生を背負うことになる。
それは生半可な事ではないと、父と叔父を見て育った自分は知っている、母の姿にも見つめてきた。
父は元気だけれど、50代なのに白髪に近い。それは母も同じで染めていなければ真白だろう。
そんな気苦労を自分の伴侶には、共に背負わせることになる。それを謝る言葉を泰正は告げた。

「真紀ちゃん、俺との結婚が嫌だったら、婚約解消して?遠慮なんかしないで、正直に言ってほしい、よく考えてほしい。
真紀ちゃんと俺は、小さい頃に婚約したよね?俺が小学校に入る時に親が決めて、もうじき17年になる。許嫁な事が当然になってる。
でも、真紀ちゃんも去年、成人式が終ったよ。俺たち、もう大人になったんだ。もう、自分の意志で結婚相手を決められる、だから、」

言いかけた頬を、急に抓られて言葉を呑んだ。
頬を抓った指が冷たくて、寒風に真紀を晒しすぎたことが心配になる。
大丈夫かな?そっと頬抓る指を掌でくるんで、泰正は尋ねた。

「まひちゃん、はむいんやない?ゆひ、ふめたいよ?」
「もう、泰くん、」

抓った指をそのままに、薔薇色の顔が笑いだした。
可笑しくて堪らない、そんなふう笑いながら、けれど優しい瞳から涙がこぼれだす。
その涙がきれいで、泰正は指を伸ばすとそっと目許を拭った。

「泰くんの指こそ、冷たいね、」
「ほう?ほめんね、ふめたかった?」

冷たい指で拭って悪かったな?
そう謝ると真紀は、泣笑いの顔で訊いてくれた。

「泰くんこそ正直に言って?私のこと、好きですか?」

そんなこと決まっているのに?
だって雪の浜辺を延々と歩いてくれる子なんて、そう滅多に見つからない。
頬抓られたままで泰正は微笑んだ。

「ふん、好き、」
「ほんと?…私に、恋してくれてるの?」

そっと頬から指を離して、真紀が見つめてくれる。
その指を掌にくるんだままで、泰正は素直に笑いかけた。

「うん、恋してる。正直に言っちゃうけど、初めて会った婚約の食事会のときから、好きだよ。あのとき俺、ひとめ惚れしたんだ、」

これは自分の本音。真紀は初恋、自分の大切な人。
だからこそ自分の困難になった人生に、真紀を曳きこんでいいのか迷っている。

「あのとき俺、将来は警察官になります、って言ったよね?それで真紀ちゃんが、お巡りさんのお嫁さんになる、って言って。
それで俺、訊いたんだよ。警察官って贅沢とかできないから、今着ているみたいな綺麗な着物とか買えないけど良いの?って。
そうしたら真紀ちゃん、綺麗な着物はいらないから、好きな人と自由に一緒にいたいって言ったんだ。それで俺、本気で好きになった、」

まだ7歳と5歳だった。
おままごとの恋だと笑う人もいるだろう、けれど自分は17年間ずっと、本気だった。
ひとりの警察官として男として、贅沢は出来なくても、ふたり自由な幸せを贈ってあげたかった。
けれどもう、それは叶わない。密やかに涙を飲みこんで泰正は微笑んだ。

「俺は17年間ずっと真紀ちゃんが好きです、ずっと本気で恋してきたよ。だから自由をあげたい、大切だから幸せになってほしい、」

どうか君は幸せでいてほしい。
こんな自分の隣でずっと手を繋いで、いつも支えて来てくれた。笑顔で励ましてくれた。
だから自分に縛られること無く、自由に幸せを選んでほしい。この願い見つめる真中で、幸せな笑顔が花咲いた。

「私は17年間ずっと、優しい泰くんが大好きです。ずっと本気で恋してます、だから約束を守ってね、」

可愛らしい声が、雪曇りの空に明るく響いた。
いま言ったこと本当なのかな?すこし首傾げて泰正は大切な人の目を見つめた。

「ほんとうに良いの?若白髪とかなるかもしれないんだよ、苦労すると思うけど、」

真紀はお嬢様育ちの苦労知らず。
そんな彼女が本当に耐えられるだろうか?そう見つめた先で真紀は笑ってくれた。

「苦労も好きな人と一緒ならね、きっと幸せに出来るんじゃないかなって想うの。そうなるよう、努力するね、」

苦労も幸せに出来る、そう言ってくれる女の子は、きっと滅多にいない。
それを自分に言ってくれる人は、もっといないだろう。
もう自分は覚悟するべきだ、泰正は約束と微笑んだ。

「俺も一緒に努力するよ?だから真紀ちゃん、お嫁さんになって下さい。来年、真紀ちゃんが卒業したら迎えに行かせて、」

どうか「Yes」を訊かせてほしい。
笑顔で応えを見つめた向うから、笑顔が幸せに輝いた。

「はい、お嫁さんにして下さい。きっと卒論忙しいけど、結婚式の準備も頑張ります、」

17年間分の「Yes」を聴かせてくれた。
この想いが幸せで、温かい。この温もりに笑って掌を繋ぎ直すと、泰正は尋ねた。

「婚約指輪、どんなのがいい?見に行こうよ、」

来年の春に結婚するなら、秋には正式な結納だろう。
どんな指輪が真紀には似合うかな?考えながら笑いかけると真紀も微笑んだ。

「好きなデザインでオーダー出来るお店、ってあるかな?安くていいお店、探したいの、」
「うん、探してみようよ。どんなデザインが良いの?」

もう、考えてくれていたんだ?

しかも「安くていいお店」と真紀は言ってくれた、「泰正の給料で買えるもの」がほしいと望んでくれる。
こんなふうに真紀は、家同士が決めた結婚では無くて、自分たち同士で決めた結婚だと想ってくれていた。
こういうのは嬉しい、嬉しくて微笑んだ隣から幸せな笑顔が答えてくれた。

「桃の花のデザインが良いの。初めて会った料亭のお庭に咲いていて、綺麗だったから、」

花好きの真紀らしい答えが可愛らしい、そして記憶の花が愛おしい。
花と許嫁の愛しさに微笑んで、泰正は足を止めた。

「真紀ちゃん、ちょっと待っててくれる?」
「うん、」

素直に頷いてくれる笑顔に笑いかけて、泰正は小さなガラス瓶をコートのポケットから出した。
小瓶の蓋を開いて波打ち際に屈みこむ、その向かいから白い波が静かに浜辺へと走り寄った。
打ち寄せる波が指先と小瓶を浸し、また引いていく。
そして小瓶には、透明な海の潮が納められた。

「この海岸、聡嗣にいさんが好きな場所なんだ。俺のこともよく連れて来てくれてね、ふたりで歩きながら話したんだ」

そっと小瓶に蓋を閉めて、その手元に真紀がハンカチを差し出してくれた。
素直に受け取ると小瓶と指先を拭い、コートのポケットに仕舞いこむ。
そして手を繋ぎ直すと、元来た道を歩き始めた。

「このあと、墓参りして良い?この海の水、聡嗣にいさんに持って行きたいんだ、」
「うん、」

優しい目が微笑んで頷いてくれる。
雪風ひるがえす黒髪を掌で押さえながら、ふと真紀が訊いてくれた。

「泰くん、今日はずっと『俺』って言ってるのね?昨日までは『僕』だったのに、」

気付かれて、ちょっと照れくさい。
けれど素直に笑って泰正は答えた。

「うん、昨夜から『俺』にしたんだ、聡嗣にいさんの後継ぎに決まった時からね、」

笑って答えた向うの彼方、雪の海岸と空の境が明るんだ。
まばゆい白銀の耀きに、もう、青空が映りだす。



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