東京最高峰より、親愛なる夢と想いに
第50話 青嵐act.2―side story「陽はまた昇る」
午後18時。雲取山頂避難小屋は、今日も無人だった。
すっかり馴染みの小屋に入ると満足げに見まわして、からり光一は笑った。
「うん、ちゃんと皆、勧告を守ってくれてるね?」
「勧告?」
光一の言葉に瀬尾が首傾げた。
そんな様子に登山訓練から参加した藤岡が口を開いた。
「今な、秩父と奥多摩には無人小屋とテント泊は避けるように、って勧告が出ているんだ、」
「あ、それって宮田が言ってたヤツだろ?ハイカーを狙った強盗犯だよな、」
関根が思い出したよう相槌を打ってくれる。
その相槌に英二は微笑んで頷いた。
「うん、それ。埼玉県警でもまだ、犯人は捕まっていないんだ。だから警戒中、」
「被害者の人達は、犯人の顔は見ているんだよね?」
ザックを小屋に降ろしながら、瀬尾が訊いてくれる。
瀬尾は似顔絵捜査官を目指しているから、手配書の似顔絵が気になるのだろう。
この質問に振向いて、微かな不服に笑んだ光一が答えた。
「それがね、夕方や明け方に襲われるケースが多いんだよね。で、ちょっと暗がりだから、顔がハッキリ解からない、ってワケ」
「そっか、暗がり、か…」
考え込むよう瀬尾の手が止まる。
なにを瀬尾は考えているのだろう?気になりながらも英二はシュラフを広げた。
シュラフは英二のと光一と、藤岡と関根のと、4つある。
―この4つで6人、どうやって寝たらいいかな?
周太と一緒に寝たいけど、そうしたら光一は寂しいだろうし?
でも、どうしよう?そんな心配をめぐらす英二に、テノールの声が可笑しそうに笑った。
「おまえね?誰と誰が一緒に使うとか、考えてるよね?」
「あ、やっぱり解る?」
お見通しなんだな?
そう素直に笑った英二に、すこし呆れたよう光一が微笑んだ。
「俺のは3人でも入れるね、だから俺とおまえと周太で使えばいいだろ。で、おまえのは瀬尾くんに貸してやんな、」
「うん、ありがとう、」
ほっと微笑んで、けれど同時にすこし心配になった。
いつも3人一緒に寝ると英二をはさんで、光一と周太は取りっこを始めてしまう。
あの調子で今夜も同期の前でされたら、ちょっと困るだろうな?
そんな心配に首傾げた英二を、すこし心配そうな黒目がちの瞳が覗きこんだ。
「ね、英二?…あの、いっしょかな?」
それって「一緒に寝られるかな?」の意味ですよね?
そんなこと気にしてくれるなんて、やっぱり幸せで嬉しい。
恋する相手に「一緒が良い」って言ってもらえたら、誰だって嬉しいだろう?
恋人の質問が嬉しくて英二は幸せに笑った。
「うん、周太。一緒だよ?光一もだけど、」
「ん…よかった、」
安心したよう微笑んだ顔が、可愛い。
こんな質問でこんな顔されたら、どうしよう今すぐキスしたい。
そんな願望につい顔近寄せた途端、横から頬を小突かれた。
「ほらっ、エロ顔になってる場合じゃないね。晩飯の支度、始めるよ?」
小突いた白い指を頬にさしたまま、光一が笑っている。
いま止めてもらって良かったな、ほっと息吐いて英二は微笑んだ。
「うん、ごめん。行こう、周太。トラベルナイフは持って来た?」
「ん、持って来たよ?」
楽しそうに笑ってザックから出すと、はい、と見せてくれる。
使いこまれたトラベルナイフは、周太の掌で年季が艶めきを放つ。
この刃物の経年に、どきりと英二の鼓動が鳴った。
「これってさ、お父さんのなんだよな?」
穏やかな声が口から出てくれる。
それでも予感に鼓動が心を叩いていく、そんな英二に黒目がちの瞳が微笑んだ。
「ん、お父さんのだよ?…いつも山で使っていたんだ、これで果物を切ったり、ね、」
このナイフで馨は、ページを外した?
真相はわからない、けれどそんな気がしてしまう。
家の書斎に置かれた『Le Fantome de l'Opera』から、ページを切り落とした刃物。
それは馨が使い慣れた刃物だったろう、とても綺麗に背綴じは外されていたから。
この「使い慣れた刃物」は、いま周太の掌に載っている?
―周太はもう、気づいた?
トラベルナイフと本の関係を、もう気づいたかもしれない、聡明な周太だから。
こんな事実予想に密やかな息ついて、それでも英二は微笑んだ。
「外、出よう?周太、」
「ん、」
素直に頷いて立ち上がってくれた。
ふと気がつくと、もう他の4人は外に出て2人きりになっている。
これってチャンス?
ほら自分って、こんなんだ?
いまトラベルナイフに周太の「危険」を感じたばかり、それなのに即、恋の奴隷モードに切り替わる。
こんな自分は馬鹿だと呆れながらも、扉に背を向けて婚約者を自分の体に隠した。
「周太、」
名前を呼んで、唇にキスふれる。
すぐ離れてしまうキス、けれどオレンジの香が口移されて優しい。
この香は周太がよく口にする蜂蜜オレンジのど飴、そんな馴染みが幸せで嬉しい。
「…周太のキス、甘くて美味しい」
そっと離れて囁いて、幸せが笑ってしまう。
うれしいな、そう見つめた先で周太の頬は薄紅にそまりだした。
「…みんなのいるときにだめでしょ、ばか…あかくなっちゃうからこまるんだからばか…」
こんな恥らいながらツンデレ発言、ちょっと反則に可愛い。
もうほんと色々したい、けれど微笑んで英二は婚約者の機嫌を取った。
「大丈夫だよ、周太?ほら、夕焼けが始まるから、みんな顔が赤く見えるよ?」
「そう?…でも英二、みんなのいるときはだめ、言うこと聴いて?」
「はい、言うこと聴きます。ね、周太、きれいな夕焼けみたいだよ、」
笑いかけながらも内心「色々したい」が廻ってしまう。
そんな内心を呼吸ひとつに治めながら外に出ると、雄渾な黄昏が空気を変えた。
「…きれい、」
つぶやいた周太の横顔が、薄紅と黄金の光ふるなか微笑んだ。
黒目がちの瞳が見つめる彼方、まばゆい太陽は山嶺の向こうへ光と沈む。
オレンジ、緋、紅、赤、そして淡い紫から紺碧の夜が蒼穹に降りていく。
空と稜線の境界を光の雲が流れる風は、この雲取山頂まで光に染めあげる。
「今日は佳い夕焼けだね、みんなラッキーだよ、」
からり笑って光一が、いつの間にかデジタル一眼を構えていた。
黄昏の靡いていく山頂、ときおり静謐にシャッター音が響く。
かしゃん、音響く間合い穏やかに、関根と藤岡の話し声が聞こえた。
「東北の空って、きれいなんだろ?」
「うん、空気が透明ってカンジで、きれいだよ。空がデカいしさ、」
関根も藤岡も日没を見つめている、その眼差しはどこか郷愁に切ない。
きっと、ふたりは故郷で美しい空を、山で海で見つめていたのだろうな?
そんな想いと微笑んだとき、周太の隣で瀬尾が笑った。
「すごい、東京にこんな空があるなんて…俺、知らなかった…よかった、」
優しい目から、光ひとつ零れ落ちた。
この涙の意味は分かるような気がする、穏かに英二は笑いかけた。
「俺も最初、驚いたよ。でも、これも東京なんだ。なんか、うれしいよな、」
「うん、うれしいね。ここに来れて、俺、よかった、」
どこまでも大らかに壮麗、こうした山の光彩が自分の生まれ育った「東京」にもある。
それを瀬尾も自分も知らずに育ってきた、世田谷の住宅街と都心が「東京」なのだと思っていた。
自分たちの街は整然として美しい、けれど空はこんなに広くなく、光の色もくすんで自分の夢すら不透明だった。
どこか箱庭のような美しい街は住みやすくても、心ふるわすことは無い。その箱庭から出て、この空を知ったことが嬉しい。
「宮田くん、連れて来てくれて、ありがとう。俺、きっと…警察官にならなかったら、ここに来なかった、」
瀬尾の声が笑ってくれる、頬には一筋の涙の軌跡を残したままで。
涙にも明るい「警察官にならなかったら」この言葉に瀬尾の想いが響いてしまう。
この今「警察官」でいる瞬間が、瀬尾にとっては永遠の時にもなるのだろうな?そんな想いの隣から、そっと周太が微笑んだ。
「瀬尾、また登りに来よう?俺、ここが好きなんだ、」
周太が「先」の約束を瀬尾にした。
この意味と希望が英二の心を打つ、どうか自分が想う意味であってほしい。
どうかこの約束が、周太にとって瀬尾にとって、希望ある「先」への道標になればいい。
そんな祈りの向こう側で、瀬尾は涙の軌跡を光らせた。
「うん、一緒に登ろうよ、湯原くん。5年経っても、一緒に、」
5年後に瀬尾は、警察官を辞職する。
実家の後継者に選ばれて、家を会社を護るために、辞職する。
ずっと憧れ続けた警察官の道、それでも自分に与えられた責任と義務の為に、瀬尾は決意した。
“5年間を警察官として精一杯に自分を鍛えて、生涯の支えにする”
その想いに瀬尾は今、精一杯に警察官として自分を鍛えていく。
ほんとうは、瀬尾は運動があまり好きではない、初任科教養の最初にランニングで倒れたこともある。
けれど今日、体力勝負になる山岳救助隊の自主トレーニングに瀬尾は参加した。
そんなふうに瀬尾は今、「警察官」であるうちに出来る努力へ向き合おうとしている。
確かに瀬尾は、あと5年間という時限付でしか警察官でいられない。
その5年間を、企業経営の後継者として過ごす方が良いという考え方もあるだろう。
それどころか最初から、警察官にならずに企業家として勤めた方が良かったという意見もあるだろう。
けれど、例えば今この「警察官」である瞬間に「東京」の雄大な素顔を見つめたことは、瀬尾にとって大きな意味がある。
ずっと箱庭のような世界で守られ育った瀬尾が、自分の夢と意志で警察官の道に立ち、そこで出会った真実。
それらは瀬尾という人格を深く掘り下げて、広く大きな背中に育てるだろう。
その背中があればこそ、家を会社を守ることも出来得る。
それを瀬尾は知っている、それが英二にも解かってしまう。
なぜなら英二自身が同じように自分の意志で立ち、自分を鍛え育てることで、伴侶と家を護ろうとしているから。
どこまで根が深いか解らない「50年の束縛」すら断ち切りたいと今、努力している。だから瀬尾の想いが解かる。
―瀬尾の5年間が、豊かになると良いな
心裡、そっと友達への祈りが温かい。
どうか瀬尾が5年間、こうした出会いを沢山積んでいけますように。
そんな想いの向こう奥多摩の黄昏は、瀬尾の涙と言葉を明るく煌めかせていた。
それぞれの想い佇む東京最高峰に、今日最後の光を投げかけて、太陽は眠りについた。
LED灯を小さくしてシュラフに入ると、ほっと英二は息吐いた。
こうして山で眠るのは1ヶ月ぶりになる、ときおり響いていく山の音が心地いい。
夜風が渡っていく梢の葉擦れ、雑踏は遠い山懐の深い静謐。こうした山の感覚の懐かしさに英二は微笑んだ。
―もう俺、山が自分の場所なんだな
ずっと世田谷の住宅街で育った自分が「山」に居場所を見つめている。
こんな自分の今が不思議で楽しい、けれどこの居場所にずっといることは、今はまだ出来ない。
そんな想いに天井を見つめたとき、そっと温もりが懐に寄添った。
「…周太、」
寄添う温もりの名前を小さく呼んで、英二は微笑んだ。
ちょうど周太は英二の影になって、隣の関根達からは見えない。
さっき「みんなのいるときはだめ、」って言ったのは周太だったのに、くっついてくれるの?
そう目で訊いた英二に、気恥ずかしげでも周太は幸せに微笑んだ。
「ないしょ…ね?」
こんな内緒、ときめきます。
ひと息に幸せになってしまう、ときめいています、どうしよう?
ときめきに鼓動早めながら小柄な体を、そっと抱き寄せてしまう。
腕の中すこし身じろいで見上げてくれる、黒目がちの瞳が愛しくて見つめて。
ここが今どこだか忘れかけた時、ふわり花の香が頬撫でて肩に腕が回された。
「その内緒、俺も混ぜてよね、」
透明なテノールが笑って、周太をはさみこんだまま光一が抱きついてくる。
ふたりの懐はさまれた小柄な体が、押されて英二にくっついた。
愛する2人まとめて密着されて、英二は困惑しながらも微笑んだ。
「ちょっと、光一?くっつきすぎだろ、」
光一の密着も困るけど、周太の密着はもっと困る。
この2人とも自分が手出ししたくなる相手、それがまとめて密着されたら堪らない。
しかも同期が一緒にいる時にスイッチ入ったら大問題だろう?けれど無垢の瞳は幸せに笑んで、テノールが愉快に笑った。
「くっつくのイイだろ?おまえ、スキンシップ大好きだしさ、問題ないね、」
「それは好きだけどさ、でも、なんか今は困るんだけど」
「なにが困るワケ?本当は両手に花ってヤツで、うれしいクセに。きっとイイ夢見られるんじゃない?」
うれしいけれど困る、こんなだと理性と自制心の訓練になってしまう。
唯でさえ初任総合に入ってから毎晩、周太か光一の隣で我慢大会しているのに?
本当に「イイ夢」見る行動に出たら困る、どうしよう?そんな困惑のなか、周太が身じろぎして光一を見上げた。
「光一?ちょっと苦しい、すこし離れて?」
言葉はすこし素っ気ないけれど、黒目がちの瞳が可笑しそうに笑っている。
そんな瞳に光一も楽しげに笑って、尚更に周太ごと英二にくっついた。
「嫌だね。今夜は俺、こうして寝たいんだ、」
「だめ、遠慮するって自分で言ってたでしょ?」
「それは2人きりのときだね、今夜は皆いるんだしさ。せっかく3人一緒のシュラフだし、楽しまなくっちゃね、」
「楽しむならちょっと離れて、苦しいって言ってるでしょ?俺のこと好きなら言うこと聴いて、」
「言っただろ?こいつと周太から離れる以外は言うこと聴くってね、だから『離れろ』は聴けないよ、」
「ばか、光一のばか、ちょっとあっち行って、」
「嫌だね、そんなことばっか言うなら、キスして口封じしちゃおっかね?」
「いやっ、やめて光一、ばかばかえっちへんたいっ」
また始まってしまった。
ほっとため息吐いた英二の、胸元と肩とを2人分の腕が抱きしめている。
さすがに男2人にしっかり抱きつかれたら、ちょっと苦しいかな?
困りながら英二はふたりに笑いかけた。
「なあ?せっかく今夜は皆いるんだし、皆で話そうよ?」
この提案、聴いてくれるかな?
そう見つめて笑いかけた先、周太も光一も素直に微笑んだ。
初々しい可愛い貌と、端麗な雪白の貌と、それぞれに綺麗な笑顔が見つめてくれる。
この2人への愛しさは同じようで、けれど違う感情で見ているとあらためて想ってしまう。
そんな感情を見つめる英二に、ふっと光一が頬よせて素早くキスをした。
「…っ、」
ちょっと待って?いま皆もいる時なのに?
たしかにLED灯だけの小屋は薄暗くて、皆には見えないかもしれない?
けれど今この懐には周太もいるのに?そんな途惑いの眼前で、底抜けに明るい目は悪戯っ子に微笑んだ。
「ほら、俺ってね、おしゃぶり光ちゃんだから。許してよね、」
こんなこと光一がするの、どれくらいぶりだろう?
呆気にとられながらも英二は口を開いた。
「…光一?なんか、キャラ戻っちゃったのか?」
剱岳の夜からずっと、光一からふれることは減ったのに?
これじゃ前に逆戻り、どうなっているのだろう?こんな途惑いと見つめる秀麗な貌は、嫣然と微笑んだ。
「いま2人きりじゃないし、周太もいるだろ?こういう時に何しても、おまえからはエロできないね。だろ?ア・ダ・ム、」
そのとおり、ご明察。
特に今は懐に婚約者がいる、この純粋な瞳の前で戯事は難しい。
ある意味で今は周太を人質にとられている状況、これはもうお手上げだろうな?
ほっと溜息に笑って観念したとき、腕のなかで小柄な体が身じろいだ。
「光一、どいて?ここ、俺の寝場所なの、」
懐から声をあげて、周太が光一と英二の顔の間に割っている。
そんな周太に秀麗な貌は唇上げて、愉しげに笑いかけた。
「だね、でもココで寝るとね、間違えて俺、周太にキスしちゃうかも、」
「…っ、こういちのばか。ここに俺がいなかったら、いろいろするきでしょ?英二が抵抗できないからって、」
「当たり前だね、楽しめるときは楽しまなくっちゃ勿体無いだろ?ホラ、周太にキスか英二にキスか、選んでよ?」
「どっちもだめ、無理はだめって言ったでしょ?へんたいえっち光一、」
余計に取りっこが酷くなった。
困り果てて溜息ついた背中を、とん、と小突かれた。
小突かれ素直に振り向いた英二に、隣の関根が可笑しそうに言ってくれた。
「宮田、やっぱりモテるんだな?俺達のことは気にせずに、三人で楽しんでいいからさ?じゃ、オヤスミ」
「え、ちょっと待ってよ、関根、」
呼びかけたのに「遠慮はいらないよ、」と言って、快活な笑顔はくるり背を向けた。
そして向こう2人の会話に加わると、3人で楽しそうな会話が始まった。
「あの3人、マジ仲良いんだな?3人一緒だと、いつもあんな感じ?」
「うん、いつもあんな感じだな。宮田ってさ、愛されキャラで、いじられキャラなんだよなあ」
「あ、それ、なんか俺も解かるな?宮田くんってカッコいいのに、ちょっと隙があるからかな?」
俺のこと会話の種にするなら、この状況を助けてよ?
そんな想いため息吐いた懐で、相変わらず2人はしがみついている。
「光一ったら、そんなにくっつかないでよ?俺がつぶれちゃう、」
「くっつきたいね、俺は。それとも3Pしちゃう?」
「…っ、ばか、こういちのばか、そんなこというならもうしらない、ばか」
今夜も眠るまで、ずっとこんな感じかな?
この状況、いつになったら変わるのだろう?そんな先々に想い馳せてしまう。
ほんとうに今ちょっと困っている、けれど、ふたり大切に抱きしめて、しがみついてくれる懐は温かい。
がたり、
物音に英二は、静かに目を開けた。
まだ夜明け前、避難小屋のなかも黎明が蹲って暗い。
細めたLED灯の光にゆっくり瞳を動かすと、小屋の扉が細く開いている。
誰かが、小屋の扉を開こうとしている?
そっと左腕を動かし見た文字盤は、午前4時20分。
こんな時刻に避難小屋に来る「誰か」は、3つのパターンだろう。
まず1つめは動物、奥多摩に住む鹿やツキノワグマ。
次の2つめに朝陽を狙ったカメラマンの休憩、けれど今は勧告が出ているから入山は少ない。
そして3つめ「緊急を要する者」なにかアクシデントがあった場合。
これに関係して今ならば、4つ目の選択肢がある。
『夕方や明け方に襲われるケースが多いんだよね』
まさに今は明け方の時刻、この危険性を考えるべきだろう。
考え廻らしながら時計から目をあげると、透明な目がこちらを見ていた。
「…とりあえず、行こっかね?」
低く微かなテノールが告げながら、笑っている。
微笑んで頷いたとき、ふわり顎にやわらかな髪がふれて英二は懐を見た。
薄闇を透かす視線の先、しっかりと自分の腕のなかに周太を抱きこんでいる。
こんなふうに自分は寝ても覚めても、この婚約者を抱きしめていたい。
―でも周太、行ってくるな?
見つめた人に微笑んで、静かに腕を抜くと起きあがった。
その隣でも青いウェア姿が音も無く立ち上がる、その右掌には特殊警棒が握られていた。
「…光一、拳銃は?」
そっと尋ねた声に、底抜けに明るい目が悪戯っ子に微笑む。
いま山岳救助隊は警戒体制の為、特に入山時は拳銃の携行を命令されている。けれど光一は拳銃嫌いだ。
なんだかもう、答えは予想がつくな?ちょっと笑った英二に、低くテノールが答えた。
「…わすれたね、」
「…うそつけ、」
小声の応酬に笑って英二は、登山ジャケットの懐に右手を入れた。
ショルダーホルスターから拳銃を抜きながら、左手は弾丸を取りだし一発だけこめる。
こうした作業も光一の射撃訓練に付合ったお蔭で、すっかり手馴れた。
こんなふうに自分がなるなんて誰が想像した?そんな考えに心裡で笑って、扉近くに進んだ。
がたん、ごとり…
小屋の扉の外、誰かがいる。
そっと隙間から外を窺って、光一は英二に耳打ちした。
「人間、負傷してる、」
互いの目を見、うなずくと小屋の扉を開く。
そして開かれた扉の前には、頭部から血を流した男が蹲っていた。
(to be continued)
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第50話 青嵐act.2―side story「陽はまた昇る」
午後18時。雲取山頂避難小屋は、今日も無人だった。
すっかり馴染みの小屋に入ると満足げに見まわして、からり光一は笑った。
「うん、ちゃんと皆、勧告を守ってくれてるね?」
「勧告?」
光一の言葉に瀬尾が首傾げた。
そんな様子に登山訓練から参加した藤岡が口を開いた。
「今な、秩父と奥多摩には無人小屋とテント泊は避けるように、って勧告が出ているんだ、」
「あ、それって宮田が言ってたヤツだろ?ハイカーを狙った強盗犯だよな、」
関根が思い出したよう相槌を打ってくれる。
その相槌に英二は微笑んで頷いた。
「うん、それ。埼玉県警でもまだ、犯人は捕まっていないんだ。だから警戒中、」
「被害者の人達は、犯人の顔は見ているんだよね?」
ザックを小屋に降ろしながら、瀬尾が訊いてくれる。
瀬尾は似顔絵捜査官を目指しているから、手配書の似顔絵が気になるのだろう。
この質問に振向いて、微かな不服に笑んだ光一が答えた。
「それがね、夕方や明け方に襲われるケースが多いんだよね。で、ちょっと暗がりだから、顔がハッキリ解からない、ってワケ」
「そっか、暗がり、か…」
考え込むよう瀬尾の手が止まる。
なにを瀬尾は考えているのだろう?気になりながらも英二はシュラフを広げた。
シュラフは英二のと光一と、藤岡と関根のと、4つある。
―この4つで6人、どうやって寝たらいいかな?
周太と一緒に寝たいけど、そうしたら光一は寂しいだろうし?
でも、どうしよう?そんな心配をめぐらす英二に、テノールの声が可笑しそうに笑った。
「おまえね?誰と誰が一緒に使うとか、考えてるよね?」
「あ、やっぱり解る?」
お見通しなんだな?
そう素直に笑った英二に、すこし呆れたよう光一が微笑んだ。
「俺のは3人でも入れるね、だから俺とおまえと周太で使えばいいだろ。で、おまえのは瀬尾くんに貸してやんな、」
「うん、ありがとう、」
ほっと微笑んで、けれど同時にすこし心配になった。
いつも3人一緒に寝ると英二をはさんで、光一と周太は取りっこを始めてしまう。
あの調子で今夜も同期の前でされたら、ちょっと困るだろうな?
そんな心配に首傾げた英二を、すこし心配そうな黒目がちの瞳が覗きこんだ。
「ね、英二?…あの、いっしょかな?」
それって「一緒に寝られるかな?」の意味ですよね?
そんなこと気にしてくれるなんて、やっぱり幸せで嬉しい。
恋する相手に「一緒が良い」って言ってもらえたら、誰だって嬉しいだろう?
恋人の質問が嬉しくて英二は幸せに笑った。
「うん、周太。一緒だよ?光一もだけど、」
「ん…よかった、」
安心したよう微笑んだ顔が、可愛い。
こんな質問でこんな顔されたら、どうしよう今すぐキスしたい。
そんな願望につい顔近寄せた途端、横から頬を小突かれた。
「ほらっ、エロ顔になってる場合じゃないね。晩飯の支度、始めるよ?」
小突いた白い指を頬にさしたまま、光一が笑っている。
いま止めてもらって良かったな、ほっと息吐いて英二は微笑んだ。
「うん、ごめん。行こう、周太。トラベルナイフは持って来た?」
「ん、持って来たよ?」
楽しそうに笑ってザックから出すと、はい、と見せてくれる。
使いこまれたトラベルナイフは、周太の掌で年季が艶めきを放つ。
この刃物の経年に、どきりと英二の鼓動が鳴った。
「これってさ、お父さんのなんだよな?」
穏やかな声が口から出てくれる。
それでも予感に鼓動が心を叩いていく、そんな英二に黒目がちの瞳が微笑んだ。
「ん、お父さんのだよ?…いつも山で使っていたんだ、これで果物を切ったり、ね、」
このナイフで馨は、ページを外した?
真相はわからない、けれどそんな気がしてしまう。
家の書斎に置かれた『Le Fantome de l'Opera』から、ページを切り落とした刃物。
それは馨が使い慣れた刃物だったろう、とても綺麗に背綴じは外されていたから。
この「使い慣れた刃物」は、いま周太の掌に載っている?
―周太はもう、気づいた?
トラベルナイフと本の関係を、もう気づいたかもしれない、聡明な周太だから。
こんな事実予想に密やかな息ついて、それでも英二は微笑んだ。
「外、出よう?周太、」
「ん、」
素直に頷いて立ち上がってくれた。
ふと気がつくと、もう他の4人は外に出て2人きりになっている。
これってチャンス?
ほら自分って、こんなんだ?
いまトラベルナイフに周太の「危険」を感じたばかり、それなのに即、恋の奴隷モードに切り替わる。
こんな自分は馬鹿だと呆れながらも、扉に背を向けて婚約者を自分の体に隠した。
「周太、」
名前を呼んで、唇にキスふれる。
すぐ離れてしまうキス、けれどオレンジの香が口移されて優しい。
この香は周太がよく口にする蜂蜜オレンジのど飴、そんな馴染みが幸せで嬉しい。
「…周太のキス、甘くて美味しい」
そっと離れて囁いて、幸せが笑ってしまう。
うれしいな、そう見つめた先で周太の頬は薄紅にそまりだした。
「…みんなのいるときにだめでしょ、ばか…あかくなっちゃうからこまるんだからばか…」
こんな恥らいながらツンデレ発言、ちょっと反則に可愛い。
もうほんと色々したい、けれど微笑んで英二は婚約者の機嫌を取った。
「大丈夫だよ、周太?ほら、夕焼けが始まるから、みんな顔が赤く見えるよ?」
「そう?…でも英二、みんなのいるときはだめ、言うこと聴いて?」
「はい、言うこと聴きます。ね、周太、きれいな夕焼けみたいだよ、」
笑いかけながらも内心「色々したい」が廻ってしまう。
そんな内心を呼吸ひとつに治めながら外に出ると、雄渾な黄昏が空気を変えた。
「…きれい、」
つぶやいた周太の横顔が、薄紅と黄金の光ふるなか微笑んだ。
黒目がちの瞳が見つめる彼方、まばゆい太陽は山嶺の向こうへ光と沈む。
オレンジ、緋、紅、赤、そして淡い紫から紺碧の夜が蒼穹に降りていく。
空と稜線の境界を光の雲が流れる風は、この雲取山頂まで光に染めあげる。
「今日は佳い夕焼けだね、みんなラッキーだよ、」
からり笑って光一が、いつの間にかデジタル一眼を構えていた。
黄昏の靡いていく山頂、ときおり静謐にシャッター音が響く。
かしゃん、音響く間合い穏やかに、関根と藤岡の話し声が聞こえた。
「東北の空って、きれいなんだろ?」
「うん、空気が透明ってカンジで、きれいだよ。空がデカいしさ、」
関根も藤岡も日没を見つめている、その眼差しはどこか郷愁に切ない。
きっと、ふたりは故郷で美しい空を、山で海で見つめていたのだろうな?
そんな想いと微笑んだとき、周太の隣で瀬尾が笑った。
「すごい、東京にこんな空があるなんて…俺、知らなかった…よかった、」
優しい目から、光ひとつ零れ落ちた。
この涙の意味は分かるような気がする、穏かに英二は笑いかけた。
「俺も最初、驚いたよ。でも、これも東京なんだ。なんか、うれしいよな、」
「うん、うれしいね。ここに来れて、俺、よかった、」
どこまでも大らかに壮麗、こうした山の光彩が自分の生まれ育った「東京」にもある。
それを瀬尾も自分も知らずに育ってきた、世田谷の住宅街と都心が「東京」なのだと思っていた。
自分たちの街は整然として美しい、けれど空はこんなに広くなく、光の色もくすんで自分の夢すら不透明だった。
どこか箱庭のような美しい街は住みやすくても、心ふるわすことは無い。その箱庭から出て、この空を知ったことが嬉しい。
「宮田くん、連れて来てくれて、ありがとう。俺、きっと…警察官にならなかったら、ここに来なかった、」
瀬尾の声が笑ってくれる、頬には一筋の涙の軌跡を残したままで。
涙にも明るい「警察官にならなかったら」この言葉に瀬尾の想いが響いてしまう。
この今「警察官」でいる瞬間が、瀬尾にとっては永遠の時にもなるのだろうな?そんな想いの隣から、そっと周太が微笑んだ。
「瀬尾、また登りに来よう?俺、ここが好きなんだ、」
周太が「先」の約束を瀬尾にした。
この意味と希望が英二の心を打つ、どうか自分が想う意味であってほしい。
どうかこの約束が、周太にとって瀬尾にとって、希望ある「先」への道標になればいい。
そんな祈りの向こう側で、瀬尾は涙の軌跡を光らせた。
「うん、一緒に登ろうよ、湯原くん。5年経っても、一緒に、」
5年後に瀬尾は、警察官を辞職する。
実家の後継者に選ばれて、家を会社を護るために、辞職する。
ずっと憧れ続けた警察官の道、それでも自分に与えられた責任と義務の為に、瀬尾は決意した。
“5年間を警察官として精一杯に自分を鍛えて、生涯の支えにする”
その想いに瀬尾は今、精一杯に警察官として自分を鍛えていく。
ほんとうは、瀬尾は運動があまり好きではない、初任科教養の最初にランニングで倒れたこともある。
けれど今日、体力勝負になる山岳救助隊の自主トレーニングに瀬尾は参加した。
そんなふうに瀬尾は今、「警察官」であるうちに出来る努力へ向き合おうとしている。
確かに瀬尾は、あと5年間という時限付でしか警察官でいられない。
その5年間を、企業経営の後継者として過ごす方が良いという考え方もあるだろう。
それどころか最初から、警察官にならずに企業家として勤めた方が良かったという意見もあるだろう。
けれど、例えば今この「警察官」である瞬間に「東京」の雄大な素顔を見つめたことは、瀬尾にとって大きな意味がある。
ずっと箱庭のような世界で守られ育った瀬尾が、自分の夢と意志で警察官の道に立ち、そこで出会った真実。
それらは瀬尾という人格を深く掘り下げて、広く大きな背中に育てるだろう。
その背中があればこそ、家を会社を守ることも出来得る。
それを瀬尾は知っている、それが英二にも解かってしまう。
なぜなら英二自身が同じように自分の意志で立ち、自分を鍛え育てることで、伴侶と家を護ろうとしているから。
どこまで根が深いか解らない「50年の束縛」すら断ち切りたいと今、努力している。だから瀬尾の想いが解かる。
―瀬尾の5年間が、豊かになると良いな
心裡、そっと友達への祈りが温かい。
どうか瀬尾が5年間、こうした出会いを沢山積んでいけますように。
そんな想いの向こう奥多摩の黄昏は、瀬尾の涙と言葉を明るく煌めかせていた。
それぞれの想い佇む東京最高峰に、今日最後の光を投げかけて、太陽は眠りについた。
LED灯を小さくしてシュラフに入ると、ほっと英二は息吐いた。
こうして山で眠るのは1ヶ月ぶりになる、ときおり響いていく山の音が心地いい。
夜風が渡っていく梢の葉擦れ、雑踏は遠い山懐の深い静謐。こうした山の感覚の懐かしさに英二は微笑んだ。
―もう俺、山が自分の場所なんだな
ずっと世田谷の住宅街で育った自分が「山」に居場所を見つめている。
こんな自分の今が不思議で楽しい、けれどこの居場所にずっといることは、今はまだ出来ない。
そんな想いに天井を見つめたとき、そっと温もりが懐に寄添った。
「…周太、」
寄添う温もりの名前を小さく呼んで、英二は微笑んだ。
ちょうど周太は英二の影になって、隣の関根達からは見えない。
さっき「みんなのいるときはだめ、」って言ったのは周太だったのに、くっついてくれるの?
そう目で訊いた英二に、気恥ずかしげでも周太は幸せに微笑んだ。
「ないしょ…ね?」
こんな内緒、ときめきます。
ひと息に幸せになってしまう、ときめいています、どうしよう?
ときめきに鼓動早めながら小柄な体を、そっと抱き寄せてしまう。
腕の中すこし身じろいで見上げてくれる、黒目がちの瞳が愛しくて見つめて。
ここが今どこだか忘れかけた時、ふわり花の香が頬撫でて肩に腕が回された。
「その内緒、俺も混ぜてよね、」
透明なテノールが笑って、周太をはさみこんだまま光一が抱きついてくる。
ふたりの懐はさまれた小柄な体が、押されて英二にくっついた。
愛する2人まとめて密着されて、英二は困惑しながらも微笑んだ。
「ちょっと、光一?くっつきすぎだろ、」
光一の密着も困るけど、周太の密着はもっと困る。
この2人とも自分が手出ししたくなる相手、それがまとめて密着されたら堪らない。
しかも同期が一緒にいる時にスイッチ入ったら大問題だろう?けれど無垢の瞳は幸せに笑んで、テノールが愉快に笑った。
「くっつくのイイだろ?おまえ、スキンシップ大好きだしさ、問題ないね、」
「それは好きだけどさ、でも、なんか今は困るんだけど」
「なにが困るワケ?本当は両手に花ってヤツで、うれしいクセに。きっとイイ夢見られるんじゃない?」
うれしいけれど困る、こんなだと理性と自制心の訓練になってしまう。
唯でさえ初任総合に入ってから毎晩、周太か光一の隣で我慢大会しているのに?
本当に「イイ夢」見る行動に出たら困る、どうしよう?そんな困惑のなか、周太が身じろぎして光一を見上げた。
「光一?ちょっと苦しい、すこし離れて?」
言葉はすこし素っ気ないけれど、黒目がちの瞳が可笑しそうに笑っている。
そんな瞳に光一も楽しげに笑って、尚更に周太ごと英二にくっついた。
「嫌だね。今夜は俺、こうして寝たいんだ、」
「だめ、遠慮するって自分で言ってたでしょ?」
「それは2人きりのときだね、今夜は皆いるんだしさ。せっかく3人一緒のシュラフだし、楽しまなくっちゃね、」
「楽しむならちょっと離れて、苦しいって言ってるでしょ?俺のこと好きなら言うこと聴いて、」
「言っただろ?こいつと周太から離れる以外は言うこと聴くってね、だから『離れろ』は聴けないよ、」
「ばか、光一のばか、ちょっとあっち行って、」
「嫌だね、そんなことばっか言うなら、キスして口封じしちゃおっかね?」
「いやっ、やめて光一、ばかばかえっちへんたいっ」
また始まってしまった。
ほっとため息吐いた英二の、胸元と肩とを2人分の腕が抱きしめている。
さすがに男2人にしっかり抱きつかれたら、ちょっと苦しいかな?
困りながら英二はふたりに笑いかけた。
「なあ?せっかく今夜は皆いるんだし、皆で話そうよ?」
この提案、聴いてくれるかな?
そう見つめて笑いかけた先、周太も光一も素直に微笑んだ。
初々しい可愛い貌と、端麗な雪白の貌と、それぞれに綺麗な笑顔が見つめてくれる。
この2人への愛しさは同じようで、けれど違う感情で見ているとあらためて想ってしまう。
そんな感情を見つめる英二に、ふっと光一が頬よせて素早くキスをした。
「…っ、」
ちょっと待って?いま皆もいる時なのに?
たしかにLED灯だけの小屋は薄暗くて、皆には見えないかもしれない?
けれど今この懐には周太もいるのに?そんな途惑いの眼前で、底抜けに明るい目は悪戯っ子に微笑んだ。
「ほら、俺ってね、おしゃぶり光ちゃんだから。許してよね、」
こんなこと光一がするの、どれくらいぶりだろう?
呆気にとられながらも英二は口を開いた。
「…光一?なんか、キャラ戻っちゃったのか?」
剱岳の夜からずっと、光一からふれることは減ったのに?
これじゃ前に逆戻り、どうなっているのだろう?こんな途惑いと見つめる秀麗な貌は、嫣然と微笑んだ。
「いま2人きりじゃないし、周太もいるだろ?こういう時に何しても、おまえからはエロできないね。だろ?ア・ダ・ム、」
そのとおり、ご明察。
特に今は懐に婚約者がいる、この純粋な瞳の前で戯事は難しい。
ある意味で今は周太を人質にとられている状況、これはもうお手上げだろうな?
ほっと溜息に笑って観念したとき、腕のなかで小柄な体が身じろいだ。
「光一、どいて?ここ、俺の寝場所なの、」
懐から声をあげて、周太が光一と英二の顔の間に割っている。
そんな周太に秀麗な貌は唇上げて、愉しげに笑いかけた。
「だね、でもココで寝るとね、間違えて俺、周太にキスしちゃうかも、」
「…っ、こういちのばか。ここに俺がいなかったら、いろいろするきでしょ?英二が抵抗できないからって、」
「当たり前だね、楽しめるときは楽しまなくっちゃ勿体無いだろ?ホラ、周太にキスか英二にキスか、選んでよ?」
「どっちもだめ、無理はだめって言ったでしょ?へんたいえっち光一、」
余計に取りっこが酷くなった。
困り果てて溜息ついた背中を、とん、と小突かれた。
小突かれ素直に振り向いた英二に、隣の関根が可笑しそうに言ってくれた。
「宮田、やっぱりモテるんだな?俺達のことは気にせずに、三人で楽しんでいいからさ?じゃ、オヤスミ」
「え、ちょっと待ってよ、関根、」
呼びかけたのに「遠慮はいらないよ、」と言って、快活な笑顔はくるり背を向けた。
そして向こう2人の会話に加わると、3人で楽しそうな会話が始まった。
「あの3人、マジ仲良いんだな?3人一緒だと、いつもあんな感じ?」
「うん、いつもあんな感じだな。宮田ってさ、愛されキャラで、いじられキャラなんだよなあ」
「あ、それ、なんか俺も解かるな?宮田くんってカッコいいのに、ちょっと隙があるからかな?」
俺のこと会話の種にするなら、この状況を助けてよ?
そんな想いため息吐いた懐で、相変わらず2人はしがみついている。
「光一ったら、そんなにくっつかないでよ?俺がつぶれちゃう、」
「くっつきたいね、俺は。それとも3Pしちゃう?」
「…っ、ばか、こういちのばか、そんなこというならもうしらない、ばか」
今夜も眠るまで、ずっとこんな感じかな?
この状況、いつになったら変わるのだろう?そんな先々に想い馳せてしまう。
ほんとうに今ちょっと困っている、けれど、ふたり大切に抱きしめて、しがみついてくれる懐は温かい。
がたり、
物音に英二は、静かに目を開けた。
まだ夜明け前、避難小屋のなかも黎明が蹲って暗い。
細めたLED灯の光にゆっくり瞳を動かすと、小屋の扉が細く開いている。
誰かが、小屋の扉を開こうとしている?
そっと左腕を動かし見た文字盤は、午前4時20分。
こんな時刻に避難小屋に来る「誰か」は、3つのパターンだろう。
まず1つめは動物、奥多摩に住む鹿やツキノワグマ。
次の2つめに朝陽を狙ったカメラマンの休憩、けれど今は勧告が出ているから入山は少ない。
そして3つめ「緊急を要する者」なにかアクシデントがあった場合。
これに関係して今ならば、4つ目の選択肢がある。
『夕方や明け方に襲われるケースが多いんだよね』
まさに今は明け方の時刻、この危険性を考えるべきだろう。
考え廻らしながら時計から目をあげると、透明な目がこちらを見ていた。
「…とりあえず、行こっかね?」
低く微かなテノールが告げながら、笑っている。
微笑んで頷いたとき、ふわり顎にやわらかな髪がふれて英二は懐を見た。
薄闇を透かす視線の先、しっかりと自分の腕のなかに周太を抱きこんでいる。
こんなふうに自分は寝ても覚めても、この婚約者を抱きしめていたい。
―でも周太、行ってくるな?
見つめた人に微笑んで、静かに腕を抜くと起きあがった。
その隣でも青いウェア姿が音も無く立ち上がる、その右掌には特殊警棒が握られていた。
「…光一、拳銃は?」
そっと尋ねた声に、底抜けに明るい目が悪戯っ子に微笑む。
いま山岳救助隊は警戒体制の為、特に入山時は拳銃の携行を命令されている。けれど光一は拳銃嫌いだ。
なんだかもう、答えは予想がつくな?ちょっと笑った英二に、低くテノールが答えた。
「…わすれたね、」
「…うそつけ、」
小声の応酬に笑って英二は、登山ジャケットの懐に右手を入れた。
ショルダーホルスターから拳銃を抜きながら、左手は弾丸を取りだし一発だけこめる。
こうした作業も光一の射撃訓練に付合ったお蔭で、すっかり手馴れた。
こんなふうに自分がなるなんて誰が想像した?そんな考えに心裡で笑って、扉近くに進んだ。
がたん、ごとり…
小屋の扉の外、誰かがいる。
そっと隙間から外を窺って、光一は英二に耳打ちした。
「人間、負傷してる、」
互いの目を見、うなずくと小屋の扉を開く。
そして開かれた扉の前には、頭部から血を流した男が蹲っていた。
(to be continued)
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