村松城は新潟県五泉市村松乙にあります。
村松城地図
村松支所1.2km東に村松公園がありますが城址ではありません。支所の西300mくらいに村松城址があります。
城跡橋を渡りますが
橋の左手の水堀
橋の右手の水堀
堀家三万石の村松城ですが、
公園中央の台で天守閣があったのでしょうか?
土塁があったと想像される形
村松城跡公園として手が加えられすぎて、はっきりしているのは大手の水堀です。お勧めはむしろ公園奥にある郷土資料館です。堀家の史料が豊富にあり、堀家を知るうえでは参考になります。
郷土資料館
堀直吉着用鎧
堀直央(なおひさ)着用
堀直休(なおやす)
堀秀政と直政
秀政は13歳から織田信長の小姓になる。直政は秀政の6歳年上で、同時期に信長の配下だったと思われる。信長配下時代の直政の史料は乏しく、秀政の補佐をしていたとすれば文官としての行政仕事が多かったのかも知れない。『寛永諸家系図伝』には、伊賀亀甲城攻めで精兵を率いて先登し信長に賞された、伊勢峰城攻めで功を挙げたとある。信長の死後、秀政と共に山崎の戦い、賤ヶ岳の戦い、小牧・長久手の戦い、雑賀攻め、四国攻め、九州征伐、小田原征伐に従軍した。
「(天正)十一年太閤柴田勝家と合戦のとき、直政十文字の槍をもつて勝家の金の御幣の馬験を奪ひとる、ときに小塚藤右衛門某はせきたりて、直政にむかふ、直政馬験をなげすて小塚をくみふせ、其首を討とる、」(『寛政重修諸家譜』)
秀政は小田原征伐の最中に陣中で病没した。秀政の死後、息子の秀治が跡継ぎにはまだ早すぎると判断した豊臣秀吉は、所領の北ノ庄を召し上げようと考え、秀治の襲封は滞った。怒った直政は次男の直寄を秀吉に使いに出し、書状で「左衛門(秀政)、多年の勤功あり、万一跡目たてられずんば、参りて御縁を汚さん」と訴えたため、秀吉は秀治の襲封を許した。慶長3年(1598年)、秀吉の命で上杉景勝を会津へ、堀秀治を越後へ移す国替えが行なわれた。越後45万石を一族と与力で統治し、春日山城に秀治、蔵王堂城に秀治の弟親良、坂戸城に直政の次男直寄、三条城に直政(城代に嫡男の直清)、新発田城に溝口秀勝、本庄城に村上義明(後に地名を村上に改める)が入った。
直江兼続との暗闘
秀吉の命による大名の国替えの際は、年貢米は半分のみ徴収し、残りの半分は後に来る領主のために残しておく決まりになっており、上杉氏と堀氏にも同様の取り決めがあった。しかし、直江兼続と石田三成の謀議により、年貢米は全て持ち去られていた(『越後風土記』)。堀家はやむなく、新潟代官河村彦右衛門から2千俵の米を借りた。兼続は河村とは旧知の間柄のため、直政からの借米証を入手して、秀吉の死後さかんに返済を督促した。ウィキペディアより
村松城地図
村松支所1.2km東に村松公園がありますが城址ではありません。支所の西300mくらいに村松城址があります。
城跡橋を渡りますが
橋の左手の水堀
橋の右手の水堀
堀家三万石の村松城ですが、
公園中央の台で天守閣があったのでしょうか?
土塁があったと想像される形
村松城跡公園として手が加えられすぎて、はっきりしているのは大手の水堀です。お勧めはむしろ公園奥にある郷土資料館です。堀家の史料が豊富にあり、堀家を知るうえでは参考になります。
郷土資料館
堀直吉着用鎧
堀直央(なおひさ)着用
堀直休(なおやす)
堀秀政と直政
秀政は13歳から織田信長の小姓になる。直政は秀政の6歳年上で、同時期に信長の配下だったと思われる。信長配下時代の直政の史料は乏しく、秀政の補佐をしていたとすれば文官としての行政仕事が多かったのかも知れない。『寛永諸家系図伝』には、伊賀亀甲城攻めで精兵を率いて先登し信長に賞された、伊勢峰城攻めで功を挙げたとある。信長の死後、秀政と共に山崎の戦い、賤ヶ岳の戦い、小牧・長久手の戦い、雑賀攻め、四国攻め、九州征伐、小田原征伐に従軍した。
「(天正)十一年太閤柴田勝家と合戦のとき、直政十文字の槍をもつて勝家の金の御幣の馬験を奪ひとる、ときに小塚藤右衛門某はせきたりて、直政にむかふ、直政馬験をなげすて小塚をくみふせ、其首を討とる、」(『寛政重修諸家譜』)
秀政は小田原征伐の最中に陣中で病没した。秀政の死後、息子の秀治が跡継ぎにはまだ早すぎると判断した豊臣秀吉は、所領の北ノ庄を召し上げようと考え、秀治の襲封は滞った。怒った直政は次男の直寄を秀吉に使いに出し、書状で「左衛門(秀政)、多年の勤功あり、万一跡目たてられずんば、参りて御縁を汚さん」と訴えたため、秀吉は秀治の襲封を許した。慶長3年(1598年)、秀吉の命で上杉景勝を会津へ、堀秀治を越後へ移す国替えが行なわれた。越後45万石を一族と与力で統治し、春日山城に秀治、蔵王堂城に秀治の弟親良、坂戸城に直政の次男直寄、三条城に直政(城代に嫡男の直清)、新発田城に溝口秀勝、本庄城に村上義明(後に地名を村上に改める)が入った。
直江兼続との暗闘
秀吉の命による大名の国替えの際は、年貢米は半分のみ徴収し、残りの半分は後に来る領主のために残しておく決まりになっており、上杉氏と堀氏にも同様の取り決めがあった。しかし、直江兼続と石田三成の謀議により、年貢米は全て持ち去られていた(『越後風土記』)。堀家はやむなく、新潟代官河村彦右衛門から2千俵の米を借りた。兼続は河村とは旧知の間柄のため、直政からの借米証を入手して、秀吉の死後さかんに返済を督促した。ウィキペディアより