山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

新潟、山梨、長野、群馬、栃木、埼玉県などの埋もれた城跡を探索しております。カテゴリ「城郭一覧」で簡単にアクセス。
 

村松城

2016-10-18 12:42:40 | 山城ー越後
村松城は新潟県五泉市村松乙にあります。

村松城地図

村松支所1.2km東に村松公園がありますが城址ではありません。支所の西300mくらいに村松城址があります。

城跡橋を渡りますが

橋の左手の水堀

橋の右手の水堀

堀家三万石の村松城ですが、

公園中央の台で天守閣があったのでしょうか?

土塁があったと想像される形

村松城跡公園として手が加えられすぎて、はっきりしているのは大手の水堀です。お勧めはむしろ公園奥にある郷土資料館です。堀家の史料が豊富にあり、堀家を知るうえでは参考になります。

郷土資料館

堀直吉着用鎧



堀直央(なおひさ)着用



堀直休(なおやす)


堀秀政と直政
秀政は13歳から織田信長の小姓になる。直政は秀政の6歳年上で、同時期に信長の配下だったと思われる。信長配下時代の直政の史料は乏しく、秀政の補佐をしていたとすれば文官としての行政仕事が多かったのかも知れない。『寛永諸家系図伝』には、伊賀亀甲城攻めで精兵を率いて先登し信長に賞された、伊勢峰城攻めで功を挙げたとある。信長の死後、秀政と共に山崎の戦い、賤ヶ岳の戦い、小牧・長久手の戦い、雑賀攻め、四国攻め、九州征伐、小田原征伐に従軍した。
「(天正)十一年太閤柴田勝家と合戦のとき、直政十文字の槍をもつて勝家の金の御幣の馬験を奪ひとる、ときに小塚藤右衛門某はせきたりて、直政にむかふ、直政馬験をなげすて小塚をくみふせ、其首を討とる、」(『寛政重修諸家譜』)
秀政は小田原征伐の最中に陣中で病没した。秀政の死後、息子の秀治が跡継ぎにはまだ早すぎると判断した豊臣秀吉は、所領の北ノ庄を召し上げようと考え、秀治の襲封は滞った。怒った直政は次男の直寄を秀吉に使いに出し、書状で「左衛門(秀政)、多年の勤功あり、万一跡目たてられずんば、参りて御縁を汚さん」と訴えたため、秀吉は秀治の襲封を許した。慶長3年(1598年)、秀吉の命で上杉景勝を会津へ、堀秀治を越後へ移す国替えが行なわれた。越後45万石を一族と与力で統治し、春日山城に秀治、蔵王堂城に秀治の弟親良、坂戸城に直政の次男直寄、三条城に直政(城代に嫡男の直清)、新発田城に溝口秀勝、本庄城に村上義明(後に地名を村上に改める)が入った。
直江兼続との暗闘
秀吉の命による大名の国替えの際は、年貢米は半分のみ徴収し、残りの半分は後に来る領主のために残しておく決まりになっており、上杉氏と堀氏にも同様の取り決めがあった。しかし、直江兼続と石田三成の謀議により、年貢米は全て持ち去られていた(『越後風土記』)。堀家はやむなく、新潟代官河村彦右衛門から2千俵の米を借りた。兼続は河村とは旧知の間柄のため、直政からの借米証を入手して、秀吉の死後さかんに返済を督促した。ウィキペディアより

津川城④

2016-10-17 11:52:47 | 山城ー越後
稲荷曲輪へ(余湖さんの縄張り図では2とされています。前回記事に掲載)


本丸東虎口と稲荷曲輪の西虎口との間は空堀です。

金上稲荷

由来、金上盛備(もりはる)の霊も祭られているとのこと。こうしてみると、城主として慕われていたと推測されます。

私がここは二の丸ではないと考えるのは、重要な二の丸にしては狭いなと思います。また東側の守りも手薄です。

稲荷曲輪の東尾根は細尾根となり200mくらいに続いています。

峰に物見台があり

阿賀町を見渡せます。

物見から西方を見れば阿賀野川がきれいに見えます。

余湖さんの縄張り図のように、ここから先は岩山の尾根が続きます。

東尾根先端部が麒麟山山頂となります。

ここから先は人が登って来るのは難しい断崖です。

摺上原の戦い
6月5日、蘆名軍は猪苗代城から西におよそ2里の地にある高森山に本陣を置いて伊達軍を待ち構え、挑発のため、猪苗代湖畔の民家に放火した。
これに応じて政宗も猪苗代城から出撃し、猪苗代盛国を先鋒にして蘆名軍に攻めかかった。この時、伊達軍は2万3000人、対する蘆名軍は別働隊を警戒して黒川城に留守を残したため、1万8,000人と伊達軍がやや有利であった。両軍ともに陣形は魚鱗であったと伝わる。
摺上原は緩やかな丘陵地帯であるが、開戦当初は強風が西から東にかけて吹いていた。そのため東に陣取る砂塵が舞い上がり、伊達兵はまともに目を開けていられない状態となる。そこに蘆名軍の先鋒である猪苗代盛胤が攻めかかった。因縁ある猪苗代親子は同族間で激突することとなった。
蘆名軍は実質指揮を執るのは大縄義辰ら佐竹氏から附属された家臣であり、第1陣は盛胤、第2陣は金上盛備と佐瀬種常・常雄、松本源兵衛ら、第3陣は富田氏実と佐竹の援軍、第4陣は岩城・二階堂・石川・富田隆実らであった。
これに対し、伊達軍は第1陣は盛国、第2陣は伊達成実と片倉景綱、第3陣は片平親綱、後藤信康、石母田景頼、第4陣は屋代景頼、白石宗実、浜田景隆、鬼庭綱元らであった。
当初は風向き、そして盛胤や盛備らの活躍で蘆名軍が圧倒的に有利だった。ところが第3陣の富田隊を含め、松本・平田ら重臣衆や援軍による後詰め諸隊は動かずに傍観を決め込み、さらに風向きが東から西に変わったことを機に、守勢に回っていた伊達軍が一斉に攻勢に出た。津田景康が鉄砲隊を率いて蘆名軍の真横から狙撃したため、蘆名軍の足並みが大いに乱れた。しかも傍観を決め込んでいた富田氏実が、伊達軍と戦わずに西に向かって、独断で撤退を開始した。もともと蘆名軍は諸氏連合の寄せ集めであり、劣勢になれば自軍の被害を惜しんですぐに撤退する。それは先年の人取橋・郡山らの合戦でも実証済みである。また、これら傍観・撤退組は佐竹氏出身の蘆名義広の養子入り当主相続の際、伊達氏からの養子を迎える意見を持った対立派閥であった。故にそれ以降蘆名家中では義広擁立派閥や佐竹氏から送り込まれた家臣団により冷遇されていた諸氏である。
富田隊の撤退に続いて二階堂隊、石川隊も撤退しはじめた。こうなると義広も撤退せざるを得ず、蘆名軍は総崩れとなった。
ところで、摺上原から黒川に逃れるには、日橋川を渡るしか道はない。義広は何とか渡れたが、富田氏実は自軍が渡り終えると橋を落とした。そのため、逃げようとする蘆名軍は逃げ道がなくなった。この時の伊達軍と蘆名軍の激闘の様子は『奥羽永慶軍記』では
「会津勢、日橋川に行き詰まり、とても死する命をと踏み止まり、敵と組みて刺し違ふもあれば、日橋川に落ちて大石岩角に馬を馳せ当て、自滅するもあり。歩者は川へ飛び入り、逆浪に打ち倒され、流れ死するもあり。 伊達勢も川の中迄追入り、討ちつ、討たれつ、突きつ、突かれつ、多くは河岸・川中にての軍なれば、只凡人の業とも見えず。 ここにして会津勢千八百余人討るれば、伊達勢も五百余人討れたり」
とある。ただし、日橋川の橋を落としたのは伊達軍の工作隊によるものという説もある[10]。ウィキペディアより


津川城③

2016-10-16 18:24:59 | 山城ー越後
イベント情報

埼玉県の県立嵐山史跡の博物館の企画展


長野県箕輪町 地域交流センター研修室にて歴史講座

二の丸から本丸へ

三の丸(看板は出丸)からこの階段を登り

三の丸を見下ろしています。

二の丸(棒標は本丸)

本丸に登り、東側を見ています。

本丸の西側を見ています。東屋から西は

阿賀野川を眼下に

本丸の中央くらいに窪地(井戸?)

窪地を見ています。お分かりの方はコメントをお願いします。

麒麟山城とも呼んでいます。

本丸東虎口

本丸1を歩きました。縄張り図で曲輪2に次回向かいます。

本丸・二の丸の案内板は私が山城縄張りを見てきた経験から明らかに違うのではないかと思っており阿賀町教育委員会に問い合わせるつもりです。

津川城②

2016-10-15 20:05:42 | 山城ー越後
三の丸から二の丸へ


二の曲輪としているが馬場と思います。

馬場の東先端部は一段高く櫓跡とされています。

櫓台、この奥に竪堀が切られています。

馬場から西虎口を越えて

足場の階段整備の工事です。門跡とあり、こちらに回るのが大手であったのかもしれません。

門跡を下から見上げています。

縄張り図は「余湖くんのお城のページ」より、第二の門跡から西側先端部の曲輪7や石垣に囲まれた曲輪があったようですが見逃してしまいました。

ここの階段を登れば三の丸ですが、石垣とあり左手を覗くと

近世城郭を思わす見事な石垣があります。

見事な石垣の上にある三の丸(出丸ではないと思います。)
これを登れば二の丸ですが次回とします。(曲輪の名に余湖さんの曲輪番号と現地の案内板と異なっています、さらに二の丸では余湖さんと、現地案内とも私の見解が違いますのでご注意を)

蘆名家の内訌
<反伊達勢力の主力をなす蘆名家は当時、深刻な内訌を抱えていた。天正3年(1575年)に蘆名盛興が死去し[2]、嗣子がなかったため二階堂家から人質としてあった盛隆が家督を継いだ[3]。天正8年(1580年)には隠居の盛氏が死去し、盛隆も天正12年(1584年)10月6日に側近の大庭三左衛門に暗殺された[3]。このため蘆名家は盛隆の生後1か月の遺児である亀王丸が継ぐ事になるが、その亀王丸も天正14年(1586年)11月21日に3歳で夭折してしまった[3]。こうなると他家から養子を迎えるしかなく、候補に挙げられたのが政宗の同母弟・小次郎と義重の次男・義広であった[4]。小次郎と義広は政宗の曽祖父・伊達稙宗の血を受け継いでおり、その稙宗は盛氏の叔母を正室にしていた[4]。つまり、曽祖母を介して両者は蘆名家の血統を受け継いでいたのである[4]。血統も年齢も互角である両者の対立は、そのまま蘆名家の家臣団の分裂にもつながった[4]。小次郎には蘆名一門衆の猪苗代盛国、蘆名宿老の四天の大半、外様の国人領主などが味方し、義広には蘆名一門衆で執政である金上盛備が味方していた[5]。盛備は執政として外交も担当しており、当時中央で政権を確立していた豊臣秀吉と誼を通じており、その秀吉との関係を背景にして小次郎の派閥を切り崩し、義広を蘆名家の新当主とした[5]。
その結果、義広が蘆名家に入嗣すると同時に佐竹家から転身してきた大縄義辰らにより、小次郎派に対する粛清が開始される[6]。四天の宿老家では佐瀬家を除く三家が中枢から排除されて失脚する[6]。また小次郎を支持した国人層は遠ざけられて佐竹家から転身した家臣で中枢は占められ、これは蘆名家の内訌をさらに激化させる事になった。
伊達政宗が蘆名家の居城・黒川城を攻めるには、猪苗代湖の北にある猪苗代城を何としても落とさないといけない。当時の猪苗代城主は猪苗代盛胤で、天正13年(1585年)に父の猪苗代盛国から家督を譲られて城主になった人物である[7]。しかし盛国は隠居ながらなおも隠然たる影響力を持っており、先の継嗣争いでも小次郎派に与していた。ところが継嗣争いで敗れ、また盛胤とも不仲になり、隠居を次第に後悔するようになっていく[7]。また盛国は後妻が生んだ盛胤の異母弟・亀丸を溺愛し、盛胤を廃嫡して亀丸に家督を譲りたいと思うようになった。そのため天正16年(1588年)5月10日、盛胤が黒川城に出仕している間に盛国は猪苗代城を乗っ取ってしまった[7]。家臣の大半は盛国に従い、あくまで盛胤を支持する家臣は斬られ、激怒した盛胤は盛国を攻めるが猪苗代城は奪還できず、金上盛備が仲介に入ってひとまず父子は和睦した[7]。
政宗はこの盛国の後妻に近づいた。そして後妻を通じて盛国に内応を呼び掛け、盛国が遂に応じたのである。ウィキペディアより
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この内訌に伊達政宗は付け込み摺上原の戦いへと進むのです

津川城

2016-10-14 09:21:00 | 山城ー越後
津川城は新潟県阿賀町(旧津川町)の麒麟山公園にあります。
津川城地図
津川ICから国道459号線を北東に1kmくらいで麒麟山公園の駐車場に着きます。

公園駐車場

簡略図

駐車場裏に鵜ヶ沼があり、ここの手前を左手に進みます。

100mくらいで門跡

西の常浪川の沿って侍屋敷が200mくらいに並んでいます。

侍屋敷の間を区切る土塁があります。身分によって奥へ行くほど高い地位にあったのか。

侍屋敷を抜けて山を登ります。

馬場の手前、空堀とありますが大きな竪堀です。

二の丸とありますが、ここは朽ち果てそうな棒標に馬場とあり、これが正しいと思います。

越後の内部に杭を打ち込んだような津川城、芦名氏が新発田重家の反乱に手を貸したのも納得できます。

金上盛備(もりはる)について
大永7年(1527年)、金上氏第14代当主・金上盛信の子として生まれる。
天正6年(1578年)の御館の乱の際には、上杉景虎方として参戦した蘆名盛氏に従い、蒲原安田城を攻め落としている。盛氏死後も後継の蘆名盛隆に重用され、天正9年(1581年)に越後で発生した新発田重家の乱においても、盛隆に従い重家方として上杉景勝軍と戦った。また同年の上洛の際には従五位下、遠江守に叙任された。この時中央の実力者・織田信長に拝謁し、信長に盛隆を三浦介(三浦家棟梁)と認めさせる事に成功している。
天正14年(1586年)、蘆名亀王丸の死去にともない、伊達氏・佐竹氏のどちらから養嗣子を迎えるかをめぐって家中が紛糾すると、盛備は盛氏時代からの功臣という実績を以て、佐竹氏から結城義広を迎える案を強行した(伊達政宗の弟・小次郎を迎えることに反対した理由としては、政宗が父・伊達輝宗の方針を破棄して反蘆名的行動を繰り返していたこと、輝宗没後に伊達家による新発田重家の乱への介入が打ち切られたことが挙げられる)。
ところが、この時義広に従って新たに入ってきた大縄・刎石・平井などの旧・佐竹家臣と、譜代の蘆名氏の家臣団の間に深刻な亀裂が生じてしまい、蘆名氏の弱体化を招いてしまう。そこを政宗につけ込まれ、内応者も多く出してしまった。
天正15年(1587年)、新発田重家への補給拠点・赤谷城を守る小田切盛昭の救援に赴いたが、藤田信吉に撃退され、赤谷城は陥落する。
天正17年(1589年)6月5日の摺上原の戦いで伊達軍の片倉景綱隊に突撃し戦死した。享年63。ウィキペディアより


次回 三の丸から二の丸へ